ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2012年12月20日木曜日

ベルクソン 「物質と時間」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」  第六節 「魂と身体」



ここでは、第六節 『魂と身体』(p.311 7行目-p.317 11行目)を解説します。ここは、この章の最後の節でもあり、つまりは、この本の本文の最後の節でもあります。したがって、第四章のまとめであると同時にこの本で論じられてきたことのまとめにもなっています。なお、この節の内容は後段で説明を詳しくされていく構成になっているので初めの方の段落においては詳細な説明をせず、ごく簡単に内容を紹介しておくことにしました。読者各位におかれては不親切と感じられるかもしれませんがよろしくご高配を賜りたくお願いいたいます。

(2012/12/18 筆者注:「なお、」以下を加筆した。読者の皆様にはご迷惑をお詫びいたします)

では、第一段落(p.311 8行目-15行目)を見ていこう。ここは、『魂と身体』というこの節のテーマから見た第三章までの内容が簡単にまとめられている。短い段落なのでほとんどを引用することになる。

まず、第一章で結論を述べていたことを、ここまで演繹してきたことでもう一度そこへ戻っていくということが述べられ、次にベルクソン独特の言い回しによって『知覚』についての考察が以下のようにまとめられている。

『われわれの知覚は本来精神のうちによりもむしろ事物のうちにあり、われわれのうちによりもわれわれの外にあるのだとわれわれは言った。多様な種類の知覚はいずれも実在への真の方向を示している。』(p.311 9行目-11行目)

しかしながら、外側にあるはずの知覚は『事実的に』といいうよりむしろ『権利的に』存在する。ということ、すなわち、『知覚』は対象を記憶と一致させることによって始めて『知覚』としての有用性をもつということが述べられる。以下、残りの部分を引用したい。

『しかし、われわれが付け加えたように、その対象と一致する知覚は事実的によりむしろ権利的に存在し、その様な知覚は瞬時のうちに行われるだろう』(p.311 11行目-13行目)

(2012/12/14 筆者注:上引用文を付加。引用文を増やすことで、ややわかりやすくすることにした。ここでも、またご迷惑をおかけし、大変申し訳ありません)

『具体的な知覚の中には記憶が介入しており、感性的諸性質の主観性は、記憶としてしか始まらないわれわれの意識が、多数の瞬間を相互に引き継がせて、ただ一つの直感のなかに凝縮させようとすることに由来する。』(p.311 13行目-15行目)

以上、簡単ではあるが第一段落を解説した。


第二段落(p.311 16行目-p.313 2行目)を見ていこう。ここでは、この節のテーマでもある『魂と身体』の結びつきには、前段落で述べられた内容では不足し、二元論を緩和する精神と物質の結びつきを説明するためには『無際限』で『等質的空間』に『運動」や『物質』(あるいは延長と質)があるのではなく『持続』という観念においてそれらの物の本来的な存在を捉えなければならないと主張される。

まず、最初の部分を引用しよう。

『このように、意識と物質、魂と身体は知覚において接触した。しかし、この考えはある面で不明瞭なままだった。なぜならその場合、われわれの知覚、ひいてはわれわれの意識も、物質に与えられている可分性を分有しているように思われたからだ。』(p.311 16行目-p.312 2行目)

『われわれが二元論的仮説において、知覚される対象と知覚する主体の部分的一致を受け入れるのを嫌うとしても、それは、対象がわれわれにとって本質的に無際限に分割可能と見える代わりに、われわれがみずからの知覚の不可分な統一性を意識しているからだ。』(p.312 2行目-5行目)

まず、一番目の引用では、第一段落を受けて、第一章で詳しく検討された『純粋知覚』の理論について、本章第三節と第四節の始めでも検証されたように『等質的空間』に『運動』や『物質』が置かれていると仮定していたがために、知覚の仕組みを説明するだけでは二元論を緩和できないということを述べ、その理由を二番目の引用で、『対象がわれわれにとって本質的に無際限に分割可能』と見なし、それと対称させるように、われわれは知覚の方を『不可分な統一性』を持つと『意識しているからだ』、と指摘してる。

(2012/12/14、12/18 筆者注:「第一段落を受けて、第一章で詳しく検討された『純粋知覚』理論について、本章第三節と第四節の始めでも検討されたように」という語句を補足。また、『われわれがみずからの知覚の不可分な統一性を意識しているからだ。』の部分の解説が、正確性に欠ける思われるために修正をした。これまでの未熟さをお詫びいたします)

『ここから、非伸張的な感覚を伴う意識が、延長せる多様性の前に置かれているとの仮説が生じる』(p.312 5行目-6行目)

『しかし、物質の可分性が、物質に対するわれわれの行動、つまり物質の様相を変えるわれわれの能力にとって全面的に相対的であるならば、物質の可分性が物質そのものではなく、われわれが物質をわれわれに捕獲させるためにこの物質の下に張っている空間に属するならば、そのとき困難は消え去るだろう』(p.312 6行目-10行目)

この辺り、かなり難解な文章ではあるが、ここまで読まれてきた読者諸氏には十分ご理解頂けているに違いないと思う。内容的には前節の最後の段落に書いてあったことに非常に近い。上記の初めの引用文(p.312 5行目-6行目)、『意識』の中で閉ざされている『非伸張な感覚』(以前の言い方では『感性的諸性質』)と『延長せる多様性』(物体の大きさ、立体感、などの『延長』)の二つの要素がそれぞれ二元論的に混じり合うことはないまま、『物質』としての実在をわれわれの『感覚』は受け取っているという仮説と言えるだろう。また、次の引用文(p.312 6行目-7行目)は、それに対するベルクソンの説を指している。すべては一度きりの出来事であるという考え方のこと『知覚』された『運動』や『物質』は不可分であり、また『知覚』に『伸張性』があることは心理学的な裏付けもあった。

(2012/12/15 12/19 筆者注:上の段落においては、「しかし、ベルクソンが批判してきたような二元論では、」という部分は言葉が足りていないと思われたので、第五節での批判してきた学説が少なくても一つは思い起こせるような表現にした。本来は、力動説(アリストテレス・ライプニッツ)、機械論(デカルト)、カントの学説ほかイギリス観念論なども含まれるが、冗長と思われたことと、以前の表現をできるだけ変えない方針で訂正をしているため、このような表現とした。このほか、ややわかりにくいところや余分だと思われた箇所を変更した部分がある。読者の皆様には、たびたび未熟なところをお見せすることになり、本当に申し訳なく思います)

こうして、『感覚は伸張を取り戻し、具体的な延長はそれ本来の連続性と不可分性を回復する』(p.312 15行目)

以下、この段落の最後までを引用しよう。

『そして、二つの項のあいだに乗り越えがたい障壁として聳<<筆者註:そびえ>>え立っていた等質的空間は、図式あるいは象徴として以外の実在性をもはや持たない。等質的空間は、物質に対して働きかける存在の振る舞いに係わっているのであり、物質の本性について思弁する精神の働きに係わっているのではない』(p.312 15行目-p.313 2行目)

以上、第二段落を解説した。


第三段落(p.313 3行目-p.314 4行目)を見ていこう。ここから数段落は、内容的には第二段落とほとんど変わらない。ただ、その強調されているところがやや違ってきており、少しずつ考察を深めていくような形になっている。それぞれ短い段落であるので、ここからは、ほぼ全文を引用することになるだろう。

いつものように最初の部分を引用する。

『まさにそれによって、われわれのすべての研究が収斂するところの問題、魂と身体の結合についての問題がある程度は明らかになる。』(p.313 3行目-p.313 4行目)

『この問題の不分明さは、二元論的仮説において、物質を本質的に分割可能とみなし、一切の魂の状態を厳密に非伸張的なものとみなし、その結果、二つの項のあいだの連絡の切断から始まることに起因している。』(p.313 4行目-p.313 6行目)

これまでも、十分に見てきたことであるが、ベルクソンはこの部分をしきりに繰り返す。まず、この段落では、この切断(あるいは『二重の公準を掘り下げること』(p.313 7行目))から見出されることとして、

 ・『物質に関しては、具体的で不可分な延長とその下に張られた分割可能な空間等の混同』(p.313 7行目-8行目)
 ・『精神に関しては、延長と非延長とのあいだには段階や可能的推移は存在しないという欺瞞的な考え方』(p.313 8行目-10行目)

ということを挙げ、批判している。

『しかし、これら二つの公準が共通の過ちを隠し持っているならば、』(p.313 10行目)ということで、すなわち、次のように美しく記述している。

(2012/12/15 筆者注:以下の段落では主にどこで述べられているかなどを改めて補足した。未熟をこころよりお詫びすると共に、形式的にも、記述の美しい流れも途中で壊したくないという配慮もあり、ここにまとめて注することをお許し願いたいと思います)

『観念からイマージュへ、イマージュから感覚への漸近的な移行があるならば、』(p.313 10行目-11行目)

ここでは、第二章や第三章での『感覚』と『記憶』の関係(p.191図2参照)、

『魂の状態が、このように現勢態すなわち行動へと進展するに応じて、よりいっそう伸張に近づくならば』(p.313 11行目-12行目)

ここでは本章第三節、第四節で見た『運動』をありのままに見るということ、

『最後に、ひとたび到達されたこの伸張が不可分なままで、それによって魂の統一性に何らかの仕方で調和するならば』(p.313 12行目-14行目)

そして、すなわちここは、特に本章第四節でA-D変換に例えての『感官』から『感覚』への働きを説明したあと、その最後の段落で逆に捉えた『物体』や『運動』を『波動』として物事を考えることを説明している部分ほか、『知覚』が『伸張性』もつという心理学的にも明らかになった事実、

これらのことが検証され明らかになったとき、『精神は純粋知覚の行為において物質に重なることができ、したがって、物質と結合することができるということ、にもかかわらず精神は物質と根底的に区別されるということが理解される』(p.313 14行目-16行目)




では、この段落の最後までをいつものように引用してこの段落の説明を終わりたい。

『そのときでさえ精神は、<記憶>すなわち未来のための過去と現在の総合であるという点で、物質から区別される。この物質を利用し、精神と身体の結合の存在理由たる行動によって現出するために、物質のこれらの瞬間を凝縮させている点で、精神は物質から区別されているのだ。だから、本書の冒頭で、身体と精神の区別は、空間に応じてではなく時間に応じて確立されねばならないとあれわれは言ったのは正しかったのである』(p.313 16行目-p.314 4行目)

以上、第三段落を解説した。


第四段落(p.314 5行目-p.315 1行目)を見ていこう。この段落は、第三段落を受けて更にその考察を深める段落となっている。ここも非常に短い段落なので、ほぼすべてを引用することになる。

まず、最初の部分を引用しよう。

『通俗的な二元論の間違いは、空間の観点に身を置き、一方には、物質とその諸変化を空間の中に置き、他方には、非伸張的な諸感覚を意識の中に置くことである』(p.314 5行目-6行目)

と始まる。このことが原因で、精神と肉体、相互の働きかけあいの関係が分からなくなり、また、『そこから、事実についての偽られた確認でしかなく、またそうでしかありえない数々の仮説 —併行論の考えであれ予定調和の考えであれ— が生じる』と批判する。(p.314 6行目-9行目をまとめた)

さらに、こうも批判する。

『しかし、同様にそこから、記憶の心理学にせよ、物質の形而上学にせよ、それらを構成することの不可能性もまた生じる』(p.314 9行目-11行目)

一方で、ベルクソンたちは、『この心理学とこの形而上学が連帯していること、そして主体と客体が合致している純粋知覚から出発し、』と、まずイマージュという概念を提案したこと(『この心理学とこの形而上学が連帯していること』の部分、『この形而上学』とは『物理学の形而上学』ということに注意)、『純粋知覚』という、われわれの身体という特別なイマージュに外界が与える影響をそのままに受け取ったものと定義されるもの(第一章第十一節『イマージュの本来の伸張性』の特にp.79 12行目-p.80 1行目の部分を参照)と始まりの部分を述べ、『物質と精神という二つの項をそれらの各々の持続のなかへと押しやる二元論のなかでは諸困難が軽減されるということを明らかにしようとした』とこの第四章までの道のりを述べ、この段落の結論を述べる。

では、その部分を引用して、第四段落の解説を終えよう。

『 —つまり物質は、物質の分析を更に先へと続けるにつれて、相互に演繹し合い、それによって<相互に同等である(s'équivalent)>ような無限に短い瞬間の連続しかないへと次第に近づいていき、一方の精神は知覚においてすでに記憶であり、過去の現在への引き延ばし、ひとつの<進展>、本物の進化として益々肯定されることになる』(p.314 14行目-p.315 1行目、<>内はテキスト傍点つきとイタリック)

以上、第四段落を解説した。


第五段落(p.315 2行目-p.316 8行目)を見ていこう。ここでは、さらに第四段落を受けて、ベルクソンたちの仮説が本当に有用なものかということが、さらに検討される。ここも長い段落ではないが、内容がやや難しいので少しずつ引用しながら見ていきたい。

まず、最初の部分を引用しよう。

『しかし、身体と魂の関係はそれによってよりいっそう明晰なものになるのだろうか。空間的な区別に、われわれは時間的な区別を置き換える。二つの項はそれによって、よりいっそう結合できるのだろうか。』(p.315 2行目-4行目)

と、問いを投げかける。この問いがこの段落のテーマである。

そこで、まず、一般的な二元論、つまり、精神と物質をわけるものが空間的、すなわち、精神はこの物質世界と別のところにあると考える二元論が検討される。

『第一の区別[空間的な区別]は程度の差を許容しないとということを指摘しなければならない。物質は空間の中にあり、精神は空間の外にある。それらのあいだに可能的な推移は存在しない。』(p.315 4行目-6行目)

この点に関し、ベルクソンたちの説は、『持続』をいわばA-D変換のような生物の感覚が量から質へ転換させる働きのうちに見出し、その働きの密度を『(内的)緊張』という言い方で表現するような説であった。その説においてはどうであるかが次に述べられる。以下の引用文で、『精神のもっとも控えめな役割』がA-D変換のような生物の感覚が量から質へと転換させる働きのことである。やや長いくなるが引用しよう。

『反対に、精神のもっとも控えめな役割が、諸事物の持続の継起的諸瞬間をつなぐことであるならば、精神が物質と接触するのはこの操作においてであり、また精神が物質から最初に区別されるのもこの操作によってであるならば、物質と精神、それも十全に発達した精神 —単に不確定な行動ではなく、理知的で思慮深い行動をするこのできる精神— とのあいだには無数の段階が考えられる。』(p.315 6行目-10行目)

こうして、より高度な知性を持つ生物においては、低次元の緊張からより高度な緊張としての実際の行動的な活動として言語表現となる過程をベルクソンは次のように表現している。

『生命の漸増する強度[内的緊張]を測り示すこれらの継起的段階の各々は、持続のより高い緊張に対応していて、感覚-運動系のますます大きくなる発達によって外に言い表される』(p.315 10行目-12行目)

このように、物質から精神への段階的な移行を描いた後、『そこで、その神経系を考察してみよう』(p.315 12行目-13行目)と、生命の神経系発達の考察に入る。引用しよう。

『その漸増する複雑さは、いや増す行動の自由、反応する前に待機し、受け取られた刺激をますます多用なる運動機構へと関係させる能力を生物に与えているように思われるだろう。しかし、このことは外見でしかない』(p.315 13行目-15行目)

『物質に対するより大きな独立を生物に確保するように思われる神経系のより複雑な組織は、この独立そのものを物質的に象徴化しているだけである。言い換えるなら、諸事物の流れのリズムから身を引き離し、過去をますます銘記して未来にますます深い影響を与えることをこの存在に許容する内的な力、さらに言い換えるなら、要するにわれわれがこの語に与える特別な意味でのこの存在の記憶を。』(p.315 15行目-p.316 2行目)

(2012/12/17 筆者注:下段落において、「神経系が行動の自由を下支えしている機構のように見えるのは外見でしかない」という部分が正確ではないので改めた。実際は行動の自由を選択する機構のように見える、というのが正しいため。また、そのあとに続く表現がわかりにくいためにに段落に分けているところも説明を全く改め一つの段落とした。読者の皆様にはこのような間違いとご迷惑をこころよりお詫びします)

上記、一番目の引用(p.315 13行目-15行目)は神経系が行動の自由を選択する機構のように見えるのは『外見にすぎない』、と言い換えることもできるだろう。次の引用文(p.315 15行目-p.316 2行目)では、『諸事物の流れのリズム』言い換えれば物質宇宙の『持続』から『身を引き離』すようなものとしての実体、それはベルクソンの説では記憶の働きだったが、後半部分では、『過去をますます銘記して未来にますます深い影響を与えることをこの存在に許容する内的な力、さらに言い換えるなら、要するにわれわれがこの語に与える特別な意味でのこの存在の記憶を。』と述べ、われわれは行動の自由が真に拠るところとして、『神経系』ではなく『記憶』こそ自由に深く関与していると強調されていることがわかる。

では、この第五段落の残りのすべての部分を引用してこの段落の解説を終えよう。

『このように生の物質と、もっとも省察に適した精神とのあいだには、記憶の可能的な強度のすべて、あるいは同じことだが、自由の段階のすべてが存している。』(p.316 3行目-5行目)

『第一の仮説は精神と身体の区別を空間の表現で示すものだが、そこでは、身体と精神は直角に交わっているような二つの鉄道のごときなものであり、第二の仮説においては、レールが曲線的に接続されていて、その結果、一方の鉄道から他方の鉄道へと感じ取れないほど少しずつ移行がなされるのである』(p.316 4行目-7行目)

以上、第五段落を解説した。


(2012/12/19 この第五段落と第六段落のあいだに本章第五節分の解説で説明が不足していると記述したり、二重の解釈が可能であるという部分に関して注釈をすることにした)

さて、最後のまとめの第六段落に入る前に、本章第五節分の解説の初めに主に自由についての考察について説明が不足していると思われる書いた部分、と、同じく第五節第一段落の解説の部分で二通りに解釈できると書いた部分があった。その点について、ここで考察してみたい。

まず、自由についての以下の疑問点について、第五節の初めにこのようなことを記述していた。


「ほかにも、ここまでの解説で私としては、

『しかし、思考する存在たる人間においては、自由な行為は諸感情と諸観念の総合と呼ばれることができ、そこへと導く進展は理性的な進展と呼ばれる』(p.266 7行目-8行目)

とその後の、

『しかし、<われわれがそこで行動しているところの>持続は、われわれの諸状態が互いに解け合っている持続であって、まさにこのような持続において、われわれは、行動の本性についてわれわれが思弁する例外的な唯一の立場、すなわち自由の理論の中へと思考によって身を置き直すための努力をしなければならない』(p.266 11行目-13行目、<>内テキスト傍点付き)

という部分の解説も少々不足している気がします。」


と記述していた。

ところで、またその第一段落においては


『これらの存在の持続の緊張の度合いは、結局、彼らの生の強度の度合いを表しており、こうしてそれが彼らの知覚の凝集力と、その自由の程度を決定している』(p.300 12行目-14行目)


という文の解釈が二通りできるという問題があった。

その点について、少し思い返してみると、


「この部分は大変難解である。まず、『持続の緊張の度合い』ということこれは、前節第四節までの『質と量との隔たりは、<緊張(tensio)>なるものの考察によって小さくされうるのではないだろうか』(p.261 7行目-8行目、<>内はテキスト傍点つきとイタリック)として始まった部分に相当するだろう。これは、前節までの『質と量との隔たりは、<緊張(tension)>なるものの考察によって小さくされうるのではないだろうか』(p.261 7行目-8行目、<>内はテキスト傍点つきとイタリック)として始まった部分に相当するだろう。すなわち、短い持続に多くの知覚からの情報を『量』から『質』へと転換できるような『持続の緊張』こそが『生の強度の度合い』となっている、いう主張がまずここにある。極端な例を挙げれば、植物は『生の強度』はきわめて低く、高等動物になると高くなる。そのような尺度で見れば、『知覚の凝集力とその自由の程度を決定している』という記述になるのは必然となる。この後半部分は、第三章で見た『感覚-運動系』という生の働きを別の表現で示していると考えてもいいだろう。

ところで、一方で、特に前節第四節第七段落を思い起こすと、『持続の緊張』は『生きられた意識の真の持続』として『知覚の凝集力』に繋がっており、それが特に感覚から行動へ移る際の選択肢を増やすということで、『自由の程度』が決定されるとなってくる、という解釈も可能である。しかし、この解釈では『生の強度の度合いを表している』とは、いったいどういうことなのだろう。以上のふたつの解釈と、二つ目の解釈が正しいとした場合の、『生の強度の度合いを表している』の意味、これらの謎について、しばらくベルクソンの言うところを追って行こう。」


という部分や


「次の引用文(p.300 16行目-p.301 1行目)は、ここも二通りの解釈が可能である。一つは、AーD変換の「サンプリング」とそれに伴う「量子化」。すなわち、『現実的なものの凝固・固化によって獲得される継起的諸瞬間』をサンプリングと考え、『記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質』が『現実的なもの』に『凝固・固化』されることが「量子化」に相当するという考え。

もう一つは、『記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質』と『現実的なものの凝固・固化によって獲得される継起的諸瞬間』が等しいということより、前節第四節の第七段落で説明されたように、『記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質』が芸術作品となるとする考え。以上のふたつにの解釈が可能となる。」

というようなところであった。このように第五節の初めに説明が不足していると思われたり、謎として提示させていただいていた部分は、いずれも、われわれの『自由』に密接に関係しているところであったのであるが、これらは、結局第五節では十分な説明がされているとは言い難かった。そのことがここ第六節の第五段落においてわれわれの疑問や謎にある程度の回答が得られたと思われる。


そこで、まず、これらの謎や疑問点を整理するために、疑問や謎を提示している部分の引用文だけを提示すると、


『しかし、思考する存在たる人間においては、自由な行為は諸感情と諸観念の総合と呼ばれることができ、そこへと導く進展は理性的な進展と呼ばれる』(p.266 7行目-8行目)

『しかし、<われわれがそこで行動しているところの>持続は、われわれの諸状態が互いに解け合っている持続であって、まさにこのような持続において、われわれは、行動の本性についてわれわれが思弁する例外的な唯一の立場、すなわち自由の理論の中へと思考によって身を置き直すための努力をしなければならない』(p.266 11行目-13行目、<>内テキスト傍点付き)

『これらの存在の持続の緊張の度合いは、結局、彼らの生の強度の度合いを表しており、こうしてそれが彼らの知覚の凝集力と、その自由の程度を決定している』(p.300 12行目-14行目)

『その結果、記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質はまさに、現実的なものの凝固・固化によって獲得される継起的諸瞬間なのである』(p.300 16行目-p.301 1行目)


ということであった。ところで、今回は解説しないが、本章第四章のあとにベルクソンによる『要約と結論』(p.321-p.354)がある。ここにおいての結論から先に見てみたい。以下の引用文における『この意識』という言葉は、『個人的意識』(p.353 1行目、4行目)のことである。


『高等中枢が発達するにつれて、同じ一つの刺激が行動に選択の余地を与える運動性の通路の数は増えていく。これがまさに実際に目撃されていることだ』(p.353 9行目‐11行目)

『目撃されていないこと、それは、時間のなかでの意識に随伴する、緊張の漸増である。この意識は、数々の経験についてのすでに古きものと化した記憶によって、過去をよりよく銘記して、より豊かでより斬新な決断のなかでこの過去を現在と組織させようとするだけではない。この意識はより強力な生を生き、直接的経験についてのその記憶によって、漸増する外的瞬間を意識の現在の持続の中に凝縮させることで、数々の行為を創出することが以前にも増して可能になるのだが、これらの内的不確定性は、好きなだけ数を増やすことのできる物質の瞬間に分かたれねばならないものとして、より簡単に必然性の網の目を潜るだろう。』(p.353 11行目-p.354 5行目)

『だから、自由を時間のなかで思い描くにせよ、自由は必然性の中に深く根を張り、必然性に親密に絡み合っているようにつねに見える。精神は物質から知覚を借り、この知覚から精神はその糧を引き出しては、運動の形で知覚を物質に戻しこの運動に自らの自由を刻み込むのである』(p.353 11行目-p.354 5行目)


以上が、『要約とまとめ』からの引用となる。ここで、先ほどまで見てきた第五節では、

「こうして、より高度な知性を持つ生物においては、低次元の緊張からより高度な緊張としての実際の行動的な活動として言語表現となる過程をベルクソンは次のように表現している。

『生命の漸増する強度[内的緊張]を測り示すこれらの継起的段階の各々は、持続のより高い緊張に対応していて、感覚-運動系のますます大きくなる発達によって外に言い表される』(p.315 10行目-12行目)」


と述べられていたことが、『まとめと要約』では、


『この意識はより強力な生を生き、直接的経験についてのその記憶によって、漸増する外的瞬間を意識の現在の持続の中に凝縮させることで、数々の行為を創出することが以前にも増して可能になるのだが、これらの内的不確定性は、好きなだけ数を増やすことのできる物質の瞬間に分かたれねばならないものとして、より簡単に必然性の網の目を潜るだろう。』(p.353 11行目-p.354 5行目


というように描かれているのが分かる。つまり、『生の強度』に関しての二種類の解釈を許した部分というのは、『目撃されていること』としての『神経系の発達』から、『目撃されていないこと』としての『漸増する外的瞬間を意識の現在の持続の中に凝縮させることで、数々の行為を創出すること』への進展を含んだ、双方による、物理法則に従うという必然性から行動の自由の増加(これが第五章はじめに提示した説明不足の点への解答になるだろう)にともなう『生の強度』がますことに繋がるということになるだろう(これが第五節第一段落の初めの二通りの解釈を許す部分に対する解答になるだろう)。

また、その様に考えれば、


『その結果、記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質はまさに、現実的なものの凝固・固化によって獲得される継起的諸瞬間なのである』(p.300 16行目-p.301 1行目)


の部分「AーD変換の「サンプリング」とそれに伴う「量子化」」を指すのか、あるいは、「前節第四節の第七段落で説明されたように、『記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質』が芸術作品となるとする考え」を指すのかとという二通りの解釈に関しても、これら両方がわれわれの言語表現に含まれているということになるだろう。従って、それも行動の自由と密接に結びついた、同様・同等の行為であるというように本来的に描かれており、双方の解釈を初めから含んでいるというのがベルクソンの表現であり記述の目的ではないかと思われる。

このように、未熟な解釈について、一応の解決を見た。ここまで読者諸氏に対して大変ご心配をお掛けしたこと、そのことについてはお詫び申し上げたい。



では、第六段落(p.316 8行目-p.317 11行目)を見ていこう。この段落でこの節は終わり、この節は第四章の終わり、かつ、この『物質と記憶』の本文は四つの章で構成されているので、この段落はこの本の本文としても最後の段落となる。いわば、最後の締めの部分であり、長さも長くない段落であるので、少しずつ引用しながら、難しいと思われるところを解説するという形にしたい。

では見ていこう。

『しかし、これは一つの比喩<イマージュ>以外のものだろうか。真の意味での物質と、自由あるいは記憶の最も低い段階のあいだの区別は断固としてあり続け、両者の対立は還元不能なものであり続けるのではないだろうか。おそらくはその通りである。』(p.316 9行目-12行目)

(2012/12/17 筆者注:下段落では、かなりの箇所の表現を改め、意が通りにくいと思われる箇所には注記を挿入することもした。未熟をお詫びいたします)

この部分、『真の意味での物質』というのは、物理法則に支配されているという意味での『物質』ということを意味しているだろう。(このことは、哲学的に深い意味があると思われるが、ここにおいて筆者がそこに触れることが必ずしも適わないと思われるためこれ以上の注釈はしない)。それにも拘わらず、われわれ生物は『自由』というものを持ち、物理法則を超えることはできないにしろ、物理法則にただ従うだけとはちがう形の意志を持って行動する。ここでは、『記憶の最も低い段階』といえば、条件反射と言っても良いわけだが、それも物理法則とは区別されるだろう。その意味で、『区別は断固としてあり続け』る、と主張し、追認する。それは、ここで、そのような意味の二元論を認めていると言って良いだろう。

『区別は存在するが、結合は可能である。というのは、純粋知覚の中では、部分的な一致という根本的な形で結合が与えられるだろうからだ。』(p.316 11行目-12行目)

改めて『純粋知覚』に関しては、第一章第五節『イマージュの選択』での『純粋知覚』の定義をここでは引用しておこう。

『純粋知覚とは、事実上というよりむしろ権利上存在する知覚、私がいる場所に置かれ、私が生きているのと同様に生き生きとしているが、現在に吸収され、あらゆる形の記憶を排除されることで物質についての直接的で瞬間的なヴィジョンを獲得できる存在が持つような知覚の謂である』(p.34 7行目-11行目)

元に戻ると、ここでは、『感官』からの信号は物質のわれわれから見た一面の情報をわれわれに与え、われわれは、それをありのままに受け取る、ということで『部分的な一致』はなされ『根本的な形で結合される』と言っていると考えても良いだろうと思う。

『通俗的な二元論の諸困難は、二つの項が区別されることに由来するのではなく、いかにして二つのうちの一つが他方に接ぎ木される(segreffer)のかが分からないことに由来する』(p.316 13行目-15行目)

この部分に別に問題はないだろう。心脳問題というのはここから生じる。

『ところで、われわれがすでに示したように、精神の最も低い段階 —記憶のない精神— であるような純粋知覚は、われわれが理解している意味での物質の一部をまさになしているだろう』(p.316 15行目-17行目)

(2012/12/17 筆者注:上引用文に関しては完全に解釈を間違っていたため改めた。読者の皆様には私の過ちを心よりお詫びして訂正いたします。)

上の引用文と同様の記述は、実に何度か行われている。最初と思われる第一章の初めの節『現実的作用と可能的作用』での象徴的な部分を引用したい。

『私の身体を取り囲む諸対象は、それらに対する私の身体の可能的な作用を反映しているのだ。』(p.14 4行目−5行目)

他にも、この第四章第一節第六段落にも同様な記述があり、そこの解説では次のように記述していた。

「まず、ベルクソンの学説のなんと言っても肝要な部分は、『脳の状態を知覚の条件ではなく行動の始まりとすること』(p.259 17行目)であった。これゆえに、『諸事物の知覚されたイマージュ』(p.260 1行目)は、われわれの身体というイマージュが知覚された対象に対する『行動』を含んだ形での『諸事物』の『イマージュ』として捉えなおされる。言い換えれば、『純粋知覚』は『諸事物』に『行動』を投影させ、いわば、『知覚を諸事物そのものの中におき直した』(p.260 2行目)役割を行う。」

さらに、

『もっと先へ進もう。記憶は、物質がそれについていかなる予感も有していないような機能、物質がすでに自分なりに模倣していないような機能として介入するのではない。物質が過去を想起しないのだとすれば、それは物質が過去を絶えず反復しているからであり、また、必然性に従いながら物質が一連の瞬間を展開しているからであって、その各々の瞬間はそれに先行する物と等価でそこから演繹されることができる』(p.316 15行目-p.317 5行目)

この部分、最初の『記憶は、物質がそれについていかなる予感も有していないような機能、物質がすでに自分なりに模倣していないような機能として介入するのではない。』の解釈が難しいが、『記憶』というものは、そもそも『物質』が持ってるものではなく『物質』は物理法則によって運動したり存在したりしているわけであるということを言いたいのだと思う。すなわち、『物質』は法則によって運動ならば予測可能であり、物質ならばその性質や形状を保ち続けるだろう。『記憶』によってではない。そういう意味だと思われる。それは、そのあとの比較的容易に理解できる部分読めば裏付けられるだろう。

『そういうわけで、物質の過去はまさにその現在で与えられているのだ。しかし、多少とも自由に進展する存在は各瞬間に何か新しいものを創造する』(p.317 5行目-8行目)

この部分は、物質と生命を対比させているわけであるが、また、物質の過去は現在より演繹可能であり、しかし、生命はそうではない。物理存在のみにその行動を影響されているのでもなく、すなわち物理法則でその行動を予知できるわけでもない。そしてその存在は、ベルクソンの言い方によると常に『何か新しいものを創造』している。

『したがって、過去がこの存在のうちに想起の状態で置かれていないとすれば、この存在の現在の中にその存在の過去を読みとろうと勤めても無駄であろう。』(p.317 7行目-8行目)

したがって、『多少とも自由に進展する存在』であるわれわれには『記憶』というものがある。

さて、『ところで、われわれがすでに示したように、精神の最も低い段階 —記憶のない精神— であるような純粋知覚は、』云々(p.316 15行目-17行目)からここまで見てきたわけだが、ここに及べば、これが物質と精神の二元論においてまさに、『記憶』こそが高次の意味での所謂われわれが一般的に考えるような『精神』の部分であろうとベルクソンは言いたいのだろう、といっても読者は納得されるだろうと思う。

では、本当に長かったベルクソンの『物質と記憶』の本文の最後を締めくくる時が来た。いつものように、段落の最後の部分を引用して締めたい。やや難しい表現もあるがおそらくここまで読んで頂いた読者諸氏なら難なくご理解いただけると思もう。ここまで、案内人の未熟さにもかかわらず本当に長い旅に付き合って頂いた皆様には厚くお礼を申し上げたい。では、引用しよう。

『そういう次第で、本書の中ですでに何度も登場した隠喩を繰り返せば、相似た理由から、過去は物質によって<演じられ(joué)>、精神によって<イマージュ化され想像され(imaginé)>ねばならないのである』(p.317 14行目-17行目、<>内はテキスト傍点付きとイタリック)

以上で、第六段落を終える。すなわち、第四章第六節の終わりであり、第四章の終わりでもある。


以上で、ベルクソン『物質と記憶』の読書メモとして始まった第一章、そして、それが解説と言う形にを取るようなった第二章から第四章までの「ベルクソン 『物質と記憶』 メモ」の終わりとなります。『物質と記憶』にはまだ、ベルクソン自身による『要約と結論』という部分もあり、また、テキストには、前書きや第七版の前書きもあります。その部分も難解と言えば難解なのですが、ここまで本文を読まれて理解された読者諸氏には十分読み解くことが可能だと思われます。したがって、メモから解説としての目的を持ち始めた本作はここで一応の終わりとしたいと思います。



「さいごにお礼の言葉」

できるだけわかりやすくと思いながらも、私の無知無能により、かえって分かり辛くなったものもあるかもしれません。第二章からとはいえテキストの本文すべてに解説を加える形となった非常に長くなったこの「メモ」を最後まで読んで頂いた読者諸氏には心よりお礼申し上げます。

小林秀雄「本居宣長 補記I」に見る『真暦』について


 小林さんの「本居宣長」には二つの補記があり、「補記I」は、ソクラテスの『ディアレクチック(問答・対話)』から始まり、特にベルクソン哲学の言うところの「一般観念」や「持続」の問題を、「補記Ⅱ」はその他、本論と「補記I」で取り上げられなかった宣長の主要な文章について扱っている。小林さん自身が、江藤淳との対談の中でもベルクソンから非常に大きな影響を受けたと言ってもおられるし、ベルクソンと本居宣長の相似性についても触れておられる。したがって、実際、ベルクソンの言うところと比較する時、これらの「本居宣長 補記」も違った様相を見せる。それはもちろん、ベルクソンとは重なる部分もあるわけだが、異なる部分もまた大きい。

 「本居宣長 補記I」(以下「補記I」と略す)は、三部構成あるいは三つの章から構成されていると言えるだろう。第一部はソクラテスの対話(ティアレクチック)ということに対する考察、第二部はそれをうけての日本の近世の学問、第三部が本居宣長の「真暦考」の考察となる。

本居宣長という人の元々の思想は言葉の問題を扱ったことから、そのような言葉についての考察から始まり、第一部、第二部ではでは、まず話し言葉から文字が発明された時の書き言葉への移行によって大いに得たものもあったが、失ったものもあったこと。そこから、第三部では『真暦』つまり、われわれの日本人の古来持っていたおおらかな時間に対する観念と、中国から入ってきた時間との観念への移行に対する相似性により、考察を深めていく構図となっている。

それぞれを簡単に紹介していこうか。一応テキストとしては新潮文庫 「本居宣長 (下)」を挙げておく。第七刷で改版がされている。改版後、手元にあるのは第八刷だが、現在売られているのはこれのようだ。比較的安価なので是非手に入れられたい。上下合わせても一四〇〇円である(2011年9月23日現在)

第一部では、プラトンの著作「パイドロス」から切り口が始まる。まず、ギリシア神話の問題が取り上げられる。パイドロスがソクラテスに、あのような神話というのは一体実際にあったものなのでしょうかと尋ねる。

ソクラテスの生きていた時代は孔子や仏陀と同じく紀元前六百年ごろなので随分前からこのような神話が本当か嘘かという疑問を照らす問答はあったわけだ。ソクラテスは、言下に否定をせず婉曲にはぐらかす。

小林さんは、プラトンの哲学の果実の吟味まで手が届くわけではない、としながらも、そこにはソクラテスが当時の知識人について気に入らないことがあったからそうしたと指摘する。それは「宣長と全く同じ考えだからだ」と理由を挙げて、考察を深めていく。

ソクラテスが気に入らなかったのは、ギリシア神話に寓意を求めるという、当時のアテナイ人の風潮、すなわち、語られ継がれた物語を、現代の理屈で何かの寓意ということで再構成し直せばそこでなにかが失われる、ちょうど、文字の発明が語り言葉で伝えられたものから何か大切なものを失うかのように、ということなのである。

「パイドロス」では美について扱うが、美と関係の深い恋(エロース)について、恋に陥るものは一種の狂気(マニアー)に包まれる。利口者はその愚を避けるが、恋(エロース)の方でも利口者を遠ざけるのである、などというおもしろい話がある。

恋に落ちてみなければ、恋(エロース)というものは分からない。しかし、それは愚かに見えるものである。そのようなものが、語り継がれた神話と文字の成立からあとの歴史というものを理解している人間についても起こるものであると、ごく簡単に第一部をまとめることもできるだろう。

第一部のまとめに最後の部分を引用しておきたい。対話(ディアレクチック)とソクラテスの時代に流行していた雄弁術の比較において次のような事を述べている。

『(前略)現代の教養人のあいだで、非常に面倒な使われ方をしているディアレクチックという言葉が、ソクラテスにあっては、驚くほど簡明な使われ方をしていることに気付くだろう。彼は、日常使われている対話、問答という言葉の、誰にも親しい語感から、決して離れようとはしなかった。ただこの体得されてはいるが、反省はされていない豊かな語感を、極度の反省によって純化すれば足りると信じていたのである』(p.273  8行目−13行目)

『そして、其処に真知を愛する己の無償の行為の不思議が、重なり合うのを見た。これについて、プラトンは、ソクラテスにこう言わせている、 —「正しい呼び方であるかどうかは、神様だけが御存知だが、これが哲学の方法としての問答(ディアレクチック)なのである」と。こういうソクラテスのものの言い方は、学問をするからといって、学者は、素人<しろうと>の手に届かぬような専門的な方法を、わざわざ工夫するのは無用なわざである、という考えに基づくと見ていいと思う』(p.273  13行目−p.274 13行目、<>内はテキストふりがな)

これはまた、小林秀雄という人の思想を貫いていた事でもあるだろう。


第二部では、近世日本における学問の系譜においての中江藤樹から荻生徂徠そして本居宣長までをたどることで、ディアレクチック(問答)が深化していく過程とその行き着くところが独学である、という結論に達したあと、その本居宣長が「古事記」の注釈を通して『漢意(からごころ)』を排し、『古意(いにしえごころ)』あるいは『古学の眼』というものを築いていく過程が描かれる。

まず、「本居宣長」本論の方にもあったように、日本の近世の学問は中江藤樹から始まることについて触れ、その代表作「翁問答」がどういうものであったかが紹介される。

当然、それは問答(対話)形式なのであるが、ある年老いた師についたごく普通の人間がまさに無教養な人間が花でも眺めるように学問(当時は学問といえば儒学)をしていた。同門には体充<たいじゅう>という優秀な人がいて、『疑問論難、やむ時なし』という状態であった。私は無才だったので、聞いていたうちに心に入ってきたことを日本語で書き付け、私と同じようなな愚者のために密かに隠しおいて置いた、という形式をとっていた。

小林さんは言う。ここで、『疑問論難、やむ時なし』ということだけが強調されていることが大事なのである、と。なぜなら、答えのある問いを発することは、本来の学問から言えば重要ではない。答えの用意されていない問いを発すること、それができないのが、「融通活発の心」を失ってしまった「今時はやる俗学」である。少し引用しよう。

『取り戻さなければならないのは、問いの発明であって、正しい答えではない。今日の学問に必要なのは師友ではない、師友を頼まず独り「自反」し、新たな問いを心中に蓄える人なのである。』(p.275  6行目-8行目)

このように、藤樹は独学というもの重要視したことに触れ、孔子という大教育家にも『そういう学問をするものの基本にある覚悟』はよく知られていたと考えていた、と言っている。

このあと、孔子の『之<コレ>ヲ如何<イカン>セン、之ヲ如何セント曰<イ>ワザルモノハ、吾レ之ヲ如何トモスルコトナキノミ』(「論語 15 衛靈公編 16」、 p.275  11行目-12行目、<>内はテキストフリガナ)を引いて、本居宣長も愛読したという荻生徂徠の「論語徴」に触れ、この引用文は『「問ヒヲ尊ブナリ」』ということであると言う。

宣長もまた、「問ヒヲ尊ブ」人であった。そのいくつかの著作に触れ、徂徠、宣長の思想の交わる系譜がしばらく解説される(p.276  1行目-p.286 6行目)わけであるが、ここは以下の文章を引用することによって、全体の解説の代わりとしたい。

 まず、取り上げるのは、宣長の「うひ山ぶみ」を解説した部分である。

『文中に、人々の「才不才は、生まれつきたることなれば、力に及びがたし」とあるが、これは宣長が、学問する上で、人々の個性、生まれつきをどう考えるかという問題に直面していることを示す。不才も学ぶに越したことはあるまい。しかし、不才を変じて才となすということになると、これはもう学問の手にはおえなくなる。考えて行くと非常な難題となるが、今日、教える人にも、学ぶ人にも、これを徹底して考える人がなんと少ないか。宣長はそれが言いたいのである。ここには、徂徠の影響が顕著にうかがえる。宣長は徂徠から、この難題をそっくりそのまま受け取ったと言えるからだ。難問を避けることは出来ないが、簡明な解などあろうはずがないことを、二人はよく承知していたから、めいめい自分の流儀でこれを切り抜けた。』(p.278  15行目-p.279 7行目)

 では、次に、徂徠と宣長の『めいめいの流儀』の部分を見てみよう。

 まず、徂徠の『流儀』。これは、『天』という言葉の解釈にあると言う。少し長くなるが、二つの段落をそのまま引用したい。

『学問という言葉など思いも及ばぬ大昔の人々も、天という言葉は知っていた。この言葉を口にするとは、取りも直さず、「蒼蒼然」たる大空を仰ぐということであったし、又その「冥冥乎トシテ得テ之ヲ測ルベカラ」ざる趣にも、誰も深く心を動かされていた。彼らは、天に対し、どういう態度をとっていたか。自分が編纂した古書に現れた天という言葉の使われ方に通じた孔子には、之は基本的には明らかなことであった。古人は、天には天の心が有ることを信じ、真面目に、これに心を通わせていたのである。その畏<おそ>るべき不可知の心を、誰もそのまま正直に迎え、面を背けるものはいなかった。まして、こちら側に好都合な解釈が思いつけば、相手の攻撃をかわすことが出来るというような自負は、誰にも持てようがなかった。』(p.284  3行目-11行目、<>内はテキストふりがな)

『皆、天を畏れて、これに堪えていた。堪えることが出来たのも、天を敬するするという道が開かれていたからだ。この道を通じて、人々はめいめいの気質に応じて天と語り合った。徂徠は「書経」の言葉をあげている、 —「惟<コ>レ天ハ親シム無シ、克<ヨ>ク敬スルニ惟<コ>レ親シム」— 聖人達が、こういう故人の素朴な心に寄り添い、決して離れようとはしなかったのも、その仕事は、言わば歴史の開始に立ち会うことによって行われたからだ。而<しか>もその仕事は、知を尊び、説を立てるにはなく、安民という具体的な行動にあった以上、人々凡<すべ>ての心を吾が心とし、「人ノ性ヲ尽ス」という努力をしなければならなかった。孔子ほど、これをよく知った者はいない。その孔子の「罪ヲ天ニ獲<ウ>レバ、禱<イノ>ル所無キ也」と言った言葉が、率直に信じられなければ古文辞<こぶんじ>の学には這入<はい>れないと徂徠は言う』(p.284  12行目-p.285 5行目、<>内はテキスト振り仮名)

このように、徂徠は孔子が纂集した聖人の書物にある『古人』の率直な心そのままに見ることを彼の学問の基礎としたわけであるが、この方法が「古事記」を読み解く際の宣長の方法になった。上記に段落に続く一段落がそれに相当する。これも少々長いがそのまま引用しよう。途中「困難な暗い問題」と出てくるが、「暗い」は見通しが利かぬという意味である。

『宣長が、寛政12年に詠<よ>んだ歌、 —「聖人と 人はいへども 聖人の たぐひならめや 孔子<くし>はよき人」(「石上稿」)— これが徂徠直伝の歌であることは、もはや説明を要しまい。人の性は万品にして、その多様、不安定は、得て変ずべからず、という人生のあるがままの事実は、徂徠の言い方で言えば、真実な学問の上での「教への条件」なのである。これを、「うひ山ぶみ」の宣長の言い方で言えば、万人向きの「学びようのほう」など、まことに疑わしいものであるということになる。誰も万人向きのやり方で世を渡ってはいない、と言う事は、どんなによく出来ていても、万人向きのやり方では間に合わぬ、困難な暗い問題に、この世に暮らしていて出会わぬ人は、まずいないという事だ。そして、皆、何とかして、難題を切り抜けているではないか。他人は当てには出来ない、自分だけが頼りだと知った時、人は本当に努力をし始める。どうあっても切り抜けねばならぬ苦境にあって、己の持って生まれた気質の能力が、実地に試されるとき、人間は、はじめて己を知る道を開くであろう。そのような次第を、つらつら思うなら、「うひ山ぶみ」とは、詮ずるところ、独学の勧めということになりはしないか。ならざるを得ない、と私は思う。宣長は、このあからさまに、はっきりとは説くことの出来ぬものを、言わば文章の原動力として、文章の奥深くに秘めたのである。』(p.285  7行目-p.286 6行目、<>内はテキストふりがな)

こうして、藤樹の始めた近世の学問の系譜は徂徠、宣長へと受け継がれた。「問答(ディアレクチック)」を純化したものは主題が変奏されながらも脈々と受け継がれていったのだ。

では、宣長が究めようとした学問の道とは何だったのか。一言で言えば『古意(いにしえごころ)』というものであったわけだが、これは非常に微妙な問題であったことが、第二部の残りで説かれている。まず、引用文として宣長の「玉勝間」から挙げられている「からごゝろ」という文章があるのだが、ここからごく一部だけ紹介してみよう。

『「漢意<カラゴコロ>とは、漢国<からくに>のふりを好み、かの国をたふとぶのみをいうにあらず、大かたの世の人の、万<よろづ>の事の善悪是非<ヨサアシサ>を論<あげつら>ひ、物の理<ことわ>リをさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍<カラブミ>の趣なるをいふ也。」』(p.286  9行目-11行目、<>内はテキスト振り仮名)

この部分だけでも、物事をありのままに受け取るという『古意』に対する『漢意』というものをいかに宣長が憎んでいたかということが分かる。

 この文章に対する解説がしばらく続くのだが、ごく簡素な解説をするならば、「玉勝間」は「古事記」研究余話であり、難解という文章ではないが読むのには宣長の心映えを理解する必要があること、それは、「うひ山ぶみ」とも同じ意味合いがあること。宣長は『古意』をまずしっかりとつかんだ上で、『漢意』ということを排斥していること。その『漢意』とは、つまりは『古意』ではないものとしか定義できそうにない、あえて定義するとすれば、理屈だけで考える、宣長の言葉で言うところの「世の識者<モノシリビト>」の考え方ということ。この辺りを挙げておけばいいと思うのだが、肝心の『古意』を宣長がどうつかんでいたのか、というのは非常に微妙で難しい問題となる。

テキストとは順序が逆になるかもしれないが、まずこの部分を引用してみたい。

『彼は「世の識者」に対し、明け透けに、こんな風にでも言いたかったであろうか、 —古書を釈く<筆者註:とく>には、「古意」をもってしなければならぬと、君達は仔細<しさい>らしく言っているが、その「心ばへ」に即して、眼前の事物を実際に釈いていた上ッ代の人々が「古意」などという言葉を全く知らなかった事実を、君達は、一っぺんでもまじめに考えたことがあるのか』(p.290  5行目-9行目、<>内はテキスト振り仮名)

一部であるがこれが、宣長が「玉勝間」の「からごゝろ」で『明け透けに』言いたかったことであろう、という部分を引用した。

さて、宣長にとっては、『古意』あるいは「うひ山ぶみ」で使っている言葉で言えば『古ヘの定まり』という言葉であろうが、これは次のような意味合いのものであったと言う。

 『ここで「古への定まり」と言われているのは、上ッ代の人々に使われていた「古語<イニシヘコト>」の「ふり」の「格<サダマリ>」である。』(p.289  14行目-16行目、<>内はテキストフリガナ)

 『なぜ、宣長がこれをやかましく言ったかと言うと、「古語のふり」とは、古学が明<あき>らめなければならなぬ古人の「心ばへ」の直らかな表現、宣長の言葉で言えば、その「徴<シルシ>」だからだ。と言う事は、更に言えば、未だ文字さえ知らず、ただ、「伝説<ツタヘゴト>」を語り伝えていた上ッ代に於いて、国語は言語組織として、すでに完成していたという宣長の明瞭な考えを語っている』(p.289  16行目-p.290 4行目、<>内はテキスト振り仮名)

このあと、『言霊』についての考察がある。そこから、宣長の『うひ山ぶみ』について戻っていく展開になっているのだが、まず、『言霊』の考察に入ろう。まずこの部分を引用する。

『宣長が、「古事記」を釈いて、はっきり見定めたのは、上ッ代の人々が信じていた言霊<ことだま>といわれていた言語の自発的な表現力、或<あるいは>は自己形成力と言って良いものの、生活の上で実演されていた、その「ふり」であった。』(p.290 12行目-14行目、<>内はテキストふりがな)

『言霊』という言葉を知らない日本人はいないであろう。われわれは『言霊』が存在するなどと言っていれば笑われてしまう世界に生きていながら、この『言霊』という言葉の持つ響きに惹かれない日本人はいない。『言霊』は、あるいは『言霊』という言葉は、現代日本でも、所謂観念として生きておらず、それを信じて寄り添い、あるいは敬して畏れる、そういう人にしか本当の姿を見せまい。そのようなことは日本人誰もが、いまでもはっきりと理解していることだろう。まさにその部分に、宣長は着目していた、『と共に、もう一つ、宣長の目に、見紛<みまが>いようのなく明らかに見て取れたのは、次のような事であった』(p.290 14行目-15行目、<>内はテキストふりがな)。

要約するなら、それは、『言霊のさきはふ国、たすくる国』と言うように無自覚に使われていたその日本語というものが、中国から来た漢字の圧倒的な表現力に出会い、自覚と反省を始めざるを得なかったということだ。その少しずつ少しずつ漢字を自国語の中に取り込み消化させるという、他の国には類のないことを行った日本人の、その初めての『古語のふり』の自覚の経験が「古事記」には現れていたということであった。

少し脇道にそれるが、テキスト註によれば、「本居宣長」本論第二七節に小林さんのある考察が書かれている。小林さん自身は、そこで努力してみたが十分ではなかった、今後の研究が待たれると、この『補論I』上では書かかれているのだが、簡単にその内容を説明しておくと、漢字が伝わって以降、日本の公文書では、漢文で書かれることが正式な事であった。その傾向は「古事記」以降時代が下り「万葉集」が編まれて以降もますます強まり、日本語は日陰者の地位にあった。日陰者であったが、日陰者であったからこそ、独自の発達を遂げ、ひらがな、カタカナの発明があり、あるいは在原業平こそが当代きっての和歌の上手ということになっていった。その彼を主人公にした物語(「伊勢物語」)の形式は「源氏物語」となって一つの完成を見るのだが、それまでに、紀貫之が「古今和歌集」を編纂し、「土佐日記」という日記文学を残したことが多大に影響を与えており、即ちそれは、日本語の独自の文字がつくられて、ある種身軽になり日記文学というもの確立され、その延長にあの「源氏物語」があるということに宣長は着目していた、ということが描かれている。

さて、宣長の『古語のふり』の考察に戻ろう。

『そういう次第で、宣長の「古事記」研究は、日本人の日本語についての最初の反省がこの書を書かせたというところに、的が絞られ、その「文体<カキザマ>のこと」「訓法<ヨミザマ>の事」に、彼の精神は集中されることになった。』(p.291 12行目-14行目、<>内テキストフリガナ)

簡単に言えばこの作業から『古語のふり』を宣長はつかんでいったのである。宣長の「古事記伝」は、四十四巻もある大作である。その中で宣長は、執拗とさえ表現できる、古人の言葉の一つ一つを解き明かし自分のものにしていく作業の中で『古語のふり』言い換えれば、古人そのままの『言霊』というものを自得していった。逆に言えば、「古事記伝」が完成した年に渋々書かれた古学の入門書「うひ山ぶみ」でも、実は、本当のところ、そのようにしか教えられないということを言いたかったわけである。テキストでは、ふたたび「うひ山ぶみ」にもどり、そこから『古学の眼』と宣長が晩年によく使った言葉についての説明となっていく。こんどは『古学の眼』について書かれたところをしばらく引用したい。

『(前略)「古事記」を釈くとは、人知れず、自分の発明発見を、一つ一つ積みかさねて行く、長い道であったが、これを顧みた時、彼には、「古学の眼」という発想が、どうしても必要になったに相違ないのである。神々と共に生活していた上ッ代の人々を知るには、今はもはや無い彼らの姿を、想像裡<り>に描き出してみる他に道はない。その切っ掛けとなる古書として、宣長は、彼等の「心ばえ」が一番直かに語られている「古事記」を取上げたわけだ。これを読む者も、できる限り正直に忠実に、物語の「ふり」を捕えなければならないのは勿論<もちろん>だが、彼等の「心ばえ」を、吾が「心ばえ」として、思い描くという事は、飽くまでも、読者各人の力量と気質が参ずる各人の努力である。』(p.292 9行目-p.293 1行目)

 このような、『努力』を重ねて宣長は古事記を釈いていったのであるが、そこでは、確乎として変わらない姿の原文に対して、宣長自身の『心力』が試され量られるということであった。『宣長は、このことを非常によく知っていた。と言うより、そういうはっきりした自覚は、彼の仕事を見ていくと「古事記」原文との永い、忍耐強い附合いのうちに育ったと考えざるを得ない。彼の発想に従えば「古学の眼」は、そこで磨かれたのである。』(p.293 5行目-8行目)

このようにして、宣長の『古学』は完成していったわけであるが、それは所謂、従来の儒教が説くような『理学』すなわち天然自然の理や、あるいは、人としてこうあるべき、という儒教の聖人の教えとは全くちがう、己の『心力』のみで試される、いわば、『上ッ代』の『古人』になりきり物事を見つめるようなそういう眼を持つに至る学問の道であったわけだろう。

こうして、しばらく、宣長の学問『古学』について語ってきたわけであるが、この第二部最後の部分を引用してこの第二部の説明を終わりたい。

『(前略)未だ学問という言葉もなかった、それどころではない、文字さえ知らなかった遠い昔に暮らしていた人々も、基本的な意味での学問の誕生には、真剣に立ち会っていた、その姿が、「古学の眼」にまざまざと映じてくるようになった。宣長は、其処から物を言った、常に其処からしか物を言わなかった。其処からの、宣長の自在な発想は「当然之理<シカアルベキコトワリ>」で、我が身を縛上げて、学問の体裁を整えている、そんな学問の抵抗など眼中になく行われた。』(p.293 13行目-p.294 2行目)

 このあと、黙殺された側には大きな衝撃であり、ここに宣長の仕事の誤解の最も大きく、分かりにくい原因があったと書かれている。それはいわば、恋<エロース>をしないものに恋の情熱<マニアー>はまるで愚かに映るようであっただろう。


では、第三部を見ていこう。ここでは『真暦』という宣長が使った概念、即ち古代の人たちの暦のことが書かれている。こう書くだけで、おそらくは、第二部の特に『言霊』という言葉の説明を合わせて考えて、だいたいのことは想像がつく、という読者も多いのではないだろうか。そこで、ここでは、暦についての非常に緻密な考察の部分はごく簡単に紹介し、この「補記I」でももっとも美しい文章を紹介するという構成を取ろうと思う。

まず、宣長が古代の人たちの暦について着目したのは、やはり言葉であった。すなわち、中国から、圧倒的に緻密で天文学的にみて正確な太陰暦が渡ってくる前に、すでに、日本語で『こよみ』あるいは『はる』、『なつ』、『あき』、『ふゆ』などの季節を表わす言葉があったことが、宣長の『真暦』への考察はあった。

テキストによると、『こよみ』の語源は『来経<ケ>』を『数<ヨ>」むということから来る。

『春過ぎて 夏来たるらし 白妙<シロタヘ>の 衣ほしたり あめのかぐ山』という持統天皇の御製を引いた部分の宣長の文を引用して、小林さんはこう言っている。

『彼は、季節を詠み込んだ歌を幾つもあげ、「みな見聞くものによりて、その時をしれる趣<オモムキ>にて、上つ代の意<ココロ>にかなへり」と言うのだが、そのなかでも「春過ぎて 夏来たるらし 白妙<シロタヘ>の 衣ほしたり あめのかぐ山」の「大御歌は、殊<こと>に人のしわざをすらみそなわして、しろしめつしつる御趣<ミオモムキ>なるをや」と言っている。明らかに彼の言いたいのは、ただ歌の上のことではない。著しい季節感が浸透した生活に育<はぐく>まれた、わが民族の個性である』(p.300 2行目-7行目、<>内テキスト振り仮名)

※筆者注:『わが民族の個性』という部分に引っかかりを覚える方もいらっしゃるであろうが、ここでは日本語についての詳しい考察であるために敢えてそのまま引用した。その根底に少数民族に対する差別意識など毛頭無いことはご理解頂けると確信している

このように、上ッ代のひとびとの『来経<ケ>』を『数<ヨ>」むということは非常におおらかなことであった。たとえば、この部分を引用しよう。

『から国の一二三と言う文字は、数を数えるにも、次第<ツイデ>をいうのにも用いられる字であるが、古言で、物の次第<ツイデ>を一二三<ヒトフタミ>と言った試しはない事に、宣長は先ず注意する』(p.301 5行目-8行目)

このあと、例えば、親が身罷ったあと、毎年その命日に親を偲ぶ時、ただ、その季節の大まかな日時を定めて実におおらかにその人を偲んだ、などという宣長の文章を引かれている。

さて、この部分を引いたのには下心があるのであるが、まず、少し長くなるがベルクソンの「意識に直接与えられた物についての試論」(ちくま学芸文庫 合田正人・平井靖史訳、第二刷)からこの部分を引用しよう。非常に難解な文章なので読者は引用文を飛ばされてもかまわない。専門的に見て少し面白いというだけだ。内容は、簡単に言えば、量も質として感じ取ると言う事を主張している。

『ところで、物理現象相互の真の連関を決定するために、われわれは、知覚したり思考したりする自分の仕方のうちで、これらの関係に明白にそぐわないものを捨象するのだが、これと同様に、自我をその根源的純粋性において観相するためには、心理学は外界の明らかな徴し<筆者註:しるし>を帯びた諸形式を除去ないし訂正しなければならない。 —これらの形式はいかなるものであろうか。互いに孤立させて、その各々を分化されたひとつの単位と見なすなら、心理的諸状態は時間のうちで展開し、持続を構成する。最後にその相互連関においては、ある種の単一性が多様性を通じて維持されている限り、これらの状態は互いに決定し合うものとして現れる。 —強度、持続、意志決定、これら三つの観念こそ、それらが外界の侵入に、言ってしまえば空間観念の憑依<筆者註:ひょうい>に負うているすべてのことをそこから一掃する事で、純化されねばならないものなのだ』(p.246 15行目-p.247 8行目)

『われわれはまず初めにこれらの観念のうち第一のものを考察して、心理的事象はそれ自体では純粋な質ないし質的多様性であり、他方、空間内に位置するその原因は量である事を見出した。この質がこの量の記号となり、われわれがこの質の背後にこの量を推察する限りで、われわれはそれを強度と呼ぶ』(p.247 9行目-12行目)

この部分、質とはいわば観念であり例えば「青」なら「青」である。青い光の周波数と言って良いだろう。すなわち、A-D変換の量子化の部分を言っているのであるが、同じ事が数にも起こる。もう少しだけ引用したい。

『したがって、ある単純状態の強度は量ではなく、量の質的記号である。諸君は強度の起源を、意識の事象である純粋な質と、必然的に空間である純粋な量とのあいだの妥協のうちに見出すだろう。ところでこの妥協を諸君は外的事物を研究する際にはわずかの躊躇もなく放擲するだろう。というのも、その時諸君は力は実在すると仮定しながらも、その判定可能で延長的な結果だけを考慮して、力そのものは脇に置いてしまうからだ。それにしても、今度は意識的事象を分析しようというときに、なぜ諸君はこうした折衷的概念を温存するのか。諸君の外部にある大きさが決して強度的でないならば、諸君の内部にある強度は決して大きさではない。』(p.247 12行目-p.248 2行目)

 ここまで、簡単に言えば、『外延量』と『強度量』の混同が、我々の感覚における知覚表現の中にあり、われわれはしばしば、それらを混同し比較している、ところを引用した。

私の下心は、どうして小林さんの下心でないとは言えるだろうか。つまりは、上ッ代の人々はベルクソンの言葉で言えば『強度量』として、言い換えれば一種の質として『来経<ケ>』を『数<ヨ>』んでいたという事なのだ。それは、自然に対する上ッ代の日本人の根本的態度があるという事は、もう指摘するまでもない事であろう。

もう、言いたい事はほとんど言ってしまった。少し長くなるが、『敢えて繰り返そうか、』と言う部分以降のなんともいえず美しい部分から二段落を引用してみたい。

『敢<あえ>て繰り返そうか。宣長は、「真暦」という「道の事」から物を言う、 —上つ代の人々は「たゞ空の月を見て、朔<ツイタチ>のはじめを、ひとりは今日<ケフ>ぞと思ひ、いまひとりは昨日<キノフ>ぞと思ひ、今一人は明日<アス>ぞとおもひて、心々に定めても、みな違<タガ>ふことなかりし」、— 古人のこころばえは、それほど「おおらか」なものであった。だが、誤解しないで欲しい。「おおらかなる」という言葉は、けっして「麁<アラ>き」という意味ではない。理<ことわ>リを違えまいとばかり気を配っている当今の学者等の自負する精しさなど、見かけ倒しのもので、差し詰め「麁き」「粗略なる」と言って良いのはそちらの方だ。「理<コトワリ>」という言葉も、人に使われれば、濃淡深浅いろいろの色合いを帯びざるを得ない。「玉勝間」に書いておいたように、歴史の条件次第で、世の中には、「まことの当然之理<シカアルベキコトワリ>」も「いつわりの当然之理<シカアルベキコトワリ>」も現れる。宣長としてもそう言いたいところなのである。彼の古学の道に何処<どこ>までも沿い、想像力を働かせようと努めさえするなら、「理」という言葉にも、古人には古人の使い方があった事を率直に容認して、その心ばえを思い描くのは、難しい事ではない筈だ』(p.310 12行目-p.311 10行目、<>内はテキストフリガナ)

『「朔<ツイタチ>のはじめ」を、誰もが、「心々に定め」ていた時、「理」という言葉は、ソクラテスの言い方で言えば、めいめいの「魂に植えられて」て生き、一般化への道など全く拒絶していたのだ。親の忌日が、暦に書かれているわけもないのだから、秋が訪れるごとに、「某人<ソノヒト>のうせにしは、此木<コノキ>の黄葉<モミジ>のちりそめし日ぞかし」と、年毎<ごと>に、自分でその日を定めなければならない。創り出さねばならないと言ってもいいだろう。暦を操って済ませている人々が、思ってもみない事だが、各人が自分に身近な、ほんのささやかな対象だけを迎えて、その中にわれを忘れ、全精神を「その日」を求めた。他の世界は消えた。そのような勝手な為体<ていたらく>で、何一つ間違わず、うまく行っていた。なぜかと問われれば、「真暦」が行われていたからだ、と答えるより答えようが宣長にはなかった。という事は、彼の眼は、古人の間で、はっきり固体化され充実した「来経数<ケヨミ>」という「わざ」の上に、熟<じつ>と据えられ、彼は口を噤んで了ったという意味だ。そして、その自己集中自己沈潜のすがたそのままが、慎重な観察推論として、「理」という言葉の正常な使い方として、彼の心に刻印されたのである。』(p.311 11行目-p.312 7行目、<>)

ここからは、宣長の「真暦」に関しての考察がやはり「古事記」に対してのものと同様であった事が描かれ、そのあと、現代の「時間」或いは相対性理論の言う「四次元連続体」について宣長がどう思っただろうか、という考察に入る。

ところで、この第三部は『真暦』をテーマに古人の時間というものについて触れた。『真暦』はベルクソンの言葉を使えば、宇宙の『持続』のなかにわれわれ個々人の『持続』を合わせ、おのおのの自然の観察という『心力』を試される場おいてそれぞれに『来経数<ケヨミ>』をする事であったろう。

このとき、『天文学の今日の進歩を、もし宣長が知ったらという考え、これはあながち空想とは言えないだろう。』(p.313 9行目-10行目)と小林さんは言う

『何故かというと、人間の都合などには一顧も与えぬ「天地のありかた」という、「真暦」の観念を裏側から支えていた宣長の考えに、現代天文学は決定的な表現を与えたからだ』(p.313 11行目-12行目)

以下、少し要約すれば、宇宙に人工的に工作する手段がない以上、現代天文学言い換えれば宇宙物理学は純粋観測科学であろう。その天文学、言い換えれば現代の物理学と古典力学を分けるものは「時を知る」という概念が全く変わったという事だ。

『時間概念を光の伝播<でんぱ>法則の上に、大胆に打ち立てる事により、古典力学が孕<はら>んでいた純粋空間、純粋時間という最後の言葉の対立も消えた。自然対象の観測点は、徹底的に相対化された。という事は、ある観測点が、他のどんな可能な観測点にも、変換式により正確に連結されるものである以上、ある部分的な観測点は、そのままで絶対的な観測点でもあるという意味だ。「天地のありかた」は、何処から何処まで一様で、純粋な計量関係に解体され、物理学が要請する客観性と同義の言葉となる。時間単位を光速度という虚数で表わさなければならない』(p.313 16行目-p.314 6行目、<>テキスト内ふりがな)

上の引用は、小林秀雄という人がいかに現代物理学についても理解しているかを知ってもらう意味もあって引用した。光速度が虚数というのは、われわれでは一般的ではないだろうが、実際には光の速度をCとするときC=a+biというような虚数で表わされその実部しかわれわれの実世界では現れないという意味だ。これが、SFなどではじめから光の速度をこえていればタキオンの存在するなどといわれる理由の根拠となっている。

この論の最後も、小林さんの文で締めようか。最後の部分を引用する。

『そういう思想史の成り行きの裡<うち>で、「来経数<ケヨミ>」と呼ばれていた古人の時間の直らかな体得につき、宣長がその考えを尽くしたところは、どういう照明を受けるだろうか。それを考えてみることは空想ではない』(p.314 6行目-9行目)

 以上、非力ながら、小林秀雄という人の思想の一端を紹介してみた。どうか本文を読んで頂きたい。小林秀雄は、そして、小林さんが描いた本居宣長も、現代も色あせることなく日本で最も優れた思想家である事を私の下手な文章におつきあい頂いた読者諸氏なら大いに納得されることだろう。





2011年9月23日に草稿をブログ「徒然の種々」にアップしていたものをブログ「小林秀雄さんの思想メモ」に掲載するために清書したものを再掲しています。
草稿のアドレス:http://seed-heblog.blogspot.jp/2011/09/i.html
小林秀雄さんの思想メモでのアドレス:http://kobayashihideo-memo.blogspot.jp/2012/07/i.html


2012年12月19日水曜日

ベルクソン 「物質と時間」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」  第五節 「延長と伸張性」


ここでは、第五節 『知覚と物質』(p.298 16行目-p.311 6行目)を解説します。ここからは、第一節や第二節で問題となった『魂と身体の結合の問題』(p.257 16行目)について再び考察されることになります。前節では、持続というものがどういうものか、『質と量』の障壁をなくすこと、あるいは『運動』をそのまま『直接的な認識』として捕らえることによって『感覚』との差をなくすことを省察し、われわれの質の観念がA-D変換の量子化やサンプリングのようなやり方で『知覚』を『内的震動』として表し、『意識によって生きられた真の持続』がさまざまなものを象徴的に『固定化』することによって起こるということを解説しました。

(2011/8/24、2012/12/19、筆者注:この点では、第一節の解説において、「『質と量』の対立の緩和については、第六節で考察されることになる」と述べていますが、前節第四節においてもその点は相当詳しく触れられていました。従いまして、第四節の第二段落以降、及び、第六節と改めました。未熟さからくるご迷惑を心よりお詫びいたします。

また、上の第四節のまとめに当たる部分、『質と量』の他に『運動』と『感覚』の差を埋めるということを明確に描いておらず、『運動』と『質』との差と取られる表現になっていた点、他にも、特に重要な『意識的によって生きられた真の持続』(p.296 4行目-5行目)について触れておらず、また、他にも第四節の記述に合わせ「量子化」と「サンプリング」を明確に分けて書くことにしました。表現としてもその両方を混同しかねない記述にもなっておりました。こちらでも大変ご迷惑をお掛けし申し訳ありません。

以下、同様の誤りが多数あることが予想されます。その点はその都度訂正とともに謝罪をさせていただく所存です。その点についても、まずここで私の未熟と能力の不足をお詫びいたします。その度に注することになり、大変うるさくお感じになるとは思いますが、何卒よろしくお願いいたします。)

ほかにも、ここまでの解説で私としては、

『しかし、思考する存在たる人間においては、自由な行為は諸感情と諸観念の総合と呼ばれることができ、そこへと導く進展は理性的な進展と呼ばれる』(p.266 7行目-8行目)

とその後の、

『しかし、<われわれがそこで行動しているところの>持続は、われわれの諸状態が互いに解け合っている持続であって、まさにこのような持続において、われわれは、行動の本性についてわれわれが思弁する例外的な唯一の立場、すなわち自由の理論の中へと思考によって身を置き直すための努力をしなければならない』(p.266 11行目-13行目、<>内テキスト傍点付き)

という部分の解説も少々不足している気がします。この点はこの節でも少し触れられることとなるでしょうが、ここまでの反省点として挙げておきたいと思います。

いずれも、私の理解不足によるものであり、読者諸氏には心よりお詫びを申し上げる次第です。

さて、この節では、前節までに『直接的な認識』、あるいは、その点において特に重要な『(意識によって生きられた真の)持続』と『緊張』、さらにそれらに『純粋震動』を含めてもいいと思うが、について議論されていたが、今度は『(物質的)延長』と『伸張性』に関して詳しく論じられています。

(2012/12/09 筆者注:「前節までの『直接的な認識』によって、『物質』を捕らえることを論じて」と記述していた部分が必ずしも正確とはいえなかったため改めた。理解不足によるご迷惑をお詫びいたします)

(2012/12/10 筆者注:第一節で「延長」という言葉の説明を以前間違っていたということをここで記述していたが、すでに修正したために削除した)

それでは、第一段落(p.299 1行目-p.302 12行目)を見よう。この節からは、これまでのまとめという意味もあるのか、段落内の文章を分けて端的に要約するのが難しいように記述されている。しかし、解説のためにはあえて分けてる必要がある。そのために数行飛ばすなどしてあえて分けた文章の差違を強調させるようなこともした。

まず、われわれが物事を区別するのには、『各々がそれ固有の特性を有していて、進化の一定の法則に従っているからだ』(p.299 3行目-4行目)という意味づけがある。しかし、第三節のマクスウェルの説(第十三段落、p.283 15行-p.285 5行目)実際はその『事物とその周囲とのあいだの分離は完全に決定されたものではあり得ない』(p.299 4行目-5行目)以下、一行飛ばして引用する。

(2012/12/10 筆者注:上段落の物質波に関するする記述はテキストに現れてきていなかったために削除。基本的にテキストに沿った解説ということでご理解いただければと思います) 

『物質的宇宙のすべての対象を繋ぐ緊密な連帯、それら相互の作用と反作用の永続性は、これらの対象が、われわれによってそれらに割り当てられたような明確な境界を実は持たないことを十分に証明している』(p.299 5行目-8行目)

『われわれの知覚はいわばそれら物体の残滓の形を描いている。われわれの知覚は、それらの対象に対する、われわれの可能的な作用が止まる地点、したがって、それらの対象がわれわれの欲求に関与するのをやめる地点をそれらの対象の端とする。以上が、知覚する精神の最初のそしてもっとも明らかな働きである。』(p.299 8行目-11行目)

(2012/12/10 筆者注:上引用文に『われわれの知覚は、それらの対象に対する、われわれの可能的な作用が止まる地点、』という部分が抜けていた。読者の皆様にはご迷惑をお詫びいたします)

ここまでを『以上が、知覚する精神の最初のそしてもっとも明らかな働きである』(p.299 11行目)といったん結ばれ、すぐに、

『その精神は、欲求の勧めや実生活の必要性に簡単に屈しながら、延長の連続性の中に分割された諸部分を描く』(p.299 11行目-13行目)

と続ける。つまり、もともとの『知覚』からえられる『直接的な認識』は、われわれの『欲求の勧めや実生活の必要性に簡単に屈』するような精神の働きにより任意に分割される自然な流れが生まれてくる訳である。それにはまず、その『現実的なものが恣意的に分割可能であるのを納得しておかなければならない』(p.299 14行目)

(2012/12/10 筆者注:上段落に「『欲求の勧めや実生活の必要性に簡単に屈』するような」という文を挿入。「人間の」という句を削除。このような改訂を心苦しく思いお詫びいたします)

『したがってわれわれは、具体的な延長である感覚性質の連続性の下に、無際限に変形可能で無際限に縮小可能な目を持った網を仕掛けなければならない。この単に考えられただけの実体、恣意的で無際限な可分性についてのこの全く観念的な図式が等質的空間である』(p.299 14行目-16行目)

と、ここまでを一つの流れを振り返っている。われわれは、ここにおいて、自然科学や幾何学の原初的、ア・プリオリな思考の傾向を得るわけであろう。ここからさらに続けて、

『 −ところで、現在のいわば瞬間的なわれわれの知覚が、独立した諸物体への物質の分割を行うのと同時に、われわれの記憶は、諸事物の連続的な流れを感性的性質へと凝固させる。われわれの記憶は過去を現在の中へと引き延ばす。』(p.299 17行目-p.300 3行目)

と述べる。このことに関しては前節で詳しく説明された。こうして、ここからは、過去と記憶、それから『持続』そして時間の観念の流れの説明へと入っていく。

(2012/12/10 筆者注:「このことに関しては前節で詳しく説明された」との一文を挿入。ご迷惑をお詫びいたします) 

上の引用文に続けて、『なぜなら、われわれの行動は、記憶によって増やされたわれわれの知覚が過去を凝縮したのと正確に比例して、それだけの未来を自由に使う』(p.300 3行目-5行目)と記憶の役割を説明するのだが、ここでは始めに『記憶によって増やされたわれわれの知覚』ということを考えてみたい。第三章を振り返れば、『感覚−運動』的な生を生きているのであった。そうすると『記憶によって増やされたわれわれの知覚』とは感覚であり、『記憶』は『感覚−運動』的な生のための情報つまり、第二章で言う『純粋想起』が相当するだろう。ある『感覚』に対して結びつけられる『運動』の記憶つまり『純粋想起』が多ければそれだけ選択肢が増える。結果、『正確に比例して、それだけの未来を自由に使う』事ができるようになる。

ところで、一方、物質はというと、

『蒙られた作用に、この作用のリズムにぴったり合わせつつ同じ持続の中で継続される直接的反作用によって反応すること、現在、それも絶えず再開する現在の中に存在すること、それが物質の根本的な法則である。そこに<必然性>は存している』(p.300 5行目-7行目 、<>内はテキスト傍点付き)

(2012/12/10 筆者注:上引用文がやや難解と感じたので、下の解説文を新規に追加し、補足した。未熟をお詫びいたします)

と対比させている。上引用文は、やや難解である。まず、順序を少し変えて、『現在、それも絶えず再開する現在の中に存在すること、』という文のほうをみると、こちらはこれまでも何度も説明されてきたように、物質はそのままで保存されているのではなく、法則に従ってそのように成っているのであった。『それが物質の根本的な法則である。そこに<必然性>は存している』ということにわれわれは何の異存もないだろう。残る初めの部分『蒙られた作用に、この作用のリズムにぴったり合わせつつ同じ持続の中で継続される直接的反作用によって反応すること、』であるが、途中を省略して『蒙られた作用に、直接的反作用によって反応すること、』という文章にすれば、これは、作用・反作用の法則を述べているというのがわかる。そのとき、『この作用のリズムにぴったり合わせつつ同じ持続の中で継続される』という部分であるが、これは、『作用』と『反作用』の力のベクトルの大きさが同じで向きが正反対であるということを意味しているのではないだろうか。

このあと、

『<自由な>行動、とは言わないまでも少なくとも部分的に不確定な行動が存在するとすれば、』(p.300 8行目)ということを考察する。ここから非常に長いこの一文の続きを見ると、

『そうした行動は、自らに固有な生成がそこに貼り付けられているところの生成を所々で固定することができ、この生成を判明な諸瞬間へと凝固させ、かくして物質を凝固させ、この物質を自らに同化することで、自然的必然性の網の目をくぐり抜けるような反作用へと物質を消化しうる諸存在にしか属することはできない。』(p.300 9行目-12行目)

とある。まず、全体の意味を分かりやすく言うと、物質は因果律に従い、『自らに固有な生成がそこに貼り付けられているところの生成』として『判明な諸瞬間へと凝固』し、『かくして物質』は『凝固』するのであるが、その因果律には従いながらも、『部分的に不確定な行動』であるためには、因果律という『自然的必然性の網の目をくぐり抜けるような』、そのような『反作用』へと『物質を消化』すなわち、『自らに固有な生成がそこに貼り付けられているところの生成』を『所々で固定することができ、この生成を判明な諸瞬間へと凝固させ、かくして物質を凝固』させたうえで、さらに『この物質を自らに同化する』、もっと分かりやすくいえば、食物を消化しそれを細胞へと作り直し、なおかつその細胞でできた身体を自らの意志で動かすことができるという、『作用』へと、文字通り『物質を消化しうる』ところの『諸存在』にしか、『<自由な>行動、とは言わないまでも少なくても部分的に不確定な行動』はできないであろう、と述べているのである。

(2012/12/10 筆者注:上段落で『反作用』と書いている点は『作用』の誤りだった。お詫びして訂正いたします。) 

ここから、ごく部分的で一時的であるにせよ、エントロピー増大則を生物は情報を用いることによって制限している実態がわれわれ現代の人間には見えてくるだろう。記憶についてにしてもこの負のエントロピーの記述にしても、情報ということに関してのベルクソンの深い考察をここで垣間見ることができる。

さてそのような存在、簡単に言ってしまえば生物のことであるが、

『これらの存在の持続の緊張の度合いは、結局、彼らの生の強度の度合いを表しており、こうしてそれが彼らの知覚の凝集力と、その自由の程度を決定している』(p.300 12行目-14行目)

(2012/12/10 筆者注 下の解説文で「短い持続に多くの知覚からの情報を『量』から『質』へと転換できるような『持続の緊張』こそが『生の強度の度合い』となっている、」と記述していた部分はよくよく考えれば、二種類の解釈が可能となっている。その後のテキストp.301 11行目までベルクソンによる解説が行われいるため、その部分をすべて引用して解説することにした。このような未熟によるご迷惑を読者の皆様にはお掛けすることは痛恨の極みであり、こころよりお詫びいたします。)

この部分は大変難解である。まず、『持続の緊張の度合い』ということこれは、前節第四節までの『質と量との隔たりは、<緊張(tensio)>なるものの考察によって小さくされうるのではないだろうか』(p.261 7行目-8行目、<>内はテキスト傍点つきとイタリック)として始まった部分に相当するだろう。これは、前節までの『質と量との隔たりは、<緊張(tension)>なるものの考察によって小さくされうるのではないだろうか』(p.261 7行目-8行目、<>内はテキスト傍点つきとイタリック)として始まった部分に相当するだろう。すなわち、短い持続に多くの知覚からの情報を『量』から『質』へと転換できるような『持続の緊張』こそが『生の強度の度合い』となっている、いう主張がまずここにある。極端な例を挙げれば、植物は『生の強度』はきわめて低く、高等動物になると高くなる。そのような尺度で見れば、『知覚の凝集力とその自由の程度を決定している』という記述になるのは必然となる。この後半部分は、第三章で見た『感覚-運動系』という生の働きを別の表現で示していると考えてもいいだろう。

(2012/12/10 筆者注:下の段落のもう一つの解釈を付加した)

ところで、一方で、特に前節第四節第七段落を思い起こすと、『持続の緊張』は『生きられた意識の真の持続』として『知覚の凝集力』に繋がっており、それが特に感覚から行動へ移る際の選択肢を増やすということで、『自由の程度』が決定されるとなってくる、という解釈も可能である。しかし、この解釈では『生の強度の度合いを表している』とは、いったいどういうことなのだろう。以上のふたつの解釈と、二つ目の解釈が正しいとした場合の、『生の強度の度合いを表している』の意味、これらの謎について、しばらくベルクソンの言うところを追って行こう。

(2012/12/10 筆者注:下「まず、」という文とその下の引用文を追加した。読者の皆様には、ご迷惑をお詫びいたします)

まず、

『周囲の物質に対するこれらの存在の作用の独立性は、物質が流れる際のリズムから彼らが一層解放されるに連れてますますはっきりと確証される』(p.300 15行目-16行目)

『その結果、記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質はまさに、現実的なものの凝固・固化によって獲得される継起的諸瞬間なのである』(p.300 16行目-p.301 1行目)

『しかし、これらの瞬間を識別するためには、同じく、それらを、われわれ自身の現実存在と諸事物の現実存在に共通の一本の糸によって一つに繋ぐためには、継起一般についての抽象的な図式、等質的で無差別な媒質<ミリュー>をわれわれは想像しなければならないのだが、かかる媒質は物質の流れに沿い、それを縦方向とすると空間は横方向になる。そして、この媒質のうちには等質的な時間が存している』(p.301 1行目-5行目、<>内はテキスト内フリガナ)

(2012/12/10 筆者注:下の一連の解説文は元は一つの段落だったが、新しく挿入した引用文の解説を追加した上で上の引用文と同じ区切りになるように分割し、元の解説も大幅に変更した。特に三番目の引用文の解説の内容は的外れとも言って良く、ほぼ一から書き換えた。このような大きな変更や修正が続くことをこころよりお詫びいたします)

と続いていく部分を見てみよう。

まず最初の引用(p.300 15行目-16行目)では、物質が物理法則に従ってある瞬間にそう成っていく連続、その『リズム』からの『解放』をより自由に行動できるという意味で用いており、かつそれが進化の度合いと言いたいのではないだろうか。

(2012/12/10 筆者注:下の二つ目の引用文の解説では、やはり二通りの解釈が可能となっていると言うことを説明した。そのために、以前の解釈とは別に、新しい解釈の解説文を一つの段落として挿入した。読者の皆様には、煩雑なことと思います。ご迷惑をお詫び申し上げます)

次の引用文(p.300 16行目-p.301 1行目)は、ここも二通りの解釈が可能である。一つは、AーD変換の「サンプリング」とそれに伴う「量子化」。すなわち、『現実的なものの凝固・固化によって獲得される継起的諸瞬間』をサンプリングと考え、『記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質』が『現実的なもの』に『凝固・固化』されることが「量子化」に相当するという考え。

もう一つは、『記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質』と『現実的なものの凝固・固化によって獲得される継起的諸瞬間』が等しいということより、前節第四節の第七段落で説明されたように、『記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質』が芸術作品となるとする考え。以上のふたつにの解釈が可能となる。

(2012/12/10 筆者注:この三番目の引用文のこれまでの解釈が間違っているというわけではないが、ここまでの考察との整合性がとれなくなってしまっているために、解説文を大幅に付け加えた。たびたびのご面倒を読者の皆様に、お詫びいたします)

三番目の引用文(p.301 1行目-5行目)を解説しようと思うが、次の第二節のベルクソンの記述を思い出していただきたい。

『われわれが経験の<曲がり角>と呼ぶものに身を置いたとき、<直接的なもの>から<有用なもの>へのわれわれの移行を照らしながら、我々の人間的経験の黎明に位置する生まれつつある微光が利用された時、この時にも、そのようにわれわれが現実<<レエル>>の曲線に見出す無限小の諸要素を用いて、それらの後ろ、暗闇の中に広がる曲線そのものの形を再構成する課題が残される』(p.264 9行目−14行目、筆者注:<>内はテキスト傍点付き、<<>>内はテキスト フリガナ)

結局、ここまでふたつの解釈が可能としてきたが、これは、上引用文の『暗闇の中に広がる曲線そのものの形を再構成する』ということがどういうことか、ということかということでもあるのではないだろうか。それが、やはり、この三番目の引用文でもはっきりしないまま、『持続』が『時間』の観念へと変化していくことが考察されている。注意すべきは、ここでは、物質を支配する因果律に支配されているところの、いわばこの宇宙の『持続』は『物質の流れ』と表現されており、いわゆる『等質的な時間』の観念とは厳密に区別されているということに気をつける必要がある。

そうすると、

『等質的な空間と等質的な時間はしたがって、諸事物の特性でも、諸事物を認識するわれわれの本質的な条件でもない』(p.301 5行目-6行目)

ということになる。ここでは、ベルクソンは『時間』という観念を厳密に三つに分けて考えていたということを強調しておきたい。つまり、『持続』と『(等質的な)時間』と宇宙の『持続』ともいえる『物質の流れ』とされるものだ。

(2012/12/11 上段落で不必要と思われる「『現実的なものの凝固・固化によって獲得される継起的諸瞬間』」を削除。また、アインシュタインの相対性理論に関して述べている部分も削除することにした。これは、すでに第三節で思うところを述べているためであり、また、個人的な感想でもあるため、ここに記述することはふさわしくないのではないかと考えた。その他、分の体裁も整え直した。読者の皆様にはご迷惑をお詫びします)

このあと、この『等質的な空間と等質的な時間』が、幾何学やそれを基礎にした力学を発達させるための抽象的な『<行動>の図式』(p.301 10行目、<>内はテキスト傍点付き)であるということを説明した後、『第一の誤り』として次のように断じている。

『第一の誤りは、この等質的な時間と空間を諸事物の特性とする誤りなのだが、それは、形而上学的独断論 —機械論であれ力動説であれ— の乗り越えがたい諸困難へと通じている。』

以下、力動説と機械論を批判しているのであるが、力動説とは世界はある種の力をもって根本的な成立の要件としているライプニッツの哲学のことを指し、機械論はすなわち、この宇宙のすべてを古典物理学で説明できるとしたデカルトを元となす哲学的世界観のことをさしていると考えていただいていいと思う。

『力動説は、流れる宇宙に沿ってわれわれが作り出す継起的切断面のいずれをも絶対的なものへと仕立て上げ一種の質的演繹によってこれらの切断面を互いに繫ごうとむなしく努めている。機械論は、ひとつの任意の切断面の中で、横方向に行われた諸分割、すなわち大きさと位置の瞬間的な諸差異にむしろ執着し、感性的諸性質の連続性をこれらの際の変動を用いて生み出そうとやはりむなしく努めている』(p.301 12行目-16行目)

このあと、『では反対に、別の仮説に賛同してカントとともに、空間と時間はわれわれの感性の形式であると主張すべきであろうか』(p.301 16行目-p.302 1行目)と、先の『第一の誤り』と対称させている。

(2012/12/11 筆者注:「ちなみに、『カントとともに』というのはドイツ観念論のことを示している。以下、見ていこう。」を削除。カントはドイツ観念論の始まりで現代においても最も重要な哲学者の一人だと言って良いだろうが、ドイツ観念論がすべてカントと同じ学説であるわけではないため)

『その場合には、物質と精神は等しく不可知なものであると宣言されるに至る。ところで、対立する二つの仮説が比較されれば、それらに共通の基盤が発見される。等質的な時間と等質的な空間を観相された実在ならしめるにせよ、あるいはまた観相の形式ならしめるにせよ、これら二つの仮説はどちらも、空間と時間に、<生命的(vital)>というよりはむしろ<思弁的な(spéculatif)>利害を与えている。』(p.302 2行目-5行目)

このあと、『したがって』と続くのであるが、それは、『生命的(vital)』な観点から見て、その間に入り込む余地があるということを言っているわけであろう。その一文は非常に長いが、この段落の最後の文となっているので、全部を引用しよう。ここまで読んできて頂いた読者諸氏にはそれでも十分ご理解頂けると確信している。要点としては、その学説は、次の三つ点からなる論理構成をまず否定し、

1.『認識のためではなく行動のために現実的なものに導入された分割と凝固の原理を等質的な空間と時間の中に看取』する (p.302 7行目-8行目)
2.そのように区別された『諸事物』に『現実的な持続と現実的な延長を付与』する (p.302 8行目-9行目)
3.『最後には、すべての困難の起源を、諸事物に実際に属し、われわれの精神に対して直接的に現出する持続と延長の中に認める』 (p.302 9行目-10行目)

そうではなくて、その困難、つまり、物質の実在や、あるいは、この章の始めに議論したような二元論的な考え方の困難(比延長と延長、質と量の隔たり)に関して、

『連続的なものを分割し、生成を固定し、己が活動に作用点を供給するために、諸事物の下にわれわれが張りめぐらす等質的な空間と時間の中に認めるだろう』(p.302 10行目-12行目)

という学説のことである。では、既に解説の中でほとんどを引用したがその全文を改めてこの段落の解説の最後に示したい。

『したがって、一方の形而上学的独断論と他方の批判哲学のあいだには、ある学説のための余地があることになろうが、この学説は認識のためではなく行動のために現実的なものに導入された分割と凝固の原理を等質的な空間と時間の中に看取し、諸事物に現実的な持続と現実的な延長を付与し、最後には、すべての困難の起源を、諸事物に実際に属し、われわれの精神に対して直接的に現出する持続と延長の中に認めるのではもはやなく、連続的なものを分割し、生成を固定し、己が活動に作用点を供給するために、諸事物の下にわれわれが張りめぐらす等質的な空間と時間の中に認めるだろう』(p.302 5行目-12行目)

以上、第一段落を解説した。


第二段落(p.302 13行目-p.303 7行目)を見てみよう。

ここは短い段落なのですべてを引用しても良いと思う。

まず、

『もっとも、感性的性質と空間についての数々の誤った考えは、精神の中に非常に深く根を張っているので、それらを一度にどれだけ多くの点について非難しても行き過ぎということはないだろう。』(p.302 13行目-15行目)

ということからはじめ、『数々の誤った考え』の『新たな様相』(p.302 15行目)の切り口として、『それらが、実在論によっても観念論によっても等しく受け入れられている次の二重の公準を含意していることを述べておこう』と続く。

その二重の公準とは、以下の通りである

『第一に、多様な種類の性質のあいだには、共通なものは何もない』(p.302 17行目)
『第二に、延長と純粋なもののあいだには、共通なものは何もない』(p.303 1行目)

(2012/12/11 筆者注:下解説文では、『延長』に対する解説と、カント哲学とドイツ観念論を同一視する記述を改めた。読者の皆様にはたびたびのご迷惑をお詫びいたします)

『延長』とはこの説をはじめるときにも少し述べているが、物質の測定できる属性表している。例えば、大きさと物質の『純粋なもの』はまったく別のものである、というのが『実在論』即ちこの場合はデカルトの哲学を端緒とする物そのものが実在するという考え方と、カントの哲学の共通点であるけれども、

『われわれの説は反対に、異なる種類の諸性質のあいだには何か共通なものが存在し、それらの性質はすべて延長をさまざまな度合いで分有していると、そしてまた、これらの二つの心理を見誤るなら、必ずや、物質の形而上学、知覚の心理学、より一般的には意識と物質の関係についての問いを無数の困難で難渋させることになると主張する』(p.303 1行目-5行目)

と述べている。

この後は次の段落からの展開を述べてこの段落を終えている。まとめれば、ここでは、『さしあたり、物質についての多様な理論の根底に、われわれが異議を唱える二つの公準があることを指摘するにとどめ』、なぜこのような公準が出てきたかについてその拠りどころとなった『錯覚へと遡ることにしよう』と言う。(p.303 5行目-7行目)

以上で第二段落の解説を終える。


第三段落(p.303 8行目-17行目)を見てみよう。

ここからは、イギリス観念論が論じられることになる。この段落には具体的には書いてないが、内容からしてもこの後に名前の出てくるおそらくジョージ・バークリーが唱えた観念論で、その主とするところは『物質の客観性を否定し、「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)という基本原則の観念論を提唱した。』(Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョージ・バークリーより引用)とされるものの批判であろうと思われる。

ここも短い段落であるのでほぼすべてを引用しながら解説することになる。

それはまずこのように始まる。

『イギリス観念論の本質は、延長を触覚的知覚のひとつの特性とみなすことにある。イギリス観念論は、感性的性質のうち感覚だけしか見ず、感覚そのもののうちに魂の状態しか見ないので、多様な性質のうちに、こっらの現象の併行関係を確立しうるものを何も見出さない』(p.303 8行目-11行目)

ごく分かりやすく言ってしまえば、感覚に量的なあるいは数学で言うスカラーというものは認めず、そのまま質あるいは質感ということになるので、『延長』すなわち物の大きさなども質感ということになるということであろう。これはベルクソンの唱えるところ、つまり、感覚はすべて質であるということにも一致するように思える。

(2012/12/11 筆者注:上段落で量、質、質感についていた『』を外した。特に引用しているわけではないため。大変恥ずかしい間違いであり、お詫びいたします)

しかもベルクソンは、こう続けている。

『そのためイギリス観念論は、この併行関係をある習慣によって説明するのを余儀なくされるのだが、この習慣ゆえに、例えば視覚における現在の知覚は、触覚についての可能的な感覚をわれわれに示唆することになる』(p.303 11行目-13行目)

この上記引用にある、『ある習慣』というのは、ベルクソンが唱えるところの『感覚-運動』なるわれわれの生における『純粋想起』によく似ているようにも思われる。しかしながら、ここではp.302 17行目-303 1行目に記述されていた二重の公準、すなわち、
『第一に、多様な種類の性質のあいだには、共通なものは何もない』、『第二に、延長と純粋なもののあいだには、共通なものは何もない』ということの問題点として論じていのであった。ベルクソンはその間に共通のものを見出そうとしていた(p.303 1行目-5行)。そこでは、結論として、『異なる種類の諸性質のあいだには何か共通なものが存在し、それらの性質はすべて延長をさまざまな度合いで分有している』と述べられている。この考えは後でも説明されているのだが、もともとは、『等質的空間』の中で『運動』が生じるのではなく『運動』を絶対視することで『等質的空間』が生じ、物体が任意に分割可能になるというところから生じていると言う結論に達する。この辺りは非常に難解なのでまた後で述べられているという部分に達したときに詳細に考察、解説を試みたい。

(2012/12/11 上はもとは2段落だったが、意味的なまとまりも考えて少し長いが1段落にした方がわかりやすいと考えまとめた。外に特に改訂した部分はなく、読者の皆様にはご理解いただけますようお願いします)

では、引用を続けよう。ここからはイギリス観念論の問題点を決定づけているところである。ここで第三段落で終わり、いったんイギリス観念論についての議論が終わる。読みやすさを考慮して、引用文はふたつに分けた。内容としては、この観念論においても『二重の公準』すなわち、『第一に、多様な種類の性質のあいだには、共通なものは何もない』、『第二に、延長と純粋なもののあいだには、共通なものは何もない』が存在しているということを前提としている。イギリス観念論では物質はそもそも存在しないのであるから『延長』自体がそもそも理論的に存在しえないはずが、ここではそれは『触覚』の属性として存在すると説明されているようだ。一方、この理論においても、『多様な種類の性質のあいだには、共通なものは何もない』、わけであるのでそもそも『視覚』と『触覚』に共通な性質は何もない。従って、『視覚』には(理論的にあり得ない)『延長』や、もしくは『伸張性』などの属性はそもそもにおいてない。ないはずなのに何らかの『習慣』によって『触覚』としてそれは感じられるというのはおかしいのではないか、という批判ではないだろうか。この点においては第五段落において総括されているのでそちらも参考にしていただきたい

(2012/12/11 筆者注:上解説文において何が問題かを明確に書くことにした。以前、この辺りが共感覚によるもの、という批判があったためである。ベルクソンが言いたいのは共感覚のようなものではなく、そももそ他方(ここでは視覚)に延長や伸張を感じる仕組みがないのにどうして、それは触覚のようなそれらを感じる仕組みに翻訳できるのか、ということであるはずだが、その辺りが伝わっていないという気がするためである) 

『二つの相異なる感覚の印象が、二つの言語に属する語彙のように互いに類似していないのなら、一方の感官の所与を他方の感官の所与から演繹しようとしても無駄である。これらの印象は共通の要素を持っていない。』(p.303 13行目-15行目)

『したがって、つねに触覚のものである延長と、触覚とは別の感官の書との間に共通なものは何もなく、後者の所与はいかにしても延長を持つことができない』(p.303 15行目-17行目)

以上、第三段落を解説した。


第四段落(p.304 1行目-10行目)を見てみよう。

ここも短い段落で、『原子論的実在論』の批判がされる。これも同じく、ベルクソンのいう『質と量との隔たり』によるものという結論になる。

ここは、ベルクソンのいうところを簡単にまとめてみよう。まず、

『運動を空間のうちに、感覚を意識のうちに置く原子論的実在論』に関しては『延長の変化あるいは現象とそれに対応する感覚』を結びつけるものがないという批判が展開される。(p.304 1行目-3行目)

この場合、『感覚』というのはそれ自体が一種の形而上学的な作用によって感じられるか、もしくは言語としての表現を持つということになるだろう。(p.304 3行目-5行目)

 その場合、そうした感覚というのは『それらの感覚の原因になったイマージュを映し出していないだろう』。つまり、感覚器官から何らかの形で形而上学的に映し出された質感や、逆に記憶から得られた感覚から形而上学的な何らかの方法で『感覚』として延長を理解することになる。その起源を遡れば『感覚はすべて空間における運動という共通の起源』を持つことになるだろう。つまりは『運動』も『感覚』と同じように形而上学的なものであり、その形而上学的に発生する『原子』の『運動』こそ感覚の源ということになるだろう。(p.304 5行目-7行目)

(2012/12/11 筆者注、第二文の「逆に」以降の説明を補足した。説明が不足していたと思われたためである。読者の皆様には、不手際をお詫びいたします)

以上の視点から、次のような結論をベルクソンは導き出す。以下、引用しよう。

『しかし、まさに感覚は空間の外で進展しているのだから、感覚は感覚である限り、感覚の諸原因の関係をも絶っているのであり、そのようにお互いを分有もしていなければ、延長も分有していないのだ』(p.304 7行目-10行目)

つまりは、さまざまな『質感』がそれぞれに独立したものでなにも共通点がないならば、どうしてわれわれは『延長』をもつ『物』という実在を理解しうるのか、と言っているのであろう。

以上で、第四段落の解説を終わる。


続いて、第五段落(p.304 11行目-17行目)を見てみよう。

ここからは以上の『観念論』と『実在論』に関しての総合的な批判がなされていく。ごく短い段落なので、全文を引用しよう。解説は特に必要ないと思われる。なお、読みやすさを考えて、引用文は三つに分割してある。

『それゆえ、ここでは観念論と実在論は次の点においてしか異なっていない。前者は、延長を触覚の知覚まで後退させ、延長が触覚の知覚の占有的な特性になるのに対して、後者は延長をずっと遠くに、あらゆる知覚の外へ押しやっている。』(p.304 11行目-13行目)

『しかし、これら二つの学説は、純粋に延長を持つものからいかにしても延長を持たないものへの突然の移行を肯定するのと同様、多様な種類の感性的性質の不連続性を肯定することで一致している』(p.304 13行目-15行目)

『ところで、この学説のどちらもが、知覚の理論の中で突然突き当たる主要な困難は、この共通の公準から派生しているのである』(p.304 15行目-p.304 17行目)

以上が第五段落でベルクソンが述べるところである。


第六段落(p.305 1行目-p.307 11行目)を見てみよう。

この段落では、第三段落でも批判されたおもにバークリーの学説(イギリス観念論)が再び批判されている。

(2012/12/11 筆者注:上の文には第三段落でも触れられたことを補記した。不手際をお詫びいたします)

はじめからしばらくはごく簡単にまとめてみよう。まず、ここで批判されているバークリーの学説というのは、『延長』は触覚に固有のものであり、ほかの感覚はそれと『ある種の習慣』によって結び付けられて『延長』を理解する、とまとめてもいいだろう。

それに対し、ベルクソンは、『百歩譲って、聴覚、嗅覚、味覚の所与には延長を与えないでいることができるだろうが、それでもなお、触覚的空間に対応する視覚的空間の生成を説明しなければならないだろう』(p.305 2行目-4行目)と指摘する。

(2012/12/11 筆者注:以下、省略していたイギリス観念論の主張に当たる部分の引用文とその解説を挿入した。議論を詳しくするためである。ご面倒をおかけすることをお詫びいたします。)

『たしかに、その口実として、視覚は最後には触覚を象徴するものになるとか、空間の諸関係についての視覚的諸知識のなかには触覚的知識を示唆するものしか決して存在しないとか主張される』(p.395 4行目‐5行目)

と、このように、ベルクソンはバークリーの学説について述べる。

これに対して、ベルクソンが反例として挙げているのが『立体(relief)についての視覚的知覚、<独特で>しかも名状しがたい印象をわれわれに与えるこの知覚』(p.305 7行目、<>内はテキスト傍点つき)である。

『触覚』がこの『立体(relief)についての視覚的知覚』を表現するとするのは難しいだろう。『ある想起と現在の知覚との連合は、この知覚を既知の要素で豊かにしながら複雑化することはできるのだが、新しい種類の印象、新しい性質の知覚を<創造する(creer)>ことはできない』(p.305 8行目-10行目、<>内はテキスト傍点つきとイタリック)と述べている。

この後、視覚的知覚についてはすでに述べた(第一章第九節『イマージュ本来の伸張性』(p.75 12行目-p.76 7行目))が、重要なので繰り返す、と言っている部分を引用して見てみよう。以下、相当長いが、このことが段落の最後まで述べられている。所々に注釈を入れながら見ていこう。

(2012/12/11 「視覚的知覚についてはすでに述べた(第一章第四節『イマージュの選択』、(p.44 13行目-p.46 14行目)が相当すると思われる)」という部分、実際には第一章第九節『イマージュ本来の伸張性』の(p.75 12行目-p.76 7行目)が実際は相当すると思われるので訂正した。読者の皆様には、このような過ちを起こしたことを、こころよりお詫びいたします。なお、参考までに少し長くなるが該当部分、二段落を引用しておきたい。

『われわれは、論述を簡略化するために、われわれがかつて例として選んだ視覚的感官に戻ることにしよう。通常網膜の錐状体と桿状体によって受けられた諸印象に対応する要素的な諸感覚が与えられる。視覚的知覚が再構成されるのは、これらの感覚を用いてである。しかし何よりまず、一つの網膜があるのではなく、二つの網膜がある。それゆえ、相異なるものと想定された二つの感覚が、空間の一点とわれわれが呼ぶものに呼応する唯一の知覚のうちでいかにして融合するかを説明しなければならないだろう。』(p.75 12行目‐17行目)

『この問題が解決されたものと想定しよう。話題となっている諸感覚は非伸張的なものだ。その感覚がいかにして伸張を授かるのか。延長の中に、諸感覚を受ける準備のできた枠組みを見るにせよ、あるいはまた、一緒に融合することなく意識のなかで共存する諸感覚の単なる同時性(simultanéité)の結果を見るにせよ、どちらの場合でも、延長と共に、それについては説明されないような何か新しいものが導入されるだろう。そして、感覚が延長と再び一緒になる過程、それぞれの要素的感覚による空間の決まった点の選択は、説明されないままにとどまるだろう』(p.76 1行目‐7行目)

なお、この章では、特に後半の段落で論じられていることが詳細に論じられていると思われる)

『知覚についてのわれわれの諸理論は、ある装置が決まった瞬間にある知覚の錯覚を生じさせる場合、その装置だけでこの知覚そのものを生じさせるのに常に十分でありえたという考えによって、その全体が汚染されている-まるで記憶の役割は、原因が単純化されても結果の複雑性を存続させることでは必ずしもないかのように!』(p.305 16行目-p.306 3行目)

ここで出てくる『原因が単純化されても結果の複雑性を存続させること』とは、おそらく、このあとすぐ出てくる例えば、網膜に映ったものは平面の画像であるものを立体として理解する、などの例を意味しているのだろう。

『網膜そのものは平面であるし、またわれわれが視覚によって何か延長を持つものを知覚するならば、それはいずれにしても網膜のイマージュでしかありえないと言われるだろうか。しかし、われわれがこの本の冒頭で示したように、ある対象の視覚的知覚においては、脳、神経、網膜、そして<対象そのもの>がひとつの密接な全体、連続的過程を形成していて、網膜イマージュはそのひとつの挿話でしかないというのは真実ではないだろうか。では、いかなる権利でこの網膜イマージュを孤立させ、知覚全体をこのイマージュへと要約するのか。次に、同じくわれわれがすでに示したように(13)、面は、三つの次元が復元されているような空間の中でとは別の仕方でも面〔表面〕として知覚されうるのだろうか』(p.306 3行目-11行目、(13)は章末文献番号、ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』のこと)

『バークリーは少なくとも、彼の説を最後まで推し進めた。バークリーは視覚に対しては、延長についてのどんな知覚も認めてはいない。』(p.306 11行目-12行目)

要約すれば、視覚による知覚にはとは別に、網膜に当たる光線からくる圧力による触覚によって『延長』を認めているというのがバークリーの説ではないかと思われる。一方、ベルクソンは、生体内の視覚のシステムと対象をひとつとみなした記憶がその立体に対する質感と『延長』をわれわれにして理解させている(あるいは、意識している)言いたいのではないだろうか。たとえば、われわれの目の両方の網膜から得られる画像をそれぞれは微妙に違う。それを総合して、ものを見分けるというには網膜の働きだけではなく明らかに情報を統合し、記憶による照会・照合を経てわれわれはものを見ているということを意味しているのではないだろうか。

(2012/12/12 筆者注:例えば、以降われわれの二つの網膜の総合についての例を追記した。これまでの説明不足の点をお詫びいたします)

ところで、バークリーの説には問題があるという。それは簡単に言えば、どうして、網膜単体だけで同時併行に起こる視覚と触覚を結びつけることができるであろうかということのようである。以下引用を続けよう。

『というのは、想起の単なる連合によって線や面や体積についてのわれわれの視覚的知覚の独創性な点がいかにして創造されるかはわからないからで、因みに、これらの知覚のそのものはあまりにも明瞭なので、数学者もそれに甘んじ、通常もっぱら視覚による空間に基づいて推論しているのだ』(p.306 14行目-17行目)

このあと、バークリーが根拠とした心理学的議論(『視覚の後天的な理論』)について、

『現代心理学からの多くの攻撃に必ずしも耐えられるとは思えない(14)』(p.307 2行目-3行目、(14)は章末文献番号、複数の文献が挙げられている)

と述べた後、『心理学的な種類の困難は脇に置き、われわれにとって本質的な別の点に注意を促すに留めよう』(p.307 3行目-4行目)と、こう続けていく。

『視覚は空間の諸関係について独自なことをわれわれに何も教えてくれないと一瞬想定してみよう。その場合、視覚的形、視覚的立体、視覚的距離は触覚的知覚の象徴と化す。しかし、なぜこの象徴化はうまくいくのかということがわれわれに語れねばならないだろう。ここに、形を変えながら動いている諸対象がある。視覚はある一定の変移を確認し、ついで触覚がそれらの変移を実証する。それゆえ、視覚と触覚の二系列あるいはそれらの原因の中には、視覚と触覚を互いに対応させ、両者の二系列あるいはそれらの原因のなかには、視覚と触覚を互いに対応させ、両者の併行関係の恒常性を保障する何かが存在している。このような連結の原理はいったい何なのか』(p.307 4行目-11行目)

以上で、第六段落の解説を終わる。


第七段落(p.307 12行目-p.309 2行目)を見よう。

この段落でベルクソンはまずこう断じる。

『イギリス観念論にとって、<機械仕掛けの神>でしかありえず、我々は不可解な神秘<<ミステール>>へと戻される』(p.307 12行目-13行目、<>内はテキスト傍点付き)

『機械仕掛けの神』は『時の氏神』とも訳され、お芝居の終盤に現れ都合よくさまざまな問題を解決するような神様をいう。

また、『原子論的実在論』(ここでは『通俗的実在論』と言っている)についても次のように述べている。少し長くなるが、全文を引用しよう。

『通俗的な実在論にとって、諸感覚間の対応の原理が見いだされるのは、諸感覚とは区別された空間のなかである。しかし、この学説はこの困難を先送りし悪化させてさえいる。なぜならこの学説は、空間内の等質的諸運動の体系がいかにして、それらの運動とはなんの関係も持たない多様な感覚を持つかをわれわれに語らなければならないだろうからだ。』(p.307 13行目-17行目)

『つい先程のことだが、イマージュの単なる連合によって、空間についての視覚的知覚が生成する過程は、紛れもない<無からの(ex nihilo)>創造を含意しているようにわれわれには思われた。』(p.307 17行目-p.308 2行目)

『ここでは、すべての感覚は無から生じているか、あるいは少なくとも諸感覚を引き起こす機会となった運動と何ら関係を持たない。結局、この第二の理論はそう思われているほどには第一の理論とは異なってはいないのだ』(p.308 2行目-4行目)

補足説明が必要なのは上記引用の二番目(p.307 17行目-p.308 2行目)の部分だろうが、これは単に前に出たイギリス観念論の『機械仕掛けの神』による視覚と触覚の結び付けを指しているものと考えて良いと思う。

以下、『イギリス観念論』と『通俗的原子論』は『延長』を他の知覚から切り分けており、それを『触覚』に置くか『自存的存在に仕立て上げられ』た『触覚的知覚』の違いしかない(p.308 5行目-8行目をまとめた)。しかも、『通俗的原子論』では『もはや、触覚的知覚抽象的図式しか残されておらず、その図式を用いて外界を構成させることになる』(p.308 9行目-11行目)

結論として、

『こうなると、一方のこの抽象的概念と他方の諸感覚のあいだに、もはやか可能的な連絡が見つけられないとしても、驚くことがあるだろうか』(p.308 11行目-12行目)

となる。以下、この段落の結論である。引用しよう。

『しかし、本当のところは、空間はわれわれの外にあるのでも内にあるのでもないということであり、空間は諸感覚の特権的な一集合には属してないということである』(p.308 12行目-14行目)

『<すべての>感覚が延長を分有しており、すべての感覚が程度の差はあれ深い根を延長に張っている』(p.308 14行目-15行目、<>内はテキスト傍点つき)

『そして、通俗的な実在論の諸困難は、諸感覚相互の親戚関係が根こそぎにされて、無際限で空虚な空間の形で脇に置かれてしまったので、いかにしてこれらの感覚は延長を分有し、いかにしてそれらは互いに対応し合っているのかがもはやわれわれには分からなくなったことに由来している』(p.308 15行目-p.309 2行目)

以上、第七段落を解説した。


第八段落(p.309 3行目-11行目)を見てみよう。

ここは短い段落で、文のつながりを考えてごく簡単にまとめて次の第九段落を見てみたい。そのほうが理解しやすいと思われるからだ。

内容としては、以下の最初の一文に尽きると言える。すなわち、

『われわれの感覚はすべてある程度は伸張的であるとの考えは、現代の心理学にますます浸透している』(p.309 3行目-4行目)

という、当時の心理学的裏づけである。参考文献として(15)、(16)とあげられるのは、章末にあるように、それぞれ、ウォード「大英百科事典の項目、心理学(art.Psychology de l'Encyclop. Britannica)、W.ジェームズ『心理学原理』(Principles of Psychology,t.II,p134 et suiv.)である。

あるいは、こうも言っている。

『より注意深いある心理学は反対に、すべての感覚を元来伸張的なものとみなす必要性をわれわれに明かしているし、おそらくは今後次第にはっきりとそれを明かすことになるだろう。ただ、触覚的延長、さらにおそらくは視覚的延長の高度な強度と有用性を前にして、その他の感覚の延長は色あせ、消え去ってしまうのだ』(p.309 8行目-11行目)

以上、第八段落を簡単にまとめた。


次に第九段落(p.309 11行目-p.311 6行目)を見てみよう。

この段落でこの節『延長と伸張性』は終わる。読者にはもうほとんど『延長と伸長性』について、ベルクソンの言いたいことはお分かりであろうが、多少長い段落でもあるので、少し丁寧に解説をしてみたい。

(2012/12/13 ただし、この節では第一段落で二通りに解釈できる部分についての問題は解決していない)

まず、ここまでの議論を受けてこう始まる。

『このように解されれば、空間はまさに固定性と無限可分性の象徴である具体的な延長、すなわち感性的諸性質の多様性は空間の中にはない。われわれが多様性の中に空間を置くのである。空間とは、現実的運動がその上に措提されるところの土台ではない。反対に現実的運動のほうが自らの下に空間を置くのである』(p.309 12行目-p.309 15行目)

(2012/12/13 下解説文は、私個人にしかわからないと思われる表現になっていた。明らかに他人には通じない内容で、ほぼ間違いとも言って良い内容だったため、すべてを改めた。読者の皆様にはたびたびの失態をお見せすることになり、大変申し訳なく思います。)

ここでは、前段落最後を受けて初めに、『具体的な延長、すなわち感性的諸性質の多様性は空間の中にはない。』と述べている。われわれは、『延長』によって『空間はまさに固定性と無限可分性の象徴である』ように思いまた、そのような『空間の中に』延長があるように思い、『現実的運動』もその中で行われているように思い(『その上に措提されるところの土台』の部分)がちである。しかし、この第四章の第三節、第四節でも見てきたように、われわれにとってすべては一度きりの出来事であり、『反対に現実的運動のほうが自らの下に空間を置く』という考え方の方が実は正しい。

以下、しばらくは、われわれがなぜ、『無際限』で『等質的な空間』によって運動や物質を推し量ろうとするのか、そして、この錯覚こそが、精神と物質を分ける二元論の過ちの元になっているということが説明される。しばらく、引用しよう。

『しかし、われわれの想像力は、とりわけ表現の便利さや物質的生活の諸欲求に心を奪われているので、諸項の本来の順序を逆転させることを好む。』(p.309 15行目-17行目)

『その外見上の固定性がなによりもわれわれの低位の諸欲求の不変性を映し出している、すっかり構築された不動のイマージュの世界のなかに、われわれの想像力はみずからの支点を探し求めることになれているので、この想像力は、動性よりも前に静止を信じ、静止を目印にし、静止のうちに安住し、要するに、空間が運動に先立つのだから、運動のなかにももはや距離の変化だけを見る事を余儀なくされる』(p.309 17行目-p.310 4行目)

それゆえ、『距離の変化に運動を押しつける』ことで『数々の位置を固定する』ような『軌道』という分割可能でな『線分』を、『運動』と同一視し、さらには、『運動』が『軌道』という『線分』が感性的諸性質をすっかりうしなっていることと同様に、『運動』も『性質を欠いていることを望むだろう』。(p.310 4行目-8行目)

(2012/12/14 筆者注:上段落に「『数々の位置を固定する』ような」という句を挿入したほか、若干表現を変えた部分がある。読者の皆様には、たびたび、このような変更をすることを申し訳なく思います)

くどいようだが、ここまでをもう一度説明すると、これまでにも議論してきたように、生物においての『低位の諸欲求の不変性』が、すなわち、われわれをして、われわれに共通の、

 1.『すっかり構築された不動のイマージュの世界』を想定し、
 2.そこに『みずからの支点』というもの設定する

ということ想像させる。この想像力によって、すべてに先立つ『空間』を想定し、静止した『支点』という考え方に慣れたわれわれは、さらに、『運動』よりも『静止』を優先するものとし、『運動』も『静止』という点に置き換え、点をつなぎ合わせた『軌道』という線に『運動』を置き直し、この『感性的諸性質』を持たない『軌道』を『運動』と同一視する、という転倒が起こる。

これは本末が転倒している『表象』であるわけであるから、『われわれの悟性がこの考えのうちに矛盾しか見いだせないとしても、驚くことがあるだろうか』ということなる(p.310 8行目-10行目)

以下、同様のことが、『数々の運動と空間を同一視したのだから、これらの運動は空間と同様に等質的であると思われる』(p.310 10行目-11行目)ということから展開されるのだが、その部分を簡単に説明すれば、運動には距離と速度の差違しか見ないので性質は消滅され、

『そうなるともはや、運動を空間のなかに、諸性質を意識のなかに押し込め、仮定からして決して結びつき得ない併行する二つの系列のあいだに不可解な対応を打ち立てるだけである』(p.310 13行目-15行目)

このあとに起こることを、ベルクソンの詩的な表現をそのまま引用して説明することにしよう。

『意識のなかに投げ返された感覚的諸性質は延長を取り戻すのに無力なものと化す。空間、それも、唯一の瞬間しか存在せず、すべてが絶えず再開される抽象的な空間のなかに追いやられた運動は運動の本質そのものである現在と過去との連帯を放棄する』(p.310 15行目-p.311 1行目)

『そして、知覚の二つの要素である性質と運動は、等しく不分明さに包まれているので、自己閉鎖的で空間とは無関係な意識が空間のなかで起こることを翻訳するような知覚の現象は不可解な神秘となっている』(p.311 1行目-3行目)

以上が、以前にも説明された『運動』を『直接的な認識から覆い隠す象徴的形式化(figuration symbonique)』(p.268 2行目-3行目)の説明になるだろう。

(2012/12/14 上段落では「『二元論』の本質」という言い方は、大げさ誤っているので改めた。理解力の不足によるものであり、読者の皆様にはこころよりお詫びいたしたいと思います)

しかし、『持続』を想定し、『空間』よりもむしろ『時間』において、『運動』や『物質』をありのまま見る、という方法を用いることで、論理的にも心理学的にもそのような転倒は起こらなくなるのがこれまでのベルクソンの主張であったはずだ。では、一応、この段落の最後、そしてこの節の最後の部分を引用してすることで、ここまでの解説の結びとしよう。

『 —反対に、解釈あるいは測定に係わる一切の先入観を斥け、直接的な実在と対面(face à face)してみよう。われわれは、知覚と知覚される事物のあいだ、性質と運動のあいだに、乗り越えがたい隔たり、本質的な差違、真の区別さえもはや見出すことはできない』 (p.311 3行目-6行目)

以上、第九段落を解説した。

また、以上をもって第五節『延長と伸張性』の解説とする。

(2012/12/19 筆者注:以下の注記を挿入した。)

なお、この説最後まで、この文初めの自由についての記述や、第一段落での二通りに解釈できる部分の謎について、触れられていません。これらのことについては、第六節の終わりの方でまとめて触れることになります。これは、第五節、第六節でこの本のすべての内容をまとめるに及んで二つの節に分けられており、この書でよくあることですが、ベルクソンはその内容を節ごとに明確に区切っていないということのためであります。読者の皆様にはご不便不自由を強いることになり、大変申し訳ありませんが、もうしばらく御寛宥を頂きたくお願い致します。







2012年12月9日日曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」  第四節 「持続と緊張」



ここでは、第四節 『持続と緊張』(p.287 8行目-p.298 15行目)を解説します。ここでは、『物質』の『直接的な認識』をするための4つの定式化のうち、最後のひとつが書かれていいます。しかし、それは、前書きに相当する第一段落において説明されており、この節自体の内容は『直接的な認識』について、総合的な説明と同時に、節のタイトルにあるようにベルクソンの重要な概念である『持続』と『緊張』について書かれています。

(2012/11/30、12/08 筆者注:上記説明文の内容が不明瞭だったことに加え、内容も正しくなかったため、一部修正しました。読者の皆様には心よりお詫びいたします。また、この節においても、たくさんの誤りがあり修正をいたしました。そのことも初めにお詫びいたしたいと思います。また、この第四章の全体に言えることですが、引用文を多くして、よりわかりやすくテキストに沿うように解説を改めた部分が多くあります。これは、テキスト監訳者であられる合田正人先生のご好意により、この『ベルクソン 「物質と時間」メモ』において、テキストの引用をすることの許可をいただいたおかげです。合田先生には、ここで改めて深く感謝いたします)


まず、第一段落(p.287 10行目-p.289 7行目)を見てみよう。ここではこの説の前書きとして『物質』の『直接的な認識』の定式化のための第四番目の方法が書かれている。これまでと違い、段落の最後(※)にそのことが述べられているのは、ある種のレトリックもあるだろうが、すぐに述べたのではこれまでの三つの方法と違い、かなり違和感をもたれるというという配慮からだろう。

その他、これまでも、ベルクソンは前節の主題を説明しながら内容をその節ではまとめず、次の節において補足しながら次の主題へ徐々に内容を移行するという手法も多く取っている。ここでもその手法がレトリックとして取られていると考えることも可能だろう。

(2012/11/30 筆者注:さらに上の段落を挿入し説明を補足した)

(※筆者註:第三節ではこの定式化の方法が説明の段落の前に入っているのでそれを含めた形で一つの段落としているが、この第四節では説明の後に定式化の方法が述べられている。これまでのように意味的なまとまりから考えて、最後の定式化の方法までを第一段落とした)

さて、この段落のこのあとの内容は、こうまとめられるだろう。前節第三節の最後で『すでに、心理学的分析は、この不連続性がわれわれの諸欲求と関係していることをわれわれに明らかにした。どんな自然哲学も最後には、不連続性が物質の一般的な諸特性と相容れないのを見出すようになる』(p.286 6行目-p.286 8行目)とあったことを受けて、科学においても電磁力や力線を束線というかたちで計算を『図形化<<シェマティゼ>>』(p.286 10行目、<<>>内は振り仮名、以下同様)して『形象<<フィギュール>>』(p.286 11行目)し、その運動自体を直感でとらえようとしているところから、最後にはベルクソンの主張と違和感がなくなるだろうということが書かれている。特に抜粋して引用すると、

『それらは、具体的な延長を通して歩むことで、<変異>、<攪乱>、<張力>あるいは<エネルギー>の変化をわれわれに示しているのであり、他の何物も示してはいない。これらの象徴は、われわれがまず運動について加えた純粋に心理学的な分析と合致しようとする(以下省略)』(p.287 15行目-p.288 2行目)

こうして、ベルクソンはその最後の定式化の方法を述べる。

Ⅳ-<現実的運動はひとつの事物の移送というよりも一つの状態の移送である> (p.288 8行目、<>内はテキスト傍点付き)

このことは、ベルクソンが第三節でも、われわれの考える物質が在るということは、物質は物理法則に支配されてその状態を常に更新している、と述べていることからもわかるだろう。ここでは、その考え方の厳密さがやや緩んで、ある物質の運動は、ひとつの独立した状態であると考えているように思われるが、これは、これまでも、例えば同じく第三節で見てきたように、あくまでわれわれの常識に合わせたものであることは言うまでもないだろう。本来的な厳密さで考えれば、その一つの状態ということはあくまで相対的であり、その物質の状態も物理法則によって変化し続けているわけであろう。つまり、この記述は、われわれの常識を主体に本来の物理学的な法則に支配されたこの物質宇宙の遷移を取り込んだものとも考えられる。

(2012/12/01 筆者注:上段落に最後の一文を付加したとともに、いくらか表現を変えた部分もある。読者の皆様には未熟をお詫びいたします)


では、第二段落(p.288 8行目-p.291 16行目)を見てみよう。

まず、最初の部分を引用しよう。

『以上4つの命題を定式化することで、われわれは実を言うと、性質もしくは感覚と運動という、互いに対立させられた二つの項の間の隔たりを徐々に埋めただけだった』(p.288 8行目-9行目)

とある。第四章が始まってこの記述に至る経緯をごく簡単に振り返るならば、『物質』に対する『直接的な認識』を行う四つの方法が示されることになった。なぜこのような方法が具体的に提示されるようになったか、というのは、以下に示した第二節の引用文にある通りである。引用文は、ややあいまいで少し長いが思い返すきっかけにはなるだろう。以下、読みやすさを考えて一続きの文章を三つに分割して引用している。

『なかでも、具体的で連続的で、多様化されると同時に組織化された延長<筆者註:延長とはデカルト哲学用語で物質の性質のうち測量できる属性のこと>については、その延長が、その基礎に横たわる無定型で不活性な空間と連帯しているという点に異議を唱える』(p.267 7行目-9行目)

『この空間とは、われわれが無際限分割する空間で、その空間において、われわれは恣意的に数々の図形を切り抜くのだが、運動そのものは、われわれがほかの場所で言ったように、多数の瞬時的位置としてしかそこでは現れえない。というのも、そこで過去と現在の結合を保障しうるものは何もないからだ。』(p.267 9行目~14行目)

『したがって、延長から抜け出ることなしにある程度は空間から開放されうるだろうし、そこには直接的なものへの回帰があるだろう。というのもわれわれは空間を図式<シェーム>のごときものとして思い描くだけなのに対して、延長についてはそれを本当に知覚しているのだから』(p.267 14行目-16行目、<>内テキストフリガナ)

となる。

さて、読者にはここで十分と思われるかたもいらっしゃるかもしれないが、もう少しだけさかのぼってみたい。第一節を見てみよう。こうして『感覚と運動の隔たり』を『埋め』る行為の下心に『直感にその最初の純粋さを取り戻させる』(p.264 2行目-3行目)ということがあったのだが、それは『<事実>』(p.261 13行目、<>内はテキスト傍点つき)に対する『経験論』と『独断論』(これらはたとえばp.262 5行目参照)の問題点を次のように解決することにあっただろう。以下、一続きの文章であるが、読みやすさを考えて4つに分けて引用している。

『それは、経験の源泉へと経験を探しに行くこと、というよりもむしろ、経験がわれわれの実利の方向に屈折しながら、まさに人間的経験の曲がり角の向こうへ経験を探しに行くことであろう』(p.263 11行目-13行目)

『カントが論証したような思弁性理性の無力は、おそらく結局は、身体的生のある必要性に屈服した知性、われわれの欲求の充足のために解体せねばならなかった物質に対して行使される知性の無力でしかない。』(p.263 13行目-16行目)

『諸事物に対するわれわれの認識はそのとき、もはやわれわれの精神の根本的な構造に対して相対的なのではなく、単にわれわれの精神の表面的で後天的な諸習慣、われわれの精神がその身体機能と下位欲求から受け継いでいる偶然的な形態に対してだけ相対的なのだろう。』(p.263 16行目-p.264 2行目)

『認識の相対性はそれゆえ決定的なものではないだろう。これらの欲求が作ったものを壊すことで、われわれは、直感にその最初の純粋さを取り戻させるだろう。そして、われわれは現実<<レエル>>との接触を回復するだろう』(p.264 2行目-4行目、<<>>内はテキストフリガナ)

(2012/12/01 筆者注:この四つにわけたの引用文のうち、あとの三つを説明を詳しくするために追記した。このような変更をお許しいただければ幸いです)

つまり、これが前節第三節のテーマでもあったことがここまで振り返ってようやくわかってくる。

他にも、上の引用のすぐあとに続く、第三節『従うべき方法』第一段落の最初の部分には、例えば次のようなことが書かれていた。

『われわれが経験の<曲がり角>と呼ぶものに身を置いたとき、<直接的なもの>から<有用なもの>へのわれわれの移行を照らしながら、われわれの人間的経験の黎明に位置する生まれつつある微光が利用された時、この時にも、そのようにわれわれが現実<<レエル>>の曲線に見出す無限小の諸要素を用いて、それらの後ろ、暗闇の中に広がる曲線そのものの形を再構成する課題が残される。』(p.264 9行目-14行目、筆者注:<>内はテキスト傍点付き、<<>>内はテキスト フリガナ)

(2012/12/01 筆者注:同じく説明を詳しくするために上の引用文を追加しそれに伴い接続のための説明文も挿入した。ご理解いただければ幸いです)

だいぶ長くなったが、もう少しだけ遡ってみたい。そうするとき、この『物質と記憶』の本質的テーマに行き着くことになる。すなわち、『魂と身体との結合の問題』(p.257 16行目)であり、この二元論について、ベルクソン自身が次のように述べていたことを思い出していただきたい。

『しかし、まさにわれわれは二元論を極端にまで押し進めたがゆえに、われわれの分析は二元論の矛盾した諸要素をおそらく分離したのである。一方で純粋知覚の理論、他方で純粋記憶の理論はそのとき、非延長と延長、質と量の歩み寄りのための数々の道が準備されるであろう』(p.259 13行目-16行目)

このあと、『純粋知覚』と『純粋記憶』が検討される。その部分のまとめとしては、

(2012/12/08 筆者注:上の文章が、わかりにくい文章になってしまっていたので改正した。読者の皆様にはたびたびのご迷惑をお詫びいたします)

『ところで、一切の具体的な知覚は、どれほど短時間のものと想定されようと、すでにして、相次ぐ無数の「純粋知覚」の記憶による総合であるとすれば、感覚的諸性質の異質性は、われわれの記憶におけるそれらの収縮に由来し、客観的な変化の相対的な等質性は、それら本来の弛緩に由来すると考えてはならないだろうか』(p.261 3行目-7行目)

『その場合、量と質との隔たりは、<緊張(tension)>なるものの考察によって小さくされうるのではないだろうか。延長と非延長の隔たりが、伸張性[外的緊張](extention)なるものの考察によって小さくされたように』。(p.261 7行-9行目、<>内はテキスト傍点付きとイタリック)

ということであった。

この部分は難解であるので、第一節の解説を引用すると、一つ目の引用の部分(p.261 3行目-7行目)はこう解説した。

「一方で、『一切の具体的な知覚は、どれほど短時間のものと想定されようと、すでにして、相継ぐ無数の「純粋知覚」の記憶による総合であるとすれば』、すなわち、それらは、さまざまな性質の『知覚』が記憶を照会・照合するる手がかりとなり、最終的には比較的ごく少数の記憶にある『物質』として特定される、という考えが正しいとすれば、第三章で見てきたように、『感覚的諸性質の異質性は、われわれの記憶におけるそれらの収縮に由来』すると考えられるだろうし、『客観的な諸変化の相対的な等質性は、それら本来の弛緩に由来する』と考えてはいけないだろうか、とベルクソンは言う。(p.261 3行目-7行目を要約、解説)これらのことは、記憶の『収縮』が明らかに端数を切り捨てることに相当するだろうし、『弛緩』とは記憶の細部までを詳細に検討し、違いを重視するということに相当するだろう。小さな違いを切り捨てることで、その相違、例えて言えば境界線はより太く強いものになっていくだろうし、小さな違いまで区別するようになれば、一つ一つの事物や事象はそれぞれにおいてすべて独立となり相対的に等しいものとなるだろう。いわば、前者は国籍という観点で、日本人と中国人というような区別の仕方で考えるのに対し、後者は、一人一人はそれぞれに独立した人間である、と言っているようなものであろう。」

また、二つ目の引用文に出てくる『緊張(tension)』や『伸張性[外的緊張](extention)』のうち『伸張性[外的緊張](extention)』は、この前の第一節第六段落(p.259 17行目-p.260 8行目)を振り返らなければいけない。その解説の要点を抜き出せばこうなる。

「このように、『脳の状態を知覚の条件ではなく行動の始まり』と考えることで、結果的に『<知覚された>諸事物はわれわれの知覚の性質を共有する』(p.260 3行目-4行目、<>内は筆者註)とみなすことができる。こうして『物質的延長』は『知覚』されることによってすなわち『われわれの表象の不可分な伸張性』(p.260 5行目-6行目)という性質を持つということになるだろう。

『ということはつまり、純粋知覚についてのわれわれの分析がわれわれに、<伸張性>(extension)の観念のなかで、延長と非延長とのあいだの可能的な歩み寄りを垣間見させたのである』(p.260 6行目-8行目、<>内はテキスト傍点つき)

これは、すなわち、『非延長』である感覚(ここでは、知覚を受け取った精神の一状態と考える)は、物質の属性としての『延長』ではなく概念的な『伸張性』によって『延長』を理解するような『可能的な歩み寄りを』ベルクソンの説では説明できる、と述べているのであろう。」

(2012/12/01、2012/12/08 筆者注:上引用文の最終段落を削除。また、引用文中の筆者注も見やすさや煩雑さを考えて削除した)

(2012/12/01 筆者注:以下の3段落では、わかりにくい表現や言葉足らずの結果、説明があやふやな面などがあったので、修正した。読者の皆様には返す返すのご迷惑をお詫びいたします)

こうして、そもそもにおいて、『緊張(tension)』は、『伸張性[外的緊張](extention)』が『延長と非延長の隔たり』を埋めるように、『質と量』の隔たりを埋めるものであるという主張であったここで改めて強調したい。というのも、この節のタイトルが『持続と緊張』となっていることからもわかるように、『緊張』はこの節における重要なキーワードであるからである。このことが、第四章を振り返ることにここまでスペース裂いた大きな理由のひとつでもあることを、読者諸氏におかれては、十分ご納得いただけるだろう。

(2012/12/05 筆者注:補足のために、以下の3段落を挿入した)

なお、上記引用文のあと、

『この道に入り込む前に、われわれが適用しようとしている方法の一般的原理を定式化しておこう。』(p.261 10行目-11行目)

とあり、この第四節第一段落までがそれに相当し、その部分が終了したために、ここから改めて『緊張(tension)』について考察されていると考えるべきなのだろう。

さて、ここまで説明すれば、第一節で言われていた『質と量』の隔たりを埋める『緊張』が、『感覚』と『運動』の隔たりを同じく埋めるその『緊張』であるということはお分かり頂けるだろう。

この『緊張』とは、『持続』のなかで『連続』である『運動』を言わばアナログ信号からデジタル信号への変換で行われているサンプリングのようにして『感覚』に翻訳するということをベルクソンは以下述べている。また、このことが、一度しかない『持続』の中で『質』と『量』を結びつける橋渡しをしている。「アナログ信号からデジタル信号への変換で行われているサンプリングのように」というのは、決して比喩的なものの言い方でもなく、実際にそのようなものだと述べている。それでは、少しずつ見ていくことにしよう。(以下、アナログ信号からデジタル信号への変換のことをA-D変換と呼ぶ)

(2012/12/05 上段落の記述においては特にA-D変換とその際に行われるサンプリングということの区別が曖昧であったので、その点を修正した。度々の未熟によるご迷惑をお詫びいたします)

まず、『感覚』と『運動』について全く異なるものとして対比させている部分がある。

『諸性質は互いに異質的で、諸運動は等質的である』(p.288 10行目-11行目)

『諸感覚は本質的に不可分で測定から逃れられるが、諸運動はつねに分割不可能で、方向と速度の計算可能な差異によって区別される』(p.288 11行目-12行目)

『運動はわれわれと無関係に空間のなかで実行されるのに対して、諸性質は感覚の形でそれらを意識のなかにおくことが好まれる』(p.288 12行目-14行目)

『これらの運動は、互いに合成しあっても、運動しか与えられないであろう』(p.288 14行目-15行目)

さて、『感覚』と『運動』このように異質であるにも関わらず、『運動』を様々な『感覚』へと翻訳し、今度は『運動』を『感覚』で覆うことで把握しようとするであろう。しかしながら、その実際の仕組みを考えていくと、ここまで述べてきた『直接的な認識』の『四つの方法の定式化』はこの段落の最初に述べられていたように、『感覚と運動』の『隔たりを徐々に狭めただけであった』。途中、この章を振り返った部分が長くなったので改めてその部分を引用すれば次のようになる。

『以上4つの命題を定式化することで、われわれは実を言うと、性質もしくは感覚と運動という、互いに対立させられた二つの項の間の隔たりを徐々に埋めただけだった』(p.288 8行目-9行目)

さて、この隔たりを埋めようとする場合に、本質的に問題となっているのは次のようなことだとベルクソンは言う。

『問題は、現実的な諸運動が互いのあいだで量の差異しか示さないのかどうか、あるいはまた、それらの運動がいわば内的に振動する性質そのもの ―それらはみずからの現実存在をしばしば数えきれないほど多くの瞬間に区切っている― ではないかということを知ることである』(p.289 5行目-8行目)

(2012/12/01 筆者注:下段落は元は一つであったが、補足のための記述をいれ、わかりやすさを考えて3つの部分にわけた。それ応じて若干表現を変更した。たびたびの変更、お詫びいたします)

この記述はすこし奇異に見えるかもしれない。以下、ベルクソンは、このことについての説明を続けるのであるが、非常に難解であり、その意図するところ、特に『それらの運動がいわば内的に振動する性質そのもの ―それらはみずからの現実存在をしばしば数えきれないほど多くの瞬間に区切っている― ではないか』などという部分など、を理解するにはしばらく、ベルクソンの記述を追い続けることしかないように思われる。読者諸氏もおそらく、途中、その真に意味するところをご理解いただけないのではないかと思うが、しばし、ご忍耐をいただきお付き合い願いたい次第である。

まず、上の引用文をベルクソン説明して言うところ、力学はもともとは質点という『抽象物あるいは象徴』を想定し運動を研究するものであり、それは、『あらゆる現実運動の相互比較を可能にする共通の尺度、公分母にしか過ぎない』(p.289 8行目-9行目を要約)と指摘をする。

このあと、

『しかし、これらの運動はそれ自体で考察されれば不可分なものであって、それら不可分なものは、持続を占め、前後を想定し、時間の継起的諸瞬間を可変的な性質の糸によって繋ぐのだが、こうした糸はわれわれ自身の意識の連続性と何らかの類似を持たないわけにはいかない。』(p.289 10行目-12行目)

『われわれは例えばこう考えることはできないだろうか。見られた二つの色の還元不能性は何よりも、それらの色がわれわれの諸瞬間の一つに実行する何兆もの振動がそこで凝縮するような緊密持続に由来している、と』(p.289 13行目-15行目)

ここまで引用したが、これではなんのことか分からない。もう少し理解できるまで文章を追って行きたいが、その前に、ここまで、『われわれ自身の意識の連続性と何らかの類似性を持』つところの『時間の継起的諸瞬間を可変的な性質の糸によって繋ぐ』その『糸』が、何かという話に発して、『見られた二つの色の還元不能性』が『緊密持続に由来している』という展開になった、と内容をまとめて、さらに引用を続けたい。

(2012/12/01 上段落は内容が間違っていたわけという訳ではないけれども、さらによりテキストの内容に沿うよう記述に若干の変更を加えた。読者の皆様にはこのような未熟をお詫びいたします)

『われわれがこの振動の持続を引き延ばす、すなわち、より緩慢なリズムでこの持続を生きることができるとすれば、このリズムが遅くになるにつれて、これらの色が褪せ、継起的な諸印象へと圧延されていくのを見ないだろうか。そして、これらの印象は、おそらく依然として彩色されてはいるが純粋震動と渾然一体化する寸前の状態へと益々近づいていくのだ。』(p.289 15行目-p.290 2行目)

(2012/12/09 一段落削除。不要なばかりか、内容も正しくなかった。読者各位には本当に申し訳なく思います)

『運動のリズムが、われわれの意識の諸習慣と一致するほど緩慢なものである場合、 —例えば音階の低音に対して生じるように—、 われわれは、近くされた性質が、互いに内的連続性によって結ばれた、反復される継起的な諸振動へ自ずと分解されるのを感じないだろうか』(p.290 2行目-5行目)

まず、先の『二つの色の還元不能性』が『緊密持続に由来している』の例で考えよう。青と赤を分けるものはその電磁波の周波数である。その周波数がわれわれの生きるリズムよりも、あまりにも緊密である(周波数が高い)ので、われわれはそれらを総じて、「青」とか「赤」とかいっているのだろう。後の例で出てきた、低音の弦の振動ならば、『運動』と低周波の音を緊密に結びつけられるだろう。

(2012/12/04 以下、『純粋震動』に関しての考察の部分を一段落付加した。このようなキーワードの一つとも言える概念に言及していなかったことを心よりお詫びします。また、以下、生体のサンプリング周波数と呼ぶを『純粋震動』と並べて表記したり、専ら『純粋震動』とのみ述べたりもしております。またその下の段落においても説明不足の点を補足しております)

ここで『純粋震動』という言葉について考察してみたい。ここまで、『振動』を物理学的な波の性質を言い表すものとして使われてきている一方で『震動』という言葉は、たとえばp.144 6行目などでは、生体内の信号の伝達というような意味で用いられてきた。しかし、この『純粋震動』の場合、われわれのような生物が外部の信号を内部で処理するある一定のリズムのことであろう。たとえば、人間の目は1秒間に30コマ以上に分解された写真や絵を一度に見る時にそこに描かれたものが動いているとみなす。逆にいえば、このような、基本的な周期以下であればそれぞれ止まっているともみなすということであろう。

さて、以前に述べたように、現代物理学において物質の元として説明されるのは量子である。量子は粒子の性質と波動の性質を持つ。波動関数は量子が波であることからそのふるまいを説明するが、波の重なった部分が粒子として実在することも説明している。この場合、青や赤という光を電磁波という振動もしくは波として見た場合、その周期がわれわれの生きるリズムに対し、あまりに短い(周波数としてみれば非常に高い)が故にわれわれはそれを一つの『質』として扱うとベルクソンは説明しているわけであるが、その『質』は元々は『量』(量子のもつ周波数)であろう。要するに、ベルクソンは、われわれの生体の持つリズムすなわち『純粋震動』を、A-D変換で言えばサンプリング周波数に対応させ、そのサンプリングで得られるデータとしては電磁波の周波数もしくはそれと強い相関のあるエネルギーを想定しているわけである(電磁波の場合E=hν、Eはエネルギー、hはプランク定数、νは周波数)。

(2012/12/03  筆者注:以下の記述について、『運動』を『感覚』に変換する生体の働きのことをA-D変換と同じ働きだとして説明しているのだが、その時に、生体のサンプリング周波数に相当する『純粋震動』より著しく早い周期を持つような物理的性質を持つものの『量』から『質』への変換を、A-D変換でいうところの「量子化」に、それよりも遅いような、いわゆる物体の『運動』を『時間の継起的諸瞬間』としてそれぞれ捉える働き(それは端的に『運動』から『感覚』への変換ということもできるかもしれない)をA-D変換でいう「サンプリング」と、明確にふた通りの場合に分けて説明をすることにしたため、その分、大幅な加筆修正をすることになった。それに伴い、以下のこの第二段落においての記述は、改変した部分は注をにおいては加筆修正部分を指摘するのみとしたいと思います。それは、ひとえに加筆修正部分の多さによる煩雑さやそのためにただ繰り返されるだけのお詫びの言葉によってかえって慇懃無礼とならないようにと考えたためであり、読者の皆様に対しての尊敬と敬意を欠いたためではないことを強調させていただきたいと思います。このように、テキストの理解や説明の未熟によりご迷惑をおかけしましたことを、ここで読者の皆様には、大変申し訳なく思い、こころよりお詫びいたします。)

A-D変換やサンプリングということに例えて述べたが、正確には、生体のリズムがサンプリングされる側より早くなければそのサンプリングはできないと指摘されるかもしれない。たしかに、先の電磁波の例ではそうなる。しかしそれは、A-D変換でいうところの「量子化」であり、これは、A-D変換ならばそのときサンプリングしたデータを数値で明確に示すことがデジタル化と言われる所以であるが、われわれの場合はそれを、たとえば、「青」とか「赤」とかという『質』をあらわす言葉すなわち観念として表現するのである。

(2012/12/04 筆者注:上段落に後半の「しかしそれは」以降を加筆)

また、ここでより多く議論に割かれているのは、『これらの運動はそれ自体で考察されれば不可分なものであって、それら不可分なものは、持続を占め、前後を想定し、時間の継起的諸瞬間を可変的な性質の糸によって繋』げられたものだと言えるだろう。そこがあるいはベルクソンの論理の要となっている部分であると指摘できるかもしれない。つまり、感覚器官の働きはわれわれが一連の『運動』を把握するそのリズムよりも随分早く一瞬(であると言って良いだろうが)で「量子化」し、一般的には言葉あるいは観念やに置き換える訳である。ここで、生体のサンプリング周波数『純粋震動』により『運動』を『時間の継起的諸瞬間』としてそれぞれ捉える働きのことを、すでに、何度も用いている概念であるが、あらためて「量子化」のはたらきと区別するため、A-D変換でいうところの「サンプリング」という言葉を使って説明していきたい思う。

(2012/12/04 筆者注:上段落に後半の「しかしそれは」以降を加筆)

(2012/12/04~12/06  筆者注:以下のテキストの引用文を用いての考察をの8段落を加筆)

以上の私の見解を検証するためにも、テキストを少しずつ引用して見てみたいと思う。

『通常、震動同士の結びつきを妨げているのは、運動を諸要素 —原子であれほかのものであれ— に繋ぎ止める獲得習慣であって、これらの要素がその安定性を、運動そのものと運動がそこで凝縮される性質のあいだに介在させることになる。』(p.290 5行目-8行目)

『われわれの日々の経験はわれわれに動く物体を示すので、諸性質がそこに帰着するところの基礎的な諸運動を主張するためには少なくても微粒子が必要であるようにわれわれには思えるのだ』(p.290 5行目-8行目)

『そのとき、運動はわれわれの想像力にとってはもはや偶発事、一連の位置、諸関係の変化でしかない。そして、運動において安定したものが不安定なものを更迭するというのがわれわれの表象の法則であるので、重要でかつ中心的な要素はわれわれにとって原子であることになり、原子の運動はもはや相継起する数々の位置を結びつけるだけであろう』(p.290 10行目-14行目)

以上の引用文は一続きであるのだが、読みやすさや説明の都合を考慮して3つに分けた。

まず、一番目の引用文から難解だ。『震動同士の結びつき』というのは、われわれの感覚器官が継時的に行われる各サンプリングごとに得られたデータのことだと仮定してみる。この『結びつきを妨げている』として挙げられているのが、『運動を諸要素(中略)に繋ぎ止める獲得習慣』と指摘されている。言い換えれば『運動』を『持続』として見る働きを妨げているのは、『運動』している物体の『諸要素』(ここでは原子などが挙げられてる)に分けて考える働きだ言ってるのであろうが、これは、わかりやすく『諸要素』を『質点』と考えれば、これまでにベルクソンが主張してきたことに一致する。以下、『これらの要素』が『質点』として考える『獲得習慣』について述べられた部分は、第三節において、『 Ⅲ-絶対的に決定された輪郭を持つ独立した諸物体へと物質を分割することはすべてまがいの人為的な分割である』で説明されたことと重なってくるだろう。 

二番目の引用文は、このように『諸要素』を『質点』と考えるような一種の『習慣』が逆にわれわれをして『運動』あるいはそれについて力学的に考える場合の法則に『質点』が必要だと思わしめている、と指摘してると考えられる。

三番目の引用文は、まず、『そのとき、運動はわれわれの想像力にとってはもはや偶発事、一連の位置、諸関係の変化でしかない。』とあるのは、以上のように『運動』が力学的な法則に支配されているという考え方が、すべての出来事は元々が帰納的な推論によって得られた法則にもとづく繰り返される出来事の一つであるとする、われわれが直感的に把握するすべての出来事は本来一度きりの出来事であるという物事の捉え方とは、本質的に異なる考え方の差を生むということであろう。以下、『諸要素』は物理的な『質点』である『原子』として扱われ、『運動』において最も重要なのはは『原子』の位置変化として考えられるようになるに相違ない、と述べているとまとめられるだろう。

(2012/12/06 以下のテキストの引用文を用いての考察を加えて上の8段落に続き6段落をさらに加筆)

『しかし、この考えは、物質が継起するすべての問題を原子に対して蒸し返すという難点を持っているだけではない。また、この考えは、何よりも生の諸欲求に応じているように見える物質の分割に絶対的な価値を与えるという誤りを犯しているだけではない。この考え方は更に、われわれが自身の知覚のうちに、われわれの意識<状態>とわれわれから独立した<実在>を同時に把握するところの過程を近い不能なものにしてしまう』(p.290 14行目-p.291 2行目、<>はテキスト傍点付き)

上の引用文は、あまり難しくないので、『われわれが自身の知覚のうちに、われわれの意識<状態>とわれわれから独立した<実在>を同時に把握するところの過程を近い不能なものにしてしまう』の部分がこの第二段落で説明してきた生体の知覚のA-D変換に相当する働きのことを言っているとだけ言い添えておこう。以下の引用文はそのことについてさらに言及している部分である。はじめにある『われわれの直接的知覚のこの混成的特徴、矛盾を具視したかのようなこの外観は、』という部分がやや難解だが、これは、上の引用文で『われわれが自身の知覚のうちに、われわれの意識状態とわれわれから独立した実在を同時に把握する』と記述されているように、われわれの『直接知覚』においては『われわれの意識状態』と『われわれから独立した実在』が混成され、あるときにそれは『矛盾』さえ含んでいるということであろう。

『われわれの直接的知覚のこの混成的特徴、矛盾を具視したかのようなこの外観は、われわれが自身の知覚と完全には一致せざる外界を信じることの重要な根拠である。』(p.291 2行目-4行目)

というように展開され、ここまでベルクソンの『純粋震動』や『運動』から『感覚』への翻訳の説明をA-D変換にたとえた説明は一応は矛盾がないように思える。ただし、ここには、われわれの『意識状態』、言い換えれば一種の主観のようなものも含まれていると、上の引用文は主張しているように思われる。

さて、以下、

『感覚は運動の意識的翻訳でしかないのにその感覚を運動と全く異質的なものとみなす学説では、この根拠が見誤られているので、この学説はそれが唯一所与とした諸感覚だけで満足しなければならないだろうし、諸感覚に運動を付加してはならないように思われる』(p. 291 4行目-7行目)

と続き、『このように解された実在論は自壊する』(p.291 8行目)と強い指摘をしている。

それでは、この後の部分を引用、解説してこの第二段落の解説を終わることにしたい。以下の引用は、『感覚』は意識されている以外も(無意識においても)把握されており、その単位がこれまで述べられてきた『直接的な直感』で把握される『運動』を一つの単位としているだろうということである。正確に言えば、『持続』の単位を『直接的な直感』の『運動』として考えようとするとそこに含まれる『感覚』というのは膨大であり、そして『生きて振動している』ということが述べられている。

(2012/12/06 上2段落は、はじめの部分を、加筆されたその前の部分との接続を考慮し、また、その部分を含めて「物質の存在をただ仮定するような」と説明していた部分をよりテキストに沿うように変更するため一段落として独立させ、結果二つに分割した。読者の皆様には度重なる未熟をお見せすることとなり申し訳なく思います)

『結局のところ、われわれに選択の余地はないのだ。感性的諸性質には多少なりとも等質的な基体があるというわれわれの信念に根拠があるなら、あたかも感覚が気づかれつつも認知もされていない細部に及んでいるかのように、<性質そのもののうちで>、この感覚を乗り越える何かをわれわれに把持させ見抜かせるのは、一つの<行為>によってでしかありえない。感覚の客観性、言い換えるなら、与えるより多くを感覚が有しているその余剰は、われわれが予感させていたように、感覚が言わばその繭の内部で実行している膨大な数の運動のうちにまさに依存するだろう。感覚は表面では不動のまま広がっているが、深部では生きて振動しているのである』(p.291 9行目-16行目、<>内はテキスト傍点付き)

以上、第二段落を解説した。


第三段落(p.291 17行目-p.292 16行目)を見よう。ここでは専ら機械論を引き合いに出してベルクソンの『質と量』の隔たりを埋める理論についての裏付け、強化行われている。なかなか興味深いので比較的短い段落ではあるが、少し念入りに解説したい。

まず、ベルクソンがこう指摘しているところをもう一度考察してみよう。

『実を言えば、誰も量と質の関係をこれと別の仕方で表象していない』(p.291 17行目)

先にも書いたが、ベルクソンは二元論の『質と量』の隔たりを埋める『緊張』について、『感覚』と『運動』の隔たりを狭めさらにそれを埋める『緊張』について、前の第二段落の説明で触れたことを改めて思い出していただきたい。

ベルクソンはこう続ける。

『見られている実在とは別の実在を信じることは何よりも、われわれの知覚の秩序がわれわれにではなくその存在の実在に依存しているのを認めることである。それゆえ、ある決まった瞬間を占めているわれわれの知覚の全体のなかには、次に続く瞬間に行われるであろうことの理由が存在していなければならない。そして機械論は、それが物質の諸状態は互いに演繹することができると主張するとき、この信念を明確に定式化しているにすぎない』(p.291 17行目-p.292 5行目)

(2012/12/06 筆者注:上の引用文の解釈を全面的に改めたため、下段落の解説文は以前と全く異なるものとなった。以下この第三段落の解説においては、そのようなことが多く見られる。それはまず、この部分の解釈に間違いがあったこと、ほかに、哲学的知識の欠如など様々な要因に基づいている。読者の皆様には、ご迷惑を心よりお詫びいたします。)

この部分を言い方を変えて説明すれば、特に『機械論』にとって『実在』はすなわち『物質の諸状態』であり、特に物理的因果関係を持って『演繹できるもの』として『見られている実在とは別の実在』として存在しているはずである。したがって、『われわれの知覚の秩序はその存在の実在に依存している』ことになるし、逆に言えば、『ある決まった瞬間を占めているわれわれの知覚の全体のなかには、次に続く瞬間に行われるであろうことの理由が存在していなければならない。』ということになるだろうか。これは、『機械論』のみならず、ベルクソンの主張もそうであるし、『見られている実在とは別の実在を信じること』全般に起こることだと主張されている。

このような演繹は『感性的諸性質の外見的な異質性のもとに、等質的で計算可能な諸要素が見つけられる場合にしか可能ではない』(p.292 5行目-8行目)ということをベルクソンも認めながら、次には、

『しかし他方で、これらの要素が、諸性質の規則的秩序を説明しなければならないのに、諸性質の外部にあるとするならば、これらの要素はそれに求められている務めをもはや果たすことはできない。というのは、諸性質はそのとき一種の奇跡によってしかそれらの要素に付け加えられないし、これらの要素に対応するのは予定調和によってでしかあり得ないからだ』(p.292 7行目-11行目)

(2012/12/06 筆者注:上引用文は主にライプニッツのモナドと予定調和についての批判だと思われる。この引用文に対する下の解説文は以前はクオリアや一般的な概念としての予定調和を念頭において説明していたため、説明文をすべて書き換えることにした。私の不明を心よりお詫びいたします)

と述べている。この部分は、『これらの要素が、諸性質の規則的秩序を説明しなければならないのに、諸性質の外部にあるとするならば』という点からライプニッツのモナドを念頭に置いていると思われる。このあと『予定調和』という言葉も出てくることからもそれと理解できる。ここでは、それらの内容に触れることはせず、モナドという考え方を否定し、それに伴いまた『予定調和』についても認めていないということだけ述べておきたい。

(2012/12/06 筆者注:下段落テキストの内容により沿って説明を進めるために後半部分は、ほぼ引用しながら解説にすることにした。ご迷惑を深くお詫びいたします)

このあと、ベルクソンはこの節の第二段落の最後の部分の主張を以下言葉を変えて繰り返す。つまりは、絶えず行われている感覚の『量』を『質』として受けとる『運動』は、生きた『内的震動』のかたちでわれわれの肉体の器官で行われていなければならず、『こららの震動は、それらが表面上そう思われているほど等質的ならざるもの』すなわち、『等質的で計算可能な諸要素』が『感覚器官』により『内的震動』すなわち神経の信号となったとき『表面上』は『内的震動』として似通ってはいるだろうけれども、『感性的諸性質の異質性』を含み、あるいは、『これらの性質は表面上そう思われているほど異質的ならざるもの』すなわち『感性的諸性質の異質性』はあくまで物理現象であるという意味で、それが『内的震動』になった場合においても『等質的で計算可能な諸要素が見つけられる』ということになるだろう。この場合、下引用文にあるような『必然性』にその『二つの項の様相的差異』を『振り当てなければならなくなる』とベルクソンは主張し、この段落を終えている(以上、p.292 11行目-14行目をまとめて解説した)

『あまりにも短くて、そのなかに瞬間をもはや区別できないような持続のなかに、いわば無際限なこの多様性が凝縮せねばならないという必然性に』(p.292 14行目-161行目)

以上で、第三段落の解説を終える


第四段落(p.292 17行目-p.293 7行目)を見よう。ここでは、『純粋震動』と以前言われたものと等しいと思われるわれわれの人間の生態的なリズム(A-D変換でいうところのサンプリング周波数)の周期が単独で五百分の一秒程度であるということ、そして、それに対したとえば赤い色の周波数は一秒間に四百兆振動するのでそれをひとつの質として受け止める。そのようなことから、『持続』がいわゆる『時間』とは違うということも説明している。

ここは、内容としては難しくない上に実証的である(つまり総合的に見て比較的退屈な内容)であるので、最初と最後だけ引用したい。

まず最初の部分を引用しよう。第三段落の最後を受けてこう始まる。

『この最後の点を強調しよう。われわれは、この点についてすでにほかのところで言及した。ごくわずかな言及ではあったが、とはいえ、われわれはこの点を本質的なものと考えている。』(p.292 17行目-p.293 2行目)

『われわれの意識によって生きられた持続は、決まったリズムを持った持続であり、物理学者が語る時間、ある決まった感覚の中に好きなだけ多くの現象を蓄えられる時間とは非常に異なっている』(p.293 2行目-4行目)

まず、ひとつ目の引用だが、『ほかのところで言及した』というのは具体的にどこを指しているのかが難しい。おそらくは、第三節、

『この道のりは私の意識に不可分な全体として与えられる。この道のりはおそらく持続する。が、その持続は、そもそもこの道のりが私の意識に対してとる内的様相と一致していて、この道のりと同じく稠密で分割されざるものだ』(p.272 1行目-3行目)

という部分の『稠密で分割されざるものだ』という記述の部分かとも思うが断定は難しい。ほかにも、この前の節(第四章第三節)の第四段落の解説で、『時間の瞬間(モマン)』と『持続の瞬間(アンスタン)』に触れた部分がそれに相当するかもしれない。ここではこれらを思い当たる一例として挙げるにとどめておきたい。

(2012/12/06 筆者注:上段落に、第四章第三段落で触れられていた可能性があることを付加した)

さて、二番目の引用では、われわれ人間の生体のリズムということに触れられている。はじめに書いたように、A-D変換のサンプリング周波数のようなもので、単発では分解能が最大五百分の一秒ということを、『エクスナー[Sigmund Exner, 1846-1926,ウィーンの生理学者心理学者。ブリュッケの後任』([]内は訳注。テキスト中にある訳注にあるの文献番号は[25](すなわち、Pflilger7s Archiv, VIII, 1874, P256))ということなどが述べらている。

簡単に言うなら、赤色光線の振動数が毎秒四百兆であること。これを、万が一、五百分の一秒の生体のリズム(ベルクソンの言葉で言えば、『われわれの持続』)で展開すれば、『われわれの歴史の二百五十世紀以上をも占める』(p.294 1行目-3行目)ということなどを述べた後、この段落は次のように結ばれている。

『ここでは、われわれ自身の持続と時間一般とを区別しなければならない。われわれの持続、われわれの意識が知覚する持続において、ある一定の間隔は限られた数の意識的現象しか含むことができない。この中身が増大する、とわれわれは考えるだろうか。そして、われわれ無際限に分割可能な時間について語るとき、われわれが考えているのはまさにこの持続なのだろうか』(p.294 2行目-7行目)

以上、第四段落を説明した。


第五段落(p.294 8行目-p.295 12行目)を見てみよう。この段落は第四段落の内容を受けての考察が引き続き行われている。まず、無際限に分割できる空間と持続を対比させて、持続は空間とは違い無際限に分割することができるわけではないという。そうして、それらは、これまで、われわれの生体のリズム、あるいは、感覚が運動をサンプリングするためのと考えてきた持続とはまた別のいわば、『自然のなかに感じ取っている』(p.295 10行目)ような持続が提議されている。

(2012/12/06、2012/12/09 筆者注:「第四段落の内容を受けての考察が引き続き行われている。」という部分を挿入した。また下の空間に関する説明において、空間が『定義からしてわれわれの外側にある』という部分を挿入し、文章のバランスを整えなおした。また、内容的に言っても、「外的な持続」というより『自然の中に感じ取っている連続』というような『持続』というべきだった。こうした説明不足や理解に誤りの点があったことをお詫びいたします)

まず、段落の前半部分(p.294 8行目-15行目)は空間が無際限に分割されることが説明されている。それはそれは『定義からしてわれわれの外側にある』(p.294 9行目- 10行目)というのがベルクソンの主張であるが、その他のこの部分の説明は省略し、最後の一文だけを引用することにしよう。

『そう、空間は結局のところ無際限な可分性の図式<シェーム>でしかないのだ』(p.294 15行目)

それに対し、

『われわれの持続の諸部分はわれわれの持続を分割する行為の連続した諸瞬間と一致している』(p.294 16行目-17行目)

つまり、『持続の諸部分』は『持続を分割する行為』によって分割された『連続した諸瞬間』のそれぞれの部分と一致する。それは、『定義からして空間はわれわれの外側にある』であるのとは違い、われわれの『持続』は『持続を分割する行為』そのものが分割されるはずの『持続』をたどることから生じるからである。このことを、先の引用に続けてこのようにベルクソンは表現している。

(2012/12/06 上段落で言葉足らずになっていた部分があったので修正した。たびたびのご迷惑をお詫びいたします)

『われわれが、われわれの持続のうちに諸瞬間を固定するのと同じだけ、持続は諸部分を持つ。そして、われわれの意識が、ある間隔のうちに、決まった数の要素的行為しか見分けることができないならば、われわれの意識がどこかで分割を止めるならば、同様に、可分性もそこで止まる』(p.294 17行目-p.295 3行目)

『われわれの想像力がそのまま進み続け、今度は究極的諸部分を分割し、われわれの内的諸現象のいわば循環を促進しようと努めても無駄である。われわれの持続の分割をもっと先まで推し進めようとする同じ努力が、その分だけこの持続を長くするだろう』(p.295 3行目-5行目)

これらの二つの引用の一つ目は、要するに第二章で少し説明したように注意によってわれわれの知覚と記憶の結びつきが何処までも細かくなりうることと同様のことがわれわれの『持続』に起きうること(これは『持続』自体がそのように扱われているから当然でもあるのだが)、二つ目は、そうして、何処までも細かくした『持続』というものは、その分割のための俯瞰が、結局は同じ『持続』を辿ることであるから『われわれの持続の分割をもっと先まで推し進めようとする同じ努力が、その分だけこの持続を長くするだろう』と言っているのではないだろうか

(2012/12/07 筆者注:上段落の内容は後半部分がややわかりにくかったため記述を変更した。未熟をお詫びいたします)

しかし、このような『内的諸現象』である諸『持続』とは違った、『遙かに急速な連続を自然の中に感じ取っている』、そのような『持続』がまた存在することを、この段落の最後にベルクソンは提議する。残りの部分を見てみよう。

(2012/12/07 筆者注:上段落に「『遙かに急速な連続を自然の中に感じ取っている』、そのような」という部分を挿入。たびたびのご迷惑をお詫びいたします)

『にもかかわらず、われわれは知っている。われわれがかろうじてその現象をいくつか数えている間にも、無数の現象が継起していると言うことを。そのことをわれわれに語ってくれるのは、物理学だけだけではない。諸間隔の肌理<キメ、フリガナ筆者>の粗い経験もすでにそのことを見抜かせている。われわれは、われわれの内的な諸状態の連続より遙かに急速な連続を自然の中に感じ取っている。どのようにその連続を考えるのか。また、その容量があらゆる想像を超えているこの持続とは何なのか』

(2012/12/07 筆者注:上の説明文の補足に伴い不要と思われた一段落を削除)

以上、第五段落を説明した。


では第六段落(p.295 13行目-p.296 16行目)を見てみよう。ここでは、前段落の最後の部分を受けて文中の言葉で言えば『真の持続』というものが説明される。それは第四段落までで説明したような生体のリズムとは違う形の持続であると言う。

段落のはじめではベルクソンはその『真の持続』とはわれわれの生体の『持続』とも、一般的に考えられているような等質的な『時間』とも違うと述べる。その部分はの内容は、これまでも見てきたことであるから省略して、より核心近いこの部分から引用し解説を始めたい。

(2012/12/07 筆者注:上記段落をよりテキストに沿うように内容を修正した。ご迷惑をおかけし、申し訳ありません。さらに以下の引用文で『真の持続』として言いたかったのは可変的なリズムをもつ『意識の持続』であることが触れられている。その最も大事とおもわれる部分をした解説文では取り立てて説明していなかったため、よりその点について詳しく説明するように説明文を改めた。このような失態を犯してしまっていたことは非常に悔いの残ることであり、読者の皆様にはこころよりお詫び申し上げます)

『実際、持続の唯一のリズムは存在しない。相異なる多くのリズムを想像することができる。より緩慢なものであれ、より急速なものであれ、それらのリズムは、意識の緊張あるいは弛緩の程度を測り示しており、それによって諸存在の系列におけるそれら各々の場所を固定するだろう。』(p.295 16行目-p.296 3行目)

ここでは、われわれ個々の意識というものにしても、実際には感覚から受容するときのリズムは、それぞれの感覚器官においても集中の度合いによっても違うだろう、ということを言っているのだろう。さらには、

『等しからざる柔軟性を持つ持続をこのように表象することは、われわれの精神にとっておそらく骨の折れることであって、それはわれわれの精神が、意識によって生きられた真の持続を、等質的で独立した時間に置き換える有益な習慣を身につけてしまっているからだ』(p.296 4行目-6行目)

と述べ、この『等しからざる柔軟性を持つ持続』がまた、『意識によって生きられた真の持続』持続というようにも言い換えている。この段落ではあまりこのことについて強調はされていないが、例えば第二章では、

『注意的再認は紛れもない<回路>であり、そこにおいて、外的対象は、それと対照的におかれた記憶が、その数々の想起を外的対象に投影するためにより高い緊張を採用するにつれて、対象そのもののますます深い部分をわれわれに引き渡す』(p.156 8行目-10行目、<>内はテキスト傍点付き)

とあることからも、またこの章でもすで例を上げた、第三章における記憶における『緊張』と『弛緩』の関係があり、『緊張』においては枝葉の部分を切り落として記憶を照合・照会するということがあったこと考えても非常に重要なことであるということを強調しておきたい。

さて、上の引用文では、そのことは『等質的で独立した時間に置き換える有益な習慣』のために普段は困難であるが、指摘しながらも、ベルクソンが示した『運動』を『直接的認識』の方法が暗示されているほか、眠っている自分が夢を見ている夢をみたなどという経験は誰にでもあるだろう、という例が挙げられている。(p.296 6行目-10行目をまとめた)

(2012/12/07 筆者注:下の最後の段落の解説はやはり、解釈を間違っていた。ここでは、「生体のリズムでのサンプリング」ではなく、『意識によって生きられた真の持続』が議論されているわけであるので、それについての考察であるように内容を改めることにした。度重なる誤りを心からお詫びいたします)

この段落の解説の最後はこの段落を締めるベルクソンの文章をすべてを引用してこの段落を終わりたい。なお、この部分の説明はこの後の第七段落で行われる。ここで表現されていることは、前にもすこし触れたが、ここまで、第二章や第三章の例で述べたように『緊張』が高まれば、あるいは照合・照会される範囲が狭まり、あるいは、記憶において枝葉の部分が切り落とされるようなことと同様のこと、引用文では、『歴史全体、われわれの意識よりも緊張したある意識にとっては非常に短い時間のうちに収まるだろうし、この意識は人類の発展に立ち会う際にしても、それを人類の進展の主要な諸状態へといわば収縮させてしまう』ということが、『意識によるって生きられた真の持続』によって起こると説明されている。そのあとの『知覚』についてもその議論が及んでいるがやはり『緊張』高まれば記憶に於いて枝葉の部分を切り落とすということと同様のことが書かれ『知覚することは不動化することを意味しているのである』と結論付けられている。そこに至るまでの議論の部分はあまり長くはないこともあるので読者ご自身で確認していただければと思う。

『歴史全体、われわれの意識よりも緊張したある意識にとっては非常に短い時間のうちに収まるだろうし、この意識は人類の発展に立ち会う際にしても、それを人類の進展の主要な諸状態へといわば収縮させてしまうのではないか。それゆえ、知覚することは、結局のところ、無限に希釈されたある実在の莫大な諸期間を、より強い生のより分化された諸瞬間へと凝縮させること、こうして非常に長い歴史を要約することとに存する。知覚することは不動化することを意味しているのである』(p.296 11行目-16行目)

以上、第六段落を解説した。


では第七段落(p.296 17行目-p.298 17行目)を見てみよう。この段落はこの第四節の最後の段落であり、これまでのまとめとなっている。内容としては、全段落の最後に書いたことである。長かったこの節の解説もこれで終わる。せっかくなのですべてを見てみよう。

まず、前段落の最後を受けてこう始まる。

『ということはつまり、われわれは知覚の行為のうちで知覚そのものを越える何かを捕らえるのだが、だからといって、物質的宇宙は、それについてわれわれが有している表象と本質的に異なっているのでも、それと本質的に区別されるのでもないのだ。』(p.296 17行目-p.297 2行目)

『ある意味では私の知覚はまさに私の内部にある。というのは、私の知覚は、私の持続の一瞬のうちに、それ自体では無数の瞬間に分割されるようなものを凝縮しているからだ。しかし、あなたが私の意識を消滅させるとしても、物質的宇宙はそれがあったままに存続する。』(p.297 2行目-5行目)

(2012/12/08 ここまでの引用文の解説を1段落追加。ご迷惑をおかけします)

『物質的宇宙』は、われわれやわれわれの『意識』とは関係なく存在し続ける。しかし、『われわれは知覚の行為のうちで知覚そのものを越える何かを捕らえる』。それは、このあとのベルクソンの説明をすこし先回りして、例を挙げて説明すれば、身近な芸術活動一般においても、たとえば、オリンピックでは各競技をアイコン化したシンボルを見るだろう。あれらのシンボルは各競技の連続した行動をそれこそ象徴的な『知覚』とするようにわれわれを説得する。その様なことを『私の知覚は、私の持続の一瞬のうちに、それ自体では無数の瞬間に分割されるようなものを凝縮しているからだ』とベルクソンは説明し、それを『ある意味では私の知覚はまさに私の内部にある』といっていると考えられるのではないだろうか。

このあと、われわれの生体のリズムによる『持続』と『物質的宇宙』は常に交じり合い、ベルクソンのいう『真の持続』へと変わっていく過程が美しく描写される。

『あなたは、諸事物に対する私の行動の条件であった持続のこの特殊なリズムを捨象したのだから、これらの事物はそれら自身へと戻り<筆者注:つまり、物質自体の科学的、客観的な定義へと戻り>、科学が区別するのと同じだけ多くの瞬間へと区切られるのだが、感性的諸性質はというと、消え去ることなく、比較にならないほど多くの分割された持続の中に広がり溶かされる』(p.297 5行目-9行目)

つまり、われわれの中の『真の持続』の中で震えている生体のリズム、『純粋震動』の『数限りない震動』(p.297 9行目)と変わっていく。

(2012/12/08 筆者注:「生体のリズム、『純粋震動』の『数限りない震動』の」という句を挿入。これまでの言葉足らずをお詫びいたします)

『これらの震動はすべて、絶え間ない連続性の中でつながれ互いに連帯しており、いずれもがざわつく震えとして全方位にいきわたる』(p.297 9行目-11行目)

おそらくこれは、ベルクソンの言う『真の持続』の変動するリズムであり、一連の『持続』である『知覚』が記憶となったあとの相互の繋がりというものであろう。ここからは、これまでの『直接的認識』として物質を捉える方法のまとめとなる。

(2012/12/08 筆者注:『真の持続』に関しての説明に『真の持続』という言葉を用いて循環している部分があったので修正した。たびたびの未熟をお詫びいたします) 

『要するに、あなたの日々の経験の不連続な諸対象を互いに繋いでみなさい。次に、それらの性質の不動の連続性を現場での諸震動へ分解してみなさい。これらの運動を下支えする分割可能な空間から身を引き離しつつ、これらの運動に専念し、そうすることで、これらの運動の動性、あなた自身が行う諸運動の中であなたの意識が捉える不可分な行為しかもはや考察しないようにしてみなさい。そうすれば、あなたは、物質について、おそらくあなたの想像力を疲れさせるひとつのヴィジョンを手に入れるだろう。』(p.297 9行目-17行目)

『ただし、そのヴィジョンは純粋で、生命の諸欲求が外的知覚の中であなたによって物質に付け加えさせたものから解き放たれている』(p.297 17行目-p.298 1行目)

(2012/12/08 上の引用文の続きを引用することにした。それに伴い説明文を変更した。読者の皆様には大変申し訳なく思います)

また、その様なビジョンを得られたあとのこととして次のようなことを述べている。

『—それでは、わたしの意識を復元してみなさい。わたしの意識と共に生の欲求を復元してみなさい。非常に間遠に、そしてそのつど、諸事象の内的歴史の莫大な諸期間を飛び越えながらほとんど瞬間的な長めが得られるだろうが、この眺めは今度は生き生きとして色彩に富んで折り、そのより顕著な色彩は無数の反復と要素的変化を凝縮させている』(p.298 1行目-5行目を)

『意識によって生きられた真の持続』というもの、あるいはそれからえられた物体や『運動』の『直接的認識』、これらを反転させて『復元』・再構成させるときに、われわれは歴史を振り返るときのように瞬間的で断片的ではあるが、『この眺めは今度は生き生きとして色彩に富んでおり、そのより顕著な色彩は無数の反復と要素的変化を凝縮させている』ような、『眺め』を手に入れるだろう。これが、先に説明したような芸術一般に言えることであり、身近な例で言えばオリンピックの各競技のシンボルであったりするわけであるが、そのことはこのあとで触れられている。

残りの部分は少々長いが、あまり難しいところもないので、この第四節を締めるベルクソンの言葉をそのまま引用したい。それは、芸術の始源とも読めるし、われわれの精神の巧妙さに関しての記述だとも読めるだろう。なお、途中『発展の帰結』という言葉が出てくるがそれは、芸術家によって選ばれたような象徴的な表現と考えていただければいいだろう。すなわち、われわれは一般に何かを表象しようとする前に、創造による表現によってその象徴的な意味を教育されているわけである。そして、成熟していくにつれ物事の意味を深く理解していくだろう。そのようなことが書かれていると思って良い。

『かくして、ある走者の多数の連続した位置は、象徴的なただひとつの姿勢へと凝縮させられ、われわれの目はその象徴的な姿勢を知覚し、芸術はそれを再現し、この姿勢は万人にとって走る人間のイマージュとなる。それゆえ、われわれが自分の周囲に時々投げかけている眼差しは多数の内的反復と発展の帰結だけを把持しているのだが、これらの帰結はまさにそれによって不連続で、われわれは、空間内の「諸対象」にわれわれが割り当てている相対的な諸運動によってかかる帰結の連続性を復元するのだ』(p.298 6行目-11行目)

『変化は至る所にあるが、それは深みでのことである。われわれは、その性質に関しては安定しているが、と同時にその位置に関しては動的なる諸物体を構成する。われわれの見るところ、単なる場所の変化もそのうちで宇宙の変化を凝縮させているのである。』(p.298 11行目-16行目)

以上、第七段落の解説を終わると同時に長かった第四節の解説も終わる。

2012年11月29日木曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」  第三節 「知覚と物質」


ここでは、第三節 『知覚と物質』(p.268 10行目−p.287 8行目)を解説します。ここでは前節の最後に書いたように、『物質』の『直接的な認識』をするための四つの定式化のうち三つが書かれていいます。この節の解説でも、段落を基準に解説していきたいと思っていますが、しかし、そのやり方だと、定式化のための方法ごとのくくりがわかりにくくなる可能性があります。そこで、まず、各定式化の方法の三つのまとまりの部分の目次を示し、そのあと、段落ごとの解説を行っていきたいと思います。注意点としては、各定式化方法の記述については、テキストでは段落と同じ扱いになっていますが、一行を段落として扱うよりは直後の段落に含めることにしました。これは単なる解説の都合上ですのでよろしくご理解のほどお願い致します。


【第三節『知覚と物質』における物質の直接的認識のための定式化方法目次】

 Ⅰ-どんな運動も、静止から静止への移行である限りで、完全に不可分である 
    …… 第一段落から第五段落:p.268 10行目-p.275 10行目

 Ⅱ-数々の現実的運動が存在する
    …… 第六段落から第十段落:p.275 11行目-p.280 15行目

 Ⅲ-絶対的に決定された輪郭を持つ独立した諸物体へと物質を分割することはすべてまがいの人為的な分割である 
    …… 第十一段落から第十四段落:p.280 16行目-p.287 8行目


【解説】
第一段落(p.268 10行目-8行目)を見よう。

まず、物質についての『直接的な認識』のための第一番目の方法が示される。

 Ⅰ-<どんな運動も、静止から静止への移行である限りで、完全に不可分である>  (p.268 10行目、<>内はテキスト傍点付き)

このことについてベルクソンはすぐにこう述べている。

『これは仮説ではなく、仮説なるものが総じて覆い隠してしまう一つの事実である』(p.268 11行目)

(2012/11/16 筆者注:以下の第一段落の記述は説明が大幅不足していると思われたので書き換えた)

ここからその詳しい説明が始まる。

例として挙がっているのは、われわれが手を動かす運動である。われわれが何気なく手をある場所からある場所に動かす、物理学的に言えば点Aから点Bに動かすとき、われわれの意識はそれをひとつの運動として認識しているのに対し、一方、それを見ている視覚という知覚では空間を無限に分割するように運動を無限に分割して考えてしまう。

この例のように、われわれは、運動について上に見たような二つの立場、すなわち、『不可分』と見なすか、『無限に分解可能』な立場かで、運動をとらえようとするだろう、というのが第一段落の主旨である。

以上、第一段落について簡単にまとめてみた。


第二段落(p.269 8行目-p.270 12行目)を見よう。

しかし、よく反省すれば、実際は視覚的にもある運動は単純にひとまとまりの運動として認識されている。実際にはそこで分割可能だと思われていたことは、運動の軌跡であり、視覚的に見た場合にも運動そのものではないだろう。

例えば、静止から運動へ、もしくは、その運動の軌跡が大幅に変わる点については、瞬間の『無限に短い静止』があるように思われるかもしれない。しかしそれは、われわれが運動を再構成するときに必要となる錯覚であろう。運動が運動である限り静止とはまったく違った状態である。そのように運動を分割するのは『想像力の活動』であり、われわれは『運動を知覚する諸感官の所与と、運動を再び組み立てる精神の策略とを取り違えてはならないだろう』(p.270 7行目-9行目)

以上、第二段落を簡単にまとめた。


第三段落(p.270 13行目-p.271 8行目)を見よう。

まず、こう始まる。

『われわれはここで、現実的運動の知覚に伴い、それを覆い隠している錯覚を、その原理において把握する』(p.270 13行目-14行目)

(2012/11/16 筆者注:この節は比較的短い節なので、以下はベルクソンの述べるところに従うように、全面的に書き換えることにした。読者の皆様には再三のご迷惑をお詫びいたします。)

すなわち、ベルクソンが前節で述べた『運動』に対する『直接的な認識』(p.267 16行目)について『知覚に伴』う『錯覚』についての『原理』を、第二段落で述べたところから考えて次のように述べることができる、と言っていると思われる。

まず、『運動は、ある点から他の点へ移ること、したがって空間を通過することに明らかに存している』(p.270 14行目-15行目)。一方で空間は無限に分割可能であり、『通過された空間』は『運動』が『踏破する線』に沿っていわば無限に分割可能な形で貼り付けられている。そのために『運動』もその軌跡である『線』と同様に無限に分割可能だと思われている。(p.270 14行目-p.270 17行目)

このようにわれわれは、そのままの『運動』をその軌跡である『線』と混同する傾向があることをベルクソンは指摘する。そのことを、

『そもそも、当の運動がこの線を描いたのではなかったか。運動は、その線上に継起的に併置されている諸点を代わる代わる通過したのではなかったか。』(p.270 17行目-p.271 2行目)

と述べ、こう続ける

『おそらく、その通りである。しかし、これらの点は、描かれた線、すなわち不動の線の中でしか実在性を持たず、これら相異なる点の各々で運動を表象することによってだけ、あなたは運動をそこに停止させるのだ。』(p. 9行目-p.273 2行目)

これが『錯覚』の『原理』(p.270 13行目)ということになるだろうか。すなわち、その『原理』とは、「『運動』も『無限に分割可能』であるとする『錯覚』は、すでに『不動』のものとなっている『運動』の軌跡が描いた『線』の上でしか『実在性を持た』ない『点』によって『運動を表象すること』で『運動をそこに静止させ』把握しようとすることによる」、ということであろう。以下、ベルクソンの述べるところをこの段落最後まで引用したい。

『あなたが相次いで身をおく位置は結局のところ想像上の停止でしかない。あなたは、道のり(trajet)の代わりに、軌道(trajectoire)を用いている。そして、道のりの下には軌道が張られているので、あなたは道のりが軌道と一致していると思うのである。しかし、どうして、<進展(progre's)>が<事物(chose)>と、運動が不動と一致するというのか』(p.271 4行目- 9行目、<>内はテキスト傍点つきとイタリック)


第四段落(p.271 9行目-p.273 2行目)を見ていこう。

第四段落は、『持続』という概念の他、『瞬間<モマン>』という概念によって、いかにして、『運動』が分割可能であるという『錯覚』が『容易』に導かれるのか、そして、日本語では同じ「持続」と訳されているが、『持続<アンスタン>』として述べられている概念によってのみ、実際の『知覚』は『運動』把握していないことが説明され、『直接的な知覚』は本来どのようにあるべきものかについて説明される。この段落は内容もやや難しいので、少しずつ見ていくことにしたい。

(2012/11/17 上段落に関しては、内容が不十分であったため、一部補足改定した。これまでも多くあったことですが、このようなことは頻発すると思われるので、ここで改めてお詫びすると同時にこれからの私の未熟にして能力不足による不明も予めお詫びしておきます。)

まず、ベルクソンはこのように言う。

『ここで錯覚を容易にしているのは、われわれが、運動体の道のり上に複数の位置を見分けるのと同様に、持続の流れのうちに複数の瞬間<モマン>を見分けることである』(p.271 9行目-10行目、<>内はテキストフリガナ)

まず、『持続』について簡単に説明しよう。これはわれわれが考えているいわゆる「時間」のことであるが、ベルクソンは、われわれが一般に考える「時間」と『持続』を区別しており、「時間」は『持続』を「空間」に射影したものと考えている。逆に言うと、『持続』とはわれわれにとって直感的な時間の流れであると言えよう。すなわち、『直接的な認識』による時間の把持を『持続』と言っていると思えばいいだろう。そもそもにおいて『持続』が存在し、「時間」はその空間的射影であるから、『持続』と「時間」の定義が自己言及的なことにはならないことは注意されたい。また、さらにその『持続』の中に『諸感官』による『知覚』を反映させたものが、ベルクソンの言う『運動』の『直接的な認識』と言えるかもしれない。

また、『瞬間<モマン>』とあるのは、概念的な瞬間すなわち、われわれが点や線についてその面積が0と考えるような、そのような瞬間の概念なのに対して、『瞬間<アンスタン>』とは、現実の点や線が実際には面積を持つように、いくらでも短くできる時間も実際にはその長さは0ではあり得ない、という考えである。注記しておくと、物理学においては、マクロ物理学でもブラックホールの大きさは0と理論だけでなく現実の宇宙での存在においてもそう考えられているし、素粒子物理学においても、例えば、光子など大きさがない素粒子も存在する。しかし、われわれのような生物がもつ、各々の『持続』、あるいは、少なくてもわれわれの『知覚』においては、大きさを持たないような瞬間というのは、本来的にあり得ない。そのことについては、後に説明がなされるであろう。ただしばらくは、先回りしたり、早急に結論を求めることなく、ベルクソンの述べるところを少しずつ見て行きたい。

(2012/11/17 上二段落は、元は一つの段落だったが、上の段落に『瞬間<モマン>』の説明を、また下の段落のように『瞬間<アンスタン>』の説明の部分を付加し、二つに分けた)

さて、ベルクソンは、まず、一連の『不可分』な運動があるとして、そこから、運動体がある瞬間にある位置を占め、それがほかのすべての位置から切り離さすことを考えるときに『この持続から、不可分な瞬間<アンスタン>を分離するだけで十分である』(p.271 13行目-14行目、<>内はテキストフリガナ)という言い方をしている。この続きを見ていくと、

『運動の不可分性はそれゆえ瞬間の不可分性を含意しているのだが、持続の観念を非常に簡単に分析することで実際、なぜわれわれは持続に複数の瞬間を割り当てるのか、どうして持続は諸瞬間を持つことができないのかがまったく同時にわれわれに示されるだろう』(p.271 14行目-17行目)

と、ベルクソンは言う。上の『この持続から、不可分な瞬間<アンスタン>を分離するだけで十分である』(p.271 13行目-14行目)の部分からこの問題提起の部分まで、非常にややこしいのだが、『なぜわれわれは持続に複数の瞬間を割り当てるのか』という問題と、『どうして持続は諸瞬間を持つことができないのか』という二つのことをこれから説明すると言っている、と考えていいのであろう。言い換えれば、『持続』は複数の『諸瞬間』として分離できない、しかし、われわれは『持続に複数の瞬間を割り当てる』ことを行ないがちである。これらのことを以下、『持続の観念を非常に簡単に分析することで』、『まったく同時に』示される、と言っていると解釈できるだろう。ところで、上の引用文中のふたつの『瞬間』とは『瞬間<モマン>』なのか『瞬間<アンスタン>』なのかはテキストを見る限り不明だが、前者を『瞬間<モマン>』、後者を『瞬間<アンスタン>』と解釈し、以下『瞬間<モマン>』と考えられる時のみ、『瞬間』を『瞬間<モマン>』と記すことにしたい。

(2012/11/17 筆者注:上段落、「ところで、」以降の最終行を付加)

さて、以下やや長いが、ベルクソンの名文を引用するのが一番良いと考えて引用することにした。分割して解説するのが不可能であるくらいだが、ややもすると名文というのはわかりづらいものでもある。適宜解説を入れながら見てみたいと思う。

『私の手がAからBへと移動する時の道のりのような単純な運動があるとしよう。この道のりは私の意識に不可分な全体として与えられる。この道のりはおそらく持続する。が、この持続は、そもそもこの道のりが私の意識に対してとる内的様相と一致していて、この道のりと同じく稠密なものだ。』(p.271 17行目-p.272 3行目)

『ところで、この道のりは運動である限り一つの単純な事実として現れているのに、それに対して、この道のりは空間においてはひとつの軌道を描き、私は事態を単純化するためにこの軌道を幾何学的な線と見なすことができる。そして、この線の端は抽象的な限界である限り、もはや線でなく不可分な点である』(p.272 3行目-7行目)

もう少し引用するつもりだが、ここまでを簡単にまとめるとわれわれの手を点Aから点Bに動かすとき、それはひとつの持続として現れ、動かすわれわれの『意識』の『内的様相』もそれに一致するだろう。しかし、この運動の軌跡を見ると幾何学的な線で表され、その終端は点として捉えられる。そのような、混同されやすい二つの事実が、この簡単な運動に含まれている、とベルクソンは言いたいのだ。

続きを見ていこう。

『ところで、運動体が描いた線がわたしにとって、運動体の運動の持続を測り示しているとすれば、線が達する点はこの持続の端を象徴化しているのではないだろうか。この点が長さとして不可分なものであるとすれば、この道のりの終端も、持続として不可分なものにならざるをえないだろう。線全体が持続全体を表象しているならば、この線の諸部分は持続の諸部分に対応し、線の諸点は時間の諸瞬間に対応せねばならないように思われる』(p.272 7行目-10行目)

『持続として不可分な数々のもの、あるいは時間の諸瞬間はそれゆえ、対称性<シンメトリー>への欲求から生じている。空間に対して持続の全面的表象を要請するや否や、人はおのずとそこに至る。しかしそれがまさに誤りなのである』(p.272 10行目-14行目、<>内はテキストフリガナ)

(2012/11/19、2012/11/26  筆者注:上引用文の解説を以下2段落、この場所に挿入したほか、解釈を大幅に変更した。読者各位には、返す返す、お詫び申し上げます。)

ここまでで、二つ目の引用文がやや難解だと思われる。その部分を解説すると、『持続として不可分な数々のもの、あるいは時間の諸瞬間』とは、一つ目の引用文に出てくる『持続の終端』について考えることから演繹できるだろう。つまり、『持続として不可分な数々のもの、あるいは時間の諸瞬間』とは、

1.『運動体が描いた線がわたしにとって、運動体の運動の持続を測り示しているとすれば、線が達する点はこの持続の端を象徴化している』
2.『この点が長さとして不可分なものであるとすれば、この道のりの終端も、持続として不可分なものにならざるをえない』
3.『線全体が持続全体を表象しているならば、この線の諸部分は持続の諸部分に対応し、線の諸点は時間の諸瞬間に対応せねばならないように思われる』

という、三つの順番でわれわれは自然と演繹し『持続として不可分な数々のもの』、『あるいは時間の諸瞬間』を、それぞれ、上の3.の『線全体が持続全体を表象しているならば、この線の諸部分は持続の諸部分に対応』させ、『線の諸点は時間の諸瞬間に対応』(この場合の『瞬間』は『時間の』とついていることからも『瞬間<モマン>』)させるということだろう。

このようなものをベルクソンは『対称性<シンメトリー>への欲求』と読んでおり、また、このように『終端の端』も『持続において不可分』であることから、それら持続を象徴する『線』や『線が達する点』の性質、すなわち線は無限の点より構成されているという性質だといっていいと思うが、によって、今度は『持続』を象徴する『線諸部分が持続の諸部分に対応し』のであるから、『線の諸点』も『持続の諸瞬間』(この場合は『瞬間<アンスタン>』、『持続の』ということから)に相当するのだと思うことにもなってくる、ということも含意されているだろう。

では、この段落の最後の部分を引用し、第四段落の解説の終わりに代えたいと思う。蛇足ではあると思うが、下引用文での『点』が象徴する『瞬間』とは『瞬間<モマン>』のことである。大変ややこしく読者におかれては混乱されることもあると思うので申し訳ない気持ちもする。ぜひ、ご注意願いたい。

『線ABが、AからBへと成し遂げられた運動の過ぎ去った持続を象徴化するとすれば、この線は不動であるので、成し遂げられつつある運動、流れている持続を決して表象することはできない。そして、この線が諸部分へと分割できることからできることから、またこの線が点で終わることから、結論として、それに対応する持続が分離された諸部分によって構成されているということも、この持続が諸瞬間によって限定されているということも導いてはならない』(p.272 10行目-p.273 2行目)

以上、第四段落について説明した。


この節の第五段落(p.273 3行目-p.275 10行目)は、有名なゼノンの亀とアキレスのパラドックスを初めとする4つのパラドックスについて、この分割不可能な持続(あるいは『瞬間<アンスタン>』)と分割可能な時間(『瞬間<モマン>』)、それは空間と同じように任意に分割可能であるわけであるが、これら二つを混同しているために起こるということを説明している。知的興味のある方は、Wikipediaのほうと併せてお読みになると良いと思う。大変に興味深いのではあるが、ここでは特に、ベルクソンの思想について書かれているわけではないので、省略したい。

ここまでで、物質についての『直接的な認識』のための第一番目の方法、

 Ⅰ-<どんな運動も、静止から静止への移行である限りで、完全に不可分である>  (p.268 10行目、<>内はテキスト傍点付き)

の説明が終わる。


次に、第六段落(p.275 11行目-p.276 2行目)を見てみよう。

ここから、

 Ⅱ-<数々の現実的運動が存在する>  (p.275 11行目、<>内はテキスト傍点付き)

の説明に入る。

第六段落はごく短い段落だが、簡単に内容を要約すると次の部分に尽きるといえるだろう。

『数学者は、常識の考えをより明確に表現することで、目印あるいは軸線までの距離によって位置を定義し、距離の変化によって運動を定義する。それゆえ、数学者は運動について長さの変化しか知らない』(p.275 12行目-p.275 14行目)

要するに、科学や数学にとって、運動は相対的であり、『絶対的な運動は存在しない』(p.276 2行目)

以上が第六段落の説明になる。ここで、もう少しだけ補足したい。要するに科学というのは物事の関係性だけを記述しており、それが法則と呼ばれる。このことは、小林秀雄さんの講演録音を聞いて、大変分かりやすい説明だと思ったので付け加えさせていただいた。


第七段落(p.276 3行目-p.277 10行目)から数段落は物理学の進展の話になる。デカルトから始まった物理学が、ニュートンによって絶対的なユークリッド空間での物理法則へと発展していく。これが第八段落(p.277 11行目-p.278 7行目)、第九段落(p.288 8行目-p.279 6行目)と続いていく。

この部分は相対性理論が確立される以前に書かれたものであることと、第六段落での説明で科学法則は関係性だけを記述していると小林秀雄の言葉を引いて説明したことを考慮し、第七段落、第八段落の説明は簡略にしたい。第九段落は、それからあとの文章の説明にも関わるのでやや詳しく解説する。

(2012/11/19 筆者注:上段落の内容は、その後の説明の必要性や実際の記述などから、それらに合致するように内容を変更した)

(2012/11/19 筆者注:以下、「すべての存在は相対的であるのに対して、運動の存在は絶対的であるという。」という部分以降、必ずしも正鵠を射ているというわけではなかったために、よりテキストの内容に沿うように説明を全面的に変更した。度々のご迷惑を深くお詫び申し上げます)

概要だけ述べると、デカルトは直交空間(ユークリッド空間)を想定し、その直交空間における運動についての法則を表した(デカルトは現代でいう運動量が保存されると考えてたようだった)。これはライプニッツによりエネルギー保存則として発展するのであるが、その記述(テキスト参考文献番号(3)「哲学原理」)のなかで、すべての『運動』を含めすべての存在は相対的であるとしたのに対して、『運動があたかも絶対的なものであるかのように、運動の諸法則を定式化した』(p.276 13行目-14行目)。以下しばらく引用すると、

『この矛盾は単に、デカルトが運動を幾何学者として定義したあとで、物理学者として運動を論じていることに由来している。あらゆる運動は幾何学的である。われわれの考えでは、このことは単に、<動いているのは、運動が関係づけられる軸や点であるよりむしろ運動体であるということを表現できる数学的象徴は存在しない>ということを意味している。』(p.276 15行目-p.277 3行目、<>内はテキスト傍点付き)

と続いている。この辺りの議論を、相対性理論が確立し、あるいは、コンピューターシミュレーションがさかん盛んに行われている現代にそのまま持ってくることはできないが、ベルクソンの言いたいことは、いかにして、『直感』により様々な象徴化や概念抜きに『知覚』を『直接的な認識』を行うかであったことを思い起こしていただきたいと思う。つまり、『現実的運動が存在するということに誰も本気で異議をとなれることはできない。』(p.277 4行目-5行目)

以上が第七段落の要旨になるだろう。


このあと、第八段落(p.277 11行目-p.278 7行目)に入ると、ニュートン力学における絶対座標系の概念について説明される。この段落はこう始まる。

『しかし、絶対的な運動があるとすれば、運動のうちに場所の変化しか見ないでいることに固執できるだろうか。その場合には、場所の多様性を絶対的な差異へと昇格させ、絶対的な空間の中に絶対的な位置を見分けなければならないだろう』(p.277 11行目-p.277 13行目)

ここでは、『絶対的な運動』があり、その『絶対的な運動』に『位置の変化しか見ない』とすれば、それには、『絶対空間』、すなわち、『場所の多様性を絶対の差異へ昇格させるような』基準を持つ空間、を想定し、その中で『絶対的な位置』を定めることが必要だろうと言う。

(2012/11/19 筆者注:やや説明を詳しくするために、上段落を付け加えた)

つまり、質点などの幾何学的考え方と、実際のものが動いているという考え方を結び付けようとするならば、絶対座標系による、絶対的位置座標を持ち、なおかつ等質的な空間である『絶対空間』という概念が必要になる、ということだ。これが、第八段落の要旨になる。

(2012/11/19 筆者注:説明の補足のため、下段落と下二つの引用文及び、その説明文の段落を追加した。また、次の第九段落において、この第八段落の説明をしている部分があるが、その部分はこちらと統合し、削除した)

第八段落は短いことと、これからの説明の都合もあり、この『絶対空間』に対して、ベルクソンが批判をしている段落後半部分を引用しておこうと思う。

『ある場所が、他の場所から 絶対的に区別されるのは、その性質によって、あるいはまた、空間全体との関係によってでしかないだろう。その結果、空間はこの仮説において、異質的な諸部分から合成されたものと化すか、有限のものと化すかいずれかである』(p.277 17行目-p.278 2行目)

『しかし、有限な空間に、われわれは障壁としてもう一つ別の空間を与え、また、空間の異質的諸部分の下にわれわれはそれらの支えとして一つの等質的な空間を想像するだろう』(p.277 17行目-p.278 行目)

『絶対空間』のような、特殊な空間を想像しようとすると、異なる『性質』、すなわち、空間全体が『異質的な諸部分から合成されたものと化す』か、『空間全体とのその関係によって』でしか区別できないために『有限なものとと化すかいずれかである』。

しかし、『有限な空間』においては、それを閉じている『障壁』が当然存在する。『障壁』は『有限の空間』とは当然、異なるある種の『空間』であり、また、『空間の異質的諸部分』によって合成されている空間のを想定するときに、われわれは、当然、その背景、基礎となるある『一つの等質的な空間』を想像する。

こうして、『絶対空間』を想定するためには、結局のところ等質的で無制限な空間を想定せざるを得なくなる。絶対座標系(=絶対静止空間)は、存在自体がその等質的で無制限な空間の、相対的な一部として与えられるだろう。この結果、絶対的な運動というものを想定せざるを得なくなるだろう。

(2012/11/19 上段落は第九段落の説明部分にあったものであるが、統合の際、いくらか表現を変え、また、分かりやすさを考え、「つまりはデカルトの考えと同じような問題点を持ち、」という一文を削除した。)

以上が、第八段落における絶対座標系という概念へのベルクソンの批判である。

以上により、物質そのものによる(いわゆる絶対的な)運動そのものが幾何学的に表現され、相対的な位置関係を等質な空間においてそれぞれの物質が持つという古典力学(=ニュートン力学)的な考え方が確立した側面が説明された、とまとめることもできるだろう。

(2012/11/19 筆者注:上段落はいくらか表現を変え『絶対空間』あるいは、『等質で無際限な空間』を想定するに至った過程が説明された、というここまでの内容の側面的な部分をこの段落では説明しているということをはっきりさせた)


ここで、古典力学とも言われるニュートン力学に対する、現代物理学の相対性理論にも簡単に触れておくことにしたい。Wikipediaの相対性理論の項では、はじめにこのように書かれている(http://ja.wikipedia.org/wiki/相対性理論)

『相対性理論(そうたいせいりろん, 独: Relativitatstheorie)または相対論(英: relativity)は、1905年に発表された特殊相対性理論と1916年に発表された一般相対性理論のことである。

両者はいずれもアルベルト・アインシュタインの創始した理論で、互いに、等速運動する座標系の間では物理学の法則が不変な形を保つという原理(相対性原理)と、光速度不変の原理を仮定したときの物体の運動を記述する。前者は慣性系についてのみ記述し、後者は加速運動する系や重力場の効果を含めて一般化した理論である。』

また、同じく、特殊相対性理論の項(http://ja.wikipedia.org/wiki/特殊相対性理論)を見ると、この相対性原理と、光速度不変の原理を用いることにより、次のような結論が得られるようになった。(以下、同項目の相対性と光速度の不変の節を引用)


【相対性と光速度の不変 】

特殊相対論が力学の法則を再構成することにより、従来無条件に受け入れられていた基本的な概念が大きく様変わりする。

長さや時間は、もはや絶対的なものではなく、どのような慣性系から観察するかによって異なる、相対的なものとなる。

また、絶対静止空間の存在は否定される。この帰結によってマイケルソン・モーリーの実験においてエーテルに対する相対運動が検出されなかった結果をうまく説明することができる。

(引用終わり)

つまりは、相対性理論によって『絶対(静止)空間』の存在が否定されることになった。と、同時に、空間と時間も同様に相対化されることなり、時空という4つの次元が存在することになり、真空中の光の速度だけが絶対的なものとなる。これが慣性系のみならず加速度系や重力の関係する運動全体に言及されるのが一般相対性理論というわけである。

さて、簡単に相対性理論に触れたが、これは、観測者に対して光速に近い速さで動いているような物体は時間の進み方が違うという結論が得られることになる。このことから物質の固有時という概念が生じ哲学的問題にもなるのである。ここで、あくまで私見であるが、例えば、宇宙全体の警戒して行く時間とわれわれの各々の時間、それらを観測する慣性系、その整合性をどう捉えるか(ローレンツ変換というものもあるけれども)という相対性理論の本来的な原理から生じる問題を抜きにすれば、のちに紹介する小林秀雄さんが本居宣長の補論で書いたこととあわせて考えて、われわれの体験(持続)は、やはり宇宙の時間の中でそれぞれ唯一無二のものであり、あくまで時間は物理法則の中で空間的に投影された発明(相対性理論では4つの次元として存在すると考えられていようが)であるということには変わりがないと思われる。というのも、われわれは、やはり、等質的で無制限の空間というものを膨張する宇宙の背景、あるいは基礎的な空間として用い、均一な時間が流れて行くような、空間と時間の表現方法の中にに含まれる宇宙というものを想定せずに宇宙全体を把握しようとすることができないように思われるからである。

また、ちなみに、重力という力を量子として統一する、量子相対性理論では、ブラックホールのような特異点では相対性理論は成立しないと考えられており、静的な時空というものが再び登場している。
(以上、Wikipediaの「一般相対性理論」(http://ja.wikipedia.org/wiki/一般相対性理論)の項の節「曲がった時空上の場の理論」と「量子重力理論」(http://ja.wikipedia.org/wiki/量子重力理論)の項を参考にした)


さて、テキストに戻り、第九段落(p.278 8行目-p.279 6行目)の説明を始めたいと思う。

(2012/11/20 筆者注:下段落は、一部内容を第八段落での説明に統合したことに対応こと、また、内容に間違いがあるために修正した。間違いの内容としては、この第九段落の内容の把握、紹介自体が全く間違っていた。このように数多い間違いを読者の皆様には、改めてお詫びいたします)

物理学における物質の運動と空間の関係を、概念的にどのように発展してきたかということを簡単に見てきた。ベルクソンの主張は、ニュートン力学における絶対座標系の概念は、一般的な常識とは若干異なった、言わば物理学の運動を説明するための、われわれの生活空間とは切り離されたある種特殊な空間を想定しているようにわれわれには思われる、ということであろう。さらに、この第九段落では、それまでの哲学で考えられてきた形而上学的(あるいは神秘的)な『力(force)』について検討、批判されている他、物理学的な『力』関しても『絶対(静止)空間』に基づいているとの評論がなされている。

『その際、現実的運動は現実的原因を持ち、ある力(force)に由来しているという点で相対的運動から区別されるといわれるだろうか。』(p.278 8行目-p.279 6行目)

ここで、ベルクソンは『力(force)』について考察する。

『自然科学において、力は質量と速度の関数に過ぎない。力は加速度で測られる。力は、それが空間に生ぜしめるとみなされる運動によってしか知られないし、推測されない。これらの運動と連動しているので、力はこれらの運動の相対性を共有している。』(p.278 10行目-p.278 13行目)

要するに、結論として力も『これらの運動の相対性を共有』するわけであるから、運動が相対的であるならば力も相対的であり、そこでは最終的に絶対座標系の概念を持ち出す必要がある。

それを避けようとするならば、ということで次のような形而上学的な考えが持ち出されており、それに対するベルクソンの批判があるので、以下、段落の最後まで引用して解説する。

『それゆえ、[力という]語の形而上学的な意味に頼らざるを得ないだろうし、空間の中で認知された運動の支えとして、数々の深い原因 ―われわれの意識が努力の感情のなかで捕らえていると思っている原因に類似した諸原因― を持ち出さなければならないだろう。しかし、努力の感情はまさにひとつの深い原因の感情ではないだろうか。数々の決定的な分析[24]は、すでに行われた運動あるいは身体の表面で始められた運動についての意識以外の何ものも、この感情の中には存在しないということを示さなかっただろうか。それゆえ、われわれが、運動から区別されている原因に、運動の現実性を根拠付けようと欲しても無駄だろう。分析はわれわれを常に運動そのものへ引き戻すのである』(p.278 15行目-p.279 6行目、[24]は訳注、『ウイリアムジェームスの分析であろう(以下略)』とある)

当時の『力』という言葉についての神秘的(あるいは、形而上的)なイメージやわれわれの『努力の感情』(おそらくは、「コナトゥス」という哲学用語で、ここでは専らデカルトのこの語の使用の仕方を指していると思われる)からくる『諸原因』などから、『力』が生じることに反論していることは明白であろう。物理的な力は物理的な現象によって生じるという非常に現代的、合理的な指摘をベルクソンがしているということをここで改めて示されている。

(ちなみに現代物理学では、物理学的な『力』は力学的な力のほかに、4種類の力(強い力、弱い力、電磁力、重力)があると説明され、それぞれの力を媒介するのは4つの量子であり、これら4つの力も統一した理論で説明できると考えられ研究されている(参考、http://ja.wikipedia.org/wiki/基本相互作用)。 なお、相対性理論を構築したアインシュタインは有名なエレベーターの思考実験により加速度と重力を区別がつかない以上同じだと考えた(等価原理、参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/等価原理))

以上が第九段落の説明になる。


では、第十段落(p.279 7行目-p.280 15行目)の説明に入ろう。

ここで、ベルクソンは、ベルクソンたちの言うところの『運動の絶対性』をそのまま受け入れるべきだという。

(2012/11/19 下の筆者注においては、説明不足と認識不足による、複合的な誤りが混在した。以下、いちいち指し示すのは煩雑になるため、草稿を公開していることもあり、間違いがあったということを述べることだけに留めておく。読者の皆様には、本当に心よりお詫び申し上げます。)

※筆者注:ここでは相対論的時空の考え方をどう扱うかについては議論せずに、ベルクソンの言うことのみ紹介する。現代物理学の相対性理論と量子物理学理論を統一した理論はまだ完成しておらず、また、古典力学(=ニュートン力学)を包含し、すでに述べたようにマクロスケールにおける物理現象を説明する相対性理論においても、宇宙は空間的に有限であり、一方でわれわれの『空間』の概念は、相対性理論にも関わりなく、その理論の背景である幾何学においては『等質的』で『無際限』と考える。かつ、われわれの宇宙自体がその中でほぼ一定の「時間」の軸に沿って拡大していく、という考え方には、変わりがないということから、ここでは、一応ベルクソンのいうように、われわれの『持続』のなかで『運動』を『直接的認識』による一度きりの絶対的なものと考えることを是として良いように思ったからである。あとで述べられるが、生物の『持続』とそれに基づく知覚というのは3次元の直交空間+持続であり、それは『無際限』であるということに他ならない。ただし、物理学の物質や時間の説明とは乖離している。しかし、物理学の説明(法則)は物質の関連性だけを示しており、われわれの物質の認識、質感(=強度とベルクソンは説明する)とはまた異なることも間違いない。この質感についての理論は、あとでも説明をするが、ベルクソン『意識に直接与えられるものについての試論(英題:時間と自由)』にさらに詳しい。

今までに、見てきたようにわれわれは、現実の物体の運動と、物理学(力学)的な運動を混同する。しかし、ベルクソンの主張によれば現実的な物体の運動はそのまま存在する。引用しよう。

『あなたが運動からその本質たる動性を抽出するとすれば、事情はもはや同じでない。私の目が私に運動の感覚を与えるとき、この感覚はひとつの実在であって、ある物体が私の目に対して移動するにせよ、私の目がその物体の前で動くにせよ、何かが実際に起こっている。』(p.279 9行目-12行目)

『私が運動を生じさせることを望んだ後で運動を引き起こす時や、筋肉感覚が運動の意識を私にもたらす時にはなおさらのこと私は運動の現実性について確信している。したがって、運動が<状態>あるいは<性質>の変化のように私の内部で私に現れる時、私は運動の実在に触れていることになる。しかし、それでは、私が諸事物の中に性質の変化を知覚するとき、どうして事情は同じでないのだろうか』(p.279 13行目-p.279 17行目、<>内はテキスト傍点つき)

(2012/11/21 筆者注:下の解説は引用文の解説としては正しくなかったので修正した。ご迷惑をお詫びいたします)

まず、ここまでを説明しよう。『運動の本質たる動性』とは、われわれが、運動をたとえば映画のフィルムのように分解して理解するのとは違う、われわれが直感的に見る運動そのもののことを示している。ふたつの引用文のうち一つ目のの引用文では、『運動』を目で追った場合に与えられる『運動の感覚』、あるいは逆に物体が目に対して運動する場合にせよ、『運動の現実性について確信している』と述べ、このようなことを『運動の実在』としてそこに『触れている』とベルクソンは説明している。つまり『何かが実際に起こっている』。さらに、二番目の引用では、実際にわれわれが欲して運動を引き起こしたり、『意識』に『運動』の『筋肉感覚』がもたらされているとき、『なおのこと運動の現実性について確信している』。このようなことを『運動の実在』として、それに『触れている』という言い方でベルクソンは説明している。

(2012/11/20筆者注 下段落の説明は、引用文を入れ、その説明するということにし、よりテキストに沿うように大幅に修正した。また、解説の内容も正しくなかった。たびたびの不明をお詫びいたします)

このあと、

『音は、ある音が他の音と異なっているのと同様、静寂とも絶対的に異なっている。光と闇のあいだ、色と色のあいだ、濃淡のあいだの差異は絶対的なものである。一方から他方への移行もまた絶対的な現象である』(p.279 17行目-p.280 3行目)

と続く。こうして、われわれは『運動』を、『筋肉感覚』が『意識としてもたらす』すなわち、『実在として触れる』ような『運動』と、もう一つ、先に下の引用文の言葉を借りれば『感覚性質』の『絶対的』な『差異』またはその『一方から他方への移行』の絶対性、の二種類から総合して『運動』を絶対的なものと見なす。下の引用には、そのようなことが書かれている。

『それゆえ私は、私の筋肉感覚と、私の外なる物質の感覚性質という鎖の両端を掴んでおり、どちらにおいても、私は運動を、運動があるとしてだが、単なる関係とは捉えていない。運動は絶対的なものなのだ ―この両端の間に、真の意味での外的<物体>の運動が位置することになる。』(p.280 2行目-6行目、<>内はテキスト傍点つき)

この後の記述は、非常に難解なので、順を追ってみていこう。

まず、このあと段落の最後まで引用する。その際、大意より三つに分割し、その後で解説をしたいと思う。三つに分けた文章は意味的には、まず、ベルクソンのいう『運動の絶対性』を区別するのは、『常識』であるということ、次に、その区別に対しての物理学(力学)的な考え方について述べてある(ここが特にに難解な記述になっている)。また、最後は一文ではあるが、この解釈も難しく、この三つの部分の説明全体から意味を取らないとまったく逆の意味にも受け取れるだろう。

『ここでは、どうやって見かけだけの運動を現実の運動から区別するのか。外的に認知されたどの対象について、それは動いているということができ、ほかのどの対象について、それは不動のままであるということができるのか。同様の問いを提出することそれは、互いに自存的でおのおのが個体性を有し、諸種の人格にも比しうる諸対象のあいだに常識によって確立された不連続性を根拠ある区別とみなすことである』(p.280 6行目-10行目)

『実際、反対の仮説においては、物質のある特定の<部分>に、いかにして位置の変化が生じるかを知ることはもはや重要ではないだろう。そうではなく、いかにして<全体>のなかで様相の変化が成し遂げられるかを知ることが重要であって、そのうえ、様相の変化の本性を究明するという課題がわれわれには残されるだろう。』(p.280 10行目-15行目、<>内はテキスト傍点つき)

『そこで、われわれの第三の命題をすぐに定式化しておこう』(p.280 14行目-15行目)

(2012/11/22 筆者注:二番目の引用文の解説と対称性を持たせるために下の段落は事象の個別性、唯一性を強調する解釈に改めた。度重なる変更をお詫びいたします)

まず、第一番目の引用(p.280 6行目-10行目の部分)は、『ここでは、』と始まっていることから、前の文章を受け継ぎ、ベルクソンの言う『運動の絶対性』をそのまま直感で受け止める方法が書かれていると考える。『外的物体の運動』(p.280 5行目-6行目)において、それぞれを『互いに自存的でおのおのが個体性を有し、諸種の人格にも比しうる諸対象』と見なすこと、そのために、『常識によって確立された不連続性を根拠ある区別とみなす』とある。つまりは、われわれが、これまで生きてきたところの総合的な感覚と知識で『諸対象』やその『運動』を一つ一つの区別されたものとして判別すると、考えるべきだろう。(2012/11/20 筆者註:このように『常識』において『諸対象』や『運動の絶対性』を処断し、判別されることについては、このあとIII.で説明される)

(2012/11/22 下の引用文解説を大幅に改めた。『部分』より『全体の中での様相』とは物体が物理学の法則に従って『様相』を変化させることと解釈し、そのあとは演繹して解釈するということが正しいと思われたため。未熟をお詫びいたします)

一方で、二番目の引用(p.280 10行目-15行目)は、『反対の仮説』つまり、物理学(力学)的な考え方について述べていると考えるべきだろう。『物質のある特定の<部分>に、いかにして位置の変化が生じるかを知ることはもはや重要ではないだろう。そうではなく、いかにして<全体>のなかで様相の変化が成し遂げられるかを知ることが重要』との部分は、つまりは、ひとつひとつの事柄よりも、むしろそれらの関係性が問題であるということだろう。『様相の変化の本性を究明する』とは、関係性のみが重要になれば、個別の事象を一般論化し、帰納して得られる法則性と法則、それらを『究明する』こと、と考える。

以上のように解釈し、このあと始まる説明の内容も考慮すれば、三つ目の引用文は、『そこで、』と始まっているけれども、これは二番目の引用文の仮説(物理学の仮説)を受けてということではなく、ここまで主題となっている(特にこの節では『運動』の)『直接的な認識』のためにベルクソンの考えにおける物体、もしくは『絶対的な運動』そのものの捕らえ方をこの後すぐに述べよう、という意味だと考えるべきであろう。

以上、第十段落を説明した。

また、ここまでで、物質についての『直接的な認識』のための第二番目の方法、

Ⅱ-<数々の現実的運動が存在する>  (p.275 11行目、<>内はテキスト傍点付き)

の説明が終わる。


次に、第十一段落(p.280 16行目-p.282 9行目)を見てみよう。

ここから、

 Ⅲ-<絶対的に決定された輪郭を持つ独立した諸物体へと物質を分割することはすべて紛いの人為的行為である>  (p.280 16行目-p.281 1行目、<>内はテキスト傍点付き)

の説明に入る。

前半部分は難しくないので要点だけをまとめよう。われわれは五感のうち特に視覚と触覚を主に用いて、『物質的対象』(p.280 2行目)を知覚しているだろう。それは、ほかの感覚に比べて、『空間』の広がりを直接的に把握できるからだろう。ベルクソンの優雅な表現を借りれば、『視覚と触覚の所与は、空間の中でもっとも明白に広がる所与であり、空間の本質的な特徴は連続性である』(p.281 3行目-4行目)ということになる。

(2012/11/21 筆者注 下段落の説明について、テキストに沿うように、変更した。読者のみなさまにはお詫びも申し上げること度々となっており、本当に申し訳なく思います)

一方、ほかの聴覚、味覚、嗅覚のそれぞれは信号と信号の間には間隙が必要だ。というのも、聴覚は、入力があってから働くようにできており、同様にと言っていいと思うが、『香りと香りの間、味と味との間には、あたかも嗅覚と味覚が偶発的にしか機能しないかのように感覚が見出される』(p.281 6行目-7行目)

さて、視覚は空間の情報を一度に把握できるが、触覚はそうではない。しかも、触覚は聴覚などとは違い、物の形を把握しようとしたら、空間的に連続した情報としての信号を得ないといけないであろう。その意味でも、視覚とは違う形で触覚は空間を把握しようとする感覚であるといえるだろう。

さて、このような、視覚や触覚は『物質的対象』から得られた情報を空間的に連続したものとして把握するわけであるが、これらの知覚から得られた『物質的延長』(物質の属性のうち計量できる性質のもの)、言い換えれば物の形や色あるいは手触りや固さなどから、『最初に見出された連続性をその各々が、実体と個体性を有しているような諸物体へと分割するのであろうか』(p.281 10行目-11行目)という疑問がベルクソンから示される。

以下、この段落はこの疑問について深化させていくことが記述の目的となっている。少しずつ分けてみていこう。

『おそらくこの連続性は刻々と様相を変える。しかし、なぜわれわれは、あたかも万華鏡が回されたかのように全体が変化したのだということを端的に認めないのか。要するに、なぜわれわれは、全体の動性の中に、運動している物体によってたどられた足跡を探すのか。一つの<動的連続性(continuité mouvante)>がわれわれに与えられているのであり、そこにおいては、すべてが変化すると同時に留まっている』(p.281 11行目-12行目、<>内はテキスト傍点つきとイタリック)

少々無理矢理ではあるが、一旦ここまでで区切って解説したい。この部分ベルクソンの文章は日本語に直してもこの部分は非常に美しい文章で、分けて説明するのが非常に惜しまれるとだけは註記しておく。解説に戻ると、この宇宙の中の物体は常に物理学の法則によって支配されているわけであるので、以前、第三章でも見たように、物質はそこに留まって在るのではなく、物理学の法則に従ってそのように成っているものである。例えば、無限の精度をもつような極端に正確な計測器で測定すれば、いかなる不変と見られるような物質もわずかの間も同じ値を示すことはなく、結果として違うものとして指し示すであろう。あるいは、『運動』について考えれば、静的な点の集合の軌跡を運動とみなしがちであるが、本来は『一つの<動的連続性(continuité mouvante)>』であるはずで、そのとき宇宙『全体』が『万華鏡が回されたかのように』、『すべてが変化すると同時に留まっている』。つまり、おのおのはおのおのの関係性の中で物理法則にしたがって変化していると同時に、それらは、過去と、現在と、未来の因果関係にある以上、質量保全の法則、あるいは、エネルギー保全の法則といわれる法則で表されるように、この宇宙の中にすべてが『留まっている』。

(2012/11/21 2012/11/29 上段落で、『そこにおいては、すべてが変化すると同時に留まっている』の解釈を修正した。また、下段落は、元々上段落の一部であったが、説明をわかりやすくするために切り分けた。ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。)

しかし、われわれはそのように感じない。変化するものとしないものに分けて考えるのが普通である。では、

『どうしてわれわれは不変性と変化という二つの項目を切り離し、<物体>によって普遍性を、空間において<等質的な運動>によって変化を象徴するのか』(p.281 17行目-p.282 2行目、<>内はテキスト傍点つきとイタリック)

という疑問が次に示される。この疑問は、考察をより深められていき、この段落の最後には、意識と科学の一致した傾向として示される。引用しよう。

『それは直接的な直感の所与ではない。しかし、だからといって科学の要請でもない。というのは、科学は反対に、われわれが人工的に切り分けた宇宙の諸関節を再び見出すつもりであるからだ。それどころか、すべての質点の相互作用を次第に明確化することで、科学は、その見かけにもかかわらず、われわれがこれから見るように、宇宙の連続性という考えに回帰するのだ。科学と意識は、結局、意識をそのもっとも直接的な所与において考察し、科学をそのもっともはるかな希求において考察すれば相一致するのである』(p.282 2行目-p.282 7行目)

疑問は、『直接的直感の所与』でも『科学の要請』でもないと結論付ける。では何なのか。結局は、われわれは『常識』でしか判断していないだろう。『科学』は要素分解主義であるので、すべてのものを最小の単位を構成するものの関係、言い換えれば、『質点の相互作用』においてすべて再構成されるだろう。これが、『科学の最もはるかなる希求』であるとするなら、そこでは何が行われるか。等質的な空間と時間の中において宇宙の全物質の動きを再構成することにほかあるまい。だとすれば、そこにおいては、その中で起こるすべての事象は各々絶対に一度切りしか生じない『絶対的な運動』でしかないのではないのか。こうして、われわれの意識が、『直接的な所与において考察』するところと一致する。われわれの意識に『直接的』に『所与』されるものと、物理学の法則に支配されたこの宇宙で生じるそれぞれの事象は、それを俯瞰できる空間と時間のなかにおいてはすべては一度切りでしかなく、すなわち『運動の絶対性』においてまさに一致する、というように私は解釈する。

(2012/11/22 上段落の最後から2番目の文、「だとすると」以降を、最終的にはただ一度だけ起こるという『運動の絶対性』というものを強調しているように内容を変更した。大変申し訳ありません。)

さて、この段落の最後に、ベルクソンはもうひとつ問いを呈しているのでそれを紹介して、第十一段落の解説を終わる。

『そのとき、場所すなわち互いの関係を変え、きちんと分けられた縁<<へり>>を持つ諸物体によって不連続な物質的宇宙を構築しようとする抗しがたい傾向はどこから来るのか』(p.282 7 行目-p.282 9行目、<<>>内はテキストふりがな)


では、第十二段落(p.282 10行目-p.283 15行目)を見てみよう。

この段落は、内容は難しくはないが、ベルクソンの文章があまりに美しいのであまり長くないこともありほぼすべてを引用しながら説明をしたい。ここでは、後に『創造的進化』として結実される考察の兆しが見える。内容は、生命が身体を持つことと、その外界における生命活動において有益だったり逆に有害だったりする物質を見分ける必要性が、前段落の最後にあった疑問への答えとして述べられている。

では、最初の部分を見てみよう。

『意識と科学のほかに生というものがある。哲学者たちによって非常に念入りに分析された思弁の諸原理の下には、その研究が疎かにされてきた諸傾向が隠れていて、これらの傾向はわれわれが生きること、すなわち実際に実際に行動することの必要性によってだけ説明される。』(p.282 10行目-13行目)

『個体的意識に授けられた諸行為によって現出する権能はすでにして、互いに区別された物質的領域<<領域にゾーンというフリガナ>>の形成を強いていて、かかる領域の各々が生命体に対応している』(p.282 13行目-14行目)

まず、最初の引用文は、『生』ということを考えないと説明できない問題があり、その事は、『すなわち実際に実際に行動することの必要性』を考慮することであると要約できるだろう。

次の引用文にある『個体的意識に授けられた諸行為によって現出する権能』の部分は、それぞれの生命を『実際に行動することの必要性』の観点から見た場合(それはベルクソンのもっとも基本的な立場なのだが)、その『諸行為』のために、物質界には肉体(『互いに区別された物質的領域』)が必要不可欠になってくるわけだが、『すでにして』という記述より、『意識』は、そのような肉体がすでに存在しており、その肉体がもともと持つ可用性と可能性を『諸行為の権能』と考えるときに、肉体に遅れて生じる、と記述されている考えられる。

(2012/11/26 筆者注 『個体的意識に授けられた諸行為によって現出する機能』の 解釈を変更した)

数行略して、

『しかし、この身体がひとたび構成され区別されると、この身体が感じる諸欲求は他の身体・物体を区別し、それらを構成するようこの身体・物体を仕向ける。最下等な生物において、栄養摂取は、探索、ついで接触、最後に中心へ向かう一連の努力を必要とする。この中心は、まさに食物として役に立つに違いない独立した対象になるだろう』(p.282 16行目-p.283 3行目)

この部分は最後の一文がやや分かりにくいが、個体(ここでは自ら栄養を作り出すことのできないような動物的個体が問題になっているだろう)が栄養を得るためには、まとまった栄養がありかつ摂取可能な『物』を探しいかにとらえるかが、最大の問題であろう、と言っているのであろう。

この生命がその肉体維持に必要な根元的な活動は、『生』をして、『欲求と欲求を満たすものの二元性』(p.283 4行目)、つまり欲求するところの自分の身体とその欲求を満たすその他の物体に物質世界を分けるだろう。

さらに、こう続ける。

『ほかの諸欲求がこの欲求の周りに組織されており、それらの欲求のすべては個体あるいは種の保存を目的としている。ところで、それらの欲求の各々は、われわれ自身の身体とは別に、われわれ自身の身体から独立しており、われわれが探求あるいは回避せねばならない諸身体・物体を区別するようわれわれを仕向ける。それゆえ、われわれの諸欲求はいずれも、感性的諸性質の連続性に向けられることで、その連続性のうちに個々別々の諸身体・物体を描く光の束なのである』(p.283 3行目-11行目)

『われわれの諸欲求は、この連続性から一つの身体を自分のために切り取り、次いで、この連続性のなかで、この身体があたかも人々と交際するかのように関係を持つほかの諸身体・物体を画定するという条件でのみ満足させる。』(p.283 11行目-14行目)

『感性的実在からこのように切り取られた諸部分の間にまったく特殊な諸関係を築くこと、それこそまさにわれわれが生きると呼んでいることである』(p.283 14行目-15行目)

引用文は一続きで段落の最後まで続いているものを三つに分けた。まず、一つ目の引用文だが、なかなか難解である。さまざまな解釈が可能となるだろうが、ここではこう考えてみてはどうだろうか。まず、『種』という観点からものから考えれば、われわれの生殖活動はまさに個々別々のものというよりもむしろ、『種』自体の保存を目的としているものであるは誰の目にも明らかだろう。そう考えると、たとえば、われわれ人間が個人としての欲求を満たすような生命維持活動も、また、『種』という『連続性』の中で生じている共通のものであると言えるだろう。

このよう考えていけば、『われわれの諸欲求はいずれも、感性的諸性質の連続性に向けられることで、その連続性のうちに個々別々の諸身体・物体を描く光の束なのである』という部分の難解さも徐々に解(ほど)けて、『諸欲求』のそれぞれをある種の『光』、そしてその『感性的諸性質の連続性』をその『光』の『束』と呼んでいるのは、次のような意味であろう。

(2012/11/27 筆者注:上段落の『光の束』についての説明が正確ではなかったために修正した。度々の修正をお詫びいたします)

1.『光の束』の『束』という意味について
生命全体(この場合、特に動物的生命体について述べられているのだろうが)の連続性を、『諸欲求』の『感性的諸性質の連続性』と考えることによって、生命体の分類を可能にする項目とみなすことができるという意味

2.『光の束』の『光』の部分の意味について
諸『感性的性質』により分類された生命体の共通事項が、逆にわれわれ個々の個体の行動原理を照らし出す『光』となるという意味。

(2012/11/27 筆者註:この段落が、

『意識と科学のほかに生というものがある。哲学者たちによって非常に念入りに分析された思弁の諸原理の下には、その研究が疎かにされてきた諸傾向が隠れていて、これらの傾向はわれわれが生きること、すなわち実際に実際に行動することの必要性によってだけ説明される。』(p.282 10行目-13行目)

と始まっていたことにも関係し、哲学の『思弁の諸原理の下』に『隠れて』いるものを照らしだす『光』という解釈も可能かもしれない)

以上のように、欲求は物質世界を自己と自己の欲求を満たすものという原始的な『二元性』を確立するだけでなく、われわれ生命の行動原理を、すなわち、『感性的性質』によって分類し、『その連続性のうちに個々別々の諸身体・物体を描く光の束』として考えることができるとベルクソンは述べているのであろうと考えられる。

(2012/11/27 筆者注:下段落において、「生命としての一つの肉体」と記述していたところをより正確を期すために「生命としの肉体の構成を限られた範囲で」と書きなおし、他にも若干の補足を行った。度々このようなことが生じていることをお詫びいたします)

二つ目の引用文は、こうした数々の欲求を満たすところからもまた身体の機能は決まってきて、そうするならば、われわれは、たとえば、有性生殖というところからも、栄養の摂取、その他欲求においても、あるいは、探求、摂取、消化という行動の必要性から生じる肉体の大きさとその骨格の強度、あるいはそのほか熱量などの物理学的関係からも、生命としての肉体の構成を限られた範囲で選択せざるを得ないだろう。言い換えれば、『生』としては欲求を満たすためにも、物質界の法則にしたがって、『一つの身体』を『切り取』る必要があるだろう。さらには、必要とするものとされるものが、あたかも隣人同士のような深い関係いわば『交際』をするような、そんな関係を持ち得るように『他の諸身体・物体』を『画定』しなければ、『諸欲求』は満足されえず、たとえば『種』は保存されないだろう。このようなことを説明しているのだと思われる。

そして最後の三つ目の分であるが、『感性的実在』つまり生命の生存のための欲求から見た側面の各々が、『まったく特殊な関係性』言い換えれば一種の深い『交際』を結んでいくことこそが『<生きる>』ということだろう、とベルクソンは述べているのである。

以上、第十二段落を説明した。


では、第十三段落(p.283 15行- p.285 5行目)を見ていこう。

第十二段落で見てきたように、『生』もしくは『生きる』ことが、われわれ生命の根源的な物質存在の認識の元となり、事物を分けて考えること、そして、それらが必然的で多様な混交(ベルクソンの言葉で言えば『交際』(p.283 13行)を生む。

『しかし、現実的なもののこの最初の細分化が直接的な直感よりもはるかに抑制の根源的な諸欲求に対応しているのであれば、分割をさらに推し進めたとしても、いかにして、所持物についてのより近似的な認識が獲得されるというのか。それによって生じるのは、<生の運動>の拡張であり、真なる認識からは目が背けられているのだ』(p.283 15行-p.284 2行目)

とベルクソンは分割だけに目を向ける要素還元主義を批判している。この段落もやや難解ではあるのだが、批判の部分に関しては、もともと、これまでも多くの解説をしてこなかったので、ここも要点だけを抜き出して説明したい。

要するに、この分割は、カントの言う『<純粋認識>の領域に移し変えられた<有用な行動>の日常的な形式を象徴している。』(p.284 6行、<>内はテキスト傍点付き)、『それゆえ、微粒子―それがどのようなものであれ―によっては、物質の単純な特性は決して説明されないだろう』(p.284 6行-8行目)とベルクソンは言う。すなわち、物質の分割による最小粒子は、『<純粋認識>の領域に移し変えられた<有用な行動>の日常的な形式を象徴している。』と言い換えてもいいだろう。そのために、それによっては、『物質の単純な特性は決して説明されないだろう』と言っているのである。

(2012/11/27 筆者注:上段落は後半部分の説明を廃して、新たに説明を書きなおした。このようなことが、度重なることになっておりますことをお詫び申し上げます)

以下、段落の内容を要約すれば、科学的要素還元主義の行く先は、粒子(ベルクソンは『原子』と言っているがここでは説明のために粒子ということにする。原子を量子としてもほぼ同様の批判内容で問題ないため原子からさらに細分化された量子も含めた形で粒子と言って問題ないと考えたからである)と力学的法則だろう。そこでは、粒子は固形物、すなわち固体を想定しており液体でも気体でもありえないだろう。また、『非常に単純ないくつかの実験は押し合っている二つの物体の間に現実的接触が決して存在しないことを示している(9)』(p.285 1行-2行目、(9)は文献番号)ということも述べられている。

(筆者註:文献(9)が何かを章末から引用すれば、以下のものである『このテーマについては、マクスウェル「遠隔作用」(Maxwell, Action at a distance, Scientific papers, Cambrige, 1890,t. II, p.313-314)』)

以下、段落の最後まで引用しよう。

『他方、固体性は物質の絶対的に決定された状態からは程遠いものなのだ。(10) それゆえ、固体性と衝突は、それらの見かけ上の明晰さを実生活の習慣や必要性から借りている。 -この種のイマージュは諸事物の根底にいかなる光も投げかけているないのである』(p.285 3行-5行目、(10)は文献番号)

(筆者註:文献(9)と同様に文献(10)が何かを章末から引用すれば、以下のものである『このテーマについては、マクスウェル「物体の分子構造」(Molecular constitution ob bodies, Scientific papers, t. II, p.618 ) -ファン・デル・ワースは、他方で、液体と気体の状態の連続性を示した』)

この部分は特に解説する必要もないだろう。力学で扱う『固体性と衝突』の観念は、『常識』からその『イマージュ』を借りてきているだけだというのがベルクソンの主張である。

(2012/11/29 筆者注:上段落「われわれの科学的な認識が」の部分をよりテキストの内容に沿うように「力学で扱う『固体性と衝突』の観念は」に改めた。読者の皆様にはお詫び申し上げます)


以上、第十三段落を説明した。


第十四段落(p.283 15行―p.285 5行目)を見よう。

ここでベルクソンはさらに科学に対しての批判を強めていく。ここは難しいところもないので、前の段落に引き続き、基本的に概要だけを述べるにとどめたい。ここが第三節の最後の段落になっている。

まず、科学が最も正確であるのはその物質間の相互作用を説明することであると言う。こうなってくると、ますます細分化された物質は『それはもはや物質でなく力であると言われるだろう』(p.285 9行-10行目)と述べる。これは以前に物理学には力学的な力のほかに4つの力がありそれはすなわち量子として現代物理学では説明されている、と述べたこととまったく軌を一にするだろう。

(2012/11/27 筆者注: 以下3段落を補足した)

以下、ベルクソンの言うところを引用すると、

『諸原子の間に糸が張られていると想像されるが、これらの糸は次第により細きものにされ、ついにはそれらは目に見えないもの、さらには非物質とさえ思われるものになるだろう』(p.285 10行12行目)。

と、やや穿った見方になっているが、ベルクソンの言いたいのは先の第十三段落でも述べたようなものであり、また、現在の量子物理学が、われわれの常識とは全くかけ離れた形で量子の性質を説明していることを考えれば、ベルクソンのこの穿った見方を笑うことは難しいだろう。

しかも、哲学において、あるいは、身体・物質間に、ある『特殊な関係を築くこと』が『生きる』ことであるような『生の維持において』、『この粗雑なイマージュはなんの役に立つのだろうか』(p.285 12行13行目)。

以下、ベルクソンの言葉をしばらく引用しよう。

『生の維持はおそらく、われわれの日々の経験のなかに、惰性的な諸<事物>と空間内で諸事物によって及ぼされる諸<作用>とを見分けることを要求する。自分が事物に触ることのできるちょうどその点に<事物>の所在地を定めることは、われわれにとって有用であるから、事物の触知可能な輪郭がわれわれにとって事物の現実的境界となり、われわれはそのとき、事物の<作用>のうちに、その事物から切り離され、事物とは異なるなんだかわけのわからないもの(un je ne sais quoi)を見る』(p.285 13行-p.286 1行目、<>内はテキスト傍点付き)

まとめると、つまり、われわれの日常生活において有用であるような『諸事物』とは、われわれが『触知可能』つまり、感覚として触れて知ることのできうる範囲のものであり、その『輪郭』が『事物の現実的境界』なのであって、『作用』すなわち、科学の説明する物事の関係性は、『生の維持』ということにおいて、『なんだかわけのわからないもの』と言えるだろうと言っているのである。

(2012/11/27 筆者注:以下3段落を挿入)

ベルクソンの言うところを以下抜粋して引用してみると、

『そして、実際  われわれは、物理学者が力と物質の諸効果を究めるにつれて力と物質が接近し再び一つにになるのを目にする。われわれは、力が物質化し、原子が観念化し、これら2つの公が共通の境界へ収斂し、こうして宇宙がその連続性を再び見出すのを目にする』(p.286 4行- 6行目)

現代物理学とあまり変わらない考え方の部分を抜粋した。以下、このようなことが(特にこの時代議論されていた原子モデルについてのことが)詳しく説明されている。科学史に興味のある人には面白いかもしれないとは思うが、ここでの専門的なことを細かく説明することに意味があるとは思われず、その哲学的な意味はこの前ですでに言い尽くされていると思われるので省略する。この節の結論としてはこうなるであろう。

『すでに、心理学的分析は、この不連続性がわれわれの諸欲求と関係していることをわれわれに明らかにした。どんな自然哲学も最後には、不連続性が物質の一般的な諸特性と相容れないのを見出すようになる』

以上、第十四段落を説明した。

これで、

 Ⅲ-<絶対的に決定された輪郭を持つ独立した諸物体へと物質を分割することはすべて紛いの人為的行為である>  (p.280 16行目-p.281 1行目、<>内はテキスト傍点付き)

の説明が終わると同時に第三節の説明も終わる。