ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2012年6月23日土曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 第三章 記憶と精神 その11 第十一節 身体の用途


 ここでは、第十一節『身体の用途』(p.251 4行目−p.253 1行目)を見ていきます。いよいよこの節で、長かった第三章も終わりになります。また、この節も前節に引き続き段落分けはありません。また、この節は、ほとんどこの章のまとめの内容ですので、分けて解説をするものの全文を引用することになるでしょう。

では、最初の部分を引用しよう。少し長めなので読みやすさを考えて二つに分けて引用するが元々は一つの文章だ。説明を加えずとも十分理解して頂けると思う。

『身体は想起を脳装置の形で保存するとの考え、記憶の喪失や減少はこれらの機構の多かれ少なかれ複雑な破壊に存し、反対に記憶の高揚や幻覚はそれらの活動の過剰さに存するとの考えは、このように推論によっても諸事実によっても確証されない。本当のところは、観察が一見するとこの見解を示唆するように思われる例がただ一つあるということだ』(p.251 5行目−8行目)

『われわれは失語症について、より一般的には、聴覚あるいは視覚の再認障害について話してみたい。それは、病気を脳の特定の回<筆者註:脳のひだの凸部分>のなかの一定の部位に期することができる唯一の例である。しかし、それはまさに、ある特定の想起の機械的であると同時に決定的な引き離しではなく、むしろ、関与する記憶の漸進的で機能的な衰弱が目撃されるような例でもある。』(p.251 8行目−13行目)

以上を簡単にまとめれば、
「脳に記憶が蓄えられるのではない。そのような考えに対する反証はたくさんこれまでにも見てきた。脳のある部分がそれに対応する記憶を保持するように思われるな例(ベルクソンが言うには『ただ一つ』の例)に失語症の症例がある。それは、前節最後に述べたような『機械的』な引き離しではなく、『むしろ、関与する記憶の漸進的で機能的な衰弱が目撃されるような例でもある』」。
ということになろうか。

『そしてわれわれは、脳の中に蓄積された想起の貯蔵をいかなる仕方でも想定する必要なしに、いかにして脳の損傷がこの衰弱を引き起こしうるのかを説明した。』(p.251 13行目−14行目)

『現実に損なわれるのは、この種の知覚に対応する感覚と運動の諸領域であり、とりわけそれらを内的に作動させることを可能とする付属物である。その結果、想起は引っ掛かるものをもはや見出さず、最終的には実際上無力になる。』(p.251 14行目−p.252 1行目)

これらのことは、第二章で詳しく説明したので、ここでは、脳は記憶を蓄積してはおらず、『運動図式』あるいは『純粋想起』あるいは、ある種の習慣とでも呼ぶべきものだけが脳には蓄積されており、特に『イマージュ想起』という時間の順番に並んでいる過去すべては脳以外のどこかにすべて保存されている、というベルクソンの主張を再度紹介しておくだけにする。

『ところで、心理学において無力は無意識を意味する。他のすべての例においては、観察されたあるいは想定された損傷は、決してはっきりと局所化されないものとして、その損傷が感覚-運動的連結の全体の総体を変質させるにせよ、それをばらばらに断片化するにせよ、この損傷が感覚-運動的連結の全体にもたらす混乱によって作用する。ここから、知的均衡の激変あるいは単純化が生じ、翻って、想起の無秩序あるいは分離が生じるのだ。』(p.252 1行目−6行目)

ここで、この第三章でのもっとも大きなテーマである『無意識』について触れられている。『無意識』の中では、前章で説明された『純粋想起』は、われわれが物質世界の中のいわば現実・現在の活動のなかで『感覚-運動的』なものとして、最終的に選択され決定・行動にされるときに、以下のようなことが行われていると説明されていた。

1.まず、感覚器官からの信号や情報を『純粋想起』全体のなかから『類似』や『隣接』という仕組みによって自動的に選択が行われる
2.実際の『行動』近くなるほど、『想起』ともいえる観念は細部を切り落とされ単純化されあるいはより抽象的なものとなる

上記の『無意識』の働きの流れのなかで『知的均衡』とは、第五節以降で説明されているように『悟性』によってできるだけ大きなより具体的な詳細が挿入されようとするために、必ず現実のそして現在の行動あるいは感覚器官からの信号や情報と結びつくものでありながらも、そのような直接すぐの行動としての選択としての想起よりも、より想起としての個性や具体性を残している状態のことであると言える。

(2012/06/19 上段落において、ここでも『類似』に関する『悟性』の働きについての解釈の変更のための修正をした)

したがって、『他のすべての例』つまり失語症以外の精神病の症例は、その脳内の『損傷が決してはっきりと局所化されないものとして、その損傷が感覚-運動的連結の全体の総体を変質させる』場合でも『それをばらばらに断片化する』という場合であっても、『この損傷が感覚-運動的連結の全体にもたらす混乱によって作用する』ことによって、『知的均衡の激変あるいは単純化が生じ、翻って、想起の無秩序あるいは分離が生じる』ということによって起こると考えられる、と上記引用文は言い換えることができるだろう。

ベルクソンの仮説ならば、第九節以降で見てきた様々な精神疾患もこのように合理的に説明できるのであるが、それとは異なる、たとえば、次のような学説はこれらのことをうまく説明することができないと彼は言う。

『記憶を脳の一つの直接的機能ならしめる学説、解くことのできない理論的な諸困難を提起する学説、どんな想像力をも凌駕する複雑さを有し、内的観察の所与とは相容れない帰結をもたらすような学説は、このように大脳病理学の支持をあてにすることさえできない』(p.252 6行目−9行目)

ここで、これらの『学説』を具体的に挙げて説明することはしない。理由として、まず、ベルクソンの仮説を支持するならば、検討する必要のないと思われる学説を追求していても仕方ない、と思う事と、さらに、それらをベルクソン自身がこれまでと異なり、かなり否定的に書いていながら具体的な学説名を挙げていないということがある。しかし、ここで学究的に具体的な興味を持たれている方のために参考までにいくつか挙げておくと、第三章に限るだけでも、唯物論(特に、脳にすべての記憶が蓄積されているという理論)や唯心論、あるいは、観念連合の理論などがあった。

以後、ベルクソンの学説がこれら他の学説に比べて優れている点が挙げられている。少々長いが、全文を引用してこの章を終わりたい。内容はこれまでのまとめであり、あまり難しくないとは思うが、念のために文章構成上のテクニックでやや難解になっていると思われる部分については引用文の後に多少私なりの解釈を載せておいた。参考にして頂ければ幸いである。

『すべての事実とすべての類推は、脳のなかに諸感覚と諸運動のあいだの仲介しか見えない理論に有利に働いているのだが、この理論によると、諸感覚と諸運動の全体は心的生の尖端、数々の出来事の織物のなかに絶えず差し込まれた尖端であり<※1>、また、このように身体には、記憶を現実的なものへと方向づけ、記憶を現在と改めて結びつける機能しか割り当てられないから、この記憶そのものは物質から完全に独立したものと見なされるだろう。この意味で脳は有用な想起を引き起こすことに貢献しているが、更にそのうえ、それ以外の想起のすべてを一時的に斥けることにも貢献している。われわれは、どうして記憶が物質のなかに宿ることになるのかは分からない。けれども、われわれは、—現代のある哲学者の深遠な言葉によれば— 「物質性はわれわれに忘却をもたらす(10)」<※2>ということをとても良く理解できるのである』(p.252 9行目−p.253 1行目、(10)は文献番号、<※1>、<※2>は下記註釈の番号)


【上記引用文の註】

※1.『諸感覚と諸運動の全体は心的生の尖端、数々の出来事の織物のなかに絶えず差し込まれた尖端であり、』の部分、ここは、まず、『数々の出来事の織物のなかに』というところが、その後の『行動』による変化をもたらす現実・現在の物理世界を表わしている、と考える。

そうすると、『諸感覚と諸運動の全体』はどうして『心的生の尖端』なのかという不思議さは、『尖端』という言葉が『絶えず差し込まれた尖端』と言い換えて説明されていることから、この『絶えず』言葉によって、はじめは尖端ではない部分でも時間が経過すれば最終的には『行動』という先端部分に移っていくということの説明であると考られる。

つまりは、常に、感覚器官から受け取った信号や情報が『類似』や『隣接』によって『純粋想起』と結びつき、それらは近い将来の行動として『絶えず』行動に移される、ということを、『諸感覚と諸運動の全体は心的生の尖端』、と表現しているのではないだろうか、と理解できるのではないかと思う。

※2.『物質性はわれわれに忘却をもたらす(10)」』とは、テキストの文献番号から、フランスの哲学者のラヴェッソンの言葉であることが分かる。これは何を意味しているのか、というのはベルクソンのいうように『深淵』であるということのまま、謎にしておくことも良いかと思ってはみたが、しかし、ラベッソンの本を読まずとも、ベルクソンがラベッソンの言葉を引いて何を言いたかったのか、文脈上から判断して、次のようなことが考えられることを、読者諸氏のご理解のために解釈の一つとして例示しておこうと思った。

ここで言う『忘却』とは、引用文からみて、まず、『脳は有用な想起を引き起こすことに貢献しているが、更にそのうえ、それ以外の想起のすべてを一時的に斥けることにも貢献している』という部分から、『有用』でない部分を『一時的に斥ける』ことと考えるべきであろう。そうすると、『忘却』をもたらす『物質性』というのは、もちろん、言わば、脳に蓄積可能な記憶としての『運動習慣』即ち『純粋想起』あるいは『感覚-運動的諸機能』(p.250 6行目−7行目)のことでであり、また、脳に蓄積されたこれら『運動図式』の情報は、あるいは無意識としてわれわれの行動を選択するものとして、言い換えれば、現実・現在の物理世界に『絶えず差し込まれた尖端』としての行動を決定するものとして機能しているところの脳の『物質性』も指しているであろう。

また、この脳の『物質性』がうまく働かないとき、言い換えるならば、脳の『感覚-運動的諸機能』に何らかの異常がある場合には、『想起はもはや引っ掛かるものを見出』さない(p.251 17行目−p.252 1行目)ということから『忘却』するということもまた当然言えるだろう。

2012年6月22日金曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 第3章 記憶と精神 その10 第一〇節 心的均衡


ここでは、第一〇節『心的均衡』(p.249 16行目−p.251 3行目)を見ていきます。この節は、短い節で段落分けはありません。その分一つの段落が長いとも言えますが、少しずつ見て行きたいと思います。

まず、最初の部分を引用する。ここでは、精神異常、とくに人格分裂(現在で言う統合失調症)について、前節に引き続き議論されている。

※注:解説では、『人格分裂』のかわりに、『統合失調症』という言葉を使うが、テキストの引用では、そのまま『人格分裂』という言葉を用いる

『更にここには、単に精神異常の様々な形態のあいだでだけでなく、本来の意味での精神異常と最近の心理学がかくも緻密に精神異常に近づけた人格分裂とのあいだでなすべき多くの区別が存在するだろう(8)。これらの人格疾患においては、想起のいくつかの集合は中心的記憶から離れ、想起のほかの諸集合との連携を放棄しているように思われる。』(p.249 16行目−p.250 3行目)

『しかし、それに付随して感覚性と運動性の分離が観察されないのは稀である』(p.251 3行目−4行目)

引用文は連続した文章であるが、読みやすさと解説のための便宜上二つに分けた。ベルクソンは『統合失調症』を『精神異常』として捕えていないので、本来ならば、前節の『精神異常』との区別を述べて、様々な違いを議論すべきであろうが、現代では『統合失調症』は精神異常の一種であると認められていることもあり、その議論をせず、『統合失調症』についての症状のみを見ていくことにしたい。ここでは、『統合失調症』では、その患者のでたらめな言動のうちに記憶の連携というものが無くなっていることを観察の結果として得られる、ということだけではなく、知覚として受け取ったあとの感覚(『感覚性』)と運動(『運動性』)の連携が分離しているとベルクソンは言いたいのだろう。

(2012/06/09 上段落に精神異常と『人格分裂』の区別についての考察をしないことを追記)

実際、続きを見ていくと、

『われわれは後者の現象のうちに前者の現象の真の物質的基盤を見ないわけにはいかない。われわれの知的生の全体が、その尖端、つまりわれわれの知的生を現在の現実に挿入させる感覚-運動的諸機能に依拠しているということが正しいとすれば、知的均衡は、これらの機能が損なわれるその仕方に応じて様々に乱されるだろう。』(p.250 4行目−8行目)

と続けている。ここは少々難しいが、ここまで読み進んで頂いた読者諸氏なら、特に説明なしでも十分ご理解いただけると思う。

このあと、別の『機械的な減少』とも表現される原因による異なった精神疾患の例を挙げ、これも、ベルクソンの仮説、すなわち、脳では『純粋想起』という『感覚-運動的』なわれわれの生を司る記憶によって、現実・現在の周辺物理世界(感覚器官からの『震動』あるいはそこからもたらされる情報と言い換えて良いかもしれない)と想起の一致するものだけが行動の選択のために無意識や意識として処理されるという仮説と言って良いと思うが、それが正しければ、脳の損傷と、そのほかの原因での精神疾患では大いなる違いを見せるだろうと言う。ただし、ここではその症例を具体的に示すことはなく、当時としては自明とも言えるほど一般的な症例だったのであろうが、ここではどのような症例かはわからない。したがって、以降は症例自体が抽象的であるのでわれわれにはかなり理解しがたい文章となっている。一応全文を分けながら紹介し解説することにするが、そこでは、これまで以上に私の主観が多く入ることになるだろう。

『ところで、感覚-運動的機能の全般的な活力を損なう数々の損傷、われわれが現実感覚と呼んだものを弱め、廃棄するところの損傷の他に、あたかもいくつかの感覚-運動連結がただ単に他の諸連結から切り離されるかのように、もはや動的でなく機械的な減少によって表わされるような別の諸現象がある。われわれの仮説に根拠があるならば、記憶はこれら二つの場合で大いに異なった仕方で損なわれるだろう。』(p.250 8行目−11行目)

まず、ここまでで出てくる『動的でなく機械的な減少』というのが難しい。神経系の損傷以外の障害を言っているのであろうということしか分からない。恐らくは、『現実感覚を弱め、廃棄する損傷』に対するものであることから推測し、おそらく、物事が正しく認識できないような問題であろう。そこから考えれば、たとえば、近視であるとか、難聴、あるいは、身体のどこかが欠損して、感覚はもちろん運動するための部位を失う、などが考えられるのではないだろうか。ただし、この考えの難点は、『感覚-運動連結がただ単に他の諸連結から切り離されるかのように』と表現できるような事であるだろうかどうかである。しかし、一応、感覚器官の物理的な損傷と考えて、次の文章を読んでも一応筋は通っているように思われるので私案だがこの考えを紹介した。

『前者<筆者註:感覚-運動的機能の全般的な活力を損なう数々の損傷>においては、どんな想起も乖離させられはしないだろうが、すべての想起に付けられた錘はより軽くなり、それが現実へと導かれる着実さも低下し、その結果として、心的均衡の紛れもない破綻が生じる』(p.250 13行目−15行目)

『後者<筆者註:動的でなく機械的な減少によって表わされるような別の諸現象>においては、均衡は乱されないだろうが、均衡はその複雑性を失うだろう。数々の想起は、それらの通常の様相は保存するだろうが、相互の連帯を部分的に放棄するだろう。なぜなら、これらの想起の感覚-運動的基盤はいわば化学的<筆者註:ベルクソンが毒物と精神異常の関係に触れていたことを思い出していただきたい>に変質させられるのではなく、その代わりに機械的に減弱させられるだろうからだ。』(p.250 15行目−p.251 3行目)

この『後者』の『機械的に減弱させられる』事による異常は、あるいは、老化による異常かもしれないが、老化の異常も様々であろうから、感覚器官の神経系以外の部分の物理的な損傷ということを想定して解説をしてみた。

それでは、この節の最後の部分を引用してこの節の解説を終えよう。ごく簡単な一文の引用である。下の引用文の『想起』とは、ここまでのことを考えればもちろん『純粋想起』であろう。『純粋想起』自体の本来の仕組みは保存されているが、『化学的』あるいは感覚器官の神経の損傷以外の物理的な損傷ということを言っているのであろう。もちろん、『純粋想起』は『イマージュ想起』からもたらされると考えて『イマージュ想起』と『純粋想起』の双方と考えることも十分可能だ。

『ただし、どちらの場合にも、想起は直接的に損なわれたり傷つけられたりするのではないだろう。』(p.251 2行目−3行目)

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 第3章 記憶と精神 その9 第九節 生への注意


ここでは、第九節『生への注意』(p.246 1行目−p.249 14行目)を見ていきます。まず、お断りしておきたいことがあります。それは、われわれの『精神』における『類似』について、第七節分において第五節分から以下のように引用し、述べたところがあります。

「『精神がそこから出発するところの類似は、感じられ、生きられた、あるいはお望みなら自動的に演じられた類似である。精神がそこへと戻るところの類似は、知的に認知され思考された類似である』(p.229 11行目−13行目)

以下、このような、二つの仕組みによる『一般観念』について考察されていく。

ベルクソンはこう言う。

『悟性と記憶の二重の努力によって、個体の知覚と類の概念が構成されるのは、まさにこの進展の途中に於いてなのである』(p.229 13行目-15行目)

以下、ベルクソンの言葉をそのまま引用する。ここでの『悟性』はあまり難しく考えず「理性」もしくは『知性』と考えれば良いし、『抽象』はこの前の文(p.229 7行目-9行目)に『抽象[抽出]』とあるように『抽出』と置き換えてもかまないだろう。

『 —記憶は自然発生的に抽象された類似に区別を付け加え、悟性は数々の類似についての習慣から一般性についての明晰な観念を引き出す』(p.229 15行目-16行目)

言い換えれば、『記憶』は『類似』を『抽出』し、『悟性』は『知的』に『個体』を『類(カテゴリ)』に分ける、としても良いと思う。」

以上のように特に『一般観念』における『精神』における『類似』に『悟性』が深く関わっていると解釈を改めたことから、この節でも同様に『悟性』が深く関連する事項に対しての解釈を変更することにしました。読者の皆様にはたびたびのご迷惑をお詫びいたします。また、変更点についてはこれまで通りできるだけ注を付けています。

(2012/05/21、2012/06/22筆者注 お断りとしての記述の部分を追加)

それでは、テキストを見ていきたいと思います。

早速最初の段落(p.246 2行目−6行目)を見よう。この段落は数行なので、全文を引用する。節の最初の導入部分であるので、書いてあることはごく抽象的である。まず、ここでは、『低次の心的生』という言葉が出てくるが、これは、前節まで受けてのことであるので、第七節のタイトル (p.238 14行目)にもなっているような『夢の平面』(図5で言えば平面AB)や『行動の平面』(図5で言えば点S)のような思われる。ほかに、『知的均衡』という言葉もあるが、これも、ここまで出てきた考察から、図5でいう平面A'B'とA''B''をゆれ動く、バランスの取れた精神状態ということと考えても良いように思われる。後の段落を見て頂くと分かるが、これがこの節のテーマの一つともなっている。では、引用しよう。

(2012/05/19筆者注 低次の心的生についての記述が間違っていたので修正しました。たびたびの間違いをお詫びいたします。また、それ以降の解説においても一つ一つの注は省略していますが全面的に修正をしています)

『低次の心的生に関するこれら多様な考察から、知的均衡についてのある考えが生じるだろう。この均衡が明らかに狂わされるのは、素材としてその均衡に役立つ諸要素の混乱によってのみだろう。ここでは、精神病理学の諸問題と取り組むことは問題になりえないだろう。しかしながら、われわれはそれらを完全に避けることもできない。というのも、身体と精神の厳密な関係を規定しようと努めているのだから。』(p.246 2行目−6行目)

前節までの『低次の心的生』を考察で、われわれは、この『低次の心的生』が十分に『知的均衡』に関わっているということを理論的には理解しているつもりだが、それを検証しようということだろう。すなわち、仮説-検証という科学で用いる考え方で、まず、これまで詳述されてきた仮説の『知的均衡』即ち精神的な健康であることを検証する必要があるということだろう。このあと、『ここでは、精神病理学の諸問題と取り組むことは問題になりえないだろう。』以降の部分は、『精神』や『知的均衡』において、その健全性を測ることと『精神病理学の諸問題』を扱うことは必ずしも直接的な関係があるわけではないが、そのような疾患がないということを『知的均衡』と考えれば、それらを無視することはできないだろう、と言ってiると思われる。


では、次の段落(p.246 7行目−p.247 11行目)を見てみよう。

『われわれは、精神が、行動の平面と夢の平面という二つの極限のあいだに含まれた間隔を絶えず踏破していると想定した。なすべき決定についてはどうだろうが。』(p.246 7行目−8行目)

まず、上記引用よりこの段落では、『なすべき決定』について、述べられるであろう事が分かる。ここまでは『一般観念』や『複合観念』において、二つの『低次の心的生』の極限の間を『絶えず走破する』ということが述べられてきたわけであるが、それをここではまとめて『精神』とベルクソンが呼んでいることが興味深い。その『精神』と『なすべき決定』がどのように関連するかということがここでは、詳しく述べられるのであろう。

(2012/05/21、2012/06/22筆者注 『類似』に関する『悟性』の関与の解釈変更により上記段落の記述を変更)

『われわれがその人の性格と呼ぶもののなかで、その人の経験の全体を寄せ集め組織しながら、その人は自分の経験の全体を諸行動へ集中させるだろうが、あなたはそれらの行動のうちに、それらの素材として役立っている過去と共に、人格がそれらに刻み込む予見されざる形を見いだすだろう。』(p.246 8行目−12行目)

『しかし行動は、現在の状況 —すなわち時間と空間における身体のある特定の位置から生じる諸情勢の全体— にそれが嵌め込まれる場合にだけ実現可能であろう。』(p.246 12行目−14行目)

(2012/05/25 以下、上の二つに分けた引用文の解説に関してはやや曖昧な記述を訂正、説明を詳しくした)

読みやすさを配慮し、ここでも一続きの引用文を二つに分けた。前段はやや難解だが、『決定』について考える場合、まず、『性格』あるいは『人格』が問題になっているのが分かるだろう。まず『性格』について、第三節分(下)では特にこのように触れていた。

「『しかし、仔細に眺めるならば、われわれの想起も同種の鎖を形成しており、われわれのあらゆる決定につねに随伴するわれわれの<性格>なるものも、まさにわれわれの過去の状態すべての現実的総合であるのが分かるだろう』(p.208 15行目−17行目:<>内はテキスト傍点付き)

この、われわれの想起及び性格の記述は、特に、性格については、納得できない人もいるだろう。ベルクソンの主張においては、われわれの『意識』が『知覚』を受け取ったときの行動は、もっぱら『純粋想起』に従って行われる、というのはこの章でも見てきたとおりである。そして、前章によると、『純粋想起』は『身体の論理』によって曖昧さを許さないところまで分解され、レコードの溝のように記録されているのであり、意識は、無意識が、現代コンピュータのようにパイプラインに並べた、『純粋想起』を現在の瞬間において処理し続けていく、ということであったことを思い出して頂きたい。そこに性格というものがあるとベルクソンは考えている解釈できるのではないだろうか。」

したがって、ここでは、『性格』は『過去の状態すべての現実的総合』と言って良いだろう。

(2012/05/26筆者注 また、ここで性格と人格について分けて述べることにした。そのためここまではは性格のみで終わり、人格については以下の四段落で触れている。)

また、『人格』について、この章で特に触れているところでは、第六節分でこのように記述していた。

「次に、『われわれは、われわれの人格全体が、われわれの想起の全体と共に、不可分のままわれわれの現在の知覚のなかに入っていると想定した。』(p.236 7行目‐8行目)とあるが、これは、具体的にはp.216 7行目‐p.219 5行目に記述されている、『知覚』をすでに過去としたときに、ただの情報でしかない『イマージュ記憶』が、『運動図式』とも表現される『純粋想起(記憶)』が元になった『感覚-運動的』な物質に働きかける力を使って物質世界に働きかけるという形で統合されることを言っているのであろう。例えば、そのあとp.219 6行目‐p.220 3行目までの段落には『「見事に調和のとれた」(bien équilibrés)精神』や「行動の人」、「衝動的な人」、「夢見る人」、「良識」、「実践感覚」などの記述が見られる。(図4も参照のこと)」

従って、人格とは、『記憶』と共に『知覚』と統合されるもの、先の引用文で言えばその作用として『あなたはそれらの行動のうちに、それらの素材として役立っている過去と共に、人格がそれらに刻み込む予見されざる形』を取るものである。言わば、その人における個々人の知覚や行動の規範あるいはこだわりのようなものということなのであろう。

(2012/05/27筆者注 ベルクソンにおいてはほかの言葉もそうだが、特にこの『人格』という言葉についての用法ははっきり説明する事が難しい。上段落の説明は、この部分だけでの検討ではなく、第一章における『人格』という言葉の用法も検討した。検討した部分の引用文はこの第九節分の末尾に付記として残しておくことにしたので興味のある方は参考にして頂きたい)

上記引用文、後段は、しかしながら、取りうる行動に関しては、われわれの肉体が物理世界にある以上、その物理的な制約の範囲に制限されてしまうということだろう。

(2012/05/29 上段落の解釈は誤りだったため訂正。ご迷惑をおかけします)

つぎに、

『知的な作業、形成すべき考え方、多数の想起から引き出される多少とも一般的な観念』(p.246 14行目)

を考えるとどうなるか。これらは『決定』よりもさらに抽象的で、高度に知的である。それが、『低次の心的生』と関わりがあるのだろうか。

ベルクソンはこう言う。

『一方では気まぐれな空想に、他方では論理的な判断に、大きな余地(marge)が残されている。しかし、観念は、存続しうるためには、何らかの側面で現在の現実に触れていなければならない。』(p.246 15行目−p.247 1行目)

(2012/05/30筆者注 下段落の解説はより正しく解説するために改めた)

まず、『気まぐれな空想』というのは、『イマージュ想起』もしくは、『夢の平面』を連想させる。一方で『論理的判断』に関しては、ベルクソンはこの書でははっきり定義していないが『理性』もしくは『知性』あるいは『悟性』の範疇に入るものであろう。それらには、『大きな余地(marge)』すなわち、いかようにも解釈できる部分がある。しかし、これまでみてきたように、『観念は、存続しうるためには、何らかの側面で現在の現実に触れていなければならない。』ということから、その余地は極小となるに違いない。

『言い換えるなら、観念そのものの漸次的減少ないし凝縮を通じて、精神によって表象されると同時に身体によって多少なりとも演じられうるものでなければならない。それゆえわれわれの身体は、一方ではわれわれの身体が受け取る諸感覚、他方ではわれわれの身体が実行することのできる諸運動を伴うもので、まさにわれわれの精神を固定するもの、われわれの精神に錘りと均衡を与えているものなのだ。』(p.247 1行目−6行目)

ここで少しだけ解説を加えるならば、『観念そのものの漸次的減少ないし凝縮』というのは、『悟性』による働きで記憶のできるだけ詳細な部分が挿入されようとするにもかかわらず、図4や図5で行動である点Sへ記憶が近づくにつれて、細部が切り落とされ省略されていく過程を意味している。そもそもが『観念』とは元をたどれば記憶に他ならず、細部はその中心的特徴的な想起に依存しており、その『隣接』によるつながりは様々な記憶の断面として定義できるものとこの書では考えられている。それが行動に近づくに従い中心的な部分に近い部分が残り、詳細部分は省略されて行くのであった。このことを思い出して頂ければ、読者諸氏には上のようなやや難解な文章もご理解頂けるのではないかと思う。

(2012/06/21 上段落の解説も『類似』に関する『悟性』の関与の解釈変更により記述を改めた)

それでは、この段落の締めの部分である。いつものように引用して終わろうと思う。しかし、まず、次の部分だけは少し解説しておきたい。

『精神の活動は積み重ねられた想起の集塊を無限にはみ出しているが、それはこれらの想起の集塊それ自体が、現在時の諸感覚と諸運動を無限にはみ出しているのと同様である。』(p.247 6行目−8行目)

『精神の活動』というのは、これまで見てきた『決定』もしくは、『知的な作業、形成すべき考え方、多数の想起から引き出される多少とも一般的な観念』の事であろう。それらは、先に見たように、『一方は気まぐれな空想に、他方では論理的な判断に、大きな余地(marge)が残されている』わけでもあるから、当然そのような働きの際に行われる『想起』同士の組合わせはその元となる『想起の集塊』を無限にはみ出しているだろうし、また、『想起の集塊』は『現在時の諸感覚と諸運動』に対して、様々な想起がそれに適合しうるものであるという意味で『無限にはみ出して』いるのだろう。

(2012/05/31筆者注 上段落の解説は正確にするために全面的に改めた)

『しかし、これらの感覚とこれらの運動は、<生への注意>と呼ばれるようなものを条件付けている。』(p.247 8行目−9行目、<>内テキスト傍点付き)

と続く。この部分については、すでに解説したように、われわれは『感覚』や『運動』、言い換えれば、われわれの『身体』によって、『錘りと均衡』が与えられる。もし、そうでなければ、われわれの思念は無秩序に宙を漂よい、まるででたらめな行動を取ることであろう。

では、この段落の結論を引用しよう。

『そういうわけで、通常の精神の働きにおいては、その先端を支えとして立っているピラミッドにおけるように、すべてがそれらの感覚と運動の凝集力に依存しているのである』(p.247 8行目−11行目)


次の段落(p.247 12行目−p.248 6行目)を見よう。いつものように、段落のはじめを引用する。ここでは、神経系(脳を含むと思われる)が神経細胞(脳細胞)の複雑ではあるが単なる集合体に過ぎず、末梢神経からの刺激を受け取り、運動をするための刺激を送り出すものであると述べている。

『それに、最近の数々の発見が明らかにしたような神経系の繊細な構造にざっと目を通してみなさい。至る所に伝導体は見出されるが、何処にも諸中枢はないと思われるだろう。端と端を合わせて置かれ、流れが通過するときにおそらくその末端が接近し合うような諸繊維それが目撃されているすべてのものである。そして、われわれがこの著作全体を通じて想定してきたように、身体が受け取られる刺激と成し遂げられる運動との会合場所に過ぎないのなら、それがおそらく存在するすべてのものであろう。』(p.247 12行目−17行目)

ここで解説は必要ないだろう。ただ、われわれは、ベルクソンがこのような解剖学的所見と観察の結果から『純粋記憶』あるいは『感覚-運動系』とでも名付けられるような、われわれの肉体における神経系がおりなす精神の働きをここまで詳細に洞察したことに驚くしかない、とも言える。

さて、この後数行も分かりやすいので、簡単に要約すれば、このようにわれわれの身体は無数の神経が張り巡らされており、その働き(『それらの結合の堅固さとそれらの正確さ』(p.248 2行目))によって『身体の感覚-運動的均衡、即ち現在の状況への身体の適応を保証している』(p.248 3行目)

この段落はこのあと下引用のように締めくくられて終わる。『この緊張』という言葉が出てくるが、この段落で『緊張』という言葉は初めて使われている。おそらくは、神経系が『現在の状況』へ身体を適応させるためにつねに張り詰めて働いている、ということを意味しているのだと思われる。また、前段落まで範囲を広げて考えるとするならば、その最後に、『通常の精神の働きにおいては、その先端を支えとして立っているピラミッドにおけるように、すべてがそれらの感覚と運動の凝集力に依存しているのである』とあった事を受けてこの段落が始まっていることを考えると、拡散しがちな『夢見る平面』上の記憶とそれらの『類似』や『近接』による組合わせという『精神活動』とこの『感覚と運動の凝集力』との間に生じる『緊張』とも考えられるだろう。

(2012/05/31筆者注 上段落の『この緊張』についての解釈について、張りめぐらされた神経自体の『緊張』という部分を削除し、「また、前段落まで」以降の部分を追加。)

『この緊張を弛緩させてみなさい。あるいはまた、この均衡を崩してみなさい。そうすれば、すべてはあたかも注意が生から逸らされたかのように進行するだろう。夢と精神異常(aliénation)はほとんどこれ以外のものであるようには思われない。』(p.248 4行目−6行目)


では、次の段落(p.248 7行目−p.249 14行目)を見ていこう。この段落がこの節の最後の段落となる。

『われわれは少し前で、睡眠には、諸ニューロン間の連帯の中断があると考える仮説について話した。<筆者註:p.221 4行目-5行目>例えこの仮説が受け入れられないとしても(それでもこの仮説は興味ある数々の実験によって確証されている)、深い睡眠中に、神経系における刺激と運動反応のあいだで確立された関係が、少なくとも機能的に中断されることははっきり想定しなければならないだろう。』(p.248 6行目−10行目)

一部に注釈を入れたが、この段落の最初の部分の引用に難しいところはないだろう。前段落の終わりに『夢と精神異常(aliénation)』に触れてあった。この段落では、まず、夢について考察するのであろう。続きを引用しよう。

『したがって、夢はつねに、注意が身体の感覚運動的均衡によっては固定されざる精神状態であろう。そして、神経系のこの弛緩は、覚醒状態における神経系の諸要素の正常な活動の老廃物によるその諸要素の中毒が原因であるというのもますます確からしく思える。』(p.248 11行目−14行目)

というように夢と睡眠について考察し、このあと、夢が精神異常の状態とよく似ていることを指摘する。

『ところで、夢はあらゆる点で精神異常を模倣する。狂気とすべての心理学的症状が夢において見出されるだけでなく —これら二つの状態の比較がすべてありふれたものになってしまったほどに—、精神異常もまさに脳の衰弱のうちにその原因を持っているように思われるのだが、脳の衰弱は通常の疲労と同じく、神経系の諸要素におけるある特殊な毒素の蓄積によって引き起こされるのだろう(4)』(p.248 14行目−p.249 1行目、(4)はテキストの文献番号)

ここでは、脳内の『毒素』のような専門的な事には触れない。おそらくこの辺りのことは、現代においてはより良く分かっていることもあるだろうし、また、分かっていないことも多いだろう。ただし、ここにあるように、われわれの脳が身体と同じように疲労を感じるのは間違いない。ただし、ベルクソンの言うようになんらかの疲労物質(『ある特殊な毒素の蓄積』)の『中毒』のような比較的簡単な理由で説明できるかどうかについてはやや疑問ではあるが当時の最新の研究に従っているということではあるだろう。続きを見ていこう。

『知られているように、精神異常はしばしば伝染病の結果として生じるし、そのうえ狂気のすべての諸条件は毒物実験によって再現できる(5)。したがって、精神異常における精神の均衡の急激な変化はまったく単純に、有機体において確立された感覚-運動的諸関係の混乱に起因しているのが本当らしくはないだろうか。』(p.249 1行目−4行目、(5)はテキストの文献番号)

このように、ベルクソンの考察はやや抽象的とはいえ、まったく現代的であると言って良いだろう。精神異常がすくなくても、二,三十年前(私の思春期ぐらい)までは、一般にカルマなどの非常に神秘的な要素が含まれているようにも考えられていたことと比べれば、一〇〇年以上前のベルクソンの考察は遙かに進歩的であると言わざるを得ない。続きを引用しよう。

『この混乱だけで、一種の心的なめまいを引き起こし、そうすることで、記憶と注意が現実との接触を失うことであろう。幾人かの狂人たちによって与えられた、彼らの病気の発生期についての記述を読んでみなさい。あたかも知覚された諸事物が彼らに対してそれらの立体感(relief)と個体性を失ったかのように、彼らが奇異性(étrangeté)の感情、あるいは彼らの言う「非-実在性」 (non-réalité)の感情をしばしば抱いていること、それが分かるだろう(6)』(p.249 5行目−10行目、(6)は文献番号)

『この混乱』とは、もちろん『感覚-運動的諸関係の混乱』のことだが、そのことが、脳という器官の『記憶と注意』(ここでの記憶とは『純粋記憶』のことであろうが)という働きを狂わせことにより、『狂人たち』の『病気の発生期』において、知覚を狂わせ、『諸事物が彼らに対してそれらの立体感(relief)と個体性を失ったかのように、彼らが奇異性(étrangeté)の感情、あるいは彼らの言う「非-実在性」 (non-réalité)の感情をしばしば抱』くことの原因であろうと述べていると言い換えることができるだろう。

このことは、この後にも述べられているが、これまで見てきたように、すべての現実的な運動の選択、あるいは、『人格』的な判断、あるいはもっと抽象的な観念に基づく思考のいずれも、現実・現在の『知覚』を元にしており、そのことと、『純粋知覚』が結びつく事によって得られる『感覚-運動的諸関係』とは切っても切り離せない。そうして、最終的な選択に迫られるときに、それらは『意識』として『無意識』の暗闇から光を当てられ、われわれは『諸事物』の『実在性』の感覚を持つ。こう言えるのではないだろうか。

では、この節の最後の部分を引用して終わろう。

『われわれの分析が正確ならば、われわれが現在の現実について有している具体的感情は実際、われわれの有機体が諸刺激に自然に反応する際の有効な諸運動についてわれわれが有する意識のうちに存することになろう。 —その結果、感覚と運動のあいだの関係が弛緩するあるいは損なわれる場合には、現実感覚が弱まり、あるいは消え失せる』(p.249 10行目−14行目)




※付記 『人格』についての第一章におけるベルクソンの記述の抜粋

ここでは、ベルクソンの『人格』という言葉について考察する時に第一章でその言葉の使われているところも検討したということもあり、その検討において、参照した部分を抜粋して記しておく。

まず、物質宇宙全体をイマージュとして考えることを述べた後、われわれの肉体が特別なイマージュであるということを説明して次のように述べている。

『私の宇宙の中心として、私の人格性(personalité)の物質的基礎として私が採用するのが、この特殊なイマージュなのである。』(p.75 6行目−8行目)

ほかに、知覚に関する『延長』について考察した部分に以下のような記述がある。

『しかし、われわれ自身の本性、われわれの人格の役割と使命もまた、大いなる謎に覆われたままである』(p.77 15行目−16行目)

また、知覚についてさらに考察を重ねた部分に『非人格的』という言葉がある。

『ただ彼らは、知覚が知覚された対象と一致するような非人格的な土台が存続すること、(以下略)』(p.82 12行目)

ほかに、知覚と想起が本質的に異なるということを主張している部分にこのようなところがある。

『あたかも知覚が、想起のようなやり方で、一つの内的状態のように、われわれの人格の単なる一つの変化のようにわれわれに与えられると推論することになるだろう。』(p.84 1行目−3行目)

2012年5月18日金曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 精神と記憶 その8 第八節 意識の多様な平面


ここでは、第八節『意識の多様な平面』(p.241 5行目−p.245 17行目)を見ていきます。

早速はじめの段落(p.241 6行目―p.243 1行目)を見よう。いつものようにはじめの部分を引用する。ここでは前節最後の部分の結論を受けて次のように始まる。

『それゆえ、あたかも、われわれの数々の想起が、われわれの過去の生のこれら無数の収縮の中で無制限に反復されているかのように、すべては進行している。われわれの数々の想起は、記憶がよりいっそう収縮するときにはよりありふれた形をとり、記憶が拡大するときにはより個性的な形をとるのであるが、こうして想起は、無制限に多くの「体系化」(systématisations)に組み込まれる』(p.241 5行目−10行目)

前節では、図4や図5のような想起の円錐のなかで、想起が『収縮』と『自転』という言葉で表現される運動を取るとされたが、ここでは想起の『収縮』に焦点が当てられている。

(2012/05/09筆者注 前節第七節の最後では、

『言い換えれば、記憶の全体が、同時に生じる二つの運動によって、現在の状態の呼び掛けに応えるのであるが、その運動の一方は並進運動(translation)であり、それによって、記憶は全面的に経験に先んじ、行動することを目指して、分割されることなく、多かれ少なかれ収縮する。他方は、自転運動(rotation sur elle-même)であり、それによって記憶はそのときの状況へ向かってもっとも有益な面をその状況に示す。これらの様々な収縮の段階に、類似による連合の多様な形態が対応している』(p.240 15行目―p.241 41行目)

とあり、『自転運動』あるいは『自転』と対比させるべきなのは、『並進運動』であり『並進』であるだろうが、ここでは、わかりやすさをを考慮して、『自転』と『収縮』という草稿段階の対比のさせ方をそのまま踏襲している)

『収縮』と『自転』、これら二つの運動は、まずは『感覚‐運動的状態』のなかに嵌め込むことができるもの、言い換えれば現在の知覚に類似しているものだけが『意識の光』にさらされうるという過程で起る、記憶の詳細部分を制限するかあるいはそれを展開するかという『二重の運動』(p.237 9行目)のことだろう。

(2012/05/18筆者注 上段落は説明が不足していると思われたので、後半部分を改めた)

そのうち『収縮』は記憶を『分解されることがなく』収縮するわけであった。その際、より収縮する必要がある場合には、その個性的な部分を多く手放すことを余儀なくされ、そうでない場合は多く残す。また、想起は観念としての無数の『連合』が可能であり、言い方を変えれば、すなわち『無制限に多くの「体系化」(systématisations)に組み込まれる』。

たとえば、

『私の耳へと発せられた外国語のある単語は、この言語一般のことや、異なる仕方でそれを発音した声のことを私に考えさせることができる。これら二つの類似による連合は、(中略)、精神の異なる二つの構え、記憶の緊張の二つの別の程度に対応しており、こちらでは、純粋イマージュにより引き寄せられており、あちらでは直接的応答(réplique)、つまり行動へとよりいっそう向けられている』(p.241 10行目−17行目)

ということになる。この部分については、すでに読者諸氏には解説不要であろうが、中略した部分には、観念連合論(エピクロスの原子のような観念やイマージュが知覚により偶然に結び付き会うという考え方)に対する否定が書かれてあったことだけ言い添え、続きを見たい。

(2012/05/16 下段落はよりテキストに沿う形に改めた)

さて、以下、『これらの体系の分類すること』、『体系の各々をわれわれの心的生のさまざまな「調子」を結びつけている法則を探求すること』、これら『心的生』の『「調子」』が『そのときの必要性』あるいは『様々な程度で傾ける個人的努力』によって『いかにしておのずから規定されるか』、など示すことは困難であろうが、『しかし、われわれは各人、これらの法則が現実存在すること、この種の安定した諸関係があることをはっきり感じ取っている』とベルクソンは言う。 (p.241 17行目−p.242 6行目を要約)

『例えば、われわれが心理分析小説を読むとき』と、例を述べている。まず、われわれは、『描写されている諸観念』のうちいくつかは『正しい』、あるいは『体験されたものだ』とわかるだろう。しかし、そうでなく『不快』と感じたり、『現実的』と感じさせないものもあるだろう。なぜ、『不快』になったり、『現実的』でないと思うのかは、ある場面つまりはある『心的生』の『平面』に対し、著者がみずから選んだにも関わらず、あたかもそこに留まることができなかったかのように、『精神の相異なる階層間の機械的な結び付きを、われわれはそこに感じるからだ。』(p.242 6行目−12行目を要約)

それは、『魂の画家』の能力の不足というより、『記憶』が『緊張あるいは活力の相異なる継続的諸段階』を伴っており、かつ、『定義しがたいもの』であるがゆえに、『魂の画家は、支障を来すことなくそれらを撹拌することはできない』(p.242 12行目−14行目を要約)

病理学も大雑把ではあるが同様のことを例示し、上記した『各人が感じ取っている』ところの『法則の現実存在』や、『想起』の『安定した諸関係』を『確証』していると言う。(p.242 14行目−15行目)

『例えばヒステリー患者の「系統的健忘症」において、消滅させられたように思われる数々の想起は現実には残っているのだが、それらの想起はすべて、知的活力のある特定の調子に結びつけられていて、患者はもはやそこに身を置くことができない』(p.242 15行目−p.243 1行目)

(2012/05/18筆者 今日ではヒステリーという病名は一般に使用されておらず「系統的健忘症」という病症名も一般的ではない。筆者なりの調査の結果、「解離性障害」として分類される症状の一つに「解離性健忘症」と呼ばれるものがあり、現在の分類ではこれが相当するのではないかと思われる。これは、心的なストレス要因で記憶の一部が失われることを指す。(参考)http://ja.wikipedia.org/wiki/解離性障害)


このあとは、次の段落(p.243 2行目−p.245 17行目)に入る。この段落は比較的長く節の終わりまで続く。

最初の文を引用する。

『このように、類似による連合にとって無数の<相異なる平面>が存在するのだが、隣接による連合についても事情は同じである』(p.243 2行目−3行目、<>内はテキスト傍点付き)

このように、この節においては、『記憶の収縮』とその『連合』について『類似』と『隣接』の二つの観念の連合の種類について解説してあることが、ここで明示され、前段落では『類似』、つぎに、この段落では『隣接』による記憶(あるいはここでは観念と言っていいかもしれないが)の連合について述べられることが暗示されている。

続きを見よう。

『記憶の底面を表す極限平面<筆者註:たとえば図5の平面AB>においては、先行する出来事の全体と同様、後続する諸出来事の全体へと隣接によって結びつけられていないような想起は存在しない。それに対して、空間においてわれわれの行動が凝集する点<筆者註:同様に図5の点S>では、隣接は先立つ類似的知覚に直接的に後続する反応だけしか、運動の形で再生することはない。』(p.243 3行目−8行目)

ここまで、引用文に若干注釈を入れたが他に難しいところはないと思う。第六節分で解説したように『隣接』には時間的、場所的に近いものを結びつけるという働きがあるが、ここでは、特に時間的な『隣接』が扱われている。

『実際は、隣接によるどんな連合もこれら二つの極限の中間の精神的位置をを含意している。』(p.243 3行目−8行目)

ここからがやや難解になるので、少し解説を入れながら引用していこう。前段落と同じように、記憶の自在な収縮を仮定し、言い方を変えれば『われわれの想起の全体の多くの可能的な反復を想定するならば』(p.243 8行目)、

『われわれの過ぎ去った生の規範の各々はそれぞれの仕方で特定の切断面へと切り分けられるだろうが、分割の形態は、ある規範から別の規範へと移る場合には同じではないだろう。なぜなら、これらの規範の各々は、他の数々の想起が支点に凭れ掛かっているように凭れ掛かっている支配的な想起の本性によってまさに特徴づけられているからだ』(p.243 9行目−12行目)

上の引用文を少し整理すると、

1. まず『過ぎ去った生の規範』というのは記憶から抽出される。それらは『特定の切断面』に対応していると書かれている。これは、おそらく図5で言う、平面A'B'や平面A''B''等を表わしていると思われる。
(2012/05/12 筆者注 上の1.の説明の記述を大幅に変更)
2. しかし、その『断面図』への『分割』の仕方は、それぞれに違う。(引用文に対して正確を期すれば、『分割の形態』は『生の規範』ごとに違う。)
3. なぜそのようになるかは、各々の『生の規範』において『支配的な想起』というものが存在しており、その『本性』なるものがそれぞれの『生の規範』を特徴付けているからだ。言い換えれば、記憶から『生の規範』が抽出されるときには『支配的な想起の本性』が大きく関わっていて、その『本性』がそれぞれにおいて異なるために『分割』の仕方も一通りではない。

となるだろう。

このあと、しばらく例を挙げて説明されている。

『例えば、<行動>に近づくにつれて、隣接は類似の性質をますます帯びるようになり、単なる時間的継起の関係からますます区別されるようになる』(p.243 12行目−14行目、<>内はテキスト傍点付き)

『行動』というのは、図5点Sと考えて良いだろう。そうなると、想起はその個性をますます放棄し、時間的な継起の順序を保持するという特徴を持つ隣接も類似とは区別がつかなくなっていく、ということを言っているのだろう。

『そのようなわけで、外国語の語についてそれらが記憶の中で互いに喚起し合うとき、類似によって連合しているのか、それとも隣接によって連合しているのかと言うことはできないだろう。』(p.243 14行目−15行目)

『外国語の語』を聞くという『行動』ではそのようなことが起こる、というさらに具体的な例が示された。

このあと、対照的な例が示される。

『反対にわれわれが、現実的なものであれ可能的なものであれ行動から離れるにつれて、隣接による連合は、われわれの過去の生において相次いだイマージュをただ単に再現するようになる。』(p.243 16行目−p.244 1行目)

『ここでは、これら多様な体系についての掘り下げられた研究に立ち入ることはできない。これらの体系は原子のように並置された想起によって形成されているのではまったくないということを指摘するだけで十分だろう』(p.244 1行目−4行目)

上記引用は、読みやすさを考慮して二つに分けたが実際は続いている。この部分は何も難しい事はないだろう。少しだけ解説を加えれば、ここでも、『エピクロスの原子』のような『観念』が並んでいるところにどうして新しい観念が勝手に割り当てられるのだろうか、という従来の『観念連合論』についての批判をほぼ同じ批判を繰り返しているだけであろう。

(2012/05/18筆者注 上段落、後半部分を削除)

『つねにいくつかの支配的な想起、紛れもない輝く点が存在しており、それらの周りで他の想起は漠然とした霞のごときものを形成する。これらの輝く点は我々の記憶が膨張するにつれて増加する。例えば、ある想起を過去の中に局所化する過程は、すでに述べたように、あたかも袋の中に入り込むかのように、自分自身の数多くの想起の中に入り込んで、そこから、次第に隣接を深める想起を取り出し、それとのあいだに、局所化すべき想起が位置することになるわけでは全くない。その場合、いかに幸運な機会によってわれわれは、その数を増やしつづける仲介的想起を見つけることができるのか。』(p.244 4行目−11行目)

このように、反対する考えが、まず事実上、不可能であることを改めて示した後でベルクソンはこう言う。

『局所化の作業は実際、ますます増大していく<拡大>の努力のうちに存していて、常に全面的にそれ自身に現前している記憶はこの努力によって、その想起を益々大きな面の上に広げ、かくして遂に、その位置を見いだしていなかった想起を、それまでは乱雑だった集積のなかに見分けるに至る』(p.244 11行目−14行目、<>内はテキスト傍点付き)

(2012/05/16筆者注 下段落の上引用文の解釈については、正しくないと思われたので改めた)

『局所化の作業』というのは、ここでは、たとえば、ある『知覚』がどの『複合観念』に相当するかを特定するために、細部にわたって照合を行っていく『作業』ということだろう。要するに上引用文は、『記憶』の『収縮』とは反対の『拡大』によって、『知覚』のある部分と『想起』(ここではおそらく『支配的な想起』と隣接よって結びついた一般観念もしくは数々の経験、わかりやすさを重視してごく簡単に言ってしまえば『イマージュ想起』)との照合がより『拡大の努力』が進むに連れより詳細に行われていく、ということを述べているのだろう。


このあと、突然の衝撃によって起こる、逆行性健忘症の例が挙げられる。逆行性健忘症とは、大げさに言うとドラマの中に出てくる記憶喪失と思って頂くと良いだろう。ある衝撃的な事故などの出来事によって、その前後しばらくの記憶が抜け落ちてしまうこと、とここでは考えた方がより適切かもしれない。これは、簡単に言えば、あまりにも突然すぎて、記憶のなかに結びつく想起がないために、その前後の記憶も引き続き思い出されることが無くなる、と説明されている。ベルクソンの書き方はなかなか難しいのだが実際に見てみよう。(読みやすさを考えて、ここでも連続している文章を二つに分けている)

『そのうえ、ここでもまた、記憶の病理学が有益な情報をわれわれに提供するだろう。逆行性健忘症[障害が生じる以前の想起も欠損してしまう]において、意識から消え失せる想起は、おそらく記憶の極端にある諸平面上では保存されており、患者は、催眠状態において成し遂げる努力のような例外的な努力によって、それらの想起をそこに再び見いだすことができるだろう。』(p.244 14行目−p.245 2行目)

『しかし、より低い諸平面上ではこれらの想起は、それらがもたれかかることのできる支配的なイマージュを言わば待望していた。ある突然の衝撃、ある激しい情動<エモシオン>は、これらの想起が繋がれている決定的な出来事であるだろう。そしてこの出来事が、突然のものであるというその特徴のために、我々の歴史のその他のものから切り離されているとすれば、これらの想起はその出来事の後を追って忘却されるだろう。それゆえ、身体的であれ精神的であれ、ある衝撃の結果として生じた忘却は直前の数々の出来事を含むということが理解される。—これは、記憶についてのほかのどんな考え方を持ってしても非常に説明しがたい現象である。』(p.245 2行目−7行目、<>内はテキスト中フリガナ)

『記憶の極端にある諸平面上』とは、図4や図5でいう平面ABもしくはそこに近い諸平面と考えて良いだろう。ここは、ほぼ『イマージュ想起』と同じものと言っても良いのかもしれないが『イマージュ想起』はベルクソンによると、時間の経過と共に全てが保存されているに対し、この『記憶の極端にある諸平面』はそうではない。ところで、先に見たようにある出来事は、『局所化の作業』と『拡大の努力』のうちに記憶の平面に広がっていくものであるという違いが存在する。これが、『より低い諸平面上』つまり、行動に近づくもしくは図4や図5の点Sに近づくにつれて、『支配的なイマージュ』というものに想起はいよいよ収縮されていく。そういうことがあるので、『支配的なイマージュ』というものが、あまりに唐突で突然のものであると、『局所化の作業』で行われる『拡大の努力』にも関わらず全体の『(純粋)想起』の中で孤立化してしまい、結果『類似』や特に『隣接』の働きがうまくゆかず、その前後のしばらくの間の記憶まで消失するのではないか、とベルクソンは考えているというのが分かる。

さて、このあと、この節を締めくくる部分が来るのだが、この部分では、記憶の『待機』ということについて説明されている。上の引用で言えば、ある衝撃的な出来事の前後の部分の記憶、即ち、われわれが『知覚』から受け取る、何らかの経験、その『記憶』というのは、ある一定の時間間隔が必要だという意味である

(2012/05/18筆者注 上の段落の『待機』についての説明を簡略化した。)

『ついでに指摘しておくと、この種の何らかの待機を、真新しい想起、更には比較的遠くの想起にさえ与えるのを拒むなら、記憶の通常の働きは理解できなくなるだろう。なぜなら、その想起が記憶の中に刻み込まれたあらゆる出来事は、どれほど単純であると想定しても、ある時間を占めていたからだ。』(p.245 8行目−12行目)

(2012/05/16筆者注 上の引用文の解説は正しくなかったので改めた。たびたびの訂正、大変申し訳ありませんでした)

『出来事』とこの宇宙に起る事象のわれわれ人間から見た区別であるが、その『出来事』はどんなに短いものでもある長さの時間を占めるであろう。その意味では、われわれの記憶において一定の時間は不可分のものであり、ある『記憶』において一定の時間を占めるその部分を『待機』とベルクソンは呼び、複合観念においては特にそれは無視できないと指摘しているのであろう。

さて、ここまでくれば熱心な読者諸氏ならば残りの部分はおそらく解説なしに読めるであろうから、段落や節を締めくくるときいつもと同様に、引用文だけを示しておきたい。

『この間隔の最初の期間を満たしていた諸知覚は今や、引き続いて生じる諸知覚と共に不可分な想起を形成しており、それゆえ、この出来事の決定的な部分がまだ生じていなかったあいだは、まさに「宙に浮いて」いたのである。ある想起がそれに先立つ多様な細部と共に消え失せることと、決まった出来事に先立つ多少とも多くの想起の、逆行性健忘症による消滅とのあいだには、それゆえ、本性の相違ではなく、単なる程度の相違があるだけなのだ。』(p.245 12行目−17行目)

2012年5月6日日曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その7 第七節 夢の平面と行動の平面

ここでは、第七節『夢の平面と行動の平面』(p.238 14行目-p.241 14行目)を見ていきます。

早速、第一段落(p.238 15行目-p.239 17行目)を見ていくとしよう。 これまでのように導入部分を引用する。ここでは前段落の『われわれの心的生の最大限の単純化』(p.237 16行目)と対照的ないわゆる『夢見る人』(p.219 17行目)についてまず簡単に語られる。

『それでは、われわれの心的生のもうひとつの極端へとひと跳びで身を移そう。単に「演じられている」だけの心理手学的実存在から、ひたすら「夢見られている」心理学的現実存在へと、われわれの方法に即して移行してみよう。』(p.238 15行目-p.239 1行目)

以下少しまとめると、図5の平面AB、すなわち『過ぎ去った人生のすべての出来事がその最小部分まで描かれるような記憶の底面AB』に身をおいて考えようというのだ。そのとき『意識』は『行動から解き放たれ、過去全体をそのまなざしの元に保持している』。そのような『意識』は、過去全体を見渡すが故に過去のある部分に執着することはまったくないだろう。(ここまでp.239 1行目-5行目を抜粋して解説)

このように、『ひたすら「夢見られている」心理学的現実存在』がどのようなものかを簡単に述べた後、ここから更なる考察が展開されていく。少しずつ見ていこう。

『ある意味で、こうした意識のすべての想起はその現在の知覚とは異なっているだろう。というのは、その細部の多様性と共に、それらの想起を取り出すとすれば、二つの想起は決して同一のものではないからだ』(p.239 5行目-6行目)

ここは『現在の知覚』は過去のどの似たような『想起』とも細部まで見ればまったく違うものだ、という解釈でいいだろう。続けよう。

『しかし、別の意味では、<任意の>想起が現在の状態に関連付けられうるであろう。』(p.239 7行目-9行目:<>内はテキスト傍点つき)

ここは『現在の知覚』がどの想起とも違うのなら、逆の意味で、どの想起とも結びつけることが可能になってしまうだろう、と言っているわけだ。つまり、暗に『現在の知覚』と『想起』を『細部の多様性』を無視した形で一致させないと『現在の知覚』と『想起』は結びつくことはないだろう、と言っているのだ。

このようにして、この部分のベルクソンの論理の展開の結末は、次のようになる。

『そのためには、この知覚とこの想起から、類似だけが現れるようにするのに十分なだけ、細部を無視するだけでよいだろう』(p.239 8行目-9行目)

さらに続きを見ていこう。そこには、まず、ひとたび『知覚』と『想起』が結び付けられると『ひたすら「夢見られている」心理学的現実存在』ではどのようになるかが述べられる。

『そのうえ、ひとたび想起が知覚に結び付けられると、その想起に隣接している多くの出来事が、同時にその知覚に結びつくだろう。 -それらの出来事は無制限に多く、意図的に打ち切りを選択しなければ決して制限されることはないだろう。類似の、ひいては隣接の効果を規制するための生の必要性はそこにはもうない。』(p.239 9行目-13行目)

(2012/04/17筆者注 下段落に上の論理的結論を説明として付け加えた)

つまり、そこでは、『生の必要性』、即ち、生きるために何かしなくてはならないということがまったくない状態になると、まさに夢を見るように、あるひとつの『知覚』と『想起』の結びつきを起点にして際限なく『類似』と『隣接』の連鎖がとまらなくなるだろう。なぜなら、『知覚』と『想起』は、細部においてどこまでも違うものであるから、『知覚』がある『想起』と結びつくという事が一度起きるならば、それは他のいかなる想起とも無差別に結びつくという事になるからである。すなわち、

『そして、結局、すべてが類似しているのだから、すべてが連合できることになる。』(p.239 13行目-14行目)

以上を、前節で見た『われわれの心的生の可能な限り最大の単純化に対応する点S』と対照させると、

『少し前までは、現在の知覚は決まった諸運動へと引き継がれていたのだったが、今では、この知覚は等しく可能な無数の想起へと解消される』(p.239 14行目-15行目)

この段落の結論として『ひたすら「夢見られている」心理学的現実存在』では、こうして次のようなことが起こるだろうとベルクソンは述べる。

『それゆえ、ABにおいては連合は、Sにおいて運命的な動きが惹起されるように、気まぐれな選択を惹起するだろう。』(p.239 15行目-17行目)


では、次の段落(p.240 1行目-p.241 4行目)を見よう。

まず、これまでのように始まりを引用する。

『しかし、それらは二つの極限でしかなく、心理学者は研究の便宜上代わる代わるそこに身をおかなければならないのだが、それらが実際に到達されることは決してない。少なくとも人間においては、漠然とした活動の基盤なしには今以上の営みが存在しないのと同様に、純粋に感覚-運動的状態も存在しない。』(p.240 1行目-4行目)

ここは特に、解説する必要もないだろう。次に、

『われわれの通常の心理学的生はこれら二つのあいだを揺れ動いていると、われわれは言った。』(p.240 4行目-5行目)

とあるのは、図4の説明では、例えば、『良識(bon sens)あるいは実践感覚(sens pratiqze)はおそらくこれ以外の何者でもない』(p.220 2行目-3行目)とあったり、図5の説明の部分では、『実際、正常な自我はこれら極端な位置の一つには決して固定されず、それらのあいだを動き、中間的諸断面によって表象される数々の位置を代わる代わる採用する』(p.232 7行目-10行目)とあったりした部分が相当するだろう。

本文でも少し説明があるので引用すると、

『一方では、感覚‐運動状態Sが記憶を方向付けているが、この状態は結局、記憶における現在的で活動的な極限でしかない。他方、この記憶そのものは、われわれの過去全体と共に、記憶それ自身のできるだけ大きな部分を現在の行動に差し入れるために、前方への推力を行使している。これら二重の努力から、記憶の無数の可能的な<諸状態>、われわれの図式の断面A'B'、A''B''などによって描かれた諸状態があらゆる瞬間に生じるのである』(p.240 5行目-10行目:<>内テキスト傍点つき)

ここまで読んでこられた賢明なる読者諸氏には説明は不要と思うが、念のために、これに少しだけ解説を加えると、まず、『感覚‐運動状態S』は『記憶』の『方向付け』をする。つまり、『知覚』と『運動』を『記憶』を使って結びつける。言い換えれば、われわれの肉体は現実の物質世界との関わり合いを絶え間なく続けるという事になるだろう。これがすぐ後でベルクソンが、われわれが行っている記憶の操作における『感覚-運動状態S』における『これら二重の努力』と述べているところの『記憶における現在的で活動的な極限』に相当するだろう。これが、『これら二重の努力』の一つ目であろう。

(2012/04/17筆者注 上段落の「言い換えれば、われわれの肉体は現実の物質世界との関わり合いを絶え間なく続けるという事になるだろう。」という一文を追加)

二つ目は『過去全体』、言い換えれば、すなわち、図5でいう平面ABからみた時の『記憶』は、『類似』の働きを使って、『記憶それ自身のできるだけ大きな部分を現在の行動に差し入れるため』の『前方への推力を働かせている』、と言っているのだろう。ここで、この『前方への推力』というのは、『一般観念』を説明した第五節では、以下のように解説していたように、悟性の働きであろう。

「『精神がそこから出発するところの類似は、感じられ、生きられた、あるいはお望みなら自動的に演じられた類似である。精神がそこへと戻るところの類似は、知的に認知され思考された類似である』(p.229 11行目−13行目)

以下、このような、二つの仕組みによる『一般観念』について考察されていく。

ベルクソンはこう言う。

『悟性と記憶の二重の努力によって、個体の知覚と類の概念が構成されるのは、まさにこの進展の途中に於いてなのである』(p.229 13行目-15行目)

以下、ベルクソンの言葉をそのまま引用する。ここでの『悟性』はあまり難しく考えず「理性」もしくは『知性』と考えれば良し、『抽象』はこの前の文(p.229 7行目-9行目)に『抽象[抽出]』とあるように『抽出』と置き換えてもかまないだろう。

『 —記憶は自然発生的に抽象された類似に区別を付け加え、悟性は数々の類似についての習慣から一般性についての明晰な観念を引き出す』(p.229 15行目-16行目)

言い換えれば、『記憶』は『類似』を『抽出』し、『悟性』は『知的』に『個体』を『類(カテゴリ)』に分ける、としても良いと思う。」

(2012/04/17筆者注 上段落は一部を削除。他に、最後の文を追加。また、『推力』を行使しているのが『過去全体』というテキストに沿う形に改めた。
2012/05/06筆者注 さらに、『推力』の部分の解釈を改めた)

『これら二重の努力から、記憶の無数の可能的な<諸状態>、われわれの図式の断面A'B'、A''B''などによって描かれた諸状態があらゆる瞬間に生じるのである』(p.240 5行目-10行目:<>内テキスト傍点つき)ということになるとベルクソンは言う。

(2012/04/17筆者注 一段落削除。また下段落は初め二つだったものを一つにした)

ここから、この段落の最後、つまり、この節の最後まで、ここまでの二つの記憶についての繰り返し変奏され説明されてきた事柄について若干のまとめに入る。また少しずつ見ていこう。

『それらはいずれも、われわれの過去の生全体の繰り返しであるとわれわれは言った。』(p.240 10行目-11行目)

(2012/05/05 以下、上の引用の解説は、第三節の部分を中心に引用解説していたが、第三節では『無意識について』がタイトルであるが、そこでは、途中、一旦、『真に現実的な現実存在』(p.212 10行目)についてなど当時の観念連合論や心理学が唱える理論が導き出す『錯覚』についてのの議論がなされている。しかし、ここでは、ふたたび、二つの記憶の問題に戻ってきており、そのあと、一般観念、それからその連合についての議に入っている。したがって、第三節での『錯覚』についての議論はここでは該当しない可能性が論理的に考えて高く、その部分についての解説は削除し、より諸観念の連合について焦点を合わせた形であろうと見直し、以下のように改めた。)

ここに相当するのは、前節第六節の

『その時説明しなければならないのは、もはや内的な団結ではなく収縮と膨張という二重の運動であり、この運動によってその内容を展開したり、抑えたりしている。』(p.237 8行目‐10行目)

『しかしこの運動は、われわれがこれから見るように、生の根本的必要性から演繹されるのであり、こうして、なぜわれわれが、この運動に沿って形成するように思われる諸「連合」が隣接と類似の継起的諸段階のすべてを使い尽くすのかも容易に分かるだろう。』(p.237 10行目‐13行目)

というところであろう。

あるいは、もっと遡って、

『知覚されざる諸対象の全体が与えられていると想定することに私が何の不都合も覚えないのは、これらの対象の厳密に定められた順序がそれらに一つの連鎖の様相を与えており、私の現在の知覚はもはやその連鎖の一つの環出しかないからであろう。 —しかし、子細に眺めるならば、われわれの想起は同種の鎖を形成しており、われわれのあらゆる決定につねに随伴するわれわれの<性格>なるものも、まさにわれわれの過去の状態すべての現実的総合であるのが分かるだろう。』(p.208 12行目―17行目:<>内はテキスト傍点付き)

と記述されているところも相当するのではないかと思われる。

第七節に戻ってみれば、

(2012/05/05 この後、2段落を削除。そのあと、(p.240 10行目-11行目)を再び引用した。削除の理由は内容重複のため。内容を重複させていたのは、他の節を振り返っての解説が長くなっていたためだが、その部分を大幅に変更したため、重複させていた部分がほとんど不要になった)

『それらはいずれも、われわれの過去の生全体の繰り返しであるとわれわれは言った。』(p.240 10行目-11行目)

のあと、たとえば、断面A'B'、A''B''でもそれぞれの面積は違い底面に近いほど面積は大きくなるだろう。また、それら過去も『感覚-運動的状態に嵌入<筆者注:読み、かんにゅう。意味は、はめ込みいれる>されうるもの、したがって成し遂げる行動の観点から見て現在の知覚に類似しているものだけを光に導く』とベルクソンは説明する。(p.240 11行目―15行目を適宜引用要約)

つぎから、段落最後、すなわち、この節最後まで引用しようと思う。

(2012/05/05,2012/05/06 上、一段落挿入、また、以下、最後の引用文の解説を大幅に変更した)

そこで、まず『いわば二つの運動』という言葉が出てくるのだが、これは、この節で引用した、『二重の努力』(p.240 5行目)等と同じであろう。

あえて、これを少し振り返りながら説明すれば、

『一方では、感覚‐運動状態Sが記憶を方向付けているが、この状態は結局、記憶における現在的で活動的な極限でしかない。他方、この記憶そのものは、われわれの過去全体と共に、記憶それ自身のできるだけ大きな部分を現在の行動に差し入れるために、前方への推力を行使している。』(p.240 5行目―8行目)

の説明のところで、これらはそれぞれ、図4や図5の記憶を表す円錐の『極限』(p.240 1行目)である頂点と底面の働きを示していると解説した。

ここでは、一方の「底面」の働き、上の引用文でいえば、『過去全体と共に、記憶それ自身のできるだけ大きな部分を現在の行動に差し入れるために、前方への推力を行使している。』の部分は、『並進運動(translation)であり、それによって、記憶は全面的に経験に先んじ、行動することを目指して、分割されることなく多かれ少なかれ収縮する。』と述べられている。

そしてもう一方の「頂点」即ち上の引用文でいう『記憶における現在的で活動的な極限』の働きは、。『他方は、自転運動(rotation sur elle-même)であり、それによって記憶はそのときの状況へ向かってもっとも有益な面をその状況に示す。』と表現されている。

そして、最後は、『これらの様々な収縮の段階に、類似による連合の多様な形態が対応している』とまとめられているのである。つまり、複合的な観念に必要なもっとも基本的な要素である『類似』やそれを発展させた形での『隣接』によるさまざまな観念の連合は、全体的な記憶の特徴的な部分を保持しながらも、その不必要に詳細な部分を保持しないようにした、それぞれの段階であると言い換えることができるだろう。

では、実際に述べられている部分を見てみたい。

『言い換えれば、記憶の全体が、同時に生じる二つの運動によって、現在の状態の呼び掛けに応えるのであるが、その運動の一方は並進運動(translation)であり、それによって、記憶は全面的に経験に先んじ、行動することを目指して、分割されることなく、多かれ少なかれ収縮する。他方は、自転運動(rotation sur elle-même)であり、それによって記憶はそのときの状況へ向かってもっとも有益な面をその状況に示す。これらの様々な収縮の段階に、類似による連合の多様な形態が対応している』(p.240 15行目―p.241 41行目)


2012年4月11日水曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その6 第六節 諸観念の連合


ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その6 第六節 諸観念の連合

ここでは、第六節『諸観念の連合』(p.232 13行目‐p.238 13行目)を見ていきます。

では、最初の段落(p.232 14行目‐16行目)を見てみよう。ごく短い段落なので、解説のためにすべて引用する。

『劣った心的生についてのこのような考え方から、諸観念の連合の諸法則が演繹される。しかし、この点を掘り下げるに先立って、連合についての一般的な諸理論の不十分さを示そう。』

この段落は、これからのこの説の内容を簡単に示している。つまり、『諸観念の連合』について、『一般的な諸理論の不十分さ』を考えた後に、本題の『諸観念の連合』を考えると言っているようだ。その際に最終的には『劣った心的生』からその『諸観念の連合の諸法則』は演繹できると言っている。

(2012/04/06筆者注 上段落は二つに分けていたものを一つにした。)

ここで、『劣った心的生』というのは、前節の最後の段落つまりこの前の段落のp.231 6行目‐11行目がそれに相当するだろう。簡単にまとめるなら、図5の平面ABと点Sの両端、言い換えれば、知覚とはまったく関係をもたないすべての『私の数々の想起』(p.231 2行目)と『現在の知覚』(p.231 1行目)の両極端の『心的生』といえるだろう。この二つによって『諸観念の連合の諸法則』が演繹できる、とベルクソンはこの段落で、まず最初に宣言しているのだ。

(2011/7/5筆者注 この段落では図4を図5へ修正、一部表現を修正、他にも若干の検討の余地あり)


では、次の段落(p.233 1行目‐17行目)を見よう。ここで、先に見た通り『諸観念』の『連合についての一般的な諸理論の不十分さ』が示されるはずだ。

この段落の最初を少し長めに引用しよう。

『精神に生じるすべての観念が、以前の心的状態と類似あるいは隣接の関係を持っていることには異論の余地はない。しかし、この種の主張は連合の機構についてわれわれに情報を与えはしないし、そのうえ実を言うと、われわれにまったく何も教えてはくれない。』(p.233 1行目‐3行目)

ここにあえて、解釈を付け加える必要はないが、次の一文についってのつながりを考えると、少しまとめておく方がいいだろうと思う。要するに『精神に生じるすべての観念が、以前の心的状態と類似あるいは隣接の関係を持っていること』はあんまり当たり前なのでそのこと自体にはこれ以上引き出す情報はない。ここからしばらくこの事が検証されるだろう、と書いてあると思って良いようだ。

したがって、この段落では次に、まず、類似も隣接も全くないような二つの観念を探しても無駄(p.233 3行目‐5行目)と結論づけてから、類似と隣接について考察が行われている。

類似については、p.233 5行目‐7行目で触れられている。

『二つのイマージュを隔てている差異がどれほど根本的であろうとも、十分に遡るなら、それが所属する共通の項、したがってそれらに連結符として役立つ類似が常に見出だされるだろう。』

(2012/04/07筆者注、下段落はテキストにをより意識した内容に書き換えた。書き換え後は3つの段落に別れている)

『イマージュ』は目で見たり触れたりすることのできるもの、この書の冒頭では『私が感覚を開けば知覚され、閉じれば知覚されなくなるような、最も漠然とした意味でのイマージュ』(p.8 5行目‐6行目)という定義であった。以下、

『これらのイマージュはその要素的部分においても、私が自然の諸法則と呼ぶところの一定の法則に従って、互いに作用と反作用を及ぼし合っており、これらの法則が知悉<ちしつ>されるなら、おそらく、おのおののイマージュのなかで何が生じているかを計算し、予見することができるだろう』(p.8 6行目‐9行目、<>内テキストふりがな)

と続くのであるから、元素までさかのぼれば、あるいは、そこでは、例えば生物と非生物との境が曖昧であるように、どこかに共通の部分が出てくるに違いないという指摘をしているのだろう。

『今度は隣接を検討してみよう』(p.233 8行目)とベルクソンは続ける。

(2012/04/10筆者注 下段落は『類似』と『隣接』を混同していたために修正した。読者の皆様には改めてお詫びいたします。また、『隣接』の概念の註記も補足)

ここはまとめよう。われわれの観念において、イマージュAとイマージュBが『隣接』しているとする。そのとき、知覚によってイマージュAの表象A'が得られたとき、A'とイマージュBの『隣接』も『類似』の働きによって説明できる。すなわち、イマージュAの知覚による表象A'は『類似』と記憶の働きによってわれわれはイマージュAと判断できれば、イマージュAとイマージュBはわれわれの観念において『隣接』しているわけであるから、A'はすなわちイマージュBとの『隣接』の関係であるということが再び打ち立てられるのは当然のこととなる。

註記しておくと、『隣接』の定義がここまで出てきていないが、この節最後まで見てみると、例えば「信号機」という一種の連合観念において、「青」と「赤」という観念は互いに『隣接』していると見なせるような関係だと思われる。

(2012/05/15 以下 『隣接』がデビッド・ヒュームの「人性論」においての「近接」という概念であろうことと、そこで「近接」という概念がどのように考えられているかについての説明の部分を補足)

最初に観念連合論を唱えたイギリスの哲学者ディビッド・ヒューム(Wikipedia: http://ja.m.wikipedia.org/wiki/デイヴィッド・ヒューム)の著作「人性論」において、「近接(隣接)」という概念の使われ方を実際に見てみると、まず、第一章第四節「観念の結合もしくは連合について」の第二段落に、観念の連合の種類を大まかに「類似」、「近接」、「因果関係」にわけて説明している部分がある。短い段落なのでそのまま引用すると、

『このような連合を生じさせ、心をこのような仕方で一つの観念から別の観念へと移させる性質に三つのものがある。すなわち、「類似」、時間的もしくは場所的「近接」、そして「原因と結果」である』(参照テキスト 中央公論社 世界の名著シリーズ 巻27 土岐邦夫訳)

(※引用文中に「」が用いられているので、引用文には『』を用いた)

これらの概念がどのように用いられているは本題から大きく外れるので詳しく説明しないが、しかし、ここで問題になっている『隣接』という概念はヒュームの人性論にある『近接』であろうし、『時間的もしくは場所的』に近いところにある観念同士の結びつきを表しているということは、上記引用文からだけでも容易に理解することができるであろう。

(2012/04/07筆者注 下の段落を追加)

このように、この段落は、節の初めに述べられていたように、あるいはこの段落初めにあった、

『精神に生じるすべての観念が、以前の心的状態と類似あるいは隣接の関係を持っていることには異論の余地はない。しかし、この種の主張は連合の機構についてわれわれに情報を与えはしないし、そのうえ実を言うと、われわれにまったく何も教えてはくれない。』(p.233 1行目‐3行目)

という、観念連合に対する批判とベルクソンの主張の大枠を説明して終わる。(筆者註 以下の数段落段落ではこの主張が音楽の主題が展開されていくかのごとく繰り返しながらより詳しくなっていく。)


次の段落(p.234 1行目‐p.235 17行目)を見てみよう。

この段落は、まずこう始まる。

『本当の問題は、そのすべてが何らかの側面で現在の知覚と類似している無数の想起のあいだで選択がどのように行われているのか、そしてなぜそれらのうちのただひとつだけが、—あちらよりむしろこちらが— 意識の光に照らされて浮かび出るかを知ることである』(p.234 1行目‐4行目)

と、今度は『類似』と『隣接』の問題の本質的な点を指摘した上で、それまでの観念連合論の問題点の検討に再び戻る。

(2012/04/07筆者注 上の文前半では、「『観念連合』の問題の本質」と説明していた部分を、「『類似』と『隣接』の問題の本質的な点」と改めた。)

まず、それまでの観念連合論では、このベルクソンが指摘した知覚と記憶における、あるイマージュの特定のしくみがどうなってるかが説明できないと指摘し、その事を古代ギリシアの哲学者エピクロスの自然思想(Wikipediaの以下の記事を参照のこと:http://ja.wikipedia.org/wiki/エピクロス#.E5.AD.A6.E8.AA.AC)を引き合いに出して、次のように表現している。

『なぜなら、観念連合論は、諸観念やイマージュを、エピクロスの原子のように内的空間のなかを漂い、偶然がそれらを引力圏内に運んでくるときに互いに接近し衝突する自存的実体<実体にアンチテというフリガナあり>へと仕立て上げたからだ』(p.234 4行目‐7行目)

これを言い換えれば、個々のイマージュや観念が我々の脳のなかあらかじめある種の原子のような実体として存在して、知覚という偶然によって観念の連合となると言っているのだろう。

さらに、

『この点で観念連合論の学説を掘り下げるなら、』(p.234 7行目)と続け、その問題点がどこにあるかを指摘している。

(2012/04/07筆者注 上の文は二つに分けていたものを一つにした)

『この点で観念連合論の学説を掘り下げるなら、その間違いが、諸観念をあまりに<知性化>しすぎたこと、諸観念に全く思弁的な役割を割り当てたこと、諸観念がわれわれにとってではなくそれ自身にとって現実存在すると信じたこと、諸観念が意欲の活動に対して有している関係を見誤ったことにあるがわかるだろう』(p.234 7行目‐10行目:<>内はテキスト傍点付き)

(2012/04/07筆者注 下段落は一部(「草食動物云々」の)説明を追加した。)

いずれも、前節『一般観念と記憶』でのベルクソンの説とそれまでの諸観念を『自存的実体』と考える説を比較したとき現れる考え方の違いである。最後の『諸観念が意欲の活動に対して有している関係』というのがやや分かりにくいが、『意欲の活動』は『類似』を見分ける元となっており(例えば、p.226 17行目‐p.227 11行目の草食動物が食物となる牧草を見分ける例)、さらには類似が記憶と悟性によって二重性を持つというところ、例えば、一部その部分の説明を引用するなら、

『記憶は自然発生的に抽象された類似に区別を付け加え、悟性は数々の類似についての習慣から一般性についての明晰な観念を引き出す』(p.229 15行目‐16行目)

などと説明された部分が相当すると思われる。

また、こうした観念だけではなく知覚とそれに類似した想起との結びつきに対する説明も従来の観念連合論はできないと指摘する(p.234 10行目‐15行目)。その部分を簡単にまとめると、『惰性的で無気力な意識』とそこを漂うだけの『数々の想起』が『知覚』と結びつく理由が説明されていない、というのである。従って観念同士が結びつく『出会い(rencontre)』も一般化できないし、もちろん類似についても説明されえない。

(2012/04/07筆者注 上段落、『出会い(rencontre)』についての説明を改めた)

そういうわけで、この段落は次のような結論をもって終わっている。

『—このことは結局、意識の諸状態が互いに親和力(affinités)を持っているのを漠然と認識することに帰着する。』(P.234 14行目‐15行目)


では、次の段落(p.234 16行目‐p.235 17行目)を見てみよう。

この段落では、まず前段落を引き継いで、従来までの観念連合論が独立した観念同士が結び付くのかを説明できない、という批判で始まる。最初の行を見よう。

『しかし、隣接と類似という二重の形をとるこの親和力について、観念連合論はいかなる説明も呈示することができない』(p.234 16行目‐17行目)

この段落の前半(~p.235 7行目)までは、延々と同じことをいっているにすぎないので最後の部分を引用し残りは省略する。

『実際、仮定からして自己充足している一つのイマージュが、それと類似したものであれ、どうして他のイマージュをみずからに付け加えようとするのか』(p.235 5行目‐7行目)

このあとのベルクソンの主張を要約すれば、まず、この『自存的イマージュ』というのは、後付けの理屈にすぎない。実際のところは『イマージュ』が何かと判別する前に『類似』を『知覚』している。また『諸部分の複合体』の判別の際には、まず、『全体』を認識したのち、『諸部分』を判別している。(p.234 8行目‐10行目を要約)つまりは、

『われわれは、類似から類似している諸対象へ進むのであり、類似という共通の布地の上に多用な個体的差異を刺繍するのである』(p.235 10行目‐12行目)

そして、この後『分解』のはたらきで、『諸部分』を『知覚』していく。

以下、この段落はすべて引用して終わろう。どうまとめるかを悩んだのだが、名文なので私の下手な文章よりは読者諸氏には遙かに有益だ。

『この分解の法則は、もっと後で見ることになるだろうが、実生活の最大の便利さのために、現実的なものの連続性を細分化することに存する。連合はそれゆえ始原的な事実ではない。われわれは分離から始めるのであり、あらゆる想起が他の想起をみずからに加えようとする傾向は、知覚の不可分な統一性への自然な回帰によって説明されるのである。』(p.235 13行目‐17行目)


では、次の段落(p.236 1行目‐p.237 13行目)を見よう。

『ところで、われわれはここで観念連合の根本的な欠陥を発見する。』と始まるこの段落において何が記述されるか。

あまり難しくないと思うので、しばらく(p.236 1行目‐13行目)要約すると、次のようになるだろう。

ここまで、『諸観念の連合』についての説明には二種類あった。一つ目は、観念やイマージュが『エピクロスの原子』のように『心理学原子』として脳の中にあらかじめ存在しており偶然によって連合されていく従来までの『観念連合論』。もう一つは、ベルクソンたちの唱える、たとえば、前段落の後半部分(p.235 9行目‐17行目)で見た、自覚する前に判明する知覚したものの総体の類似から『分解』の働きにより各部分の類似へ進み、『あらゆる想起が他の想起を自らに加えようとする傾向は、知覚への不可分な統一性への自然な回帰によって説明される』という説である。(ここまで、p.236 1行目‐6行目までを要約)

(2012/04/09筆者注 上段落の最後の部分の説明は間違っていたので改めた)

実は、この第二の説は、『再認についてのわれわれの理論』中で説明したものであるという。

少し面倒だが『再認』についての理論を振り返る。p.100から始まる第二章第一節『記憶の二つの形式』間で振り返ることになる。ここの節では、簡単な要約があり次節『運動と想起』(p.118 14行目‐p.131 13行目)が『再認』について詳しく説明した部分となる。

ここでは関連しているところだけ抜粋しながら簡単に説明しよう。テキストを持っている方は再読されんことを。

さて、まず、何かを『再認』するということは、現在の『知覚』と『想起』が『類似』していなければ『再認』できない、ということは誰にでもわかるだろう。

以下、少し長いが重要な部分を引用しよう。

『今回前提とされているのは、現在の知覚が、記憶の奥底に、現在の知覚と類似している以前の知覚の想起をつねに探しに行くと言うことであり、その場合、「既視感」の感情は、知覚と想起との並置あるいは融合によって生じるだろう。深淵にも指摘されたように(12)、類似はおそらく、精神が接近させ、それゆえすでに所有している諸項のあいだに、精神によって確立された関係であって、したがって、類似の知覚は連合の原因と言うよりはむしろその結果である。しかし、精神によって把持され引き出された一要素を共有することのうちに存する、この知覚された類似とは別に、漠然とした、いわば客観的な類似があって、この類似はイマージュそのものの表面に広がり、相互索引の物理的原因のごときものとして作用しうる(13)』(p.120 1行目‐10行目、引用文中の()内の数字は文献番号)

この部分の説明は繰り返さないが、ここまで読んできていただいた読者諸氏なら比較的容易に理解していただけるはずだ。

これが『再認についてのわれわれの理論』(p.236 6行目)に相当する部分だと思っていいだろう。

(2012/04/11筆者注 二段落削除。それに伴って下の段落も冗長な部分を削除)

次に、『われわれは、われわれの人格全体が、われわれの想起の全体と共に、不可分のままわれわれの現在の知覚にのなかに入っていると想定した。』(p.236 7行目‐8行目)とあるが、これは、具体的にはp.216 7行目‐p.219 5行目に記述されている、『知覚』をすでに過去としたときに、ただの情報でしかない『イマージュ記憶』が、『運動図式』とも表現される『純粋想起(記憶)』が元になった『感覚-運動的』な物質に働きかける力を使って物質世界に働きかけるという形で統合されることを言っているのであろう。例えば、そのあとp.219 6行目‐p.220 3行目までの段落には『「見事に調和のとれた」(bien équilibrés)精神』や「行動の人」、「衝動的な人」、「夢見る人」、「良識」、「実践感覚」などの記述が見られる。(図4も参照のこと)

(2012/04/10筆者注 純粋想起も基本的にただの情報であることは、特に第二章において主張された。しかし、第三章では、特に知覚とイマージュ想起の違いを強調するためにイマージュ記憶が単なる情報であることがことさらに言われる傾向にある。ここでも、その傾向に従っている。)

さらに、このあと(p.236 8行目‐13行目)は、ここでは、その前の文で、『われわれの人格全体が、われわれの想起全体と共に、そのままわれわれの知覚の中に入って来ると想定した』という記述を受けて、その時、同じような知覚がそのときどきで違う『想起』に結び付くのは、知覚された情報の微妙な差異によるのではなく、『われわれの意識の膨張でによってであり』、『そのとき、われわれの意識全体は、より広大な表面上に広がりながら、意識の豊かさについての詳細な目録より詳細なものとなからしめることができる。』(p.236 11行目‐13行目)と指摘する。すなわちそれは、『それは、漠たる星団が、益々強力になっていく望遠鏡で見られることで、益々多くの星々へ変わるようなものだ。』(p.236 13行目‐14行目)と、ベルクソンは言うのである。

(2012/04/08筆者注 「第二章で説明した云々」の記述は、ここでは必ずしも当たらないので削除)

このあと(p.236 14行目‐p.237 6行目)では、第一の仮説、すなわち、『諸観念やイマージュを、エピクロスの原子のように内的空間を漂い、偶然がそれらを互いに引力圏内に運んでくるときに互いに接近し衝突する自存的実体<アンチテ>と仕立て上げた』(p.234 4行目‐7行目:<>内はテキストふりがな)、『観念連合論』についての批判がされる。ここも難しくないので、ここでは、この批判の中核部分だけを引用することにしたい。

『各々の想起は一つの自存的で凝固した存在を構成しているのだが、なぜ、このような存在としての想起がなぜ他の想起をみずからに加えようとするのかということも、いかにしてこの想起が、等しい権利を有しているはずの数多くの想起から、隣接あるいは類似によってそれらと連合するために、ある想起を選択するのかということも語ることはできない』(p.236 16行目‐p.237 3行目)

このあと、この段落の最後まで(p.237 6行目‐13行目)は、上記『観念連合論』(第一の仮説)に対してのベルクソン達の説の正当さが主張されることになる。

(2012/04/08筆者注 上記段落の表現を改めた)

まず、

『第二の仮説においては、心理学的諸事実の連帯を認めるところで踏み止まるのであって、それらの心理学的事実は常に一括して直接的意識に与えられ、反省だけがそれを個々に分断するのだ。』(p.237 6行目‐8行目)

この部分は、『心理学的諸事実の連帯を認めるところで踏み止まるのであって、それらの心理学的事実は常に一括して直接的意識に与えられ、』を一つのまとまりとして読むべきで、つまり、『知覚』から与えられる『心理学的諸事実』は、個々の『観念』に分断されることなく、『連帯を認め』るがまま『一括して直接的意識に与え』られる、と部分的には言い換えることができるだろう。

このあとは、こう続き、この段落の結びへと向かう。それらは、そのまま引用しようと思うが、読みやすさを考慮して二つに分けてみる。

『その時説明しなければならないのは、もはや内的な団結ではなく収縮と膨張という二重の運動であり、この運動によってその内容を展開したり、抑えたりしている。』(p.237 8行目‐10行目)

『しかしこの運動は、われわれがこれから見るように、生の根本的必要性から演繹されるのであり、こうして、なぜわれわれが、この運動に沿って形成するように思われる諸「連合」が隣接と類似の継起的諸段階のすべてを使い尽くすのかも容易に分かるだろう。』(p.237 10行目‐13行目)


次の段落(p.237 14行目‐p.238 13行目)を見よう。

ここからあとは、前段落最後の記述、すなわち、『諸「連合」が』『生の根本的必要性から演繹される』ところの『(純粋)記憶』(この部分筆者補足)の『収縮と膨張』について、あるいはその『運動』が『隣接と類似の継起的諸段階のすべてを使い尽くす』理由ということが説明されるであろう。

(2012/04/08筆者注 上段落を挿入、2012/04/10 一部表現を見直した)

(筆者註 上の問題は実はかなり大きな問題であり、実際にはこの段落以降、次節で一旦まとめられた後、そのあとの節においても、このことからさまざまなわれわれの精神活動の側面を説明している(あるいはこの説を補足・補強している))

はじめは引用しよう。引用文中にある『われわれが描いた図式的な図形(二百三十二頁)』とは図5のことである。

『では実際、われわれの心理学的生が感覚-運動性の諸機能だけに還元されたとしばし想定してみよう。言い換えれば、われわれが描いた図式的な図形(二百三十二頁)のなかで、われわれの心的生の可能な限りの最大の単純化に対応する点Sに身をおいてみよう。』(p.237 14行目‐16行目)

少しだけ振り返ってみれば、以前、第三節の解説において、ケーキとクリーム絞り器の例で説明したことがある。円錐SABの中にあるのはすでに知覚された情報であり、すなわち、想起である。点Sはクリーム絞り器の口金であり、現在の世界平面Pに相当するケーキ表面をクリーム(想起)を使って飾って(変化させて)いく。

その時の図4の解説(p.217 17行目‐p.218 8行目が相当)では、円錐SABは『私の記憶のなかに蓄積された想起全体』を表し、点Sは『私の身体のイマージュ』、点Sと接する平面Pは『私の現在の表象』言い換えれば現在の宇宙全体の表象とある

(2012/04/10筆者注 上段落は一部表現を改めた。また、図4の平面ABについては特に触れられていなかったが、その前後の文章等から考えるとイマージュ想起(たとえば『真の記憶』(p.218 10行目))ではないかと思われる)

これが図5を用いた説明の部分(p.230 16行目‐p.232 12行目)では、点Sは、『私の身体』はつまりは『ある感覚-運動的均衡』(p.231 1行目)と表現される。

さて、そこで、なぜ、点Sが『われわれの心的生の最大の単純化に対応する』のだろうか。

続きを見ると、

『この状態において、どんな知覚もおのずから適切な諸反応へ引き伸ばされる。なぜなら、以前の類似した諸感覚が多かれ少なかれ複雑な運動装置を作り上げており、それらの運動装置は、作動するために、おなじ呼び掛け(appel)の反復だけを待ち構えているからだ。』(p.237 16行目‐p.238 2行目)

とある。要するにすでに出来上がっている『感覚-運動性の諸機能』言い換えれば『運動図式』に従って、知覚されたばかりの諸感覚に反応した行動をとっているだけと言えるからだろう。

残りの部分は、この『最大に単純化』された『われわれの心的生』から、『類似による観念の連合』と『隣接による観念の連合』が端的に説明され、それが有機生命体にとって普遍的なものであるという事をベルクソンは説明する。少しまとめながら見てみよう。

前の文章を受けて、『この機構』、すなわち『感覚-運動性の諸機能』とも言えるのだろうが、それは、『現在の知覚が過去の諸知覚との相似によって作用する』(p.238 3行目‐4行目)ために、そこには『<類似による連合>が』まず存在すると言えるだろう。また、『以前の知覚に直接的に後続する諸運動が再現される』(p.238 4行目‐5行目)ことや、それら後続する運動がさらには、『最初の運動と連繋した無数の諸運動をあとに引きずることさえありうる』(p.238 5行目‐6行目)といった理由から『<隣接による連合>』(p.238 4行目、<>内はテキスト傍点つき)も存在すると説明される。

『それゆえ、われわれはここで、類似による連合と隣接による連合を、それらのまさに起源において、そして両者をほとんど一緒に混ぜ合わせながら、 —おそらく思考されたものではまったくなく、演じられ生きられたものとして— 捉えているのである』(p.238 6行目‐9行目)

つぎは、いよいよこの段落の締めであり、もっぱら『劣った心的生』(あるいは『純粋記憶(想起)』)に焦点を当てることで、『諸観念の連合の諸法則が演繹されうる』(p.232 14行目)として始まったこの節の締めにかかる。

(筆者註 この段落の初めの註記にも記したように、初めのテーマであった「『諸「連合」が』『生の根本的必要性から演繹される』ところの『(純粋)記憶』(この部分筆者補足)の『収縮と膨張』について、あるいはその『運動』が『隣接と類似の継起的諸段階のすべてを使い尽くす』理由」の説明は、この節では、まず、図5でいう点Sすなわち、『われわれの心的生の最大の単純化に対応する』部分の説明のみでいったん終了している。残りの部分は次節以降に持ち越されている。)

『それらはわれわれの心理学的生の偶然的形態ではない。それらはどんな有機体もが有する同一の根本的傾向の二つの相補的な様相であって、その傾向とは、与えられた状況からそれが持っている有益なものを抽出することであり、また、たまたま生じた反応を、同じ種類の諸状況のためにそれを役立たせるために、運動的習慣の形で蓄えることである。』(p.238 9行目‐13行目)







(2012/04/11筆者メモ ベルクソンのこの著作での傾向として、段落ごとにテーマを決めてきちんとまとめている一方、節はそのような形ではまとめられておらず、あるテーマの記述が次節の初めの部分に述べられることは多い。おそらく、そのように意識的にしているものと思われる)

2012年4月5日木曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その5 第五節 一般観念と記憶 (下)



では、次の段落(p.226 17行目-p.228 14行目)を見よう。前の段落の終わりを受けて、『しかし』で始まってはいるものの、実際は、更に深く詳しい考察が始まるようだ。

『しかしこのことは、諸事物についてのわれわれの知覚のまったく実利的な起源に立ち返る場合に明瞭に現れるだろう』(p.226 17行目-p.227 1行目)

『ある与えられた状況のなかでわれわれの関心を惹くもの、われわれがその状況に置いて最初に捉えねばならないものは、その状況にあって一つの傾向あるいは欲求に応答しうる側面である』(p.227 1行目-3行目)

このように、『知覚の実利的な起源』として、『欲求に応答しうる側面』ということをまず挙げている。例えば、われわれがリンゴを食べたいと思ったとき、われわれの記憶にあるリンゴと同じものを探すだろう。以下このような考察がされる。

まず、このあと、軽く、

『ところで欲求は類似あるいは性質へと直進し、個体的差はまるで気にかけない』(p.227 3行目-4行目)

と述べ、具体的な例として『草食獣類を引きつけるのは牧草<一般>』あるということを挙げている。(p.227 4行目-5行目、<>はテキスト傍点付き)以下、数行まとめると、こうなるだろう。『草食獣類』は、『牧草』の『色と香り』つまり『知覚』の『最初に捉えなければならない一つの傾向あるいは欲求に応答しうる側面』を、『記憶』の『一般性あるいは類似』をもとに、『対比を浮き彫りにし、この対比から区別』しているだろう。

もちろん、そこで『草食獣』は、『類(ジャンル)』を『思考している』のではないし、また食欲という『欲求』が問題となっているだけであるので、『草食獣』にとっては、牧草の『個体的差異』よりは、『欲求に応じとうしうる側面』、つまるところ『牧草の色と香り』、『それだけが外的知覚の直接所与』となる。(ここまでp.227 4行目-9行目を要約)

したがって、その『草食獣』は、移動したときの『景色』やその他『牧場』などの『区別』をするだろうが、それらは、かれらの『知覚における余分なのであって、その必要不可欠なものではない』(p.227 9行目-11行目)

さて、ここでベルクソンは、読者の中には、この例を挙げるのは『問題の引き延ばしではないのか』、もしくは、また『無意識』についての『心理学的性質』を取り上げてるのではないのか、という不満を持つ読者もいるかもしれない、と言う。(p.227 11行目-14行目を要約)

(2012/04/02筆者注 上の段落はもとは二つに分けていたものを一つにした。理由は、ほぼ意味的に重なっている部分が多かったため内容を簡明にすることにした)

そう言いながら、ベルクソンはこう続けていく。

『類似を引き出すのは、われわれの考えでは、心理学的性質ではないのだ。』(p.227 14行目-15行目)

『この類似は一つの力として客観的に作用しており、同じ真相の原因に同じ全体的帰結が接続するまったく物理学的法則のせいで、同一の反応を引き起こしているのだ』(p.227 15行目-17行目)

『草食獣』の『食欲』を満たすための『牧草<一般>』に対する『色と香り』だけを問題にする『知覚』が、『物理学的法則のせいで同一の反応を引き起こしている』とベルクソンは言いたいのだろうか。

以下少し要約するが、ベルクソンの主張はこう展開される。

『類似の作用』は、『塩酸』が『大理石やチョーク』などの『石灰の炭酸塩』に対して『つねに同じ仕方』で『作用する』からといって、『酸がいくつかの種(エスペス)のあいだで、ある一つの類(ジャンル)の特徴を見分けている』ということはない。同様に、『植物が非常に様々な土壌から栄養物として役立つはずの同じ諸要素を決まって抽出する行為のあいだに、本質的な相違は存在しない』(p.227 17行目-p.228 5行目を要約)

すなわち、『草食獣』が食べられる『牧草』を見分けて食べるのと『塩酸』が『石灰の炭酸塩』に『作用』するのは、植物の根が栄養を吸収する例と同様に『本質的な相違はない』と言いたいのだろう。

このあと、『アメーバ』の例が出てくるのだが、同様の論が展開されている。ここでは、要点だけ述べたい。

『微少動物は、それが自らにどうか吸収できる多様な有機質から、差異ではなく類似を感じるだろう』(p.226 6行目-7行目)

(2012/04/03 一段落削除)

『要するに、鉱物から植物へ、植物からより単純な意識的存在へ、動物から人間へと、ある操作の進展が辿られているのだが、この操作によって諸存在[人々]は、その周囲にあってこれらの事物と存在を引き付けるもの、それらに実践的な関心を抱かせるものを把握する。』(p.228 8行目-11行目)

次の文は少し不思議な文章であるが、そのまま紹介しよう。

『ただし、その際、周囲の他のものはそれらにとって何ら影響を持たないままなので、これらの事物と存在はその関心を惹くものを抽出する必要はないのだ』(p.228 11行目-12行目)

これは、例えば『草食獣』は食物である『牧草』を『類似』の作用で抽出する。したがって、『牧草』と『類似』してないものは、すなわち関心を向ける必要がないものであるということであろう。

この段落も、最後の文を紹介して終わろう。

『表面的には相異なる諸作用へのこの反応の同一性こそ、人間の意識がそれを一般観念へ発達させるところの萌芽なのである』(p.228 12行目-14行目)


では、次の段落(p.228 15行目-p.230 8行目)を見てみよう。

『実際に、われわれの神経系の用途を、それがその構造から帰結するように見えるがままに熟考してみなさい』(p.228 15行目-16行目)

神経の仕組みを検討することで、『物理学的法則のせいで同一の反応を引き起こしている』(p.227 17行目)のと同様の機構がわれわれの身体の中に構成されているのかどうか、ということをもっと検討しよう、ということなのだろう。

(2012/04/03筆者注 上段落、後半部分を削除、変更)

以下、しばらく要約すると、

われわれの『多様な知覚装置』は神経を通じて『中枢』に集められ、『運動装置』(p.228 16行目)とベルクソンが呼ぶ『純粋記憶』を介してのわれわれの肉体の反応へ結びつけられている。われわれの『感覚』すなわち『記憶』を介した『知覚』はすでに見てきたように、様々に解釈できる『ニュアンス』を帯びている訳であるが、『運動装置』は一度結び付けられた反応を『機能』として繰り返すだけだろう。(p.228 16行目-p.229 2行目を要約)

『それゆえ』とベルクソンは言う。

『それゆえ、知覚の表面細部には可能な限り相異なる知覚が想定されうる。それらの知覚が同じ運動反応によって引き継がれるなら、有機体がそれから同じ有用な結果を抽出できるなら、それらの知覚が身体に同じ態度を刻み込むなら、何か共通のものがそれから引き出されるだろうし、一般観念は表象されるより前に、そのようなものとして感じられ蒙るだろう』(p.229 3行目-6行目)

こうして、神経系を子細に検討し考察すれば、『感覚‐運動的』な機構が、実は『一般観念』として構成される元となる感覚、すなわち『一般観念は表象されるより前に、そのようなものとして感じられ蒙るだろう』というものとして、まさしくそこに存在するとベルクソンは言っているのだろう。『その様なものとして感じられ蒙る』のは『感覚‐運動的』な機構が、これまでも見てきたように無意識としてわれわれの脳の中で処理されているからであろう。

(2012/04/03筆者注 上段落は前半部分の文章を再構成、さらに後半部の解説を付け加えた)

かくて、われわれがこの節の始めで見てきたような以下のような循環、

『それゆえ、われわれはまさに実際に循環に陥っているのであって、唯名論はわれわれを概念論へと導き、概念論はわれわれを唯名論へと連れ戻すのだ』(p.225 11行目-13行目)

という循環から解き放たれた、とベルクソンは主張する。

つまり、『精神がそこから出発するところ類似は、』このような、一種『自動的』な『感覚-運動的』な機構から発生する類似であるのに対し、『精神がそこへ戻るところの類似は、知的に認知され思考された類似である』。言い方を変えると、大きいものを見たときに見たときに何かを感じるのはある種先天的な機構であるのに対し、『一般観念』として『類(ジャンル)』を区別するような『類似』は『知的に認知され思考された類似である』と言うことだろう。(以上、p.229 6行目-13行目を要約)

以下、このような、二つの仕組みによる『一般観念』について考察されていく。

ベルクソンはこう言う。

『悟性と記憶の二重の努力によって、個体の知覚と類の概念が構成されるのは、まさにこの進展の途中に於いてなのである』(p.229 13行目-15行目)

以下、ベルクソンの言葉をそのまま引用する。ここでの『悟性』はあまり難しく考えず「理性」もしくは『知性』と考えれば良し、『抽象』はこの前の文(p.229 7行目-9行目)に『抽象[抽出]』とあるように『抽出』と置き換えてもかまないだろう。

『 —記憶は自然発生的に抽象された類似に区別を付け加え、悟性は数々の類似についての習慣から一般性についての明晰な観念を引き出す』(p.229 15行目-16行目)

言い換えれば、『記憶』は『類似』を『抽出』し、『悟性』は『知的』に『個体』を『類(カテゴリ)』に分ける、としても良いと思う。

以下、しばらく、同じ内容を書いてある。読者諸氏は余分に感じられるかもしれないが、後々の解説のためにすべてを引用したい。

(2012/03/25筆者注 上段落、一部表現を改めた)

『一般性についてのこの観念は当初、多様な状況に置ける態度の同一性についてのわれわれの意識でしかなかった。それは、諸運動の領域から思考の領域へと遡上する習慣そのものであった 』(p.229 16行目-p.230 1行目)

『しかし、そのように習慣によって機械的に素描された類から、われわれは、この操作そのものに対して遂行された反省の努力によって、<類への一般観念>へ移行した。そして、この観念がひとたび形成されると、われわれは、今度は自分の意志で、無数の一般的観念を構築した』(p.230 2行目-5行目、<>内テキスト傍点つき)

以上は、ベルクソン自身による一般観念についてのここまでの考察のまとめと言っても良いだろう。

さて、この段落はここまでのまとめにとどまらず、ベルクソンはこれらが元になってわれわれの「話す言葉」の機構となっていると言う。その部分を引用しよう。

(2012/04/04筆者注 以下の引用は念入りに解説する必要性もあるかもしれない。しかし、現在の時点ではこのままにしておく。あまり余分なことを私が追記するのはよろしくないと判断したため)

『ここではこの構築の細部において知性のあとを辿ることは必要ではない。悟性も同様に、自然の働きをまねて、今度は数々の人工的な運動装置を組み立て、それらを限られた数でありながら、限りなく多くの個体的対象に反応させているとだけ言っておこう』(p.230 5行目-7行目)

『これらの機構の全体が文節的発語(parole articlée)なのである』(p.230 8行目)


では、次の段落(p.230 9行目-15行目)をみよう。

この段落は短い。内容的には、前段落の補足に相当するだろう。これまで通り、最初と最後の文だけを引用し、他は可能な限り内容を要約したいと思うが、段落が短いので結果として全文を引用することになる。

では、まず、最初の文はこうである。

『それに、一方は個体を識別し、他方は類を構築する、これら二つの分岐した精神の操作は、同じ努力を必要とし、等しい速さで進歩するにはほど遠い代物である』(p.230 8行目-9行目)

この文は『努力』は同じでも『進歩』の『速さ』は違う、という解釈も可能だし、『努力』も『進歩』も両方大きく異なるというように読める。段落の内容を見ていくことで判断したい。実をいうと、これが具体的にはどういうことか、ということが、この段落の内容なのだ。

(2012/04/03筆者注 本来『努力』と『進歩』が一つの組であるのに『操作』と『進歩』が一組であるような記述をしていたため修正。この修正はこの段落すべてに及びます)

さて、上記の引用について少しだけ解説を加えると、前者、『個体を識別する』というのは、『記憶』が『自然発生的に』抽出する類似の働きによるものであろう。また、後者『類を構築する』というのは、『悟性』による『<類の一般観念>』(p.230 3行目:<>内はテキスト傍点付き)の構築であり、ベルクソンはこれを『知的に認知され思考された』(p.229 13行目)と表現していた。

では、以降のベルクソンの説明をみよう。

『前者は記憶の介入しか必要とせず、我々の経験の最初から成し遂げられている。後者は、決して完成することなく無制限に継続されている。』(p.230 10行目-12行目)

ここが、まず、一つ目のポイントだろう。ということはどうも、この段落の内容は、『努力』も『進歩』も大きく違うというのが正解だろうと思われる。

この段落の残りは、もう一つのポイントがある。その詳細は内容は、次の段落で詳しく述べられることになるであろう。若干難しい表現もあるが、ここまで読まれてきた読者諸氏なら解説せずとも大丈夫だと思うので、残りすべてを引用し、この段落を終わりたい。

『前者は、安定した諸イマージュを構成するに至り、今度はそれらのイマージュが記憶の中に蓄えられる。後者は不安定で束の間の表象を形成する。この最後の点で立ち止まろう。我々はここで心的生の一つの本質的な現象に触れている』(p.230 12行目-15行目)


それでは次の段落(p.230 16行目-p.231 14行目)をみてみよう。

この段落はまず、最初の行から重要なことが述べてある。

『一般観念の本質は実際、行動の領域と純粋記憶の領域のあいだを絶えず動くことである』(p.230 16行目)

ここからは図5を用いて説明される。
(2011/07/02筆者注  図4を図5へ。その他不必要な記述を削除)



まず、点Sはわれわれの身体である。底面ABについてはベルクソンの言葉を借りれば、こうなる。

『底面ABの表面には、こう言ってよければ、私の数々の想起がその全体において置かれていだろう』(p.231 1行目-2行目)

そうすると、この段落の最初の文の『行動の領域』は点Sとなり、『純粋記憶の領域』は底面ABとなる。なぜ、未来である底面ABが『純粋記憶』かは、読者諸氏におかれては説明なしにお判りいただけるだろう。『知覚』から『無意識』の領域に於いて、それこそ無意識的に想起されるのが、『純粋記憶』であるから、将来の知覚には無数のわれわれの『純粋記憶』が置かれていると言える。(2012/04/05筆者追記 そして、筆者個人の意見を付け加えれば、それはは、それぞれのイマージュ想起と何らかの形で結びついているであろう。というのもそれらは差違を感じるものの筈であるからだ)

(2011/7/2 補足すると、底面ABは図4では、イマージュ記憶を想定していた。図5では、記憶すべてという点では同じだが、すべての『純粋記憶』という説明があるところが異なる)

そして、一般観念といえば、

『このように規定された円錐のなかで、一般観念は頂点Sと底面ABの間を絶え間なく揺れ動くだろう』(p.231 3行目-4行目)

と、ベルクソンは言う。もうしばらく引用してみよう。

『Sにおいて一般観念は、身体のある態度や発音されたある語のように非常に明確な形を取るだろう。ABにおいても一般観念は、それと同様に明確な相貌をまとうが、この相貌は一般観念のもろい統一性が砕けたその破片たる無数の個体的イマージュの相貌だろう』(p.231 4行目-7行目)

このあと、『心理学』に対する批判があるのだが、そこは省略することにし、ここまでを説明したい。

(2012/04/04筆者注 以下、二つの段落を説明を分かりやすくするために分け方を変え、意味的なまとまりから三つの段落にした。)

まず、点Sは我々の身体であり現在であるが、『態度』や『発音されたある語』である限りは、『感覚-運動的な』われわれの身体の『運動』に相当する。つまり、すでに決定された『行動』である。循環的な説明になるかもしれないが、すなわち、ここでは、『一般観念は、身体のある態度や発音されたある語のように非常に明確な形を取るだろう。』(p.231 4行目-5行目)

一方、底面ABは当然、『感覚』であるが、しばらく先の未来の『感覚』であり、当然決定されておらず、『知覚』された後、『純粋記憶』によって『行動』へ移されるべき、将来の『感覚』である。将来の『感覚』には『行動』へ移されるべき、われわれの身体における因果関係はありえず、つまりばらばらで統合されてはいないだろう。すなわち、『破片たる無数の個体イマージュの相貌』が、それらの『一般観念』のもうひとつの『相貌』となる。

この『一般観念』の『相貌』はもう説明するまでもないだろうが、前前段落や、前段落で議論された、一般観念のたとえば、『一方は個体を識別し、他方は類を構築する』(p.230 9行目)二つの側面のことである。

ここで、『心理学』についてのベルクソンの批判をごく簡単にしておくと、それはこの二つの極端な面しか見ていないということに尽きるということだ。

(2012/04/04筆者注 上段落はまた逆の意味の解説をしていました。本当に申し訳なく思います。したがって一部変更したのち、以下、ベルクソンの主張の部分を引用しています)

すなわち、

『しかし、本当のところは、われわれが一般観念をこれら二つの極端の一方あるいは他方に固定するやいなや、一般観念はわれわれから逃げ去るのだ』(p.231 11行目−12行目)

ということになる。

それでは、上の引用文に続く、この段落の最後の文を引用してこの段落の説明を終えよう。

『一般観念は一方から他方へと進む二重の流れに存していて -その流れはつねに、発音された語へと結晶化しようとしているが、想起へと蒸発しようとしているかのどちらかである』(p.231 12行目-14行目)


では、次の段落(p.231 15行目―p.232 12行目)を見よう。この段落がこの節の最後の段落となる。

まず、最初の文は、

『ということは、点Sによって表された感覚-運動機構とABに置かれた想起の全体とのあいだには、われわれが前章で予感させたように、同じ円錐の断面A'B'、A''B''等によって表されるわれわれの心的生の無数の反復のための余地がある、と言うに等しい。』(p.232 15行目−17行目)

テキストをお持ちの方は図5を参照していただきたい。しかし、図5を見ずとも大体の読者はこの分が何を言いたいのかは分かるだろう。『前章で予感させた』というのは、前章の最後のまとめの部分をいっているのだろう。例えば、

『潜在的イマージュは潜在的感覚へ進展し、潜在的感覚は現実的運動へ進展するこの運動は、自らを現実化しつつ、感覚—この運動はそれを自然に引き延ばしたものである—と、感覚と一体化せんとしたイマージュの双方を同時に現実化する』(p.176 13行目―16行目)

(2012/04/04筆者注 上引用の部分は、更に詳しくするために後半部分を改めて挿入した)

などが書かれており、最終的には、

『これにより、われわれは、これらの潜在的状態を掘り下げると共に、心的活動ならびに精神生理学的諸活動の内的機構のうちにさらに深く入り込むことで、いかなる連続的進展によって、過去がその失われた影響力を取り戻して現実化されるのを示すつもりである。』(p.176 16行目―p.177 2行目)

で結ばれる。前章の解説のときには、これからも研究するつもりだ、ぐらいに採っておけば良いと言ったが、実は、最終的に、ここに係ってきたという指摘だと思われる。

このあと、p.219にあった『<夢見る人>』や『<衝動的な人>』(いずれも<>内はテキスト傍点付き)に関する話が出るが、簡単にまとめると『<夢見る人>』は『夢の生』に生きているので点Sの『感覚‐運動機構』から底面ABへと『分散』し、『<衝動的な人>』は『現実』に『固着』し点Sへ『凝縮する』。しかし、『正常な自我』は、極端に『固定』されず、『そのあいだを動き、中間的諸断面によって表象される数々の位置を代わる代わる採用する』。(p.231 17行目―p.232 6行目を要約)

では、この段落の最後の文を引用してこの節を終わろう。

『言い換えるなら、正常な自我は、みずからの諸表象に、それらの表象が現在の行動に有効に行動することができるのに十分なだけ多くのイマージュと観念を与えるのである。』(p.232 10行目―12行目)

2012年4月4日水曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その5 第五節 一般観念と記憶 (上)



ここでは、第三章 『イマージュの残存について - 記憶と精神』 第五節 『一般観念と記憶』(p.223 2行目-p.232 12行目)について解説します。

(2012年3月14日筆者注 以下、前段落までの内容のまとめを補足)

まず、ごく簡単に前節までの内容をもう一度振り返りましょう。第一節、第二節の内容は簡単に言えば、記憶には二種類あり知覚はイマージュ想起から純粋想起へゆっくりと変わります(図2)。つまり、純粋想起と知覚には本質的な質の違いがあるという内容でした。そして、無意識は、生き生きとしたイマージュであるわれわれの肉体の『感覚-運動的諸現象』を司っており、言い替えれば『私の現在は本質からして感覚-運動的なものなのである』(p.198 1行目)ということ、特に第二節の後半では、知覚と純粋想起が本質的に異なるものである、ということを詳しく見たのでした。



第三節では、主に、この想起と知覚に質の違いではなく、程度の違いしか見ないことから生じる錯覚についていくつか指摘されていました。主なところでは意識に対する誤解や、そこから生じる現実的な現実存在についての考察、無意識について考えることへの嫌悪感、終わりに記憶が脳に保存されているという思いこみについて指摘されていました。

続く第四節では、こうして再び二種類の記憶、純粋想起とイマージュ想起について考察が始められました。まず、知覚も厳密に言えば、肉体という現在から見たときにすべて過去であり記憶であること、そのことによってイマージュ想起と純粋想起は結びつけられること、イマージュ想起はわれわれという人間の一貫性を保ち、習慣である純粋想起やその現実的な活動である『感覚-行動的』な『意識』の活動は、普遍的な物質世界の行動を司っていると主張されていました。さらに、イマージュ想起は差異を、純粋想起は類似をその記憶と知覚、もしくは記憶と記憶から見分けるという特徴があり、その合流点がこれが『一般観念』の現れるところであるということでした。

以上、第四節まで振り返ってみました。


では、本文にもどり、この節の最初の段落(p.223 2行目−10行目)を見よう。

その前に、前置きと重複する部分もあるが、もう一度簡単に前節の『一般観念』についての記述を振り返っておこう。

前節の最後の段落から、『一般観念』についての話が少しずつ出てきていた。それは、普通の人は『イマージュ想起』と『純粋想起』の両方の使って物事を考えており、それらがもたらす『数々の差異(différence)』と『数々の類似(ressemblance)』という二つの特徴、いわば、『二つの流れ』の、その『合流点に一般観念は現れる』、とベルクソンは主張しているのであった。

この段落はこう始まる。

『ここでは、一般観念の問題の全体を一度に解決するのが重要でなのではない 』(p.223 3行目)

(2012/03/20筆者注 『ここでは、一般観念の問題の全体を一度に解決するのが重要でなのである』と誤記していました。まったく反対の意味となっており、 草稿段階での読者の方々には深くお詫びして訂正する次第です。また、上記の理由のため、この段落全体の解釈が大きく違う方向へと向いている、あるいは理解不足による過ちも多いためこの段落についての解釈は、ほとんどすべてを改めました。本当に申し訳ありません。)

どういうことか。ここでは、まず、

『知覚を唯一の起源とすることなく、遠隔的にしか物質対象と関係しないもの』を『脇に置いておいて』、『われわれが類似の知覚と呼ぶものに基づいた一般観念だけを考察するつもりである』と言う。さらに、このことに関しての方法論として、『われわれは、純粋記憶、成全的記憶を、その記憶が運動習慣の中に挿入されるために行う努力を通じて辿るつもりである』と言う。(p.223 3行目-6行目を要約)

ここで、少し注意しないといけないのは、『成全的記憶』が『純粋記憶』と同じものであるということ、それが『運動習慣の中に挿入される』ということから考えて、それらは『運動習慣』に包含される関係にあるのであろう。さらに、これまでは、『純粋想起』と呼ばれていたものが、ここではおそらく『純粋記憶』と呼ばれるようになったということだ。この『純粋記憶』と『純粋想起』はおそらくは等しいと思われるが、しかし、『運動習慣』との包含関係を考えると、『感覚‐運動的』である『意識』の働きのうち、『知覚』から『感覚』へと移行する場合に使用される記憶だけを『純粋記憶』と呼び、『感覚』と『運動』が結びついた形での記憶、ここで言えば『運動習慣』と言えるだろうが、これを『純粋想起』と呼んでいるのかもしれない。このことに関しては、これから先の文章を読んでいく上での注意事項になるだろう。一般的には、『純粋想起』と『純粋記憶』は非常に似た意味を持つため、専門家ではないわれわれにとって、同じものかどうか、違う場合にはその区別は非常にややこしいものとなるだろう。

さて、この段落の続きに戻ると、そのことは、『この記憶の役割と性質をよりよく知らしめる』(p.223 8行目)だけではなく、

『しかし、それによってまた、われわれは、<類似>と<一般性>という等しく不分明な二つの概念を全く独特の見地から考察しながら、それらをおそらく解明するだろう』(p.223 9行目−10行目<>内はテキスト傍点付き)

と述べて、この段落を終えている。


では、次の段落(p.223 11行目-p.225 15行目)をみよう。

ここでは、まずこう始まる。

『一般観念の問題について提起された心理学的な次元での数々の困難をできるだけ仔細に検討するなら、それらの困難を次のような循環のなかに閉じこめるに至るだろうとわれわれは思っている』(p.223 11行目-13行目)

『すなわち、一般化するためにはまず抽象化しなければならないが、有効に抽象しうるためには、すでに一般化しうるのでなければならない』(p.223 13行目-14行目)

たとえば、大きい、小さいというような一般観念を考えれば、人は、「大きい」と言うときとは何を持って大きいというのか、「小さい」とは何を持って小さいというのか、というような堂々巡り、これが『一般観念の問題で提起された心理学的次元での数々の問題』でのいわば卵が先か鶏が先かという問題となおり、つきつめれば『数々の困難も』結局はそこへたどり着くというのだ。

更に、こう批判する。

『意識的であれ無意識的であれ、唯名論(nonminalisme)と概念論(conceptualisme)が堂々巡りしているのはこの循環の周りであって、これらの二つの学説の各々が他方にかけているものを他方に有しているのだ。』(p.223 14行目-p.224 1行目)

この後は非常に難解なので、ほとんどを引用しながら解説しなければならない。

批判はまず、『唯名論者』たちに向けられる。

『唯名論者たちは、一般観念から、その外延だけを取り出して、一般観念のうちに、個的対象の開かれた無制限な系列だけをみる』(p.234 1行目-2行目)

つまり、普通に大きいと考えれられるものを並べて、「大きい」という概念を説明しようとする。ぞう、くじら、あるいは、地球、宇宙などなど、大きいものはたくさんあるから、列挙し比較してその「大きい」という概念を説明するのには困らない。

(2012/03/25筆者注 一部、よりテキストに沿う記述に改めた)

『観念の統一性はそれゆえ、唯名論者たちにとってはわれわれがこれらの判明な対象すべてを無差別的に指し示す際の象徴の同一性のうちにしか存していない』(p.224 2行目-4行目)

この引用文は言葉が難しいだけで内容は難しくないだろう。『判明な対象』とは具体性を持った対象、と言い換えて良いだろうし、それらのなかでもっとも明らかな象徴的なもの、つまり「ぞうは大きい」、「くじらは大きい」、「地球は大きい」、「宇宙は大きい」という事柄から、大きいという言葉を定義しようとする。

(2012/03/30筆者注 二つの文を削除)

『この点について彼らの言うことを信用しなければならないとすれば、われわれはある事物を知覚することからはじめ、次いでその事物にある語をつけて加える』(p.224 4行目-6行目)

このことは、『彼ら』すなわち『唯名論者』たちは、例えば、一般的に大きいと思われるもの(『事物』)を指し示し、(それを『知覚』したのち)、「大きい」ということを『付け加える』で、その概念を説明しようとする、ということを言っているのだろう。例えば、「象は大きい」、「鯨は大きい」、「山は大きい」などだ。

(2012/03/21筆者注 よりわかりやすくするために、上の段落の説明を付け加えた)

『この語は、他の無際限に多くの諸事物にまで及ぶという能力または習慣によって補強され、そのとき一般観念へ仕立て上げられる』(p.224 6行目-7行目)

ここは、例えば、「大きい」という観念が最初は単にわれわれが直感的に「大きい」ということを表す言葉だったとして、だんだん、われわれにとっては、「小さい」ものである虫のなかでも、大きな物を「大きな虫」と言うようになり、ついには「大金(おおきなおかね)」とか「大物」というようなお金や人物評にまで一般化が展開されていくだろう、と言っているのだろう。

『しかし、語が拡張されると共に、このように、それが指し示す諸対象に制限されるためには、これらの対象は、それらを互いに近づけながらも、この語が適用されないすべての対象からそれらを区別するような類似をわれわれに呈示しなければならない』(p.224 7行目-10行目)

つまり、「大きい」なら「大きい」でどこまでを「大きい」と言うのか?ということをはっきりさせないと、むやみやたらに「大きい」と使っても、今度は一般化されたその「大きい」という観念も、『一般』というより、「特殊な」使い方に分化されてしまうのではないのか?と言っているわけだろう。

(2012/04/04筆者注)、上段落は次のような変更をした。「『一般』というより」、を挿入。さらに、「特殊な」の部分にはカギ括弧を付けた)

『一般化は、共通性質についての抽象的な考察なしには進展しないように思われるが、こうして、徐々に、唯名論は一般観念を、最初は外延によって定義するのを望んでいたにもかかわらず、内包によって定義するように仕向けられる』(p.224 10行目-12行目)

つまりは、はじめは、「大きい」なら「大きい」はわれわれが、普通に「大きい」と思う物をならべて、「大きい」を説明していた。しかし「大きい」の概念をを一般化し、さらには、「大金」や「大物」というようにその観念を物以外の物にも使うようになる。そのように一般化していくうちに、次第にどこからどこまでを大きいというのか、それは、結局、その事物のいわゆる大小関係のなかで相対化された共通認識へ移っていく、と言いたいのであろう。

(2012/04/04筆者注 「結局、その事物のいわゆる大小関係のなかで相対化された共通認識へ移っていく、」の部分で特に「相対化された」というところが、あまり表現がよろしくないが、ベルクソンが『内包』を説明をするまえのこの時点で他にうまく表現する方法も見つからないので、現時点ではこのままにしておく)


(2012/03/21筆者注 一段落削除)

さて、『唯名論』が一般観念を『外延』から定義し一般化のなかで『内包によって定義』するようになってきたのに対し、

『概念論が出発するのはこの内包からである』(p.234 13行目)

『概念論によると、知性は個体の表面的な統一性・単一性を多様な性質へと分解するのだが、各々の性質は、まさにそれを限定していた個体から切り離されることで、一つの類(ジャンル)を表象するものとなる』(p.224 13行目-15行目:(ジャンル)はテキスト中ふりがな)

上記引用で、知性による『多様な性質への分解』とは、要するにジャンル分けがどんどん緻密になっていくことを示しているのだろう。例えば、リンゴがあるとする。果物というジャンル分けもできるし、食すれば甘酸っぱいだろう。あるいは植物の実でもあるし、大体丸い形をしている。あるいは見た目に赤いという性質もあるだろう。そういうように、さまざまな性質は、リンゴというものから切り離されたひとつの『類(ジャンル)』ということになるだろう。言い換えれば、リンゴはそれらさまざまな『類(ジャンル)』の集合概念だといえる。

(2012/03/21 上段落は、後半部分の説明をよりテキストに沿った形に改めた)

次の文はまた難解だ。(2012/03/23 後半部分を削除)

『各々の類が多数の対象を<現実態で(en acte)>含んでると見なす代わりに、反対に今では、各々の対象が多数の類を<潜在態で(en puissance)>含み、そのいずれもが対象にとらわれた性質であると主張されている。』(p.224 15行目-p.225 1行目、<>内はテキスト傍点付きとイタリック)

たとえば、先ほども挙げた「大きい」がわれわれにとって小さな虫の中にもあてはまるのは、もともと虫や果物のなかにも『多数の類を<潜在態で(en puissance)>』含むからこそ、「大きい」とか「赤い」とか分類できるのである。「大きい」という『類(ジャンル)』があって『<現実態で(en acte)>』、「大きい虫」などと言うのは、もともと、虫はわれわれにとって小さな物であるはずなのだから、本来なら当てはまるはずがないではないか、と『概念論』は主張しているのだと言っているのだと思われる。

『しかし、問題は、個体的諸性質が抽象の努力によって切り離されたものであっても、最初にそうであったような個体的なものにとどまるかをまさに知ることであり、それらを類へと仕立て上げるためには各々の性質にある名前を押しつけ、次いでこの名前の元に多数の個体的対象を寄せ集める精神の新たな振る舞いが必要なのかどうかを知ることでなのである』(p.225 1行目-5行目)

長い文をなので読者諸氏にはご面倒をおかけしたかもしれない。しかし、ここでは、ベルクソン自身がこのあと解説しているので、私の解説よりもそちらをご紹介したい。

『百合の白さは、一面の雪の白さではない。それらは百合や雪の白さから切り離されたとしても、百合の白さや雪の白さのままである』(p.225 5行目-6行目)

『これらの白さがその個体性を捨てるのは、われわれが、それらに共通の名前を与えるためにそれらの類似を考慮に入れる場合だけである』(p.225 4行目-6行目)

簡単に解説すると、『百合』も『一面の雪』も『潜勢態で<enpuissance>』、『白さ』という一般概念を持ってるのではなく、『百合の白さ』、『雪の白さ』から『その個体性を捨てるのは、われわれが、それらに共通の名前を与えるために、その類似性を考慮に入れる場合だけである』と言っているのだ。

以下、少しまとめて書くと、このことは、結果として『最初に放棄された外延の観点に戻ることではないか』(p.225 10行目-11行目)と指摘している。それは、結局は『個体』を『個体的諸性質』へと分解していったあと、はじめに考えた『唯名論』と同じように、具体的な対象の類似性あるいは、相対的な比較のなかから共通点を抽出する作業により一般概念を抽出するという過程をたどっている。すなわち、『ある名前を相似た対象に適用する』という「唯名論」の最初の一般概念の抽出過程へと戻ってしまうということが起こっていると指摘している(p.225 8行目-11行目)

(2012/03/23、2012/03/25筆者注 上段落の一部表現を改めた)

『それゆえ、われわれはまさに実際に循環に陥っているのであって、唯名論はわれわれを概念論へと導き、概念論はわれわれを唯名論へと連れ戻すのだ』(p.225 11行目-13行目)

このベルクソンの記述に何も付け加えることはないように思う。あとは、この段落の最後のまとめを紹介して終わろう。

『一般化は共通の諸性質の抽出によってしか行われえない。しかし、諸性質は、それが共通なものと見えるためには、すでに一般化の動きを蒙<こうむ>っているはずなのだ』(p.225 13行目-15行目、<>内は筆者による読み仮名)


次の段落(p.225 16行目-p.226 4行目)を見よう。

この段落は短い。他の部分と比較すればあまり難しくもないので、最初と最後だけを引用しよう。

『これら相反する二つの理論を次に掘り下げることで、それらに共通の公準が見いだせるだろう』(p.225 16行目-17行目)

以降の内容をまとめると、こうなるだろう。『唯名論』は『類(ジャンル)を枚挙によって構成し』、『概念論』は『分析によって構成する』。しかし、どちらも、『数々の個体』をそれぞれの対象の『知覚』から『直接的な直感に与えられた存在』として扱う、ということをベルクソンは『共通の公準』と表現している。(p.225 17行目-p.226 3行目を要約)

(2012/03/23筆者注 上段落は内容に誤りがあったため、よりテキストに沿うよう改めた。以前は『一般観念』が直接的直感によるものとしていたが、より正しくは、『一般観念』が扱う、それぞれの『個体』は、『知覚』され、そのときに『直接的直感にあたえられた実在』として扱われていることがここでの『公準』である。読者の皆様には再三ご迷惑をおかけし申し訳ありません)

この段落は、以下の引用文を最後の文として終わる。

『その見かけ上の明証性にもかかわらず、その公準は真実味のあるものでもなければ、諸事実に適合してもいない』(p.226 3行目-4行目)


次の段落(p.226 3行目-16行目)をみよう。

この段落もさほど長くはないのであるが、はじめから難解である。しかし、最初の三つの文は流れるように連なっているので、まず、読者諸氏に見て頂き、後に説明をさせて頂きたい。

『実際、一般観念の明晰な表象が知性の極みであるのと同様に、個体的諸対象の判明な区別は贅沢な印象であるようにア・プリオリ<先天的>に思われる』(p.226 5行目-6行目:<先天的>の部分は筆者が挿入)

『数々の類<ジャンル>を完璧に構想することはおそらく人間の思考に固有である』(p.226 6行目-7行目:<ジャンル>はテキスト読み仮名)

『この構想は反省の努力を必要とし、この努力によってわれわれ、表象から時間と場所の特殊性を消し去るのだ』(p.226 7行目-8行目)

最初に難解だと申し上げたが、最初の文を除けばあとは、読者諸氏も比較的簡単に理解されるに違いない。したがって、最初の文を詳細に解説して、そのあとは、簡単にまとめておこう。

まず、『一般観念の明晰な表象が知性の極み』とはどういうことだろう。一般観念とはごく簡単に言うと、われわれが知覚できるものに対する性質・形状を表す言葉だろう。この形容をはっきりと区別してうまく他人に伝えることができることこそが、『知性の極み』とベルクソンは言っているのだと思われる。言い方を変えれば、一般化された観念をよく使うためには、その観念の使われ方をよく知らなければならない。そのためには、さらにその一般観念を使う対象一般のこともよく知っておかなければならない。そのことを、ベルクソンは『知性の極み』と言っているのではないだろうか。

そのことは、この最初の文をもう一度と見る分かるように、一般観念をうまく使うことが『知性の極み』であるということと、『個体的諸対象の判明な区別が贅沢である』が『同様』として表現されていることでも、より深く理解できる。すなわち、『個体的諸対象の判明な区別』というのは、あるものがどのような一般観念から構成されているか、ということを逐一説明する、ということであろう。そのことをここではある種『贅沢』なことであると表現している。『個別対象』を単に(『判明』であるというほどではなくとも区別することは)、一般観念を『贅沢』には使わなくてもできるであろうという反語であろう。そして、そのことは暗に、一般観念を正しく使うこと、すなわちその『明晰な表現』が貴重なことであり、『知性の極み』であるということを示しているということだろう。

(2012/03/23、2012/03/30筆者注 上段落は内容に問題があったため、よりテキストに沿うように改めた。また、下段落を追加した)

ところで、もう少し深読みすれば『一般観念の明晰な表象が知性の極み』というのは、『唯名論』の『外延』から一般観念を抽出するのに相当し、『個体的諸対象の判明な区別は贅沢』であるというのは、『概念論』の『内包』関係からその物質を表象することに相当するようにも思われる。

このあとの文章は、ほぼおわかりいただけると思うが、念のために三番目の文の『表象から時間と場所の特殊性を消し去る』という部分を解説しておくと、この部分の『表象』というのは、われわれがわれわれの『知覚』から受け取るものをその『表象』と呼んでいるので、そこから、『時間と場所の特殊性を消し去』れば、『数々の類<ジャンル>を完璧に構想すること』が生じる、ということにつながってくるのだと思われる。

(2012/03/23 一段落削除。私の解説にあまりに間違いが多いので。本当にお恥ずかしい限り。読者の皆様には再々深くお詫び申し上げます)

文章は更に続く。この段落は、説明の必要もあってほとんどを引用する。

『ところで、これらの特殊性についての反省 -それなしでは対象の個体性はわれわれにとって理解できないものとなる- は、差異に注目する能力、まさにそれによって、イマージュ記憶を前提としており、この種の記憶は間違いなく人類と高等動物の特性であろう』(p.226 8行目-11行目)

個体性を識別するのは、実は、『人類と高等動物の特性』であり、それは、『イマージュ記憶』を持つからである、と述べている点は注目すべきだ。この段落の最初を思い出して欲しい。改めて引用すれば、

『実際、一般観念の明晰な表象が知性の極みであるのと同様に、個体的諸対象の判明な区別は贅沢な印象』(p.226 5行目-6行目)

とあった。『個体的諸対象の判明な区別は贅沢』というのは、『人間や高等生物』だからこそ許される贅沢といいたいのだろうか?しかし、イマージュ記憶とは、前節『過去と現在の関係』でも見たように、それは、確かに自己の同一性を保証するものである(p.218 10行目-11行目)と同時に、例えば、大人よりも未発達の子供に特に特徴的な能力(p.220 4行目-14行目)ではなかっただろうか。続きを見ていこうと思う。が、しかし、その前に、ここまで説明してこなかった『感情』という言葉が次の文に出てきているので、それを先に説明しておきたい。

『感情』については、第一章 『表象に向けてのイマージュの選択について —身体の役割』に於いていくつかの節を割いて『知覚』とともに述べてある。

このベルクソンの説においては、最終的に『知覚』は『感情』と切り離され、『感情』は『知覚』に於ける『不純物(impureté)』として扱われる(p.70 16行目-17行目)。一方、『感情』から切り離された『知覚』として『純粋知覚』が唱えられるという次第になっている。

この『不純物』であるはずの『感情』がここでまた登場しているのには、何か理由があると考えると、その『知覚』と『感情』の未分化をここでは主張したいのであろう。

では、以下の文を見ていただきたい。

『それゆえ、個体の知覚からでも類(ジャンル)の概念からでもなく、中間的な認識から、<顕著な諸性質>もしくは類似についての漠たる感情から出発していたようにまさに思われる』(p.226 11行目-13行目)

つまり、われわれは、一般に、記憶について『純粋記憶(想起)』、『イマージュ記憶(想起)』と区別しない。あるいは、『知覚』を『純粋知覚』とその不純物である『感情』と分けたりしない。そのような状態、ということをここではいいたいのだろう。もちろんこの部分はこの段落一行目の『ア・プリオリ』にも掛かっているのは言うまでもないだろう。

(2012/04/02 上の段落の解説もこのままでいいのか悩ましいが、現段階ではこのままにしておく)

つまりは、この段落では、まずは、『一般観念』について、われわれが『記憶』や『知覚』についての特別な考察なしで、どのように考え、扱っているかというのを考察するところから始めようとしているのではないだろうか?

(2012/04/03 下段落、最後の一文を削除)

続く二つの文でこの段落は終わりである。とりあえず、読者はその文を味わっていただきたい。おそらく、私の解説抜きでもご理解いただけるだろう。

『この感情は、十全に構想された一般観念からも、はっきりと知覚された個体性からも等しく隔てられていて、それら双方を分離によって生み出している。反省的分析はこの感情を一般観念へと純化し、識別的記憶はこの感情を個体的なものの知覚へと凝固させる。』(p.226 13行目-16行目)

2012年3月19日月曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その4 第四節 過去と現在の関係 (下)



次の段落(p.218 9行目‐p.219 5行目)に入ろう。

前の段落の終わりを受けて、こう始まる。

『習慣が組織した感覚-運動系の全体によって構成される身体の記憶は、それゆえ、ほとんど瞬間的な記憶であり、』(p.218 9行目-10行目)

『過去の真の記憶は、身体のほとんど瞬間的な記憶の土台として役立っている』(p.218 10行目-11行目)

この部分はほとんど説明もいらないであろうが、あえて行うとすれば、前半部分が『純粋想起』、後半部分が『イマージュ想起』について述べており、いよいよその関係性、ベルクソンが以前に言った『密接に接合されて一つになる』(p.217 6行目-7行目)ということを説明し始めたということなのだろうか。見ていこう。

『それらの記憶は二つの切り離された事物を構成しているのではないから、第一の記憶は、動く平面のなかに第二の記憶によって差し込まれた動的先端(pointe mobile)でしかないのだから、これら二つの機能が相互に支え合っているのは当然である』(p.218 11行目-14行目)

この記述は、あくまで図4を念頭に置いたものであろう。この中で、やはり、『第一の記憶』とは『純粋想起』であり、『第二の記憶』とは『イマージュ想起』のことである。『動く平面』とは現在という時間の断面Pであり、『動的先端(pointe mobile)』とは、『身体のイマージュ』Sが絶えず行う『感覚-運動的』な動作のための『純粋想起』であるに違いないだろう。この前の引用文で、『イマージュ記憶』が、習慣でもあり瞬間的な『純粋記憶』の『土台』と表現され、この引用文では、『第一の記憶は、動く平面の中に第二の記憶によって差し込まれ』ると記述されていることをどう解釈するかという問題が、しかしここで残る。

次の文がやや意味が取りづらい書き方だが、『瞬間的』と表現された『純粋想起』と対照的に意味がとれるから『イマージュ想起』のことを説明しているのだろう。実際に文章をみよう。

(2012年3月11日筆者注 ここから段落終わりまでの文章は難解であり、『イマージュ想起』と『純粋想起』を対照させているのか、あるいは『想起』と『現在』を象徴するわれわれの現実存在の物質性、即ち肉体と言って良いだろうが、これとイマージュを対照されているのか判然としない部分がある。しかし、この段落ここまでの、『純粋想起』と『イマージュ想起』の二つを対照的に論じられてきたこと、『イマージュ想起』が『純粋想起』の『土台』などという表現もされていること、次段落の内容などから、現在までのところ『イマージュ想起』と『純粋想起』を対照させているものと見なしている)

『一方では実際、過去の記憶は感覚-運動的諸機構に対して、それらの機構を導いて任務を果たさせ、過去の教訓によって示唆された方向へと運動性反応を差し向けうるすべての想起を現前する』(p.218 14行目-16行目)

つまりは、『瞬間的な記憶』である『純粋想起』は、ある程度は連続しているとは言っても、記憶された順番や時刻と無関係に『知覚』と照合・照会されるものであるから、『イマージュ想起』あるいは、われわれの人生と言っても良いだろうが、その長さに比べて相対的に遙かに短い『記憶』だろう。すなわち『純粋想起』を統括しているのは、われわれのいわゆる経験であり、それは、『イマージュ想起』であろう。そうでなければ、われわれのいわゆる『無意識』のうちに『知覚』と照合・照会されるところのものである『瞬間的な記憶』つまり『純粋想起』がどうして統合的に作用するであろうか、と言っているのであろう。

このあと、『まさに、そこに隣接と相似による連合が存するのだ』(p.218 16行目)という記述がある。これは、このあとの段落でも少し述べられるが、後に説明される第五節『一般観念と記憶』で論じられる部分の前置きとなっているので、ここでの説明は省略する。

(2012年3月10日筆者注 上の段落を挿入した)

こうして、統合的作用をする記憶として『イマージュ想起』が作用する一方、『純粋想起』は、われわれの意識的な現在、言い換えれば『感覚-運動的』な活動を担当している、ということが、次の文からこの段落の最後までに書いてあるのだがここは、上の説明ですでに述べたところも含んでいるので、最後の文だけを引用して残りは省略したい。

『言葉を換えれば、想起を応答するところの呼びかけが出てくるのは現在からであり、生命を与える熱気、それを想起が借りるのは現在の行動の感覚-運動的要素からなのである』(p.210 3行目-5行目)


では、次の段落(p.210 6行目-p.211 3行目)をみよう。

この段落は、ほとんどがあまり難しくない。最初の行と最後の行以外はほとんど要約しようと思う。

まず、最初の行をみよう。

『この一致の揺るぎなさ、これら二つの相補的な記憶が互いに挿入される際の精確さに、われわれは「見事に一致のとれた」(bien équilibrés)精神、つまり、結局は完璧に生に適応した人間たちを見るのではないだろうか』(p.219 6行目-8行目)

とベルクソンは言う。以下このことの説明である。要約しよう。

ベルクソンはまず、『行動の人(homme d'action)』を説明する。この人はもっぱら、『純粋想起』と『イマージュ想起』のバランスに於いて、『純粋想起』の方に偏った人である。瞬間的な状況判断は優れているけれども、役に立たない『純粋想起』も『識閾<しきいき>(seuil)』つまり、意識と無意識の境界線にたくさん出現するし、そのためか、いわゆる行き当たりばったりになりやすい。このことが極端になってくると、下等な動物と同様に反射的な行動だけをとる、いわゆる『<衝動的な人>(un <impulsif>)』となる。(p.219 8行目-14行目を要約、<>内はテキスト傍点付きとイタリック、ただし識閾の部分は読み仮名)

しかし、一方、もはや過去のなかだけを楽しみ行動よりも過去のなかに生きる人もいる。そこに至っては想起も現実の知覚や行動とかけ離れ、行動が伴わなくなる。そういう人は、『<夢見る人>(un <rêveur>)』である。(p.219 14行目-17行目を要約、<>はテキスト傍点付きとイタリック)

ここから、段落の最後まで同様に難しくはない。ただ、次の段落とのつながりを示す必要のために引用しておく。

『これら二つの極端な状態のあいだには、現在の状態の輪郭を正確に辿るのに十分な従順さと、他のすべての呼びかけに抵抗するのに十分な力強さを兼備した、記憶の幸運な配置[構え]が存している。良識(bon sens)あるいは実践感覚(sens pratique)はおそらくこれ以外何ものでもない。』(p.219 17行目-p.220 3行目)


では、次の段落(p.220 4行目-6行目)を見ていこう。

ここでは、未発達な子供の例などを挙げて、二つの記憶について考察している。ここも難しくないので、同じようにこの段落も、最初と最後だけを引用して、後は要約したい。

まず、最初の文は、

『大部分の子供における自然発生的な記憶の並外れた発達は、子供たちがまだ自分の記憶を自分の振る舞いと連帯させていなかったことにまさに起因する』(p.220 4行目-5行目)

とある。

以下、要約すると、子供は単に自分の目の前に起こる事象の印象だけをたどっていて、行動(ここでは『純粋想起』による『感覚-行動的な』自律行動)と記憶(『純粋想起』を統合・統括する『イマージュ想起』)が一致していない。つまり、『彼らにおいて行動が想起の指示に従わないのと同様に、逆に彼らの想起も行動の必要性に制限されない』(p.220 5行目-7行目を要約)

従って、子供の記憶力が良いというのも、行動の必要性に制限されていないからで、その知覚によっていろいろなものごとを分けて認識しないことによる。このため、誰もが大人になる過程で知能が発達していくにつれて、言い方を変えれば『想起が次第に行為と組織されていく』につれて、見かけ上、記憶力が衰えていくように見える。(p.220 7行目-10行目を要約)このことを、ベルクソンは一言で、

『このように意識的な記憶は、洞察力において獲得するものを、延長において喪失する』(p.220 10行目-11行目)

と言っているが、このことは、『洞察力』を、『イマージュ想起』と『純粋想起』のバランスのとれた一致と考え(『洞察力により獲得する』)、その『洞察力』が発達するにつれ、逆に、未成熟な子ども持つような非常に良い記憶力、—ただし、それは単に『イマージュ記憶』をそのまま表現していただけなのであるが—、それを失う(『延長において喪失する』)ということを述べていると思われる。

(2012年3月12日筆者注 上記段落の文章が意味が取れなかったので文末を中心に変更した)

ここまでのことは、前段落の『純粋想起』と『イマージュ想起』のバランスにおいて『純粋想起』が強くでる人の逆のことを言っているのであろう。つまり、『イマージュ想起』が『純粋想起』とはあまり関係性を持たない、あるいは、社会的に必要とされ発達するところの『純粋想起』が未発達な人のことを言っているのだと思われる。

結局、子供の頃の記憶力の確かさが、われわれの『夢』のような確かさを持っていたのは、子供が現実に起きたまま『夢』を見ていたからだ、とベルクソンは言う(p.220 11行目-12行目)

ここからのテキストの記述がやや差別的な表現になっているので、表現を変えて言うと、昔、宣教師がアフリカの未開のところへ入った行ったときに、宣教師が行った説教を、あるその土地の人が、

『一字一句間違えずに同じ身振りで端から端まで間違えずに繰り返して言うのを目撃した』(p.220 14行目-16行目)

ということも、著しく異なる社会、およびその社会的な概念のもとで、おおらかに暮らしている人たちの独特な記憶の仕方として説明できる。


さて、次の段落(p.220 17行目-p.221 15行目)に進もう。

まず、この段落は、こう始まる。

『しかし、われわれの過去は、現在の行動の必要性に抑制されているため、ほとんどその全体が隠されたままであるのだとすれば、いわば夢の生活のなかに戻るためにわれわれが有効な行動に関心を持たないすべての場合に、われわれの過去は意識の識閾(seuil)を飛び越える力を取り戻すだろう』(p.220 17行目-p.221 3行目)

以下、次の行もあわせて解説すると、われわれだって、寝ているときのような行動の必要性というものがないときには、『イマージュ想起』というものがそのまま『夢』として現れてくるだろう、と言っているのだ。

『睡眠中に感覚神経要素と運動神経要素のあいだの連絡が中断されること、このことが最近われわれに示された(2)』(p.221 4行目-5行目、(2)は章末の文献番号)

とベルクソンは続ける。さらに、このような仮説を立てずとも、寝ているときには誰もが起きているときに使う神経をゆるめているというのは誰の目にも明らかだろう、とも言う(p.221 5行目-8行目を要約)

『ところで、いくつかの夢や夢遊症状態における記憶の「高揚」は、決して珍しくもない観察事実である。消滅させられたと思われていた数々の想起がそのとき驚くほど正確に現れる』(p.221 8行目-10行目)

以下、とうに忘れていたはずのことを細部まで思い出したりするだろう。と続く。さらに、この類の話において、いわゆる生命の危機に直面したときの臨死体験の話以上に有益なものは何もないとベルクソンは主張する(p.221 10行目-13行目を要約)。

この段落の最後の行を引用しよう。

『自分の歴史の忘れられていたすべての出来事が、それらのこのうえもなく微細な事情を伴い、しかも、そのことが起こったまさにその順序で、わずかな時間に自分の前に次々と現れるのを見た、と蘇生した患者は明言している(3)』(p.221 13行目-15行目、(3)は章末の文献番号)


次の段落(p.221 16行目-p.223 1行目)をみよう。この段落でこの第四章第四節は終わりになる。

この段落はこう始まる。

『自分の存在を生きる代わりに<夢見るような>人間存在は、おそらく、このように、自分の過去の歴史の限りなく多くの細部をあらゆる瞬間に自分の眼差しの元に留めておくだろう。』(p.221 16行目-17行目、<>内はテキスト傍点付き)

と、前段落からの内容を続けるのだが、この後が興味深い。

『反対に、この記憶を、それが生み出すすべてのものと一緒に捨てる人は、自分の現実存在を実際に表象する代わりに、自分の現実存在を絶えず<演じる>だろう。』(p.222 1行目-2行目:<>内はテキスト傍点付き)

これまでもある程度語られてきたことではあるが、さらに、どういうことか、そしてそこから、どのようなことが述べられていくのか、これからのこの段落において、『最初の人』、『他方の人』などと対照的にベルクソンが述べていくのでそれを見ていけばわかるのであろう。

まず、『演じる』方の人の続きだが、この人は、『意識を有した自動人形のよう』な人と形容され、『そのようなひとは、刺激を適切な反応へと引き継ぐ有益な諸習慣の傾向に従うだろう』(p.222 2行目-4行目を要約)

そして、『<夢見るような>人間存在』と形容された『最初の人』は、

『特殊なものから、そして個体的なものからさえも決して抜け出ることはないだろう』(p.222 4行目-5行目)

このように『最初の人』は、『各々のイマージュに時間内の日付と空間内の場所とを残しながら』、他のイマージュの類似でとではなく『何によって他の諸イマージュとの<異なる>のかに気づくだろう』(p.222 5行目-7行目を要約:<>内はテキスト傍点付き)

もう少しここを解説すると、『<夢見るような>人間存在』と呼ばれるような人は、その記憶において『イマージュ想起』に偏っている特徴があり、そういう人の特長として、その記憶される『イマージュ』に時間と場所についての情報をつける。あたかも写真に日付とその写した場所を書き込むように。そして、たとえば、異なるときに写したいくつかの同じ場所の写真を比較して、違いを見つけるように『何によって他の諸イマージュと<異なる>のかに気づく』のだ。

一方、『自分の現実存在を絶えず<演じる>』と表現された『他方の人』の方だが、この人たちは、『つねに習慣によって支えられており』、『ある状況が以前の諸状況に<類似している>側面だけを』を発見するだろう。(p.222 7行目-9行目を要約)

つまり、『つねに習慣支えられている』ような『他方の人』は『純粋想起』がより強く発達して行動しているが為に、部分的な『<類似している>側面』を見分ける力が発達しており『感覚-運動的な』行動がより取りやすくなっているだろう、と言っているのだろう。つまり、同じような場面で、特に考えることなしで『自動人形』のように行動できる力が特に発達している、と言いたいのだ。

これらことは、先述べた『まさに、そこに隣接と相似による連合が存するのだ』(p.218 16行目)の内容を一部説明している。おそらく、ここからは、その『隣接と相似による連合』について述べられることになるだろう。

(2012年3月12日筆者注 上段落を挿入した)

ところで、一般的に、次のようなことが言えるとベルクソンは言う。

『一般観念は思い出された多数のイマージュの少なくとも潜在的な表象を前提としているので、普遍的なものを<考える>ことはできないが、にもかかわらず、習慣と行動との関係は一般性と思考の関係に等しいのだから、その人が動き回っているのは普遍的なもののなかである』(p.222 9行目-12行目)

(2012年3月12日 筆者注 次の段落は大幅に記述を改めた。理由としては、以前の記述では普遍性を持つのが言語構造などの不変性によるものとしたが、ここでは、普遍性を持つ物理世界の中で行動するために『感覚-運動的』なわれわれの思考の元である『純粋想起』があるのであるから、そこから、『一般性と思考の関係』が見出されるという解釈が正しいように思われるからである

2012年3月19日 さらに、『潜在的な表象』の部分の文を挿入した。)


あまりにも、抽象的な表現で手がかりがなさすぎる文章だが、しかし、少しずつ具体例を挙げながら考えていこう。まず、『一般観念』だが、これは、例えば、大きい、小さいなどの一見普遍的に思えるような形容詞を例に挙げれば分かる。まず、われわれが大きい、小さい、と言うときには何かに対して大きい、小さい、と思い浮かべ比較して言っているわけだ。「大きい車」といえば、普通はダンプカーや大型トレーラーなどを思い浮かべるだろう。そこでは『多数の潜在的な表象』の比較の対象として、われわれ一般人が乗る乗用車などを思い浮かべているからだ。ところが、たくさんのダンプカーが並んでるなかで、単に「大きい車」と指示するときには、普通は「大きい車」のダンプカーのなかでも特に大きいダンプカーをのことを言っているのが普通である。そういうわけで、このような、大きさを表すような一般観念は、『思い出された多数のイマージュの少なくても潜在的な表象』というものを『前提』としているわけなので、あくまで、それは比べるものとの相対的な『表象』となるだろう。従って、『一般観念』で『普遍的なものを<考える>』ということはできない。

さらに、ここまで述べられてきたことを合わせて考えれば、この部分は、『潜在的表象』としての『イマージュ想起』と『知覚』もしくは別の『イマージュ想起』の差違を一般観念では表現している、ということを意味している。これはすなわち、この段落で言う『最初の人』つまり『イマージュ想起』に偏った人の特徴であるだろう。

(2012/03/19筆者注 また、さらに、『潜在的表象』の差違を見出すことがその特徴であることから、つまりイマージュ想起による差違の発見であることを特に主張しているとうことを述べた上段落を付け加えた)

にもかかわらず、われわれは、普遍性をもつ物理法則が支配する物質宇宙で暮らしている。そのことを可能にしているのは、『習慣と行動の関係』、即ち、『純粋想起』に偏っている人の特徴である、類似に良く反応することを『一般性』と言い換え、実際の『感覚−運動』的な行動こそがベルクソンの言う『意識』の働きであったことを『思考』と表現した場合の、『一般性と思考』の関係と等しいということが言えるが、それらのことからである、と述べていると思われる。

(2012/03/19筆者注 特に後半部分を中心に記述を変更した)

この後こうベルクソンは述べる。

『しかし、一方はまったく観想的な記憶で、その<視野>のうち特異なものしか把握せず、もう一方はまったく運動的な記憶で、一般性の刻印をその行動に押しつけているのだが、』(p.222 12行目-14行目)

『これら二つの極端な状態は、例外的な場合にしか互いに孤立することはないし、十全に現出することもない』(p.222 14行目-15行目)

簡単に言えば、一般的にわれわれは、『イマージュ想起』や『純粋想起』にのどちらかのみに偏ることはない。

(2012/03/19筆者注 上段落は大幅に説明を簡略にした)

続いて、この段落の最後まで引用する。ここは、ここまでの説明から特に解説の必要はないと思われる。また、次の節は『一般観念と記憶』という名がついているというのもその理由である。

『通常の生においては、両者は緊密に混じり合っており、それゆえいずれもそれ本来の純粋さの何かを放棄しているのだ。前者は、数々の差異(différence)の想起によって表現され、後者は数々の類似(ressemblance)の知覚によって表現される。二つの合流点に一般観念は現れる』(p.222 15行目-p.223 1行目)


2012年3月17日土曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その4 第四節 過去と現在の関係 (上)



ここでは、第四節『過去と現在の関係』(p.214  10行目-p.223 1行目)を見ていきます。

早速内容を見よう。

最初の段落(p.214 11行目-p.215 11行目)は、前段落を受けてわれわれの過去がどのように保存されているか、という疑問について、このような問いをまず投げかけ、それに対してベルクソンの考えを述べるというやり方で始まる。

『それにしても、仮定からして、存在することをやめた過去が、どうして自分自身によって保存されうるのだろうか。ここには紛れもない矛盾があるのではないだろうか。』(p.214 11行目-12行目)

この、問いを少し解説すれば、

「よろしい。意識が、われわれが寝ているときも働いているものだとしましょう。ふつう常識的な意味の意識とはちがう独特の定義の仕方ですけどね、ベルクソンさん。過去は文字通り過ぎ去ってしまってなくなってしまった訳でしょう?意識は、われわれの現在そのものであって、実は単なる『感覚‐運動的』な活動の結果ですから。では、われわれの過去たるその『純粋想起』という情報とやらは、そもそもどこから作り出されるんですか?ちょっとおかしくないですか?ベルクソンさん」。

という問いかけであろう。

それに対して、ベルクソンの答えは、

『—それに対してわれわれは、問われているのはまさに過去が存在するのをやめたかどうかあるいは過去は単に有益であることをやめたかどうかを知ることではないかと応じる』(p.214 12行目-14行目)

である。常識的には、お話にならない。しかし、われわれはベルクソンの主張をこれまで通り、辛抱強く追っていこう。

まず、こう、ベルクソンは切り出す。

『現在は単に<成るもの>であるのに、あなたは現在を<存在するもの(ce qui est)>と勝手に定義している。あなたが、現在の瞬間ということで、過去を未来から区別する不可分な(limite indivisible)のことを考えているなら、このような現在ほど存在しないものは何もない』(p.214 15行目-p.215 2行目:<>内テキスト傍点付きとイタリック)

現在の物質空間というのは物理法則に支配されているがゆえに、まるで写真のように、瞬間を切り取って把握しているような静止した物質空間というものはどこにもない。物理的空間の現在はつねに一瞬前の過去から因果律たる物理法則よって生成されているとベルクソンは言っているのだろう。

(2011/06/29筆者注 以前は次のような記述であったが正確性に欠けるために変更した。「要するに、あなたは、まだ、現在というものが、物理法則に支配された『物質空間』と同等のものであると考えているからいけないのですよ、とベルクソンはいう。」 )

『そして、われわれがこの現在を、存在しなければならないものと考えているときはまだ存在していない。そして、われわれがこの現在を、現実存在するものと考えているときにはそれは過ぎ去っている』(p.215 2行目-4行目)

(2012/03/02筆者注 一段落削除)

あなたが、だれかが投げたボールをバットで打つ、ということで置き換えて考えればわかりやすいと思う。ボールは動いているのであるから、ボールを打つ瞬間という現在は、数瞬前の未来だ。つまり『われわれがこの現在を、存在しなければならないものと考えているときはまだ存在していない』。ボールを打ったと思った、その瞬間には、ボールはもうバットから離れてしまっているだろう。つまりは、『われわれがこの現在を、現実存在するものと考えているときにはそれは過ぎ去っている』。

『反対にあなたが、具体的で、意識によって実際に生きられている現在を考察するならば、この現在は大部分が直前の過去のうちに存すると言うことができる。』(p.215 4行目-6行目)

ベルクソンの言う通りに意識というものを考えるならば、『この現在』というのは、すべてが実は過去であるということができる。つまり、考え方次第で、現在というものは、数瞬前の未来であったり過去であったりしたけれども、ベルクソンの主張する意識の定義を正しく受け止めれば、『この現在』というのはこのあとに出てくるように『知覚』であり、必ず、数瞬前の過去として扱うことができる、ということになる。

(2012/03/17筆者注 2011/06/29筆者注の文章を削除、また記述をより正確に改めた)

このあと数行略して、そこに書かれている結論から見ていきたい。

『実を言うと、すべての知覚はすでに記憶なのである。』(p.215 10行目)

まず、説明上は、『すでに記憶』というのは『すでに過去』であると言い換えるべきかもしれない。つまり、知覚のどの瞬間であっても微少な反応時間が必要である。そういう意味がある。そして、知覚はイマージュではなく、何らかの信号、それらは情報として脳では扱われるのだから過去であり『すでに記憶』なのだ。

ベルクソンによるこの段落のまとめを見よう。

『<われわれは、実際には、過去しか知覚していない>。純粋な現在は、未来を浸食する過去の捉え難い進展なのである。』(p.215 10行目-11行目)


次の段落(p.215 12行目-p.216 6行目)を見よう。

まず、最初の文を引用しよう。

『意識はそれゆえ、この微光によって直前の過去を普段に照らし出しているのだが、』(p.215 12行目-13行目)

『この部分はというと、未来へと傾けられながら、未来を現実化して未来に加わろうと努力している』(p.215 12行目-13行目)

前段落の最終行を受けてのこの部分は、まず、『直前の過去』というのは『知覚』のことであろう。前段落でも見たように『意識』という形で定義される現在とは、純粋に物理学的な現在であり数学的な点でもある。そこに我々の肉体の物質性も含まれる。そして、この現在たる『意識』とは『行動するものの特徴』(p.202 5行目)にすぎない。従って、『微光』とは、前段落での最後の文にあった『未来を浸食する過去の捉え難い進展』ということであり、『われわれの現実存在(existence)の物質性そのもの』((p.199 2行目−3行目)だろう。それが、『この部分はというと、未来へと傾けられながら、未来を現実化して未来に加わろうと努力している』という表現になっているのだろう。

(2012/03/16筆者注 上の段落は、以前とは全く解釈を改めた。以前は「『意識』が知覚として受け取る『記憶』と『純粋想起』を絶えず結びつけようとする働きを『微光』」と解釈していたが、正確ではないと思われたため)

『不確定な未来を決定することだけに没頭するこことで、意識は、もっと遠い過去の諸状態のうち、われわれの現在の状態、つまり直前の過去と有効に組織されるだろう状態に対してその光を放つことができるだろう。その他のものは不分明なままである。』(p.215 14行目-17行目)

これまでにも繰り返された通り、無意識では、絶え間なく『知覚』情報と『純粋想起』の照会・照合過程は行われるのであるが、その中でも、『知覚』と合致している『純粋想起』によって、『意識』はその『感覚-運動的』な『私の現在』(p.194 1行目)の行動を決定するだろう。しかし、その他の『純粋想起』は意識にはわからないままである、と言っているのだろう。

(2012年3月16日筆者注 上の段落も引き続き解釈を改めた。特に、「『意識』は結果としてある程度の長さの未来も予測できるだろう。」の部分が余計と思われたため)

『一つの行動法則に他ならない生の根本法則のおかげで、われわれはまさにわれわれの歴史のこの分明な部分のなかに位置づけられたままなのだ。』(p.215 17行目-p.216 1行目)

これは、要するにこれまで述べてきたように『物理空間』に於いては物理法則が適用されるために、われわれの『純粋想起』は、その記憶が構成された日時とはまったく無関係に、『意識』という現象のために『無意識』のなかで照会・照合の為に使われる。このことを、ベルクソンは『生の根本法則』と言い、『意識』は、分明のなかにあると強調ししている。これは言い換えれば『感覚-運動的』なわれわれの生の根本原則とも言って良いだろう。

さて、そのことによって、

『闇の中に保存された想起なるものを思い描く際ににわれわれの感じる困難が生じる』(p.216 1行目-2行目)

と述べ、更にこう続ける。

『過去の全面的な残存を認めることに対するわれわれの嫌悪は、それゆえ、われわれの心的生の方位そのもの、諸状態の紛れもない進展に由来するするのだが、』(p.216 2行目-4行目)

『これらの状態においてわれわれは、完全に展開されたものではなく、展開されつつあるものにまなざしを向ける方が得なのである』(p.216 4行目-5行目)

これら引用文の前半部分は、要するにわれわれの『意識』は、『感覚-運動的』であることを特徴としているので、と言い換えても良いであろう。つまり、何かの『知覚』をきっかけにそれに合致した『純粋想起』によってその部分の未来は予測可能であると言うことが絶えずわれわれには生じているわけだから、『無意識』や合致しない部分の『不分明』な『純粋想起』に対してまなざしを向けることは、難しく、意味があることとは思えないようにわれわれはできている、ということだろう。それが、結果として『無意識』に対する『嫌悪感』なのであるとベルクソンは主張しているのだ。

(2012/03/03筆者注 第三節『無意識について』には次のように記述されていたことを参考までに、再度引用させていただきたい。

『従って、それが延長である限り、われわれの知覚は、それを内包するより広大で、無際限でさえある経験に比して<常に含まれるもの=内容(contenu)>でしかないことを本質としている。この経験は、認知された地平をはみ出しているのだからわれわれの意識にとっては不在なのだが、それでも現実に与えられているように見える。しかし、われわれはこれらの物質的対象に引っかかっているように感じ、かくしてそれらを現存する実在へと仕立て上げるのに対して、反対にわれわれの想起は、過去のものである限り、われわれが自分と一緒に引きずっている足手まといであり、われわれは、それから解放されたふりをするのを好むのである。われわれがそれによって自分の前に空間を無際限に開くところの本能と同じ本能故に、われわれはわれわれの後ろで、時間が過ぎ去るにつれて時間を閉め出す』(p.207 3行目-12行目、<>内はテキスト傍点付きとイタリック))


続いて、次の段落(p.216 7行目-p.219 5行目)を見てみよう。

まず、この段落の始まりは、次のように始まる。

『われわれはこのように長い回り道をしてわれわれの出発点に戻ってくる。』(p.216 7行目)

この後の論を進めるにあったって、この部分にあまりこだわる必要はない。しかし、これは、ベルクソンがこれまでのことを振り返ってみれば、と言っているのに等しいので、あえてこだわって、これまでのことを振り返ってみることにしよう。

まず、われわれの出発点はこの章の第一節『純粋想起』(p.190 13行目-p.198 1行目)に於いて、『知覚』と『純粋想起』は本質的な点に於いて異なる、ということを述べた。これは、知覚がはっきりと思い出せる微少な知覚の想起から構成されているのではない、ということでもあっただろう。(図2参照)




『本当のことは、われわれが一挙に過去に身を置くのでなければ、われわれが決して過去に到達しないだろうということなのだ。本質的に潜在的なものたる過去が、われわれによって過去として捉えられうるのは、過去が暗闇から白日の下に現れることで現在のイマージュへと開花する運動をわれわれが辿り、採用する場合だけである』(p.193 6行目-10行目)

(2012/03/16筆者注 上二つに分けていた引用文を一つにした。)

と、まず『観念連合論』を批判していた。そのあと『心理学者たちの説』に対しての反論を述べ、そこでは、まず初めに提示された結論はこうであったろう。

『<イマージュ化すること[想像すること](imaginer)>は、<想起すること(se souvenir)>ではない。おそらく想起は、現実化するにつれて、イマージュの中で生きるようになる。しかし逆は真ではなく、純然たるイマージュが私を過去に連れ戻すのは、私が実際に過去のなかにそのイマージュを探しに行き、そうすることで、このイマージュを闇から光へ連れてきた連続的進展をたどる場合である』(p.193 16行目-p.194 3行目、<>内はテキスト傍点付きとイタリック)

(2012/03/16筆者注 上の『心理学者達の説』と引用文を追加した)

その後、

『しかし、想起と知覚との間に程度の相違しか確立しないことに存する錯覚は、観念連行論の単なる一帰結以上のものであり、哲学史における一偶発事以上のものがある。』(p.195 14行目-15行目)

という指摘をしていた。このことに関しての考察は次のように進んでいた。

『要するに、私の過去が本質的に無力であるのに対して、私の現在は私に行動を促すものなのだ。』(p.196 6行目-7行目)

として、まず、『現在の知覚』と『純粋想起』を対比させ、ベルクソンは様々なことを説明していく。

まず、『現在』というものについて、

『私が「私の現在」と呼ぶ心理学的状態は、直接的過去の知覚であると同時に、直接的未来の限定でなければならない』(p.197 10行目-11行目)

と述べ、『直接的過去』の『知覚』は『感覚』であるということを定義し、『直接的未来』は『行動もしくは運動である』と定義した。(p.197 11行目-14行目を要約)

これらのことから、

『私の現在は本質的からして感覚-運動的なものである。』

という、結論が導き出されて第一節は終わる。


次の第二節『現在は何に存するか』(p.198 2行目-p.211 13行目)はこう始まった。

『ということはつまり、私の現在は、私が私の身体について有している意識の上に存するということだ』(p.198 3行目-4行目)

ここでは、ベルクソンが主張する『われわれの現在』がまさに『感覚-運動的』であることがまず示される。主な部分を引用しよう。

『われわれの身体の現在の状態に、われわれの現在の現在性は存している』(p.198 17行目-p.199 1行目)

『逆にわれわれの現在は、われわれの現実存在(existence)の物質性そのもの、すなわち感覚と運動の全体であり、それ以外のなにものでもないのだ』(p.199 2行目-4行目)

『この全体は限定されており、持続の瞬間それぞれにとって唯一無二のものである。それはまさに、感覚と運動が空間の場所を占めていていて、同じ場所に同時にいくつもの事象が存在することはできないからだ』(p.199 4行目-6行目)

このあと、

『 -どうして、結局は常識に属する考えに他ならないこれほど単純でこれほど明らかな真理を、見誤ることができたのであろうか』(p.199 6行目-8行目)

と続くのであるが、これは、結局、『知覚』と『想起』に『程度の相違』しか見てないことによると述べる。(p.199 7行目-8行目を要約)このあと、このことについての考察がされているのだが特に繰り返す必要もないと思われるので、省略したい。

さて、第三節『無意識について』(p.201 14行目-p.214 9行目)であるが、この節はこう始まった。

『純粋想起のこの根本的な無力さは、どうして純粋想起が潜伏的状態で保存されるのかということをわれわれが理解することにまさに役立つであろう。』(p.201 15行目-16行目)

『問題の核心に更に踏み込むことはしないでわれわれは次のことを指摘するにとどめたい。すなわち、<無意識的な心理状態>を考えることへのわれわれの嫌悪は、とりわけわれわれが意識を心理状態の本質的な特性とみなすことに由来しており、そのために、心理状態は、意識的なものであることやめると必ずや存在することをやめるであろうと思われているのだ』(p.201 16行目-p.202 4行目:<>内はテキスト傍点付き)

と、はじまり、この後、実は意識は生きるものの単なる特徴であり結果的に起こる現象にすぎない(p.202 4行目-11行目を要約)ということが書いてある。

(2012年3月6日‐2012年3月8日筆者注 ここから以前は書いていなかった第三節の概要を書くことにした。以下、数段落はその記述である)

そのように主に意識についての検討がなされた(-p.203 10行目)あと、次に無意識について検討される。ベルクソンの言う無意識とは、『知覚』から得られる『直接的未来』(p.206 3行目)である物理法則の因果性に基づいた『経験』(p.207 4行目、言い換えれば物質世界の現象)と、『過去』である『(純粋)想起』の紹介・照合を行っているものである。そして、『現在』に相当するであろう『感覚‐運動的』なるわれわれの『意識』は、『感覚』に相当する部分の『想起』しか感じることができない。ということが説明される(p.201 14行目-p.206 9行目)。

ところで、この部分の最後で、次のような指摘がなされていた。かなり難解な部分ではあるけれども、引用したい。

『物質的宇宙の知覚されていない部分は、数々の脅威と見込みに満ちていて、それゆえ、われわれの過去の生存のうち現下には認知せざる諸期間が有しえず、また有することのあってはならない実在性をわれわれに対して有している。しかし、この実利的な有用性や生活の物質的欲求とまったく相対的なこの区別は、われわれの精神の中では、ますますはっきりした形而上学的な区別の形を取るのである』(p.206 4行目‐9行目)

これはつまり、『物質的宇宙の知覚されていない部分』は想起とは違い、われわれにとって非常に切迫した『実在性』をもっているが為に、『ますますはっきりした形而上学的な区別』、例えば運というような、を取ると、言っているのであったろう。

(2012/03/16筆者注 上の段落を追加)

このように指摘したあと、無意識についてわれわれが理解することの困難さを例えば、

『われわれがそれによって自分の前に空間を無制限に開くところの本能とおなじ本能ゆえに、われわれはわれわれの後ろで、時間が過ぎ去るにつれて時間を閉め出す』(p.207 11行目−12行目)

というように語り、さらに、

『私の意志が空間の一定の点に現れるために、私の意識は、全体で<空間における距離>と呼ばれるものを構成している数々の中間物あるいは障害物を一つ一つ超えなければならないのだが、それに反して、この行動を照らし出すためには、現在の状況を以前の類似した状況から隔てている時間の隔たりを飛び越えることが私の意識にとって有益である。』(p.209 10行目−14行目、<>内はテキスト傍点付き)

ということを指摘し、われわれにとって、『想起』がなぜ不意に出現するように見えるかを説明している。

そして、その前に、少し次のように触れられていた、『現実存在(existance)』の話のうち、『経験に係る諸事象 —ここでわれわれの関心を占めている唯一のもの— について、現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われるとだけ言っておこう。』(p.210 6行目-8行目)ということ、すなわち『現実的な現実存在』(p.212 10行目)言及に入る。

『実際、この想起がわれわれの現在に貼り付くことは、気づかれていない諸対象がわれわれの知覚している諸対象に貼り付くことに、完全に比較することができる。そして<無意識>は、二つの場合いずれにおいても、同種の役割を演じているのである。』(p.207 17行目−p.208 3行目、<>内はテキスト傍点付き)

すなわち、「ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識について (下)」から引用すれば、

「前行にもあるように『悟性』は、内的な状態と外的な状態の二つの条件が混ざり合ってるということを、いちいち把握して考えず、この二つの条件を『外的諸対象』(p.211 12行目)と『内的諸対象』(p.211 13行目)にのそれぞれに分離させ、『外的諸対象』が支配的な場合は内的な状態の度合いを従属的に、『内的諸対象』が支配的な場合は外的な状態の度合いを従属的に割り当てて物事を把握しようとする。」

ということであった。そうして、さらに、

『第一の錯覚の補足たる第二の錯覚は、無意識を偽りの難解さで覆うことで、精神についてのわれわれの概念を汚染している』(p.212 4行目-6行目)

ということを指摘し、また、ここで、無意識のもう一つの役割を説明している。このあと、

『われわれの過去の心的生はその全体がわれわれの現在の状態を条件付けるのだが、それを必然的な仕方で決定することはない。』(p.212 6行目-7行目)

『われわれの過去の心的生は同じくその全体がわれわれの性格の中であらわになるのだが、にもかかわらず、過去のどんな状態も明白にわれわれの意識に現れることはない』(p.212 7行目-9行目)

『結びつけられることで、これら二つの条件は、過去の心理学的諸状態の各々に、無意識的ではあるが真に現実的な現実的存在を保証しているのである』(p.212 9行目-11行目)

と、一旦段落をまとめている。そのあと、記憶がどこに存在するのかという議論に入ったのを読者諸氏も覚えておられるだろう。

『物理‐化学的な現象は脳<のなかで>起こり、脳は身体<のなかに>あり、身体は身体を浸している空気の中にある等々と、われわれは思い描いている』(p.212 15行目-16行目:<>内はテキスト傍点付き)

という、現在でも一般的であると思われる記憶の保存場所、保存方法について、ベルクソンは、

『忘れられているのは、容器と中身の関係が、その見かけ上の明晰さと普遍性を、前方ではつねに空間を開き、後方ではつねに持続を閉ざさなければならないというわれわれの陥った必然性から借りていることだ』(p.213 5行目-8行目)

と反論していた。このことについて、さらに以下のように述べ、

『ある事物が別の事物のなかにあるのを示したからといって、それによって、前者の事物の保存という現象を明らかにしたことには少しもならない』(p.213 8行目-10行目)

『それだけではない。さしあたりは、過去が脳に蓄えられた想起の状態で生き続けてると認めておこう。そのとき、脳は想起を保存するためには、少なくても脳そのものが保存されていなければならないだろう』(p.213 10行目-12行目)

これに対し、われわれが『意識』が『心理的状態の本質的な特性』(p.202 2行目‐3行目)と考えていること、また、『心理状態は、意識的なものをやめると必ず存在することをやめるだろう』(p.202 3行目‐4行目)と考えているのに、『想起』が保管されているはずのイマージュである脳はどうして『意識』が途切れるのに途切れないというのか、という指摘をしていた。

このように述べたあと、第三節は次のように結ばれていた。

『過去の<それ自体としての>残存は、それゆえ、どちらの形であれ不可欠のものとして課せられるのだが、あなたがこの残存を思い描くのに感じる困難さは、<含むことと含まれること>の必要性 -これは空間内で瞬時に見いだされる諸物体の全体にしかあてはまらない- をわれわれが時間のなかの想起の系列に付与することに由来している』(p.214 4行目-7行目:<>内はテキスト傍点付き)

『根本的な錯覚はわれわれが持続に施す瞬間的な切断面の形を、過ぎゆく持続そのものへと移し替えることに存しているのだ。』(p.214 8行目-9 行目)

こうして、この節にたどり着き、次のような記述を目にすることになる。

『われわれはこのように長い回り道をしてわれわれの出発点に戻ってくる。』(p.216 7行目)

この第三章のこれまでの記述に於いて、特に、この説に入って考察された『知覚』も一種の『記憶』つまり過去であるということから再び、われわれは、記憶がどのように保存されているのかということを、これから、見ていくことになるのだろう。

(2012/03/16筆者注 実際はベルクソンは記憶の全保存を主張するが、どこに保存されているかと言うことは、わからないと述べている。そのことがこの節の始めの記憶の保存についての曖昧な言説

『—それに対してわれわれは、問われているのはまさに過去が存在するのをやめたかどうかあるいは過去は単に有益であることをやめたかどうかを知ることではないかと応じる』(p.214 12行目-14行目)

となっているのだろう。このあとで見るようにイマージュ記憶は各事実に日付が刻まれていることなどのことを主張しているわけであるから、この点はかなり難しい。ただし、言葉によって純粋想起が呼び起こされて過去の感覚が甦るというようなことを述べているので、ある種の情報がそういうことを引き起こすことは認めてはいる。)

では、ようやくこの段落の続きへと戻る。

『根底的に異なる二つの記憶があるとわれわれは言った。』(p.216 7行目-8行目)

『一方は、有機体のなかに固定されており、様々な可能的な呼びかけ(interpellation)しかるべき(réplique)を保証する、巧みに備え付けられた諸機構の全体に他ならない』(p.216 7行目-10行目)

これは、明らかに『純粋想起』の記述だろう。この章でもずいぶん説明してきたので、このあと少し省略してもう一つの記憶についてのベルクソンの記述をみよう。

『もう一方が、真の記憶である。』(p.216 14行目)

『意識と同じだけの伸張を有したものとして、この記憶は、われわれの諸状態が生じるにつれて、そのすべてを記憶にとどめ、それぞれを次々に併置するのだが、その際この記憶は、各々の事実にその場所を与え、ひいては各々の事実に日付を刻み、第一の記憶のように不断に再開される現在のなかではなく、決定的な過去のなかでまさに現実に活動している』(p.216 14行目-p.217 1行目)

これはまさしく『イマージュ想起』だろう。ここで述べている『イマージュ想起』についての特筆すべき特徴は、二つある。まず、『われわれの諸状態が生じるにつれてそのすべてを記憶に留め』、『併置する』。そして『各々の事実に場所を与え』る。これが一つ。そしてもう一つ『ひいては各々の事実日付を刻む』。ということだ。『決定的な過去』はもう起こってしまったことは、変更不可能という意味だ。

要するに、因果律たる物理法則によって支配されている『物質空間』の過去は変更不可能であるがために、その状態は、因果律であるが故に、連続して保存されるほかなく、また、個々の事象も同じ『物質空間』にある以上は無関係でもないので『併置』される。時間軸上で連続しているが故に何らかの形で『日付』もつけられるだろう、と言っているのである。

こう言い換えることができるかもしれない。『イマージュ想起』は、すなわち、この宇宙の『記憶』なのであって、それは、因果律たる物理法則によってすでに決定されてしまっている。因果律に従うが故に、われわれの『純粋想起』とはちがい、この宇宙の『記憶』はその状態の遷移を時間軸上に連続させて保持しているだろう。これは、物理法則を、ニュートン力学だろうが一般相対性理論だろうがあるいは量子力学で表現しようが、ブラックホールのような特異点を除けば、マクロ的には間違いのない事実であろう。時間を熱力学第二の法則で表そうが、何で表そうが関係はあるまい。物理法則にしたがった状態遷移を順番に並べているだけであるからだ。そこにどういう『日付』が刻まれるのかは興味のある問題だろうが、順番である限りは、相対的にも参照可能であるに違いないのである。

(2012年3月8日筆者注 上二段落の解釈は『意識と同じだけの伸張を有したものとして、』という部分をあえて無視しているようにも見える。しかし、客観性の観点から見ると、この記憶はそもそもは『知覚』された物理現象であり『知覚』自体も物理現象であるとも言える。何故なら、われわれの物質的『現在』が『感覚ー行動』的であるわれわれの生き生きとしたイマージュの肉体性によるからであり(参照:第三章第二節『現在は何に存するのか』)、第一章で説明された権利的で時間の厚みのない『純粋知覚』もこの部分に負うているからである。従って、やや、唯物論的傾向が強い解釈とも言えなくもないが、現時点では、このままにしておきたい。)

ここからは、これら『純粋想起』と『イマージュ想起』がどう交わるかである。

まず、ここまでそのことについては考察してこなかったということを指摘し(p.217 1行目-4行目)、こう述べる。

『しかし、われわれがその直接的過去以外のものを決して知覚しないのであれば、われわれの現在の意識がすでに記憶であるならば、われわれが最初に分離した二つの項は緊密に接合されて一つになるだろう。』(p.217 4行目-7行目)

これから、『純粋想起』と『イマージュ想起』が一つになることを、『直接的過去以外のものを決して知覚しない』ことから導きだそうというのであろう。

『この新たな観点から考察されれば、実際、われわれの身体は、われわれの表象の変わることなく甦る部分、つねに現存する部分、というよりむしろ、というより、どの瞬間にも過ぎ去ったばかりの部分に他ならない。』(p.217 7行目-9行目)

難しくはないが、一応解説しておくと、われわれの身体の知覚は『われわれの表象の変わることなく甦る部分』や『つねに現存する部分』というよりも、厳密には、われわれの身体という、すで確定している物質の『記憶』だ、といっているのだろう。『われわれの表象の絶えず甦る部分、つねに現存する部分』というのは第三節の最後に記憶の保存について触れた時の記述(p.213 14行目−p.214 1行目)を指しているのだろう。

(2012年3月10日筆者注 上段落は第三節の記述を変更したと共に変更した)

『イマージュそのものであるこの身体は諸イマージュを蓄えることはできない。というのは、この身体は諸イマージュの一部をなしているからだ。』(p.217 9行目-11行目)

これは、これまでの説明からも自明だろう。

『そういうわけで、過去の知覚あるいは現在の知覚さえも脳のなかに位置づけようとするのは荒唐無稽である。これらの知覚は脳のなかにはない。脳の方がこれらの知覚のなかにあるのだ。』(p.217 11行目-13行目)

何というパラドックスであろうか。と、ここは単に驚けばいいのであろう。ここでは、単に脳というイマージュも『知覚』なしにはそれこそ知覚しえない、と言いたいだけのようだ。

もう少し先を読んでみよう。

『しかし、他の数々のイマージュの真ん中で存続し、私が私の身体と呼ぶこのまったく特殊なイマージュは、各瞬間にわれわれが言ったように、万物の生成の一つの横断面を構成している』(p.217 13行目-15行目)

要するに、われわれの身体も他のイマージュと同等であるからには純粋に時間としての大きさ0の現在と言う時間の断面を構成しているのは間違いないだろう、ということだ。『万物の生成』というのはその瞬間、すべてのイマージュは確定すると言う意味であろう。しかし、われわれは、われわれの身体を通して『知覚』を得るのであるから、われわれにとってわれわれの身体は特権的イマージュである。(『<私が宇宙と呼ぶこのイマージュの総体の中では、ある特殊なイマージュ —その典型は私の身体によって私に与えられている— を介することなしには、真に新しいものは何も生み出されえないかのように、すべてが進行しているのである>』(p.10 2行目-4行目:<>内はテキスト傍点付き)を参照)

次の行も難しくないので要約すると、『私の身体』は特権的なイマージュであると同時に現在という過去と未来の境界面につねに存在するだろう。従って、私の身体は、つねに、私の記憶と、私が将来にわたって知覚として受け取り続けるであろう、私の体に起こる物理現象すなわち未来の『物質空間』の『<通過する場所>(lieu de passage)、私に作用する事物と私が働きかける事物との間の連結符、一言でいえば、感覚-運動的諸現象の座なのである』。(p.217 15行目-17行目を要約、<>内はテキスト傍点付きとイタリック)

(2012年3月10日筆者注 上段落についていくつかの部分を改稿した)

ここから先、この段落の終わりまで、ほぼ、すでに、私が光円錐の未来部分として紹介したことのある図4の説明があるが、今更特に説明する必要もないと思われるので、最後の部分だけ紹介して、残りは省略しよう。



『身体のイマージュは(点)Sに凝縮される。そして、平面を構成しているすべてのイマージュから発する諸作用を受けると共に返しているだけなのだ』(p.218 5行目-9行目)

2012年3月1日木曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識につ いて (下)



次の段落(p.210 4行目-p.212 11行目)をみよう。

ここは、まず、こう始まる。

『しかし、われわれはここで<現実存在(existence)>をめぐる主要な問題について触れている。』(p.210 4行目:<>内はテキスト傍点付きとイタリック)

われわれ一般の人間にはなんだかよくわかりもしないような大変難しい問題に、ここにおいて触れているという。実際、ベルクソンは続けてこう言っている。

『われわれはこの問題について軽く触れることだけしかできない。さもなければ、問題から問題へと連れ回された後で、形而上学の核心そのものに導かれることになろう。』(p.210 4行目-6行目)

 と言っている。ここまで、『現実存在(existence)』、『形而上学の核心』とは何かが難しいが、要するに、なぜわれわれは生きているか、ということを考え出すと止まらないどころか、どっか遠くの方に行ってしまう。たとえば、生命とは何か、とか、魂とは、とか。そのようなことを言っているのであろう。

では、ベルクソンはどのように考えて行こうとしているのか。

『経験に係る諸事象 —ここでわれわれの関心を占めている唯一のもの— について、現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われるとだけ言っておこう。』(p.210 6行目-8行目)

『経験に係わる諸事象』というところが難しい。『経験』ここまで、空間とその広がりの中で現在起っている物理的な現象と解釈してきた。『経験に係わる諸事象』もほぼ同様の意味であると考えることも可能である。しかし、ここでは、『直接的未来』と現在の状況に類似した『想起』そして、それらを結びつけるわれわれの『生き生きとしたイマージュ』も関係してくるという解釈も十分可能だと思われる。ここでは『連結された二つの条件』という言葉を含めてあとの文章を読まなければ、はっきりとしたことは言えないであろう。

(2012年2月15日筆者注:上の段落においては、草稿では必ずしも正しくない解釈を残していたが、今回、書き改めた。理由はやはり私なりに正しいと考える解釈を表わすべきと思ったこと。以前の文章は、草稿として公開していることも理由の一つ)

それでは、『連結された二つの条件』についてふれてあると思われる続きの文章を見てみよう。

『第一の条件は意識への現前化、第二の条件は、そのように呈示されたものと、それに先行するものならびにそれに後続するものとの論理的あるいは因果的結合である』(p.210 8行目-10行目)

この行も、なかなか難解であるけれども、前行においての考察からなんとなく理解できるような気もする。しかし、実際、続きをみないと、この行だけではよく分からない部分も多い。そこで、この行の解釈も、しばらく置いておいて、次へ進んで生きたい。この行は、これからベルクソンが展開して行くであろう『二つの条件』のそれぞれのタイトルと現在は捕らえておくことにする。

次の行(p.210 10行目-13行目)は、少し要約したい。難しくはないが、日本語で訳した場合、文の構造が複雑になってしまう、そのようなことが起きてると思われるからだ。

従ってこのように要約する。「われわれのいまの心のあり方、あるいは、ベルクソンの仮説ではその対称をなす物理的存在を、われわれがいままさにそれを感じているという『実在性』というものは、『われわれの意識がそれらを知覚していること』、と、それらが『物理的空間』における物理法則による因果関係によって『時間的あるいは空間的系列』の『一部をなしている』、という『二重の事実』の内にある」。もっと簡単に言うと、われわれが、いまそこにある、と感じられるのは、じつは、われわれが『知覚』しているから、ということと、物質が物理法則に従って『物質空間』に存在してるという、『二重の事実』がそこにはある、とベルクソンは言っているのである。

つまり、これは、

『経験に係る諸事象 —ここでわれわれの関心を占めている唯一のもの— について、現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われるとだけ言っておこう。第一の条件は意識への現前化、第二の条件は、そのように呈示されたものと、それに先行するものならびにそれに後続するものとの論理的あるいは因果的結合である』(p.210 6行目-10行目)

を言葉を換えて言い直したものであろう。

(2012年2月26日筆者注 上3段落、すなわち「つまり、これは、」から引用を挟んで 「を言葉を換えて言い直したものであろう」までを挿入)

『われわれの意識がそれらを知覚している』の部分はいっそ、観測している、という計量化を目的とする物理学で使われる常套句を用いたいように思うが、しかし、『意識』が『知覚』する限りに置いて、『純粋想起』がここに関連しているのではないか、と考える方が普通であろう。(もちろん、すでに第一章などで述べられた知覚の本質的な不完全性もあるかもしれない。)

さて、ここからの文章は少しまとめて呈示してみたい。そうでないと、なかなか意味をくみ取るのが難しい、という解説上の都合もある。

まず、

『しかし、この二つの条件は程度の多寡を容認するもので、どちらも必要条件でありながら、等しからざる仕方で満たされだろうと考えられる。』(p.210 13行目-15行目)

とある。この部分は、言葉はこれまでに比べて比較的平易だが、何をいいたいのかが非常に難解だ。それで、『この二つの条件』が、

『第一の条件は意識への現前化、第二の条件は、そのように呈示されたものと、それに先行するものならびにそれに後続するものとの論理的あるいは因果的結合である』(p.210 8行目-10行目)

言い換えれば、「『われわれの意識がそれらを知覚していること』」と、「『物理的空間』における物理法則による因果関係によって『時間的あるいは空間的系列』の『一部をなしている』」という「『二重の事実』」

(2012年2月26日筆者注 上一段落を挿入)

であったことを思い出してもらいながら、以下、一文ごとに、難しい語句についてのみ少々解説し、ある程度まで進んでからまとめの解説を行いたい。

『例えば、現在の内的状態の場合には、結合はそれほど緊密ではなく、過去による現在の決定は偶然性(contingence)大きな余地を残しており、数学的導出の特徴を持っていない。』(p.210 15行目-17行目)

『 —それに引き換え、意識の現前化は完璧であって、現在の心理学的状態は、われわれがそれを目にしている行為そのもののなかで、その内容の全体をわれわれに引き渡す。』(p.210 17行目-p.211 2行目)

ここまでは、われわれの過去(ここでは『純粋想起』)から、『知覚』によって現在の行動が決定されるまでのわれわれの内的な状況を説明しているのだろう。つまり、知覚されたことで最終的に行動が決定されるまでは、記憶の結びつきというのは、ある程度、予測されているとはいえ、決定されたものではない。『知覚』よって、ここではわかりやすく、外的なイベントと言い換えても良いだろうが、それによってはじめて『感覚』として決定され、それらすべてが、われわれは、自分の内的なこととして『意識』によって把握されている、ということが言いたいのであろう。

『反対に、外的諸対象に関しては、これらの対象は、必然的な諸法則に従っているのだから、完全なのは結合の方である。』(p.211 2行目-3行目)

『しかし、そのときもう一方の条件である意識への現前化のほうは、部分的に満たされているにすぎない。』(p.211 3行目-4行目)

ここまでくると、賢明なる読者諸氏においては、ベルクソンが何が言いたいかはおわかりであろう。外的な『物質空間』においては、物理的法則に支配され曖昧なところはない。しかし、受け取るわれわれにとって、『知覚』している部分だけでも十分すぎる情報量によって、あるいは、一部に限られてしまってるが為に、『感覚』という内的状態のようにすべてを把握しきれる物ではない、ということを言いたいのだろう。次の行はそのようなことが書かれているのだが、あまり難しくないので省略しよう。

結論として、

『 —われわれはそれゆえ、経験的な意味での現実存在は、意識的な把握と規則的な結合をつねに同時に、しかし様々に異なる程度で含意していると言わなければならないだろう』(p.210 7行目-9行目)

ここまで来れば、前出『二つの条件』が『知覚』として説明された内的状態と物理的な外部の状態の対照的な把握の仕方であり、『どちらも必要条件でありながら、等しからざる仕方で満たされている』(p.210 13行目-14行目)ということも理解していただけたはずである。

(2012年2月26日筆者注 「『知覚』として説明された」と「物理的な」という部分を挿入)

次へ進もう。

『われわれの悟性は、明確な区別を打ち立てることを機能としており、そのため、少しもこのような仕方で事態を把握していない』(p.211 9行目-10行目)

『悟性』という難しげな哲学用語が出てきた。小林秀雄さんによるとベルクソンの『悟性』には、常識という物が深く係わっている、あるいは、常識と同じ意味にとって良いと言っているのだが、小林秀雄さんのいう常識もなかなか難しいものがあって、一言には言い切れない。小林秀雄さんが何と言ってるかは、確か、講演を文章にな直したものに「常識について」というものがあったと記憶しているので、そちらを読んでいただきたい。ここでは、「理性的、論理的に考える能力」ぐらいに採っておけばいいと思う。

次の一文(p.211 10行目-15行目)は長いのだが、

『現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われるとだけ言っておこう。』(p.210 7行目-8行目)

という部分を思い出してもらいさえすれば、書いてある内容は難しくないので、次のように要約したい。

「前行にもあるように『悟性』は、内的な状態と外的な状態の二つの条件が混ざり合ってるということを、いちいち把握して考えず、この二つの条件を『外的諸対象』(p.211 12行目)と『内的諸対象』(p.211 13行目)にのそれぞれに分離させ、『外的諸対象』が支配的な場合は内的な状態の度合いを従属的に、『内的諸対象』が支配的な場合は外的な状態の度合いを従属的に割り当てて物事を把握しようとする。」

『そのとき、心理学的諸状態の現実存在は、意識によるそれらの状態の把握のうちに全面的に存するだろうし、外的諸状態の現実存在も同じく、それらの同時性ならびにそれらの継起との厳密な秩序のうちに全面的に存するだろう。』(p.211 15行目-17行目)

と続く。この引用文は若干言葉が難しいところがあるだけで、内容はほぼ同じだと分かっていただけると思う。念のために『外的諸状態の現実存在も同じく、それらの同時性ならびにそれらの継起との厳密な秩序のうちに』の部分だけ解説しておこうと思う。

ここでは、『外的諸状態』についてのみ、考えればいいのであるから、同時性、というのは、『現実空間』に同時に存在する、ということであり、『それらの継起との厳密な秩序』とは、物理法則に支配されている因果律に従う、というこれまでどおりの主張が繰り返されているだけのことである。

ここまでの『悟性』についての記述をまとめると『二つの条件』として挙げられたものの、支配的な方によって物事を把握しようとする、とごく簡単にまとめられるだろう。

ごくわかりやすく例を挙げて説明すれば、ものごとの捉え方を「冷えたジュースが机の上にある」とか、「運が悪かった」とか、主語になる名詞(もしくは代名詞)が、具象的か抽象的かということで、われわれ(の『悟性』)は『内的諸状態』もしくは『外的諸状態』の『現実存在』のうち支配的な方を表現している、と思えばいいのではないかと思う。続きを見れば、
(2012年2月26日筆者注 あとの説明の順に従い、「冷えたジュースが机の上にある」とか、「運が悪かった」とか と、具象的か抽象的か、について前後の順を入れ替えた)

『このことから、現実存在しているが、知覚されざる物質的対象には意識への関与を少しも残すことができなくなり、意識的ならざる内的状態には、現実存在への関与を少しも残すことができなくなるのだ。』(p.211 17行目-p.212 3行目)

と書いてある。すなわち、上記のようなことが行われる結果、『知覚されざる物質的対象』、つまり、把握しきれていない『現実存在』に対しては「運」という抽象的な名詞を割り当て、『意識の関与を少しも残すことができなくなり』、『意識的ならざる内的状態』には「冷えたジュース」という表現を使うことによって『現実存在への関与を少しも残すことができなくなるのだ』、と、ベルクソンは主張しているのであろう。

さて、これから先この段落の最後のまとめにはいるわけだが、まず、次の文章にある『この著作の冒頭』というのが具体的にどこを指すかが難しい。具体的に見ていこう。

『われわれは、この著作の冒頭で、第一の錯覚の諸帰結を示した。この錯覚は、物質についてのわれわれの表象を歪曲するに至ったのだ。』(p.212 3行目-4行目)

『第一の錯覚』とは、当然、この段落でも触れている『物質空間』あるいは『外的諸条件』に対する認識だろう。われわれは、これらに対して、すべてを知り得ない、あるいは情報が多すぎる、などの『知覚』の条件と、未来は心理的に脅威に満ちているということから、『形而学上』のたとえば「運」という言葉で表現していると理解してきたはずだ。つまりは、『この錯覚は、物質についてのわれわれの表象を歪曲するに至ったのだ。』

(2012年2月17日 以下、『この著作の冒頭で、第一の錯覚についての諸帰結を示した。』という部分についての考察、ほぼすべてを改めた。かならずしも間違っているとまでは言えないが、あまり的を射た解説でもないということが理由である。以前の記述は草稿を参照していただきたい。)

さて、先ほど言った『この著作の冒頭で、第一の錯覚の諸帰結を示した。』はいったいどこであろうか?ごく簡単に言ってしまえば、第一章全体であろうが、その内容をまず振り返ることにするなら、

『実在論と観念論との間に、更におそらくは唯物論と唯心論のあいだにさえあるような未解決も問題は、従って、われわれによれば、次のような語彙で提起される。<一方の体系では、おのおののイマージュは独自に、周囲の数々のイマージュから現実的作用を受けるまさにその割合に応じて変化するのに対して、他方の体系では、すべてのイマージュが、ただ一つのイマージュに対して、それらがこの特権的なイマージュの可能的作用を反映する割合に応じて変化するとして、その場合どうして、同じイマージュがこれら相異なる体系双方に入り込むことができるのか>』(p.20 8行目-15行目、<>内はテキスト傍点付き)

と初めに象徴的に示唆されている部分になるだろう。もっと具体的には、この前節『現在は何に存するか』でも見てきたように、この錯覚は元はと言えば、『現在の感覚と純粋想起のあいだに、本性の相違ではなく程度の違いしか認めないことによる』(p.199 8行目-9行目)ことから、考察は展開されてきた。この前後の文章もできれば引用したいところだが、そこは読者諸氏にお任せし、実は、第一章の節『純粋知覚』にも同じような文言の文章があるのでそこを引用することにしたい。

『主要な誤り、心理学から形而上学に遡ることで遂には身体についての認識を精神についての認識と同様に覆い隠すに至る誤りは、純粋知覚と想起のあいだに本性の相違を見る代わりに、程度の相違しか見ないことに存する誤りである。』(p.82 15行目-17行目)

ほぼ同じ文言が並んでいることがおわかりいただけるであろう。この錯覚から得られる誤りは、以下、次節『物質の問題への移行』にまで及ぶ。しかし、節『物質の問題への移行』で書かれている部分は主に第四章に関係するものであるから、以下、上記引用を含めてこの後の文章を節『物質の問題への移行』の第一段落まで引用しようと思う。(読みやすさを考え適宜、文章を分けている)

『主要な誤り、心理学から形而上学に遡ることで遂には身体についての認識を精神についての認識と同様に覆い隠すに至る誤りは、純粋知覚と想起のあいだに本性の相違を見る代わりに、程度の相違しか見ないことに存する誤りである。われわれの知覚にはおそらく数々の想起がしみこんでいるが、逆に想起は、われわれが後で示すようにそれが差し込まれる何らかの知覚の体を借りることによってしか、再び現在的なものにはならない。それゆえ、これら二つの行為、知覚と想起は、内的浸透(endosmose)の現象によってたがいの実質のうちの何かをつねに交換することで、つねに混じり合っているのだ。とすれば、心理学者の役割は、これら二つの行為を分離し、各々にそれ本来の純粋さを取り戻させることであろう。そうすることで、心理学が提起する多くの問題が、そしておそらくは形而上学が提起する多くの問題も解明されるだろう。』(p.82 15行目-p.83 7行目)

『しかし、<現実は>全くそうではないのだ。純粋知覚と純粋想起が不均等な含有量で全面的に合成されている混合状態が、単純な状態であると主張されているのである。それによって、純粋知覚と同様に純粋想起をも無視することを余儀なくされ、また、これら二つの相のどちらかが優勢であるかに応じて、時に想起、時に知覚と呼ばれるただ一つの種類の現象だけしかもはや認識せず、ひいては、知覚と想起の間に、もはや本性の相違ではなく、程度の相違しか認めないことを余儀なくされる。この誤りは、その第一の結果として、後で詳細に検討するように、記憶の理論を深々と汚染している。というのも、想起をより弱い知覚にすることで、過去を現在から区別する本質的な相違を見誤るからであり、また、再認(reconnaissance)の現象、より一般的には無意識的なもの(inconscient)の機構を理解することを放棄するからである。』(p.83 7行目-16行目、<現実は>は筆者がわかりやすさのために挿入、またテキスト「時に想起時に知覚」の部分を「時に想起、時に知覚」と改変した)

『しかし、逆に言うと、想起をより弱い知覚にしたのだから、もはや知覚のなかにより強い想起しか見ることはできないだろう。あたかも知覚が、想起のようなやり方で、一つの内的状態のように、われわれの人格の単なる一つの変化のようにわれわれに与えられると推論することになるだろう。知覚の本来の根本的な行為、純粋知覚を構成するこの行為、それによってわれわれがただちに諸事物のなかに身を置く行為は見誤られるだろう。そして同じ誤りが、心理学においては、記憶の機構を説明することができないという根本的無力によって表され、形而上学においては、物質についての観念的な考え方と実在論的な考え方双方に深々としみこむことになるだろう。』(p.83 16行目-p.84 7行目)

『 物質の問題への移行

 実際、実在論にとって、自然の諸現象の不変の秩序は、われわれの諸知覚の一つのはっきりした原因のうちに存している。その原因が認識不能なものであり続けねばならないにせよ、形而上学的構築の(つねに多かれ少なかれ恣意的な)努力によってわれわれがその原因に到達するにせよ。反対に観念論にとっては、これらの知覚が実在の全体であり、自然の諸現象の不変の秩序は、それによってわれわれが、実在的な知覚のほかに、可能的な知覚を表現するところの象徴(symbole)でしかない。しかし、実在論にとても観念論とっても同様に、諸知覚は「正しい幻覚(2)」(hallucinations vraies)であり、主体の外に投影された主体の諸状態である。これら二つの学説はただ単に、一方においては、これらの状態が実在を構成するのに対し、他方においては、それらが実在と合流するようになるという点でのみ異なっている』(p.84 8行目-p.85 2行目、(2)はテキスト章末文献番号)

ここまでの引用には、次の文で出てくる『第二の錯覚』も含まれている(『より一般には無意識的なもの(inconscient)の機構を理解することも放棄する』の部分)けれど、ほぼ、ここまでで説明されてきたことによる『第一の錯覚の諸帰結』ほぼすべてをを網羅していると思う。

さて、やや第一章を振り返った部分長くなったが、第三章に戻り、次の文をみよう。

『第一の錯覚の補足たる第二の錯覚は、無意識を偽りの難解さで覆うことで、精神についてのわれわれの概念を汚染している』(p.212 4行目-6行目)

『無意識を偽りの難解さで覆う』とは、この段落でも見てきた『内的(諸)状態』が時間と無関係に『知覚』と照合・照会される、ということがあたかも想起が突然幽霊のようによみがえって来ることを指しているのだろう。このことは、たとえば、この段落では物質についての記述に『冷えたジュース』というように、主観的な形容をあたかも客観的であるように表現する傾向として説明してきた。

以降の文章では、ベルクソンはこれらについてこのように説明している。

『われわれの過去の心的生はその全体がわれわれの現在の状態を条件付けるのだが、それを必然的な仕方で決定することはない。』(p.212 6行目-7行目)

『われわれの過去の心的生は同じくその全体がわれわれの性格の中であらわになるのだが、にもかかわらず、過去のどんな状態も明白にわれわれの意識に現れることはない』(p.212 7行目-9行目)

以上の二つの引用は、賢明なる読者諸氏には説明しないでも分かっていただけるだろう。

そして、この段落では一旦こう結論づける。

『結びつけられることで、これら二つの条件は、過去の心理学的諸状態の各々に、無意識的ではあるが真に現実的な現実的存在を保証しているのである。』(p.212 9行目-11行目)

このことは、言い換えれば、この段落のはじめ、『<現実存在(existense)>』(p.210 4行目)について触れて言うときに、

『現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われる』(p.210 7行目-8行目)

『第一の条件は意識への現前化、第二の条件は、そのように呈示されたものと、それに先行するものならびにそれに後続するものとの論理的あるいは因果的結合である』(p.210 8行目-10行目)

とあったところの繰り返しであり、かつこの段落の説明の結論である。

長くなったこの段落のまとめとして、もう一度説明を繰り返すならば、『現実的な現実存在』を『保証』しているのは、『外的(諸)条件』と『内的(諸)状態』の結びつきをその量的なバランスによって、『無意識的』に『外的条件』へ『内的状態』が埋没したり、あるいはその逆であったりすることだ、とベルクソンは結論づけている、と言って良いのではないかと思う。そして、このことが、この段落最初にあった『経験に関する諸現象』と解釈しても良いだろう。

(2012年2月26日筆者注 上段落最後の一文を追加)
(2012年3月1日筆者注 上記段落の内容は、第四段落最後の部分、

『実際、この想起がわれわれの現在の状態に貼り付くことは、気づかれていない諸対象に貼り付くことに完全に比較することができる。そして<無意識>は、二つの場合いずれにおいても、同様の役割を果たしているのである』(p.208 17行目-p.208 3行目、<>内はテキスト傍点付き)

とあった部分の具体的説明に相当すると思われる)


では、続いての段落(p.212 12行目-p.214 9行目)を見ていこう。長くなったこの節の解説もこの段落が最後の解説となる。

この段落の最初の部分は、われわれの脳にどうして記憶が(脳のある部分と知覚される物体が対応する形で)蓄積されていると思うのか?という錯覚について述べられている。あまり難しい内容ではないが、ここは、たくさんの人が関心を持つであろうから、一応引用しておこう。

『しかし、われわれは、実践の最大の利益を得るために諸事実の現実的な順序を逆転させることにとても慣れており、』(p.212 12行目-13行目)

『空間から引き出されたイマージュの脅迫(obsession)をあまりにも強く蒙<こうむ>っているので、われわれは、どこに想起が保存されているのかを問わずにはいられない。』(p.212 13行目-15行目:<>内は筆者によるふりがな)

一文を二つに分けたのは、前半部分を少し解説したいと思ったからである。この『諸事象の現実的な順序を逆転させることにとても慣れており』というのは、以前見た、われわれが何かしようと思うときには、『物質空間』においては因果律に従わざるをえないために、『(純粋)想起』はそれがいつ起こったか、ということとは無関係になる必要がある、と説明したことに相当する。(テキストp.209 10行目-14行目、もしくはもっと遡れば、p.206  10行目-p.208  6行目など)

(2012年2月22日筆者注:上段落については、現段階で自信のあるものではないことを告白しておく。というのは、『逆転させることに慣れて』いるのは確かに想起であろうが、それが、以下に続く文のように、『物理-化学的な現象は脳<のなかで>起こり、脳は身体<のなかに>あり、………』と、接続するには少々無理がある。その間には少し説明が必要であるように思う。しかし、どのような解釈が可能かというとかなり恣意的な意見が入るだろう。従って個人的な解釈として次のような解釈を試みる。

まず、上記引用の後半部分

『空間から引き出されたイマージュの脅迫(obsession)をあまりにも強く蒙<こうむ>っているので、』(p.212 13行目-15行目:<>内は筆者によるふりがな)

ということから、『想起』も因果律に従って当然であると考えがちである。そうして、想起が一見無秩序に現れるように見えるということも、『想起』も因果律に従っている以上コントロールできて当然だと考える。従って、『どこに保存されているかを問わずにはいられない』という結果になる。

そして、先に出た、『実践の最大の利益を得るために諸事実の現実的な順序を逆転させることにとても慣れており、』の部分は、例えば、こういうことだろう。以前にも例があったが、われわれが、いま居る部屋から出るには入ってきた時と逆の順序で道をたどるだろう。それは、『想起』の時間の流れを逆転させることに他ならないだろう。それは『想起』が物理的な因果関係とは無関係であり得るからである。そのように、われわれは物理的な因果関係や時間による順序を逆転させることにあまりにもなれている、ということではないかと思われる。)

続きをみよう。

『物理-化学的な現象は脳<のなかで>起こり、脳は身体<のなかに>あり、身体は身体を浸している空気の中にある等々と、われわれは思い描いている』(p.212 15行目-16行目:<>内はテキスト傍点付き)

『しかし、ひとたび成就された過去が保存されているとすれば、この過去はどこにあるのか。』

と続く。これから先は、はじめに述べた通りなのだが、結構長い。簡単に要点だけを見ようか。

まず、われわれは、『脳の<なかで>』起こる『物理-化学的』な『分子変化(modification mole'culaire)』として、『脳実質に置く』と考えるだろう。(p.212 17行目-p.213 2行目)

『脳』という『現実に与えられた貯蔵庫』に過去に起きたこと、その『知覚』を『イマージュ』として保存しておけば、いつでも取り出せると思うだろう。(p.213 2行目-4行目)

しかし、ベルクソンは、このことによって様々な錯覚が生み出される、ということをここから主張し始める。ここから先のこの段落の構成はかなり複雑だ。

『忘れられているのは、容器と中身の関係が、その見かけ上の明晰さと普遍性を、前方ではつねに空間を開き、後方ではつねに持続を閉ざさなければならないというわれわれの陥った必然性から借りていることだ』(p.213 5行目-8行目)

ここでは、要するに、『脳』にすべての記憶が保存されているという考え方は、わかりやすくて普遍性もあるように思えるけれども、その考え方は、前にも述べた、何かをするときには『(物質)空間』を順を追って動く必要があり、『(純粋)想起』は、その起こった順番や時間とは切り離される必要がある、ということを言っている。

ここでは、いったん意味的にここで区切られ、このあと指摘するのは、

『ある事物が別の事物のなかにあるのを示したからといって、それによって、前者の事物の保存という現象を明らかにしたことには少しもならない』(p.213 8行目-10行目)

『それだけではない。さしあたりは、過去が脳に蓄えられた想起の状態で生き続けてると認めておこう。そのとき、脳は想起を保存するためには、少なくても脳そのものが保存されていなければならないだろう』(p.213 10行目-12行目)

という。ここまでは、解説なしに読めるであろう。

(2011/06/28 以下、説明がやや不十分で、第三章第七節の解説に書いていることの方が正確である。あとで、第七節に書いた部分を第三節に統合し、またこの部分の解説をより詳しくすることを検討する必要がある

2012/02/23筆者追記  第七節での検討も、現在読み返すと余り正確でないところも散見される。以下の部分はここで改めて検討し直し、第七節の記述は改めて、必要な部分を残し、誤りは記述し直すなどの対応を取ることにする)

このあとの文(p.213 12行目-p.214 1行目)自体は難しくないし、ベルクソンの書き方はやや煩雑なので要約し解説する。

われわれの人生に置いて脳が連続してこの『物理空間』上に存在するとすれば、われわれの記憶も、少なくてもわれわれが生きてる間はわれわれの脳に保存されているとしても良いだろう。しかし、すでにこの節の冒頭(p.202 2行目-8行目)で見たように、一般的にわれわれは、意識をわれわれの『心理状態の本質的な特性』と考えており、『心理状態は、意識的なものをやめると必ず存在することをやめるだろう』と考えている。

また、『この脳は空間内に広げられたイマージュである限り、もっぱら現在の瞬間を占めるにすぎない』(p.213 12行目-p.213 13行目)

(2012/2/23筆者注  上記引用文を追加)

では、われわれの『意識』は途切れる、ということを前提にしているのに、あなたは『物質空間』がとぎれないということをどうして保証するのか?

そのためには次のような事を想定しなければならなくなるだろう。まず、意識が途切れ、また意識が戻る時に、すなわち、すべての人の意識にとってということになれば、『この宇宙が紛うことない奇跡によって、持続のあらゆる瞬間に滅びては甦るということ想定しなければならない』(p.213 14行目-p.213 16行目)ということになるか、

もしくは、『あなたが意識に認めていない現実存在の連続性を宇宙に移し替え、宇宙の過去をも、その現在のなかで生き続け、そこへと引き延ばされる一つの実在たらしめなければならない』(p.213 16行目-p.214 1行目)。言い換えれば、意識には認めていないが、宇宙は現実存在しておりかつ持続のなかで連続であること、そして、意識を宇宙の物理的存在として移し替えたのであるから、われわれの過去も、宇宙の過去のなかに存在するということを認めないといけないではないのか?

(2012/2/23筆者注  上三段落追記)

というのが、ベルクソンの批判である。

一方で、ベルクソンは、自身の仮説で、

『意識が、<現在>の言い換えるなら現実に生きられたものの、更に言い換えるなら、要するに<行動するもの>の特徴にすぎないとするれば、そのとき、行動しないものは、たとえそれが意識に属することをやめるとしても、必ずしも、何らかの仕方で存在することはやめずにいられるだろう』(p.202 4行目-8行目)

と言っているので、この節では明示してないがこのために、われわれの記憶も連続して存在するということを保証している、と考えているのであろう。

元に戻ろう。

ベルクソンが『意識』が存在しなくなることを前提としていて、どうして、『物質空間が』が連続した時間のなかでとぎれることなく存在することを保証できるのか(もしくは、誰かの意識がなくなると同時に無くなり、しかし、他の誰かの意識に上がると同時に奇跡的に復活するのか)、と疑問を呈しているということはすでに説明した。
(2012/2/23筆者注  上記段落(もしくは、.........復活するのか)を追記)

ベルクソン自身がこのあとまとめているので見てみよう。

『それゆえあなたは、想起を物質のなかに蓄えても何の得にもならないだろうし、反対にあなたが心理学的状態に認めなかった過去の独立した全面的な残存を、物質界の諸状態へ拡張されるのを余儀なくされる』(p.214 1行目-4行目)

つまりは、『意識』がわれわれの『心理状態の本質的な特性』と考えること自体に無理があると言っているわけだ。

ここで一区切り付けられ、このあと、ベルクソンは先の、

『忘れられているのは、容器と中身の関係が、その見かけ上の明晰さと普遍性を、前方ではつねに空間を開き、後方ではつねに持続を閉ざさなければならないというわれわれの陥った必然性から借りていることだ』(p.213 5行目-8行目)

までで、一旦意味的に区切られた部分について、再び述べられ始める。

見ていこう。

『過去の<それ自体としての>残存は、それゆえ、どちらの形であれ不可欠のものとして課せられるのだが、あなたがこの残存を思い描くのに感じる困難さは、<含むことと含まれること>の必要性 -これは空間内で瞬時に見いだされる諸物体の全体にしかあてはまらない- をわれわれが時間のなかの想起の系列に付与することに由来している』(p.214 4行目-7行目:<>内はテキスト傍点付き)

(2011/06/28 この部分は唯物論においても過去は全面的に保存されるということを意味していることを第三章第七節の解説において書いている。

2012/02/23追記 先の追記で述べたように第三章第七節は修正を考えている。また、唯物論においても、過去の全面的保存が主張されるのは間違いないが、ここで、それを主張しているというのはすこし、考え過ぎかもしれない)

つまり、『想起』が順番どおりに『脳』のなかに記憶されると考えてしまうことが問題だ、と指摘してるのであろう。

こうして、やや曖昧な記述のまま、この節の最後の文章を迎える。つまりは、このことが、次の節のテーマになるのだろう。

『根本的な錯覚はわれわれが持続に施す瞬間的な切断面の形を、過ぎゆく持続そのものへと移し替えることに存しているのだ。』(p.214 8行目-9 行目)