ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2012年4月11日水曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その6 第六節 諸観念の連合


ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その6 第六節 諸観念の連合

ここでは、第六節『諸観念の連合』(p.232 13行目‐p.238 13行目)を見ていきます。

では、最初の段落(p.232 14行目‐16行目)を見てみよう。ごく短い段落なので、解説のためにすべて引用する。

『劣った心的生についてのこのような考え方から、諸観念の連合の諸法則が演繹される。しかし、この点を掘り下げるに先立って、連合についての一般的な諸理論の不十分さを示そう。』

この段落は、これからのこの説の内容を簡単に示している。つまり、『諸観念の連合』について、『一般的な諸理論の不十分さ』を考えた後に、本題の『諸観念の連合』を考えると言っているようだ。その際に最終的には『劣った心的生』からその『諸観念の連合の諸法則』は演繹できると言っている。

(2012/04/06筆者注 上段落は二つに分けていたものを一つにした。)

ここで、『劣った心的生』というのは、前節の最後の段落つまりこの前の段落のp.231 6行目‐11行目がそれに相当するだろう。簡単にまとめるなら、図5の平面ABと点Sの両端、言い換えれば、知覚とはまったく関係をもたないすべての『私の数々の想起』(p.231 2行目)と『現在の知覚』(p.231 1行目)の両極端の『心的生』といえるだろう。この二つによって『諸観念の連合の諸法則』が演繹できる、とベルクソンはこの段落で、まず最初に宣言しているのだ。

(2011/7/5筆者注 この段落では図4を図5へ修正、一部表現を修正、他にも若干の検討の余地あり)


では、次の段落(p.233 1行目‐17行目)を見よう。ここで、先に見た通り『諸観念』の『連合についての一般的な諸理論の不十分さ』が示されるはずだ。

この段落の最初を少し長めに引用しよう。

『精神に生じるすべての観念が、以前の心的状態と類似あるいは隣接の関係を持っていることには異論の余地はない。しかし、この種の主張は連合の機構についてわれわれに情報を与えはしないし、そのうえ実を言うと、われわれにまったく何も教えてはくれない。』(p.233 1行目‐3行目)

ここにあえて、解釈を付け加える必要はないが、次の一文についってのつながりを考えると、少しまとめておく方がいいだろうと思う。要するに『精神に生じるすべての観念が、以前の心的状態と類似あるいは隣接の関係を持っていること』はあんまり当たり前なのでそのこと自体にはこれ以上引き出す情報はない。ここからしばらくこの事が検証されるだろう、と書いてあると思って良いようだ。

したがって、この段落では次に、まず、類似も隣接も全くないような二つの観念を探しても無駄(p.233 3行目‐5行目)と結論づけてから、類似と隣接について考察が行われている。

類似については、p.233 5行目‐7行目で触れられている。

『二つのイマージュを隔てている差異がどれほど根本的であろうとも、十分に遡るなら、それが所属する共通の項、したがってそれらに連結符として役立つ類似が常に見出だされるだろう。』

(2012/04/07筆者注、下段落はテキストにをより意識した内容に書き換えた。書き換え後は3つの段落に別れている)

『イマージュ』は目で見たり触れたりすることのできるもの、この書の冒頭では『私が感覚を開けば知覚され、閉じれば知覚されなくなるような、最も漠然とした意味でのイマージュ』(p.8 5行目‐6行目)という定義であった。以下、

『これらのイマージュはその要素的部分においても、私が自然の諸法則と呼ぶところの一定の法則に従って、互いに作用と反作用を及ぼし合っており、これらの法則が知悉<ちしつ>されるなら、おそらく、おのおののイマージュのなかで何が生じているかを計算し、予見することができるだろう』(p.8 6行目‐9行目、<>内テキストふりがな)

と続くのであるから、元素までさかのぼれば、あるいは、そこでは、例えば生物と非生物との境が曖昧であるように、どこかに共通の部分が出てくるに違いないという指摘をしているのだろう。

『今度は隣接を検討してみよう』(p.233 8行目)とベルクソンは続ける。

(2012/04/10筆者注 下段落は『類似』と『隣接』を混同していたために修正した。読者の皆様には改めてお詫びいたします。また、『隣接』の概念の註記も補足)

ここはまとめよう。われわれの観念において、イマージュAとイマージュBが『隣接』しているとする。そのとき、知覚によってイマージュAの表象A'が得られたとき、A'とイマージュBの『隣接』も『類似』の働きによって説明できる。すなわち、イマージュAの知覚による表象A'は『類似』と記憶の働きによってわれわれはイマージュAと判断できれば、イマージュAとイマージュBはわれわれの観念において『隣接』しているわけであるから、A'はすなわちイマージュBとの『隣接』の関係であるということが再び打ち立てられるのは当然のこととなる。

註記しておくと、『隣接』の定義がここまで出てきていないが、この節最後まで見てみると、例えば「信号機」という一種の連合観念において、「青」と「赤」という観念は互いに『隣接』していると見なせるような関係だと思われる。

(2012/05/15 以下 『隣接』がデビッド・ヒュームの「人性論」においての「近接」という概念であろうことと、そこで「近接」という概念がどのように考えられているかについての説明の部分を補足)

最初に観念連合論を唱えたイギリスの哲学者ディビッド・ヒューム(Wikipedia: http://ja.m.wikipedia.org/wiki/デイヴィッド・ヒューム)の著作「人性論」において、「近接(隣接)」という概念の使われ方を実際に見てみると、まず、第一章第四節「観念の結合もしくは連合について」の第二段落に、観念の連合の種類を大まかに「類似」、「近接」、「因果関係」にわけて説明している部分がある。短い段落なのでそのまま引用すると、

『このような連合を生じさせ、心をこのような仕方で一つの観念から別の観念へと移させる性質に三つのものがある。すなわち、「類似」、時間的もしくは場所的「近接」、そして「原因と結果」である』(参照テキスト 中央公論社 世界の名著シリーズ 巻27 土岐邦夫訳)

(※引用文中に「」が用いられているので、引用文には『』を用いた)

これらの概念がどのように用いられているは本題から大きく外れるので詳しく説明しないが、しかし、ここで問題になっている『隣接』という概念はヒュームの人性論にある『近接』であろうし、『時間的もしくは場所的』に近いところにある観念同士の結びつきを表しているということは、上記引用文からだけでも容易に理解することができるであろう。

(2012/04/07筆者注 下の段落を追加)

このように、この段落は、節の初めに述べられていたように、あるいはこの段落初めにあった、

『精神に生じるすべての観念が、以前の心的状態と類似あるいは隣接の関係を持っていることには異論の余地はない。しかし、この種の主張は連合の機構についてわれわれに情報を与えはしないし、そのうえ実を言うと、われわれにまったく何も教えてはくれない。』(p.233 1行目‐3行目)

という、観念連合に対する批判とベルクソンの主張の大枠を説明して終わる。(筆者註 以下の数段落段落ではこの主張が音楽の主題が展開されていくかのごとく繰り返しながらより詳しくなっていく。)


次の段落(p.234 1行目‐p.235 17行目)を見てみよう。

この段落は、まずこう始まる。

『本当の問題は、そのすべてが何らかの側面で現在の知覚と類似している無数の想起のあいだで選択がどのように行われているのか、そしてなぜそれらのうちのただひとつだけが、—あちらよりむしろこちらが— 意識の光に照らされて浮かび出るかを知ることである』(p.234 1行目‐4行目)

と、今度は『類似』と『隣接』の問題の本質的な点を指摘した上で、それまでの観念連合論の問題点の検討に再び戻る。

(2012/04/07筆者注 上の文前半では、「『観念連合』の問題の本質」と説明していた部分を、「『類似』と『隣接』の問題の本質的な点」と改めた。)

まず、それまでの観念連合論では、このベルクソンが指摘した知覚と記憶における、あるイマージュの特定のしくみがどうなってるかが説明できないと指摘し、その事を古代ギリシアの哲学者エピクロスの自然思想(Wikipediaの以下の記事を参照のこと:http://ja.wikipedia.org/wiki/エピクロス#.E5.AD.A6.E8.AA.AC)を引き合いに出して、次のように表現している。

『なぜなら、観念連合論は、諸観念やイマージュを、エピクロスの原子のように内的空間のなかを漂い、偶然がそれらを引力圏内に運んでくるときに互いに接近し衝突する自存的実体<実体にアンチテというフリガナあり>へと仕立て上げたからだ』(p.234 4行目‐7行目)

これを言い換えれば、個々のイマージュや観念が我々の脳のなかあらかじめある種の原子のような実体として存在して、知覚という偶然によって観念の連合となると言っているのだろう。

さらに、

『この点で観念連合論の学説を掘り下げるなら、』(p.234 7行目)と続け、その問題点がどこにあるかを指摘している。

(2012/04/07筆者注 上の文は二つに分けていたものを一つにした)

『この点で観念連合論の学説を掘り下げるなら、その間違いが、諸観念をあまりに<知性化>しすぎたこと、諸観念に全く思弁的な役割を割り当てたこと、諸観念がわれわれにとってではなくそれ自身にとって現実存在すると信じたこと、諸観念が意欲の活動に対して有している関係を見誤ったことにあるがわかるだろう』(p.234 7行目‐10行目:<>内はテキスト傍点付き)

(2012/04/07筆者注 下段落は一部(「草食動物云々」の)説明を追加した。)

いずれも、前節『一般観念と記憶』でのベルクソンの説とそれまでの諸観念を『自存的実体』と考える説を比較したとき現れる考え方の違いである。最後の『諸観念が意欲の活動に対して有している関係』というのがやや分かりにくいが、『意欲の活動』は『類似』を見分ける元となっており(例えば、p.226 17行目‐p.227 11行目の草食動物が食物となる牧草を見分ける例)、さらには類似が記憶と悟性によって二重性を持つというところ、例えば、一部その部分の説明を引用するなら、

『記憶は自然発生的に抽象された類似に区別を付け加え、悟性は数々の類似についての習慣から一般性についての明晰な観念を引き出す』(p.229 15行目‐16行目)

などと説明された部分が相当すると思われる。

また、こうした観念だけではなく知覚とそれに類似した想起との結びつきに対する説明も従来の観念連合論はできないと指摘する(p.234 10行目‐15行目)。その部分を簡単にまとめると、『惰性的で無気力な意識』とそこを漂うだけの『数々の想起』が『知覚』と結びつく理由が説明されていない、というのである。従って観念同士が結びつく『出会い(rencontre)』も一般化できないし、もちろん類似についても説明されえない。

(2012/04/07筆者注 上段落、『出会い(rencontre)』についての説明を改めた)

そういうわけで、この段落は次のような結論をもって終わっている。

『—このことは結局、意識の諸状態が互いに親和力(affinités)を持っているのを漠然と認識することに帰着する。』(P.234 14行目‐15行目)


では、次の段落(p.234 16行目‐p.235 17行目)を見てみよう。

この段落では、まず前段落を引き継いで、従来までの観念連合論が独立した観念同士が結び付くのかを説明できない、という批判で始まる。最初の行を見よう。

『しかし、隣接と類似という二重の形をとるこの親和力について、観念連合論はいかなる説明も呈示することができない』(p.234 16行目‐17行目)

この段落の前半(~p.235 7行目)までは、延々と同じことをいっているにすぎないので最後の部分を引用し残りは省略する。

『実際、仮定からして自己充足している一つのイマージュが、それと類似したものであれ、どうして他のイマージュをみずからに付け加えようとするのか』(p.235 5行目‐7行目)

このあとのベルクソンの主張を要約すれば、まず、この『自存的イマージュ』というのは、後付けの理屈にすぎない。実際のところは『イマージュ』が何かと判別する前に『類似』を『知覚』している。また『諸部分の複合体』の判別の際には、まず、『全体』を認識したのち、『諸部分』を判別している。(p.234 8行目‐10行目を要約)つまりは、

『われわれは、類似から類似している諸対象へ進むのであり、類似という共通の布地の上に多用な個体的差異を刺繍するのである』(p.235 10行目‐12行目)

そして、この後『分解』のはたらきで、『諸部分』を『知覚』していく。

以下、この段落はすべて引用して終わろう。どうまとめるかを悩んだのだが、名文なので私の下手な文章よりは読者諸氏には遙かに有益だ。

『この分解の法則は、もっと後で見ることになるだろうが、実生活の最大の便利さのために、現実的なものの連続性を細分化することに存する。連合はそれゆえ始原的な事実ではない。われわれは分離から始めるのであり、あらゆる想起が他の想起をみずからに加えようとする傾向は、知覚の不可分な統一性への自然な回帰によって説明されるのである。』(p.235 13行目‐17行目)


では、次の段落(p.236 1行目‐p.237 13行目)を見よう。

『ところで、われわれはここで観念連合の根本的な欠陥を発見する。』と始まるこの段落において何が記述されるか。

あまり難しくないと思うので、しばらく(p.236 1行目‐13行目)要約すると、次のようになるだろう。

ここまで、『諸観念の連合』についての説明には二種類あった。一つ目は、観念やイマージュが『エピクロスの原子』のように『心理学原子』として脳の中にあらかじめ存在しており偶然によって連合されていく従来までの『観念連合論』。もう一つは、ベルクソンたちの唱える、たとえば、前段落の後半部分(p.235 9行目‐17行目)で見た、自覚する前に判明する知覚したものの総体の類似から『分解』の働きにより各部分の類似へ進み、『あらゆる想起が他の想起を自らに加えようとする傾向は、知覚への不可分な統一性への自然な回帰によって説明される』という説である。(ここまで、p.236 1行目‐6行目までを要約)

(2012/04/09筆者注 上段落の最後の部分の説明は間違っていたので改めた)

実は、この第二の説は、『再認についてのわれわれの理論』中で説明したものであるという。

少し面倒だが『再認』についての理論を振り返る。p.100から始まる第二章第一節『記憶の二つの形式』間で振り返ることになる。ここの節では、簡単な要約があり次節『運動と想起』(p.118 14行目‐p.131 13行目)が『再認』について詳しく説明した部分となる。

ここでは関連しているところだけ抜粋しながら簡単に説明しよう。テキストを持っている方は再読されんことを。

さて、まず、何かを『再認』するということは、現在の『知覚』と『想起』が『類似』していなければ『再認』できない、ということは誰にでもわかるだろう。

以下、少し長いが重要な部分を引用しよう。

『今回前提とされているのは、現在の知覚が、記憶の奥底に、現在の知覚と類似している以前の知覚の想起をつねに探しに行くと言うことであり、その場合、「既視感」の感情は、知覚と想起との並置あるいは融合によって生じるだろう。深淵にも指摘されたように(12)、類似はおそらく、精神が接近させ、それゆえすでに所有している諸項のあいだに、精神によって確立された関係であって、したがって、類似の知覚は連合の原因と言うよりはむしろその結果である。しかし、精神によって把持され引き出された一要素を共有することのうちに存する、この知覚された類似とは別に、漠然とした、いわば客観的な類似があって、この類似はイマージュそのものの表面に広がり、相互索引の物理的原因のごときものとして作用しうる(13)』(p.120 1行目‐10行目、引用文中の()内の数字は文献番号)

この部分の説明は繰り返さないが、ここまで読んできていただいた読者諸氏なら比較的容易に理解していただけるはずだ。

これが『再認についてのわれわれの理論』(p.236 6行目)に相当する部分だと思っていいだろう。

(2012/04/11筆者注 二段落削除。それに伴って下の段落も冗長な部分を削除)

次に、『われわれは、われわれの人格全体が、われわれの想起の全体と共に、不可分のままわれわれの現在の知覚にのなかに入っていると想定した。』(p.236 7行目‐8行目)とあるが、これは、具体的にはp.216 7行目‐p.219 5行目に記述されている、『知覚』をすでに過去としたときに、ただの情報でしかない『イマージュ記憶』が、『運動図式』とも表現される『純粋想起(記憶)』が元になった『感覚-運動的』な物質に働きかける力を使って物質世界に働きかけるという形で統合されることを言っているのであろう。例えば、そのあとp.219 6行目‐p.220 3行目までの段落には『「見事に調和のとれた」(bien équilibrés)精神』や「行動の人」、「衝動的な人」、「夢見る人」、「良識」、「実践感覚」などの記述が見られる。(図4も参照のこと)

(2012/04/10筆者注 純粋想起も基本的にただの情報であることは、特に第二章において主張された。しかし、第三章では、特に知覚とイマージュ想起の違いを強調するためにイマージュ記憶が単なる情報であることがことさらに言われる傾向にある。ここでも、その傾向に従っている。)

さらに、このあと(p.236 8行目‐13行目)は、ここでは、その前の文で、『われわれの人格全体が、われわれの想起全体と共に、そのままわれわれの知覚の中に入って来ると想定した』という記述を受けて、その時、同じような知覚がそのときどきで違う『想起』に結び付くのは、知覚された情報の微妙な差異によるのではなく、『われわれの意識の膨張でによってであり』、『そのとき、われわれの意識全体は、より広大な表面上に広がりながら、意識の豊かさについての詳細な目録より詳細なものとなからしめることができる。』(p.236 11行目‐13行目)と指摘する。すなわちそれは、『それは、漠たる星団が、益々強力になっていく望遠鏡で見られることで、益々多くの星々へ変わるようなものだ。』(p.236 13行目‐14行目)と、ベルクソンは言うのである。

(2012/04/08筆者注 「第二章で説明した云々」の記述は、ここでは必ずしも当たらないので削除)

このあと(p.236 14行目‐p.237 6行目)では、第一の仮説、すなわち、『諸観念やイマージュを、エピクロスの原子のように内的空間を漂い、偶然がそれらを互いに引力圏内に運んでくるときに互いに接近し衝突する自存的実体<アンチテ>と仕立て上げた』(p.234 4行目‐7行目:<>内はテキストふりがな)、『観念連合論』についての批判がされる。ここも難しくないので、ここでは、この批判の中核部分だけを引用することにしたい。

『各々の想起は一つの自存的で凝固した存在を構成しているのだが、なぜ、このような存在としての想起がなぜ他の想起をみずからに加えようとするのかということも、いかにしてこの想起が、等しい権利を有しているはずの数多くの想起から、隣接あるいは類似によってそれらと連合するために、ある想起を選択するのかということも語ることはできない』(p.236 16行目‐p.237 3行目)

このあと、この段落の最後まで(p.237 6行目‐13行目)は、上記『観念連合論』(第一の仮説)に対してのベルクソン達の説の正当さが主張されることになる。

(2012/04/08筆者注 上記段落の表現を改めた)

まず、

『第二の仮説においては、心理学的諸事実の連帯を認めるところで踏み止まるのであって、それらの心理学的事実は常に一括して直接的意識に与えられ、反省だけがそれを個々に分断するのだ。』(p.237 6行目‐8行目)

この部分は、『心理学的諸事実の連帯を認めるところで踏み止まるのであって、それらの心理学的事実は常に一括して直接的意識に与えられ、』を一つのまとまりとして読むべきで、つまり、『知覚』から与えられる『心理学的諸事実』は、個々の『観念』に分断されることなく、『連帯を認め』るがまま『一括して直接的意識に与え』られる、と部分的には言い換えることができるだろう。

このあとは、こう続き、この段落の結びへと向かう。それらは、そのまま引用しようと思うが、読みやすさを考慮して二つに分けてみる。

『その時説明しなければならないのは、もはや内的な団結ではなく収縮と膨張という二重の運動であり、この運動によってその内容を展開したり、抑えたりしている。』(p.237 8行目‐10行目)

『しかしこの運動は、われわれがこれから見るように、生の根本的必要性から演繹されるのであり、こうして、なぜわれわれが、この運動に沿って形成するように思われる諸「連合」が隣接と類似の継起的諸段階のすべてを使い尽くすのかも容易に分かるだろう。』(p.237 10行目‐13行目)


次の段落(p.237 14行目‐p.238 13行目)を見よう。

ここからあとは、前段落最後の記述、すなわち、『諸「連合」が』『生の根本的必要性から演繹される』ところの『(純粋)記憶』(この部分筆者補足)の『収縮と膨張』について、あるいはその『運動』が『隣接と類似の継起的諸段階のすべてを使い尽くす』理由ということが説明されるであろう。

(2012/04/08筆者注 上段落を挿入、2012/04/10 一部表現を見直した)

(筆者註 上の問題は実はかなり大きな問題であり、実際にはこの段落以降、次節で一旦まとめられた後、そのあとの節においても、このことからさまざまなわれわれの精神活動の側面を説明している(あるいはこの説を補足・補強している))

はじめは引用しよう。引用文中にある『われわれが描いた図式的な図形(二百三十二頁)』とは図5のことである。

『では実際、われわれの心理学的生が感覚-運動性の諸機能だけに還元されたとしばし想定してみよう。言い換えれば、われわれが描いた図式的な図形(二百三十二頁)のなかで、われわれの心的生の可能な限りの最大の単純化に対応する点Sに身をおいてみよう。』(p.237 14行目‐16行目)

少しだけ振り返ってみれば、以前、第三節の解説において、ケーキとクリーム絞り器の例で説明したことがある。円錐SABの中にあるのはすでに知覚された情報であり、すなわち、想起である。点Sはクリーム絞り器の口金であり、現在の世界平面Pに相当するケーキ表面をクリーム(想起)を使って飾って(変化させて)いく。

その時の図4の解説(p.217 17行目‐p.218 8行目が相当)では、円錐SABは『私の記憶のなかに蓄積された想起全体』を表し、点Sは『私の身体のイマージュ』、点Sと接する平面Pは『私の現在の表象』言い換えれば現在の宇宙全体の表象とある

(2012/04/10筆者注 上段落は一部表現を改めた。また、図4の平面ABについては特に触れられていなかったが、その前後の文章等から考えるとイマージュ想起(たとえば『真の記憶』(p.218 10行目))ではないかと思われる)

これが図5を用いた説明の部分(p.230 16行目‐p.232 12行目)では、点Sは、『私の身体』はつまりは『ある感覚-運動的均衡』(p.231 1行目)と表現される。

さて、そこで、なぜ、点Sが『われわれの心的生の最大の単純化に対応する』のだろうか。

続きを見ると、

『この状態において、どんな知覚もおのずから適切な諸反応へ引き伸ばされる。なぜなら、以前の類似した諸感覚が多かれ少なかれ複雑な運動装置を作り上げており、それらの運動装置は、作動するために、おなじ呼び掛け(appel)の反復だけを待ち構えているからだ。』(p.237 16行目‐p.238 2行目)

とある。要するにすでに出来上がっている『感覚-運動性の諸機能』言い換えれば『運動図式』に従って、知覚されたばかりの諸感覚に反応した行動をとっているだけと言えるからだろう。

残りの部分は、この『最大に単純化』された『われわれの心的生』から、『類似による観念の連合』と『隣接による観念の連合』が端的に説明され、それが有機生命体にとって普遍的なものであるという事をベルクソンは説明する。少しまとめながら見てみよう。

前の文章を受けて、『この機構』、すなわち『感覚-運動性の諸機能』とも言えるのだろうが、それは、『現在の知覚が過去の諸知覚との相似によって作用する』(p.238 3行目‐4行目)ために、そこには『<類似による連合>が』まず存在すると言えるだろう。また、『以前の知覚に直接的に後続する諸運動が再現される』(p.238 4行目‐5行目)ことや、それら後続する運動がさらには、『最初の運動と連繋した無数の諸運動をあとに引きずることさえありうる』(p.238 5行目‐6行目)といった理由から『<隣接による連合>』(p.238 4行目、<>内はテキスト傍点つき)も存在すると説明される。

『それゆえ、われわれはここで、類似による連合と隣接による連合を、それらのまさに起源において、そして両者をほとんど一緒に混ぜ合わせながら、 —おそらく思考されたものではまったくなく、演じられ生きられたものとして— 捉えているのである』(p.238 6行目‐9行目)

つぎは、いよいよこの段落の締めであり、もっぱら『劣った心的生』(あるいは『純粋記憶(想起)』)に焦点を当てることで、『諸観念の連合の諸法則が演繹されうる』(p.232 14行目)として始まったこの節の締めにかかる。

(筆者註 この段落の初めの註記にも記したように、初めのテーマであった「『諸「連合」が』『生の根本的必要性から演繹される』ところの『(純粋)記憶』(この部分筆者補足)の『収縮と膨張』について、あるいはその『運動』が『隣接と類似の継起的諸段階のすべてを使い尽くす』理由」の説明は、この節では、まず、図5でいう点Sすなわち、『われわれの心的生の最大の単純化に対応する』部分の説明のみでいったん終了している。残りの部分は次節以降に持ち越されている。)

『それらはわれわれの心理学的生の偶然的形態ではない。それらはどんな有機体もが有する同一の根本的傾向の二つの相補的な様相であって、その傾向とは、与えられた状況からそれが持っている有益なものを抽出することであり、また、たまたま生じた反応を、同じ種類の諸状況のためにそれを役立たせるために、運動的習慣の形で蓄えることである。』(p.238 9行目‐13行目)







(2012/04/11筆者メモ ベルクソンのこの著作での傾向として、段落ごとにテーマを決めてきちんとまとめている一方、節はそのような形ではまとめられておらず、あるテーマの記述が次節の初めの部分に述べられることは多い。おそらく、そのように意識的にしているものと思われる)