ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2010年2月13日土曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その3 運動と想起(mixi:2009年09月17日)


第二章第二節『運動と想起』(p.118 14行目−p.131 12行目)の出だしはこう始まっている。

『II - <再認一般、イマージュ想起と運動について>』(p.118 15行目、<>内はテキスト傍点付き)

章の出だしではこの節をどうまとめてあったか、ここで再掲すると、

『II - 現在の対象の再認は、それが対象から生じるときには運動によって行われ、それが主体に由来するときには表象によって行われる』 (p.101 10-11行目)

と、ある。

二種類の再認について論じているようだと、まず考えるべきなのだろう。 共通しているところは、一つの想起には運動が関わっている、もう一つは表象、もしくはイマージュ。

しかし、本文を順を追って読んで行くことにしたい。例によってこの節も出だしは柔らかいのだけれども、論の構造自体は相当、複雑になっている。

論の出だしから見ることにしよう。

『「既視感」(déjà vu)の感情を説明するには通常二つある。』(p.118 15-16行目)

と、われわれの誰もが経験したことがあるであろう感情・感覚から始まる。

『ある人たちにとって、現在の知覚を再認する事は、古い縁飾りの中に現在の知覚を差し込むことに存するだろう』(p.118 16行目-p.119 1行目)

これは言い方を変えると、

『再認する事は、現在の知覚に、かつてそれと隣接していた諸イマージュを連合させることであろう。(10)』(p.119 5行目-6行目)

(筆者注:引用文の最後の(10)は、本文中の参考文献の番号。この文章では、文献を引いてるというイメージがわかるようにするため敢えて番号を表示している。)

これをわれわれは、一番目の再認の説明と呼ぼう。

続いてもう一つの説明がされている。引用しよう。

『しかし、正当な根拠を持って指摘されたように(11)、刷新された知覚が、はじめの知覚と同時的に伴っていた諸状況を示唆することができるのは、それと類似した現在の状態によってまず喚起されている場合だけである。』(p.119 6-8行目)

同じようにこの考えを二番目の再認の説明と仮に呼ぼう。

ここまでを、もうすこし、わかりやすく説明したい。再認ということを、ジグソーパズルのピースを当てはめることに例えよう。うまく当てはめられれば、再認がうまく行ったということになる。

一番目の説明は、まさにこれで、再認の時に、新しい知覚をジグソーパズルのピースを当てはめるような、そのような記憶の探し方をするだろう、ということである。しかし、二番目の説明では、いやいや、ピースを当てはめるには、すでに、あらかじめ周りのピースがそれなりに埋まってないとできないんじゃないか。では、すでにあるそのピースはどうやって当てはめられたんだい?というわけである。

ちなみに、ここで最新の脳科学では、人が何かしようとすると、それを欲する前に、脳の中ではすでに反応が起きており、それから、意欲が出現し、行動が始まるらしい。

しかし、我々はベルクソンと共に歩いていこう。その論はややこしくはあっても、なかなかに興味深くおもしろいものだからである。

論を進めよう。ベルクソンの説明では、一番目の説明は二番目の説明にとけ込むことになるのだが(p.119 最後の3行)、ここではさらにp.120 1行目から二番目の説明について詳しく書いてあるので、それを追っていきたい。

『今回前提とされているのは、現在の知覚が、記憶の奥底に、現在の知覚と類似している以前の記憶を常に探しに行くということであり、その場合、「既視感」の感情は、知覚と想起の並置あるいは融合から生じるだろう。深淵にも指摘されたように(12)、類似はおそらく、精神が接近させ、それ故すでに所有している諸項のあいだに、精神によって確立された関係であって、したがって、類似の感覚は連合の原因と言うよりむしろその結果である。』(p.120 1行目-6行目)

つまり、似ているというのがわかるというのは、精神が何らかの関係を確立した結果である、というわけだ。

『しかし、精神によって把持され引き出された一要素を共有することのうちに存する、この知覚された明確な類似とは別に、漠然とした、いわば客観的な類似があって、この類似はイマージュそのものの表面に広がり、相互牽引の物理的原因のごときものとして作用しうる。』(p.120 6行目−9行目)

上記二つの引用をまとめると、似ているというのが分かるかということが心の何らかの働きの結果であるのであるならば、そのメカニズムはどうなっているか、ということで、ここではベルクソンは『漠然とした、いわば客観的な類似があって』、『イマージュそのものの表面にひろがり』、『相互牽引の物理的原因のごときものとして作用しうる』と言っている。このことは、徐々に詳しく述べられることになるだろう。


さて、ここからあと(p.120 9行目-p.121 3行目)、現代脳科学でも否定されているいわゆるおばあさん細胞についいて批判しているというのが専門的にはおもしろい。

おばあさん細胞というのは脳細胞がそれぞれ専門化しており、自分のおばあさんならおばあさんを認識する専門の脳細胞があって、記憶はそのような形で蓄積されているという考え方だ。しかし、ベルクソンは明確にこれを否定している。

『しかし、実際には、知覚と想起の連合は、再認の過程を説明するのに十分では全くない。というのも、再認がそのように行われるとすれば、再認は、古いイマージュが消失してしまったときにはおこなわれなくなり、これらのイマージュが保存されているときにはつねに生じるだろうからだ。』(p.121 4行目-7行目)

ここでは、精神盲を例としている。精神盲とは、何らかの脳の異常のせいで記憶の想起は可能であっても、再認に問題がある病気のことである。

『それゆえ、精神盲(cécité psychique)ないし、認知された対象を再認できないことは、視覚的記憶の抑制なしには進展しないだろうし、とりわけ視覚的記憶の抑制なしには進展しないだろうし、とりわけ視覚的記憶の抑制はいつも決まって精神盲を結果として引き起こすだろう。しかるに、実験[経験]はこれら二つの帰結のどちらも実証していない。』(p.121 7行目-10行目)

『実験[経験]』というのは、一つは、ヴィルブラント[Hermann Wilbrand,1851-1935,ドイツの視神経学者]の研究例と、フリードリッヒ・ミュラー[Friedrich Müller, 1834-1898,ウィーンの言語学者]とリッサウラー[Heinrichi Lissauer,1834-1898,ドイツの神経学者]研究例である。(p.121 10行目-p.122 3行目)

これは、簡単に言うと、思い出すことはできるが、再認ができない、たとえば、その光景を絵に描くことはできるが、そこに行っても同じ場所を確認できない、という患者さんがいるという例である。

これから、ベルクソンは、まず、『視覚的想起の保存は、それが意識的なものであっても、この想起に類似した知覚を再認するには十分でないのだ』と結論づけている。 (p.122 2-3行目)

一気に話を続けたので、ここまでを、いったん簡単にまとめると、おばあさん細胞のような想起の保存ならば、再認は知覚と同時に行われる。思い出すことはできるが、再認はできないなどということは起こりようがない、と言っているのである。

次は、一つ一つの具体的な対象物は再認できないのに、抽象的な概念だけを再認できる例である。

ベルクソンは視覚的イマージュの完全な消失について、シャルコー[Jean Martin Charcot,1825-1893,フランスの神経学者]の当時すでに古典的となっていた研究から、そのことが『知覚の再認すべてが廃棄されたわけではない。』と言及している。(p.122 3行目-12行目)

これは、見慣れたはずの街並みや自分の家族は認識できなくても、そこが通りであったり、女性や子供である、ということは理解できるという症例である。

したがって、『廃棄されたのはそれゆえ、再認能力一般ではなく、ある種の再認であって、我々はそれを後で分析せねばならないだろう。結論を述べておくと、どんな再認もが古いイマージュの介入を含意しているわけでは必ずしもなく、諸知覚をこれらの古いイマージュと同定する事は成功できなくても、やはりこれらのイマージュに訴えることはできるのだ。』(p.122 12行目-16行目)


ここまで再認について、様々な研究の例を挙げて考察してきたわけであるが、

『結局のところ、再認とはいったい何なのだろうか。われわれは再認をどのように定義したらいいのだろうか。』(p.122 16行目-17行目)

自身の問いかけに、ベルクソンは、まず、『瞬間の再認』についての説明している。これは、現代では、いわゆる条件反射という言葉で説明されているものである。(p.123 1行目-9行目)

ここの部分は、必要ならばまた後に戻ることとして説明は省略し、次の部分に移ってみたい。

『ところで、一方では、知覚はそれに伴う一定の諸運動をまだ組織しておらず、他方では、知覚と同時的に生じている諸運動は、私の知覚を無用なものにするほどまでに組織されているという、これら二つの極限的な状態の間には中間的な状態があって、そこでは、対象は認知されるが、この対象が、互いに結びつけられ、連続的で、相互に制御し合うような諸運動を引き起こすのだ。』(p.123 9行目-13行目)

(2012年1月3日筆者註:上記引用より(筆者註:第三章のp.191図2参照)という部分を削除。理由は明らかに間違っているため)

ここから数行、ちょっとごちゃごちゃした記述があって非常にわかりにくいので、われわれは、その結論だけ覚えておけばいいだろう。つまり『再認の基盤には、まさしく運動性の秩序に属する現象があるだろう。』(p.124 4行目-5行目)

以上のベルクソンの哲学者らしい言い方を砕いて、つまりはなにが言いたいかということを言えば、われわれが言う条件反射という再認よりもっと高度な再認があって、そこにも何らかの『運動性の秩序に属する現象』があるだろう、と言っているのである。

(2012年1月3日筆者註:あるいは、別の言い方で説明すれば、条件反射のように意識を必要としない再認と、完全に意識を必要とする再認の中間が存在し、それには『なじみ深さの感情の基盤』となるものがあると言っているのある)


ところで、ここで、ベルクソンの言う認知されたり、認知されることで再認で起こる運動を引き起こす『対象』とはいったい何か?ということを疑問にもたれる方もいるだろう。われわれは、『対象』を『知覚』するのであるが、ベルクソンの言う『イマージュ』とは何が違うのか?

この本の初めに戻ると、『イマージュ』は、『ここでイマージュというのは、私が感覚を開けば知覚され、閉じれば知覚されなくなるような、最も漠然とした意味でのイマージュである。』(p.8 3行目-6行目)とある。ここでは、簡単に『物質全体』としての『イマージュ』のうちで『知覚』されているもの、あるいはその『表象』と言うべきであろう。

(2012年1月3日筆者註:上記段落において一部、自己言及的になっていた部分を削除、本来『表象』を第一章の解説でもう少し詳しく説明すべきだがとりあえず上記のように改変した。『イマージュ』、『知覚』、『表象』などは、以前の記事「ベルグソン 「物質と記憶」メモ その2 唯心論の検証」(リンク:http://etsurohonda.blogspot.com/2010/01/mixi20090619.html)においても簡単に説明しているのでそちらもご参考頂きたい)


再認について戻ろう。

『日用品を再認することは何よりも、それを使うことができるということにある。(中略)日用品を使うことができるということは、すでにそれに適応する諸運動を素描することであり、ある態度を取ることである、とは言わないまでも、少なくてもドイツ人たちが「運動衝動」(<Bewegungsantriebe>)と呼んだものの効果によってある態度を採ろうとすることである。』(p.124 7-11行目、<>内はテキストイタリック)

『それゆえ、対象を利用する習慣は』、『最終的には運動と知覚をひとまとめに組織するようになり』、『反射のように知覚に後続する生まれつつある諸運動についての意識が、ここでもまた、再認の根底にあることであろう』(p.124 12行目-14行目)
 (筆者注:この段落の引用は、テキスト上では一続きではあるが、理解を助ける一助として、『』で意味のまとまりを分けてみた。)

次の行は、すぐにこう始まっている。

『運動へと引き延ばされないような知覚は存在しない』(p.124 15行目)

ここからしばらくは、ニューラルネットワークなどの勉強をした人がわかるだろうが、教師あり学習の話をしていると思われる。この本を読んでいると、ベルクソンの先見性にしばしば驚かせられるが、これもその一つである。引用しよう。

『リボー(21)[Théodule Armand Ribot, 1839-1916, フランスの心理学者]とモーズレー(22)[Henry Maudsley, 1835-1918,精神病理学者]はずっと前からこの点に注意を喚起していた。諸感覚の教育は、感覚的印象とそれを利用する運動とのあいだに確立された数々の結合の全体のうちにまさしく存している。印象が反復されるにつれて、結合は強化される。そもそもこの操作の機構は不可思議な点を何ら有していない。明らかに我々の神経系は、諸中枢を介して感覚の刺激と結ばれる運動期間の構築のために使われており、諸神経要素の不連続性、末端の樹上突起の多様性―これらの突起はおそらく様々な仕方で接近し合うことができる―は、諸印象とそれに対応する諸運動のあいだの可能的な結びつきの数を無制限に増加させている。』(p.124 15行目-p.125 6行目)

(2012年1月3日筆者註:『印象が反復されるにつれて、結合は強化される』の一文が抜けていた為、補完)

これは、ニューラルネットワークもしくは、ニューラルネットワークの一種であるパーセプトロンであることが証明されている小脳の働きをまさに言っていると思う。(ちなみに、このことは、Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/wiki/パーセプトロン)の記事の文章を引用すると、『1970年頃、デビッド・マー[2]とジェームズ・アルブス[3]によって小脳はパーセプトロンであるという仮説があいついで提唱された。のちに神経生理学者伊藤正男らの前庭動眼反射に関する研究[4]によって、平行繊維-プルキンエ細胞間のシナプスの長期抑圧(LTD, long-term depression)が見つかったことで、小脳パーセプトロン説は支持されている。』とある。

以上が、いわゆる『運動』の仕組みであるが、『構築中の機構は、すでに構築された機構と同じ形で意識に対して現れることはできないだろう。何かが、有機体における強化された諸運動体系を根本的に区別して、明瞭に示している。この何かとはとりわけ、それらの体系の順序を変えることの困難さであるとわれわれは考えている。』(p.125 6行目-10行目)

『それはまた、先行する諸運動の中で後続の運動が先形成されているということでもあって、この先形成ゆえに、部分は潜在的に全体を内包している。(中略)それゆえ、どんな日常的知覚もが、組織化された運動を随伴している以上、日常的再認の感情はこの組織化の意識のうちに根を張っているのだ。』(p.125 10行目-15行目)

つまり、われわれの日常の処理はどんな小さなものであっても、連続したものであるから、次の処理を先読みしてあらかじめある程度準備されている、と言い変えることができるだろう。現代の、たとえば、パソコンの中央演算装置(CPU)でも前処理としてこのような先読みがされている、と言えば、裏付けになるだろうか。(複数のパイプラインと呼ばれる命令とデータの連続体に、CPUが処理するであろうプログラムをあらかじめ予測配置しておくということがなされている。)

『つまり、通常われわれは、われわれの再認を思考するに先立ってそれを演じているのである。(中略)』そして『諸対象が現存するだけで、我々はある役割を演じるように促されているのである。』(p.125 16行目-p.126 1行目)

さて、大変長々と引用しながら説明をしてきた訳だが、テキストのこの節の残りはさらに詳細に検討されているだけであるし、我々が知っておく分はこれで十分だと思う。


(2012年1月3日筆者注:以下の部分は、現在の段階では、『なじみ深さの様相』に関しては解説すべきであるが、あまり関係がないと考えている事を付記しておく)

2010年2月13日現在考えていることのメモ代わりとして

この文章を書いたときには気にしていなかった一文に改めて注意をしなくならなかったことを告白する。その一文とは、

『ここに、諸対象の馴染み深さの様相がある。』(p.126 1-2行目)

という前の引用に続く一文である。馴染み深さの感情は、運動の機構によって意識することなしに道具を使えるようになるその程度であると、ここでは言い換えてもいいだろう。

このベルクソンの主張は、将来書くであろう『小林秀雄「本居宣長」メモ』にどのように引き次がれて行くであろうか。一つの課題である。記憶が運動の機構に変わっていくことがなじみ深さならば、いわゆる「物」に対する感覚は運動の機構だけで説明できる事になっていまう。

この答えがP=NP?を研究していく先にあれば重畳である。パーセプトロンは、基本的に一時線形分離可能であることが証明されているだけだからである。(もちろん現在は研究も進み、特殊な変換を用いれば、非線形にも対応できるがそれで解ける問題は一部である。)