ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2012年1月6日金曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その0 第3章の前置き (mixi:2010年04月10日)



ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その0 第3章の前置き
(mixi:2010年04月10日)

ここからは、第三章 『イマージュの残存について - 記憶と精神』(p.189−p.254)について述べていくことになる。これはその前置きとなる。

ここでいったん、少しだけ第一章を再び振り返ってみよう。

「ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その0 まえおき」(リンク先:http://etsurohonda.blogspot.com/2010/01/3mixi-20090719.html)で、第一章を簡単にまとめた。

この記事の最後に私はこのように書いている。

「さて、この後、続く第二章、第三章についての内容をベルクソンの言うところの『第三の形式』という言い方でに従って、改めて端的に説明すると、第二章については前半の『精神生理学の方へと心理学を凌駕』する方について説明し、第三章については後半の『形而上学へとはみ出す』ことについて詳しく述べられる、と言うことになる。」

上記、ベルクソンの言う『第三の形式』とはなんだったのか?これは、『唯物論』(あるいは『実在論』)でもなく『唯心論』(あるいは『観念論』)でもない、という意味の『第三』なのであって、たとえば、上出の記事には、第一章の節『記憶の問題への移行』からこのような部分の引用をしている

『純粋知覚は、物質の本性に関する指示をわれわれに与えることで、実在論と観念論の中間の立場をわれわれが採ることを可能にするに違いないのだが、それに対して純粋記憶は、精神と呼ばれるものへの見通しをわれわれに開くことで、今度は、唯物論と唯心論という別の二つの学説にも裁決を下すに違いないだろう。以下に続く二つの章のなかで、われわれが専心することになるのは、まさに問いのこの側面である。なぜなら、まさにこの側面を経ることで、われわれの仮説はいわば実験的な検証を伴うことになるからだ』(p.89 3行目-8行目)

あるいは、この部分も引用しているのだが見て頂こうか。

『物質は、(中略)認識の基盤ではなく、行動の伝達手段であるということを積極的に確立することができれば、われわれが支持する主張は、最もそれに不利なものと判断される例に基づいて証明されることになるだろうし、精神を独立した実在に仕立て上げる必要性が課せられるだろう。しかし、まさにそれによって、精神と呼ばれるものの本性並びに、精神と物質が働きかける可能性がおそらく部分的に解明されるだろう』(p.93 5-11行目)

つまり、『物質』と『精神』の架け橋である『記憶』を調べる事、それによってベルクソンの『第三の形式』である仮説が描かれるというわけであった。

更に見ていけば、第一章の最終節『物質と記憶』の最初の部分

『しかし、われわれは、この同じ考えをさらに第三の形式で示す事で、どうしてわれわれの目には記憶の問題が一つの特権的な問題と映るのかということをまさに明らかにしなければならない。』(p.94 5行目−7行目)

『純粋知覚についてのわれわれの分析から生じることは、いわば分岐した二つの結論であって、その一方は精神生理学の方へと心理学を凌駕し、もう一方は形而上学の方へとはみ出すので、結局はそのどちらも直接的な実証を含まない』(p.94 7行目−9行目)

を見て頂きたい。

上述の記事にはこの下の引用を使ってこのように記述している

「まず、純粋知覚を仮定することによって得られる結論は、『いわば分岐した二つの結論であって、その一方は精神生理学の方へと心理学を凌駕し、もう一方は形而上学へとはみ出すので、結局はそのどちらも直接的な実証を含まない。』(p.94 7行目-9行目)」

という事だった。この『純粋知覚』のみから得られる二つの結論に対し、

『ここでもまた、想起についての研究はこれら二つの仮説を採決することができるだろう』(p.96 1行目−2行目)

あるいは、

『したがって、記憶の問題は、それが、いずれも実証不能にみえる二つの主張[二つの結論]の心理学的実証に導くはずだという点でまさしく真に特権的な問題なのだ。ただ、第二の主張[第二の結論]のほうはどちらかと言えば形而上学的な秩序に即するもので、心理学を無限にはみ出しているように思えるだろうが。』(p.96 8行目−10行目)

とある。したがって、『記憶』の問題を検証するのであるが、初めに書いたように、第二章では、『精神生理学の方へと心理学を凌駕する』結論の検証、この第三章では、『形而上学へとはみ出す』結論の検証と考えて良いだろう。

(2012年1月6日筆者注:以上、第一章を振り返る部分を新たに挿入)


さて、第二章では、主に、失語症の具体的な症例を取り上げて、ベルクソンの主張する『運動図式』仮説について検討してきた。そのまとめについては、「ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 補足」で行っているので、ここでは繰り返さない。

ただし、ベルクソン自身が、この第三章の始めでここまでのまとめという物を書いているので、その部分はあとで解説する。

さらに、少しだけこの章の内容について触れておこうと思う。

この章の副題をみると『記憶と精神』とある。前章、第二章の副題、『記憶と脳』と比較すればわかっていただけると思うが、この章は、『脳』という具体的な『イマージュ』から、『精神』という形のないものについて『記憶』との関係を検討していく章となっている。したがって、ベルクソンの論述にも比較的抽象的な印象を受けることになるだろう。

この章の解説の方針であるが、基本的に節ごとに一つの記事を立てるというやり方にしたいと思っている。節には長い短いもあるが、基本的に長さには関係なく節ごとである。ただし、意味的に前節の詳細な記述というものもある。前章ではそういう入れ子の構造になっていた節もあったので、そのような部分に関しては適宜、場合場合に応じた処理をすることになるだろう。

それでは、最後に、この第三章の始めにベルクソン自身がこれまでのまとめとして記述している部分(p.190 1行目−12行目)を、説明して終わりにしたい。

まず、『われわれは、純粋想起、イマージュ想起、知覚という三つの項を区別した』と言っている。(図2(p.191)を参照)しかし、それぞれ孤立してはいない。

まず、知覚であるが、従って『知覚は、精神と現在の対象の単なる接触では決してない。』(p.190 3行目)それは、『イマージュ中枢』(あるとすればだが)においては、過去の記憶(イマージュ想起)によって再構成されるようなものである。これをベルクソンは『知覚には、それを解釈しながら補完する数々のイマージュ想起が全面的に浸透している』(p.190 3行目−4行目)という言い方をしている。

次に、イマージュ想起であるが、これは二つの性質があるという。

『イマージュ想起それ自体はというと、イマージュ想起が物質化し始めるところの「純粋想起」と、イマージュ想起がそこへ受肉するのを目指すところの知覚の双方の性質を帯びている』(p.190 4行目−6行目)

そして、この後者の方の性質から見ると、『イマージュ想起は生まれつつある知覚と定義されるだろう』(p.190 6行目−7行目)というベルクソン独特な解説をしている。これまでの論調からふつうに考えると、知覚がイマージュ記憶になるのだが、ベルクソンは逆に、イマージュ記憶はわれわれの脳の中では、『注意』することによって、『生まれつつある知覚』となる、と言っているのである。

『最後に、純粋想起は、権利的にはおそらく独立しているのだが、純粋想起を現像する色鮮やかで生き生きとしたイマージュのなかでしか、通常は現れることはない』(p.190 7行目−9行目)

と、残る『純粋想起』について解説しているのだが、これが実はわかったようでわからない言い回しなのだ。どういうことか。問題は『イマージュのなか』という言い回しである。このイマージュとは何か。われわれの脳なのか?まぎらわしいが『イマージュ想起』ではない、すくなくても、『イマージュ想起』だけではないだろう。この『生き生きとしたイマージュ』という表現の中にはわれわれの脳にある『運動図式』つまりは『純粋想起』が中にあるイマージュということだろう。持って回った言い方をしたが、おそらくこの『生き生きとしたイマージュ』とは、われわれ生きている健康な人間を指している。

要するに、『純粋想起』は記憶が脳の中で物質化されたものであるが、それだけではなんの役にも立たない。健康な生きている人間という『生き生きとしたイマージュ』がないとなんの意味もないある種の記録にすぎない、また、そもそも、その『純粋想起』自体も発生しないだろう、という意味だいうことだ。

さて、残りの部分であるが、これらは厳密には区別できないということが述べられている。このことは特に取り上げて詳細に説明することもないと思う。

以上で、この第三章の解説を始めるにおいての前置きを終了したい。