ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2010年3月21日日曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と記憶 その4 想起と運動 (中) (mixi:2009年10月27日)


ベルクソン 「物質と時間」メモ その3 記憶と想起 その4 想起と運動 (中)
2009年10月27日

この後、次の段落(p.138 14行目-p.141 1行目)になるが、この段落と、その次の段落(p.141 2行目-p.141 8行目)までは、上述の前段落の強調と詳細な説明であると見なせるので、ほとんどを省略して、注意すべき点だけピックアップしよう。

まず、ベルクソンはこう主張する。

『反省された知覚は<回路(circuit)>である』(p.139 1-2行目<>内は傍点とイタリック)

ここで、『回路』の意味であるが、われわれ意志とは無関係に処理が行われる、という具合に受け取っておけばいいだろう。さらに詳しくするとこのような次のような記述になっている。

『注意の行為は精神とその対象の強い連帯を伴い、それは非常にしっかりと閉じられた回路であるので、高度な集中の状態に移るたびに新しい回路を一から十まで作り上げねばならなくなるのであるが、これら新しい回路は最初の回路を含みつつも、見られている対象しか相互に共通なものは持っていない。』(p.139 11行目-14行目)

このことは、ベルクソンが後述している言葉に置き換えれば『注意の進展』という言い方ができるだろう。そして、『注意の進展はその帰結として、単に見られた対象だけでなく、その対象が結びつくことのできる益々広大になる諸体系をも新たに作り出す。』(p.140 15-17行目)

『それゆえ、同じ心的生が、記憶の相継起する諸段階で無制限に反復されるだろうし、精神の同じ行為が数多くの相異なる高度で行われうるだろう。』(p.141 2-3行目)

ここをわかりやすく書くと、同じ様な体験であっても各個人にとって一度きりの体験になるし、そのときそのときの精神状態によって『注意』の『高度』も違ってくるだろう、と言っているのである。

ごく大まかに書いたわけだが、われわれはあまり細かいことにこだわらず、これくらい理解すれば十分だろう。

次の段落(p.141 9行目-p.142 6行目)は、われわれの経験(個々人の連続したイマージュ想起)が、知覚と区別なく認識される過程がより詳しく書いてあるのだが、ここも概略だけ説明しよう。

われわれの経験は、ベルクソンの言葉で言えば『数々の個人的で人格的な想起』の『連鎖が過去のわれわれの生存の流れを描いている』ものと言えようが、これらの『想起』が『まとめられることで』われわれの記憶の最も外側の『外皮(envelope)』を作っている。それは、核となる知覚と記憶のペアからもっとも遠いところにあり、『本質的に逃げやすいものであるので、偶然によってしか物質化されない』。しかし、遠いが故に『弱められ』、つまりは抽象化され、繰り返されているうちに『ありふれたものとして、現在の知覚に益々張り付けることができ、個体を包括する種(エスペス)のように現在の知覚を益々限定することができる』(p.142 1行目-2行目)。こうしているうちに、知覚と想起はまったく区別が付かなくなる時が来る。このことをベルクソン流に言うと『まさにこの瞬間、記憶は、その諸表象を気まぐれに出現させたり消失させたりする代わりに、身体的諸運動の細部にみずからを合わせているのである。』(p.142 4行目-6行目)となるわけである。

さらに、次の段落(p.142 7行目-p.143 12行目)に続いていくわけであるが、この段落は、こう始まる。『しかし、これらの想起が、運動にいっそう近づき、それによって外的知覚にいっそう近づいていくにつれて、記憶の操作はより実践的な重要さを獲得する』。

この『記憶の運動的要素』が非常に大事であるということを強調して、さらに詳しくこう解説している。

『われわれの考えでは、われわれの知覚が数々の模倣の運動へ自動的に分解されたちょうどその時に、呼びかけがわれわれの活動へと投げかけられる。そのとき、素描がわれわれにもたらされ、われわれは、程度の差はあれはるか昔の数々の想起をそこに投影しながら、この素描の細部と色合いを作り直している。』 (p.142 14行目-p.143 1行目)

以上がベルクソンの仮説の比較的詳細な説明となっている。この段落は、まだ残っているが、この部分以外は、これ以外の説の批判に向けられているので省略する。

次の段落(p.143 13行目-p.144 1行目)に行こう。この段落は短いが意外と重要だ。

前段落の後半で従来からの説についての批判をひとしきりしたあと、こう始まる。『しかし、これらの一般論から抜け出るときが到来した。われわれの仮説が脳内局所化についての周知の事実によって検証されるのか、それとも破棄されるのかを、われわれは探求しなければならない。』(p.143 13行目−15行目)

つまり、ここからはベルクソンは仮説を検証するつもりなのだが、その対象として、『皮質の局所的な諸損傷に対応するイマージュ的記憶の諸障害は、それが視覚一般または聴覚一般の障害(精神盲や精神聾)であれ、言葉の再認の疾患(言語盲、言語聾など)であれ、言葉の再認の障害である。したがって、以上のものが、われわれの検討すべき諸障害となる。』 (p.143 15行目−144 1行目)

以上、段落のほぼすべてを引用したのだが、さらに次の段落(p.144 2-13行目)においてなぜこのような疾患がベルクソンの仮説の検証の対象になるかについて述べてある。

それは、つまり、ベルクソンの仮説が正当なら、脳の皮質の局所的な障害が起こす再認障害が、脳のその部分に各視覚や聴覚や言語認識に対応する『想起』が蓄積られていた、とはならないだろう、ということを主張している。

これが、形を変えながら何度も何度も出てくるベルクソンの主張になのだが、音楽の主題のように展開されていくと見ればおもしろいと思う。

それでは、この段落をもう少し詳細に見ていくことにしよう。ベルクソンの説では、この種の再認障害はさらに大きく二つの原因に由来する。

第一の場合、『想起の選択がなされる際の仲介となるまさにその態度を、われわれの身体が、外からきた刺激を前にして自動的にもはや採ることができないことに由来し』、第二の場合、『想起が身体のうちに、作用点、つまり行動へと引き継がれる手段をもはや見いださないことに由来する。』(p.144 3行目-6行目)

『第一の場合、損傷は集められた震動を自動的に実行される運動へ引き継ぐ諸機構に係わっている。そうなると、もはや注意は対象によっては定められないだろう』。(p.144 6行目-8行目)

『第二の場合、損傷は個々の中枢を傷つけるだろう。それらの中枢は、意志的な運動に必要な感覚の先行現象を与えることで、この意志的な運動を<準備>しているのだが、それらは間違ってるにせよ正しいにせよ、イマージュ的想像中枢(centres imaginatifs)と呼ばれている。そうなると、もはや注意は主体によって定められないだろう。』(p.144 8行目-12行目、<>内はテキスト傍点付き)

ベルクソンはやや難しい言い方をしているので、もう少し砕いて説明しよう。

第一の場合は、感覚器官から脳の自動処理中枢(ここでは『運動』の仕組みであることに注意)への『震動』伝送路もしくは、自動処理中枢の中の伝送路が故障しているために、中枢は最終的に対象を正しく確認することなく、本来自動的に行われる意志的な運動の準備、つまり、前節で説明した現代コンピュータのパイプラインの働きがうまくできないという障害が発生する、ということになる。

第二の場合は、脳の自動処理中枢の機能自体が壊れてしまっているために、感覚器官から集められた『震動』を正しく認識できない、もしくは結果としてするべき活動を正常にできないそのために、最終的に本来の活動を停止しているか異常を発生させることになるだろう。

しかしながら、『しかし、どちらの場合にも、損なわれるであろうものは現在の運動であり、準備されなくなるであろうものは来るべき運動であって、想起破壊は生じないだろう』(p.144 12行目-14行目)

この次の段落(p.144 15行目-p.146 3行目)で注意についての記述はいったん終わる。その次の段落からは最初に書いたように、『第一に自動的な感覚-運動過程』(対応部分:p.146 4行目-p.156 5行目)の記述に入る。

それは、こう始まる。『ところで、病理学はこの予想を確証している。病理学は、完全に異なる二種類の精神盲と精神聾、言語盲と言語聾の存在をわれわれに明かしている』。

要点を絞るために途中の記述を省略し、関係のある部分だけを残そう。続きはこうなる。

いろいろな例があるが、ベルクソンは仮説を確実に証明するために『われわれは、聴覚の諸印象、特にはっきりと文節的に発音された語の聴取に専念することを好む。なぜなら、この例はあらゆる例の中でもっとも明快なものだからだ。』と言う。(p.145 8行目-10行目)

そして、『実際、口に出された言葉を理解することは、最初にその音を再認し、次いでその意味を再び見いだし、最後にその解釈を多かれ少なかれ遠くに押し進めることである。要するに、注意のすべての段階を通過することであり、記憶のいくつもの相継起する力能を行使することなのだ。』と説明している。 (p.145 10行目-13行目)

さらに、聴覚の障害がもっとも研究されていること、『最後に、音声的言語イマージュの消失は、皮質のある決まった脳回の重度の損傷なしに進まない。』と言っている(p.145 15行目-16行目)。最後の引用で脳回という言葉が難しいが、大脳皮質の溝と溝で囲まれた凸の部分のことだ。もっとわかりやすく言えば、脳のしわとしわとの間の出っ張った部分やその一部のことだ。

そういうわけで、検証が進むにつれて、局所的なその脳回に想起が蓄積されているか、それともベルクソンの言うとおり想起自体は別のところに蓄積されており、脳は想起の操作だけを司る『運動』の器官にすぎないのかがわかるであろう。

ここまで、概要、特に『注意』の働きを中心に見てきた。以降は脳が想起を蓄積できるかどうかの検証のための記述がされていくことになる。

繰り返しになるが、ここまでを振り返って簡単にまとめてみよう。

ベルクソンの仮説が正当かどうかを示すために、脳の皮質の局所的な障害が起こす再認障害を検証することによって、脳の局所的部分に、想起が蓄えられているかどうかを検証できるだろう。これをもうすこし詳しく順を追って説明するとこうなる。

まず、ベルクソンの仮説は、私なりにまとめると以下のようになるだろう。想起に関して、脳にあるのは、自動的な反応を行う感覚-運動過程と、注意によって、ますます詳しくなる、一種再起的な知覚の二重化があり、イマージュ記憶は、この注意による再起的な知覚二重化を行う過程でより詳細に再構成されていく。この作用をする脳の中枢のことを、上述された言葉を使うと『イマージュ想像中枢』という。

これらの仮説を、先ほどまで見てきたような、大きく二種類に分類される障害によって検証する。その結果、想起が脳の局所的部分に蓄えられているかどうかもわかる。と言うことになるだろう。ベルクソンの言葉を引用するならこうなる。

『そこでわれわれは、語の聴覚的再認のなかで、第一に自動的な感覚-運動過程、第二にイマージュ想起の能動的でいわば離心的な投影を示さなければならないだろう』(p.146 1行目-3行目)。


そこで、次の段落からは、『第一に自動的な感覚-運動過程』(対応部分:p.146 4行目-p.156 5行目)の部分の検証がはじまる。一緒に詳しく見ていこう。

(2012/01/04筆者註:この節の解説の初め(上)の最初の部分で、この節は大きく以下のように大きく三つに分けられるといった事を思いだして頂ければと思う。

「つまり、このように、ある程度の概要を述べた後、『第一に自動的な感覚-運動過程』の部分がテキストではp.146 4行目-p.156 5行目で語られ、『第二にイマージュ想起の能動的でいわば離心的な投影』が次節『想起の現実化』(p.156 6行目-p.177 2行目)にて詳細に語られるという構成になっている」

ここまでが概要で、次からは、「『第一に自動的な感覚-運動過程』の部分」、に入る。)


この最初の段落(p.146 4-10行目)は、聴覚から入った言語の理解の例である。やや長いが、以下この例に基づいて議論が展開されているので、すべてを引用しよう。

『一、私は二人の人物が、私の知らない言語(テキスト中ふりがな:ラング)[国語]で話しているのを耳にする。それだけで、私が彼らの言っていることを聞き取るのに十分だろうか。私に伝わる振動は、彼らの耳を打っているのと同じ振動である。しかしながら、私は、すべての音が相互に類似した漠たる雑音しか知覚しない。私はなにも識別しないし、なにも反復できないだろう。反対に二人の対話者は、この同じ音の塊のなかに、お互いにほとんど似ていない子音、母音、音節を、要するに判明な語を聞き取っている。彼らと私のあいだで、どこに相違があるのだろうか。』

次の段落(p.146 11行目-p.147 5行目)はさらに興味深い。

『問題はある言語(ラング)[国語]の知識という想起にすぎないものが、どのようにして現在の知覚の物質性を変え、一方の人たちがある物理的条件下で聞き取れないものを、他方の人たちに同じ条件下で現実に聞き取らせることができるのかを知ることである。』『実際、前提とされているのは、語の聴覚的想起が記憶のうちに蓄積され、ここで音響的諸印象の呼びかけに反応し、その効果を補強することである。』 (p.146 11行目-15行目、テキスト上は連続でも読みやすいように意味のまとまりを考え『』により分割した。)

以下、この段落をまとめると、つまりは、一方では雑音にすぎないものは、音の強度が強くなっても雑音でしかすぎないのに対し、会話として成立させている側は、雑音の中でも明瞭に音を聞き取ることが可能であり、なおかつ明晰に語を理解しているわけであるが、それには、耳とそれに伴う器官が音を語として聞き取っていなければならない。まず、知覚が明瞭に音を明晰な語として認識して初めて、音は記憶に対し働きかけることができるはずではないか、とベルクソンは言う。

次の段落(p147 6-16行目)の始め、ベルクソンはこう嘆く。『この困難は感覚性失語症の理論家たちに、十分な衝撃を与えたようには見えない。』

言語聾の患者は、われわれが未知の言語の会話の中にあるのと同じ状態に陥っていて、『一般的に、聴覚の感覚を無傷に持ち続けているのだが、自分が発音しようと欲する言葉(テキスト中ふりがな:パロール)をなにも理解しておらず、しばしばその言葉を弁別することさえできない。』(p.147 8行目-10行目)

このあと、従来の感覚性失語症の理論家を批判したあと、次の心理学的問題が判明していないと指摘する。『損傷が消し去った意識的な過程とは何なのか。そして、最初は耳に音の連続性として与えられていた言葉や音節を聞き分けることは、一般に、何を介することで行われるのだろうか。』(p.147 14行目-16行目)

次の段落(p.147 17行目-p.148 11行目)はこう始まる。『われわれが一方では、聴覚的印象、他方では聴覚的想起にだけ実際に係わるのであれば、この困難は乗り越えがたいものであろう。』 (p.147 17行目-p.148 1行目)

『ただし、聴覚的印象が芽生えたばかりの運動を組織し、それが、聞かれた文章を区切り、その主要な文節を明示しうるとすれば、事情は同じではないだろう。』 (p.148 1行目-3行目)

次に、ニューラルネットワークを知っているわれわれには、よくなじんだ考え方を説明する。

『聴覚的印象に内属するこれらの自動運動は、(中略)反復されることで、次第に明確化されるだろう。』 『これらの運動はついには単純化された一つの形象を描くに至るのだが、聞いている人は、話している人の数々の運動そのものの概略と主要な方向をそこに見出すだろう。』(p.148 3行目-6行目、テキスト上は連続でも読みやすいように意味のまとまりを考え『』により分割した。)

ベルクソンは、このことを『運動図式(shème moteur)』と名付けて、『生まれつつある筋肉感覚の形で展開されるだろう』と指摘する。(p.148 7行目-8行目)

『そのとき聞いてる人の耳を、新しい言語の諸要素にならすことは、(中略)それは声の筋肉運動の傾向を耳の印象に連繋(れんけい)させ、運動の随伴を洗練させることであろう。』(p.148 8行目-11行目)

次の段落(p.148 12行目-p.149 16行目)からは、『運動図式』の説明になる。しかし、内容は専門的に見ればかなりおもしろいのであるが、一般的にわれわれが知っておくべきだろうというところだけをピックアップする。

ところで、人間の知能は運動と密接に関わっていると考えられている専門家の方が少なからずいらっしゃるのは私も知っているが、その方たちにとっては容易に読めるであろうから、特にこの段落は、是非ご自分でも目を通していただくようお勧めする。

一方、この段落で専門家でないようなわれわれが知っておくべきことは次の二点であろう。

『我々の視覚的知覚は連続した全体の知覚であったのに、それに対して、われわれがそれによってこの全体のイマージュを再構成しようと努めている運動は多数の筋肉的収縮や緊張から構成されている。』(p.148 15行目-p.149 1行目)

『イマージュを模倣する漠然とした運動は、すでにその運動の潜在的な分解である。』(p.149 2行目-3行目)『(中略)しかし、反復された努力が常に同じことを再現するのであれば、それは何の役に立つのだろうか。反復の真の効果は、まず分解し、ついで再構成し、そうすることで身体の知性に語りかけることである。』(p.149 9行目-11行目)

引用が細切れになってよく理解できないと言う人もいるかもしれない。それで、私なりの言葉で言い方を変えて表現すれば、一連の連続した知覚というイマージュを、非常に細分化した運動として分解、再構成すること、そのことで、上記引用で『身体の知性』とベルクソンが呼ぶ機能に働きかけ、繰り返される同じようでわずかに異なる一連の流れが、繰り返し反復学習され、つまりは、これが再利用可能なひとまとまりの想起となって成立するということであろう。

次の段落(p.149 17行目-p.150 12行目)に移ろう。

『かくして、聞き取られた言葉に随伴する運動もこの音の塊の連続性を断ち切ることになる。残るは、かかる随伴の本義がどこにあるのかを知ることである。』 (p.149 17行目-p.150 1行目)

『かかる随伴の本義』という言い方で、この段落でベルクソンが問題にしていることを理解するのは簡単である。われわれは、聞いた言葉を正確に理解することはできるかもしれない。しかし、アナウンサーが立派な職業であるように、われわれは、アナウンサーと同じような話すことのプロではない。言葉が聞き取れるからと言って、それをうまく話すこととはまたかなり違ったことだ。

つまり、言葉を聞いて理解するということと、考えをうまく口に出して話をすることとは全く違うことであって、『かかる随伴の本義』は言葉を聞いて理解することと、考えていることをはなすことを同源とするような『内的に表現された発語(テキスト中ふりがな:パロール)』(p.150 1行目-2行目)という抽象的な物ではない。

この段落の最後に、ベルクソンがこう書いているのも同じ意味だ。『運動性失語症は言語聾を引き起こしはしないのだ』。つまり、言葉を話せない病気、運動性失語症と、言葉を聞いて理解できない病気、言語聾とは全く原因を異にしていると言っているのである。 この問題の説明はさらに次の段落に続いていく。

この段落(p.150 13行目-p.151 7行目)も、難解な部分はないので簡単に説明する。

『なぜなら、聞き取られた発語を音節で区切ってわれわれが発音する際の図式は、単にその顕著な輪郭を表示するにすぎないからだ。』(p.150 13行目-14行目)

この、図式と発語の関係を、ベルクソンはスケッチと完成された絵画にたとえている。そして言う、

『身体の論理は仄めかしを許容しない。』(p.151 2行目)

発語をするならば、どんな細部にわたっても身体に理解させておかなければならない、と指摘する。『ここでは、どんな細部も疎かにしない<完全な>分析と、何も要約されない<現実的>総合が不可欠となる。』 (p.151 4行目-5行目、<>内はテキスト傍点付き)これが、運動性失語症と言語聾がまったく違う原因で起こる理由と言うのである。

『かかる随伴の本義』という言い方でベルクソンが説明してきたここまでの二つの段落を簡単に振り返ってまとめよう。

運動性失語症と言語聾の症状をよく観察してみると、聞いて理解することと考えていることをうまく話をすることは、同じ言語を扱っているにしても脳の中の機能としてみた場合において全く異なると言うことが分かる。どちらも、『身体の知性』と言うべき非常に細かい部分まで分解された一連の機能として、全く別々に記憶されている。聞いて理解することと考えていることをうまく話すと言うことは、それぞれが全く別種の身体性を伴った反復学習の結果ということだ、と言い換えてもいいだろう。

では、次の段落(p.151 8行目-p.153 11行目)をみよう。こんどは、次のような疑問が提示されている。

『残るは、この種の身体的随伴がどうして生じうるのか、そしてそれは実際つねに生じているのかどうかを知ることにある。』(p.151 8行目-9行目)

『身体的随伴』という言葉が難しいが、今までの『運動の随伴』などと同様の意味で、ここでは上記『どんな細部も疎かにしない完全な分析と、何も要約されない現実的総合』の事であると思って良いだろう。

さて、その説明をする前に、ベルクソンがこの本(「物質と記憶」)を書いて出版したのは、1896年となるが、当時どのように、脳からの命令で発語がされているかということが理解されていたかを見るために、煩雑にはなるが、相当部分を引用する。

『言葉を実際発音するには、分節のために舌と唇を、発声のために喉頭を、最後に呼気の流れの発生のために胸郭の諸筋肉を同時に働かせることが必要である。それゆえ、発音された各々の音節には、脊髄や延髄の諸中枢の中ですっかり組み立てられた諸機構の全体の作動が対応している。これらの機構は、精神-運動領域の錘体細胞の筒-軸突起によって皮質の高等中枢へつながれている。意志の衝動が進むのはこれらの道に沿ってである』 (p.151 9行目-14行目)

現代から見ても非常に正確な解剖学的知識に基づいていることを改めて指摘しておきたい。

さて、この段落で何をベルクソンが主張したいのかを、記述されている例を用いながら見ていこうと思うのだが、二つの失語症の例を挙げている。(リトハイムの第四型、第六型)

その、ベルクソンの記述にはいる前に、訳注を少し紹介しておきたい。 『[リトハイムは七種の言語障害を言語中枢性失語、末梢性伝導性失語、中枢性伝導性失語に分類した。第四、第六型はいずれも第三の種類の失語に属し、前者<第四型 - 筆者註>は超皮質性運動性失語、後者<第六型 - 筆者註>は超皮質性感覚性失語と呼ばれる]』(p.152 4行目-5行目)

何度も前置きめいたことが挿入されてしまったが、本題の『この種の身体的随伴がどうして起こるのか、そしてそれは実際常に生じているのか』というベルクソンの問題提起に戻ることにしよう。

ここで、まず、ベルクソンは、言葉の内容は理解できないのにも係わらず、聞いた言葉をそのまま発音することが可能な患者を挙げている。

『リトハイム[Ludwing Lichitheim,1845-1915,ドイツの臨床医学教授]本人によって観察された症例において、患者は転倒した結果、言葉の分節の記憶を、ひいては自発的にはなす能力を失ってしまった。しかしながら、その患者は人から言われたことをこの上もなく正確に反復した(39)。』(p.152 6行目-9行目)

『他方、自発的に話す能力は元のままだが言語聾が完全な場合、患者はその人に言われたことについて何も理解してないのだけれども、他人が話した言葉を反復する能力はなおも完全に保存されうる。(40)』(p.152 9行目-11行目)

上の二例、双方が、他人の話したことを正確に話す能力はあるのだが、最初の患者の場合は自発的に話す能力が失われている。一方で、後者の場合、自発的に話す能力は保持している(ただし、他人から言われたことを理解する能力は失われている)、という違いがある。しかしながら、最初の共通点、他人の話した言葉を正確に繰り返す能力があるということを示すことによってベルクソンが主張するように、ここでは聞いた言葉を意識的理解を通さず『身体的随伴』によって発語可能な仕組みがあると言うことが示されていると言えるだろう。

当時、いろいろな人が様々な説明をしていたようであったが、ベルクソンは、『ここでは、患者は、機械的に、そしておそらく無意識的に、聞き取られた言葉を反復する。あたかも聴覚の諸感覚が、自ずから分節の諸運動に転じたように。(中略)これらの多様な現象の中には、完全に機械的な諸活動より以上のものではあるが、意志的記憶への呼びかけより以下のものがある。』(p.153 2行目-7行目)と指摘している。そして、この段落の最後に『われわれの言う運動図式はこれと別ものではない。』(p.153 11行目)と言っている。つまりは、上記『身体的随伴』はベルクソンの唱える『運動図式』と違ったものではないと言っても良いだろう。

さらに、次の段落(p.153 12行目-p.155 10行目)では、こう始まる。『この仮説を深めることで、われわれはおそらく、言語聾のいくつかの形式に先に求められた心理学的な解釈をそこに見いだすだろう。』

ここで、『先に求められた心理的な解釈』というのは、省略してしまったが、p.147 10行目-16行目において、『感覚性失語症の理論家』の理論を批判し、『心理学的問題が手つかずのままに残っている。』と指摘している部分である。その『心理学的問題』の部分は、一度引用したがもう一度引用しよう。

『損傷が消し去った意識的な過程とはなんなのか。そして、最初は耳に音の連続性として与えられていた言葉や音節を聞き分けることは、一般に、何を介することで行われるのであろうか。』 (p.147 14行目-17行目)

そして、少し先取りしていえば、この『心理学的解釈』とは、この後でベルクソンが批判する『科学的思考』(p.164 12行目-p169. 7行目)のように、聞いた言葉の解釈を、たとえば音声解析中枢、言語解釈中枢、などに、要素分解、合成で説明できるとする考え方(ベルクソンの言い方によると『象徴的形象化(figuration symbolique)への抑えがたい欲求』p.164 12行目-13行目)に対しての、自分たちの言うこの『運動図式』仮説のことであろう、と、ここでは解釈できると思う。

(筆者註:ここで告白しなければならないのは、私もIT系のエンジニアとして教育を受けているためでもあるが、常に、この要素分解・合成系の考え方に陥ってしまいがちで、その点で、ベルクソンの『運動図式』の説明がそちらの考えと混同して曖昧になりやすいという問題を抱えている。これからも注意していくが、そのようなことで説明が不明であるのはまったく私自身の不明によるものである、とお詫びする次第である。

しかし、それは、完全に論理で構成している、つまりは数学のなかで完全に定義され演繹されるような、たとえば、オブジェクト指向コンピュータ言語で作られるクラスやそのインスタンス、もしくは、たとえば、データマイニングの手法で取られるような、分類木のような観念を作って分類、分解するやり方とは、全く違ったイマージュの理解を連続した時間のなかで人間は行っていて、それが、どのように、脳という物質のなかで行われているかと言うことの説明であって、『運動図式』仮説が脳の中で物理法則に従わないことを行っているという意味ではない。

また、この前の段落ではこういうことも言っている。

様々な学者が一種の『反射』として考え、あるいは、『(中略)ある人たちは語の聴覚中枢を発語の文節中枢へと結びつけるような特殊な機構を想定した(46)。真実はこれらの仮説の中間にあるように思われる。』(p.152 11行目-p.153 6行目をまとめた)

これからわかるように、必ずしも『聴覚中枢』や『文節中枢』の存在をベルクソンは否定しているのではない。ただ、その結びつけられ方がもっと総合的であるいは連続した一意な物であるだろうし、それを、『運動図式』と言う形で説明しているのだと思われる。

つまりは、人間の言語がコンピューターの言語のように最終的には数学のなかで完全に定義できるものでない以上、文脈や日本でしばしば使われる空気という場の雰囲気に物に従う、と言うことの説明でもあると言って良いのではないだろうか。これは、別途、おそらく、将来書くつもりである「小林秀雄『本居宣長』メモ」などで詳細に説明しなければならないだろう。

しかし、そう結論を急がず、ここでは、やはり、ベルクソンの『科学的思考』に安易に陥らない、優れた洞察力と、事実に基づいた明晰な論理的思考の双方の卓抜さを賞賛すべきであろう。)

さて、テキストに従い仮説の検証を進めていこう。

『聴覚的早期を無傷のまま保持した言語聾について、いくつかの症例が知られている。患者は語の音響的想起も聴覚的想起も元のままに保持していた。しかしながら、患者は発音されるのを聞いているどの語も再認することはない。ここでは、大脳皮質下の損傷が想定されており、それによって、音響的諸印象は、聴覚による言葉のイマージュをそれがおかれているだろう皮質の諸中枢の中に再び見つけに行くのを妨げられている。』 (p.153 13行目-p.154 1行目)

提起された問題に対してのこの実例(実は、このような音響的想起を保持したままの、言語聾はまれな例なのだと言うが)も、テキスト中の詳細な検証を省いて結論だけを言えば、つまりは、『運動図式』仮説で説明できる。

従って、『われわれの仮説が脳内局所化についての周知の事実によって検証されるのか、それとも破棄されるのかを、われわれは探求しなければならない。』(p.143 13行目-15行目)と言う理由で始まったこの一連の検証作業における最後の疑問、『残るは、この種の身体的随伴がどうして生じうるのか、そしてそれは実際つねに生じているのかどうかを知ることにある。』(p.151 8行目-9行目)と言う疑問は、意識の前段階を『運動の知性』を使って正確に処理する事を目的とし、正常ならば常に行われているという結論になるだろう。

次の段落(p.155 11行目-p.156 5行目)は、この節最後の段落になる。

さて、この段落では、まずベルクソンはこういうことを強調している。『すべての事実は、音をバラバラにして音の図式を打ち立てる運動傾向の存在を一致して証明している。』(p.155 14行目-15行目)

ベルクソンがまず言いたいのは、つまりは、このようなある種の『初歩的な知性』があるからこそ、例えば、『異なった声の響きを持ち、異なる音程で発音された相似た発語を一括して同定し、ひいては、同じ図式でそれらの発語を跡づける』ということができるのである、ということだ。(p.155 15行目−p.156 2行目をまとめた)

『これらは意志と自動運動のあいだの境界を示している。反復と再認というこれらの内的運動は意識的な注意の前奏曲のようなものである。』 (p.156 2行目-3行目)

さて、ここまで、まず、『第一に自動的な感覚-運動図式』についてを説明してきた。次の節(『想起の現実化』、前述(p.146 2行目-3行目)では『第二にイマージュ想起の能動的でいわば離心的な投影』に対応する)へ進む前に、この節の最後を引用したい。

『これらによってわれわれが予感させたように、知的な再認の特徴的な諸現象が準備され、決定されるのである。それにしても、十全たる自覚にいたったこの完全な再認とは何だろうか。』(p.156 3行目-5行目)