ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2010年1月17日日曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その0 まえおき(mixi: 2009年07月19日 )

今回からしばらく、記事『ベルクソン「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起』の「その0」から「その3」まででは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」の「第二章 イマージュの再認 — 記憶と脳について」(p.99-187)内容について考察します。ただし、この「その0」にでは、補足として第一章でなぜ記憶の問題を扱うかについて説明してある部分について取り上げて説明しています。

文章が長く、また内容も高度になっていくのは、テキスト中の議論が詳細になっていくためであり、できるだけわかりやすくとは心がけてはいますが、力が及ばないところもあるもしれません。それについては、お許し願いたい。

さて、前置きが若干長くなったが、まず、なぜベルクソンが記憶について扱うかについて述べてあるところを示しておこう。基本的な部分(これをここでは仮に第一の目的としておく)は、第一章の節『記憶の問題への移行』(p.89-p.94)がそれに相当するだろう。その中から更に要約してみることにする。

現在の一般的に「心脳問題」と呼ばれている問題で、記憶を扱う一般的な理由としては、ベルクソン自身はp.93の2行目でわずかに触れているが、一般的な常識では、『記憶の現象において精神の現象が意識と物質の接点であるという理由』であると、当時から考えられていた、というのがその理由だと言っていいだろう。

その上で、p.93 5-11行を引用すると、
「物質は、(中略)認識の基盤ではなく、行動の伝達手段であるということを積極的に確立することができれば、われわれが支持する主張は、最もそれに不利なものと判断される例に基づいて証明されることになるだろうし、精神を独立した実在に仕立て上げる必要性が課せられるだろう。しかし、まさにそれによって、精神と呼ばれるものの本性並びに、精神と物質が働きかける可能性がおそらく部分的に解明されるだろう」

と言うのである。この部分を私なりに要約すると、物質はあくまで物質でしかない。それは単に行動の基盤である。これをはっきりさせる。一方で、精神を独立して存在することのできる、「独立した実在」とする。そのときに、記憶というものを詳細に検証するこによって「精神と呼ばれるものの本性並びに、精神と物質が互いに働きかける可能性がおそらく部分的に解明されるだろう。」ということになるであろう。

さらに、もうすこしだけ詳しく解説しておく必要があるかもしれない。

まず、前回の記事、『ベルグソン 「物質と記憶」メモ その2 唯心論の検証』では、ベルクソンの仮定する純粋な物理的反応である「純粋知覚」から展開して、それを脳の物理的な反応である「意識的知覚」に置き換えるときに、またその認識の曖昧さが意欲の曖昧さにつながるという主張をした。それは、様々な知覚の手段によって、曖昧な『表象』が物理的現象として脳の「意識的知覚」で発生するからである。これによって『イマージュ』の『表象』は、精神から展開される物ではないと唯心論を否定した。

もっとわかりやすく書いてある部分を引用すると、『諸イマージュにとって、存在することと意識的に知覚されることの間には、単なる程度の相違があるのであって本性の相違があるのではない』(p.39 3行目-5行目)
がそれに相当するだろう。

さて、さらに、ベルクソンはこの「純粋知覚」を想定することにより、唯物論的考え方も否定しているが、その論は複雑だし、省略する。

これらが「純粋知覚」の理論として、記憶の問題を扱う上での前提となってくる。


それでは、記憶の問題の話に戻ろう。

テキストでは、少し戻って節『純粋知覚』(p.80 2行目-p.84 7行目)、および、節『物質の問題への移行』(p.84 8行目-p.88 最終行)をから始めよう。

ここでは、「純粋知覚」と「純粋想起(記憶)」という概念について、ベルクソンの考えてることを少しだけ解説しておけば十分であると考えている。

ベルクソンは、知覚と記憶は本来ならば我々において不可分の物であると説明する。しかし、このことが、実在論と観念論における共通の誤りの根元である、と指摘している。なぜならば、双方において記憶は知覚の弱いものにしかすぎないという誤りがあるからである。

このことは最終的にはこの節の最後の3行目に集約されるので、その部分だけを引用しよう。

『少なくとも以上のことが、本書の最終章で引き出されるのを我々が期待してるところの結論である。主体と対象、それらの区別とそれらの結合に係わる諸問題は、空間に応じてではなくむしろ時間に応じて提出されなければならない。』

これが先に言った一つ目の目的であり、『最終章で導かれることを期待しているところの結論』とあるからにはベルクソンの目指す最終的な目的であるだろう。

さて、さらに、次の節『記憶の問題への移行』(既出)の最初においては、二番目の目的が書かれているので紹介しておこう。

『純粋知覚は、物質の本性に関する指示をわれわれに与えることで、実在論と観念論の中間の立場をわれわれが採ることを可能にするに違いないのだが、それに対して純粋記憶は、精神と呼ばれるものへの見通しをわれわれに開くことで、今度は、唯物論と唯心論という別の二つの学説にも裁決を下すに違いないだろう。以下に続く二つの章のなかで、われわれが専心することになるのは、まさに問いのこの側面である。なぜなら、まさにこの側面をヘることで、われわれの仮説はいわば実験的な検証を伴うことになるからだ』(p.90 3行目-8行目)

つまり、もう一つの目的は、仮説を検証することであり、それは第二章と第三章で行われであろう、と言っている。

この文章は第二章について述べるための前置きであるけれども、少しだけ、「純粋知覚」と「純粋記憶」に関しての図式を第三章から引用しよう。


これは、「知覚」、「純粋想起」、「イマージュ想起」を図式的に書いた図である(p.191 図2)。




さて、さらに、第一章の最終節『物質と記憶』(p.94 4行目-p.97 3行目)の節の始めで、上記の二番目の目的として書かれたことの内容を、ベルクソンは、『第三の形式を示すことで、どうしてわれわれの目には記憶の問題が一つの特権的な問題と映るのかということをまさに明らかにしなければならない』、と言っている。

その部分を要約して紹介しよう。

まず、純粋知覚を仮定することによって得られる結論は、『いわば分岐した二つの結論であって、その一方は精神生理学の方へと心理学を凌駕し、もう一方は形而上学へとはみ出すので、結局はそのどちらも直接的な実証を含まない。』(p.94 7行目-9行目)

始めに、『精神生理学の方へと心理学を凌駕』する方の結論であるが、これは、『純粋知覚』を仮定することにより、『脳は行動の道具であり、表象の道具ではない』と言うことを『第一の結論』としたが、検証はできなかった。これは対象の『イマージュ』を脳という『イマージュ』を『絶対知覚』によって単なる物質としてみたときの、対象の『イマージュ』の脳という物質に投影されるときの曖昧さがあるわけだが、われわれが体験するように、記憶自体の曖昧さもあるので、区別が付かないということによる。つまり、われわれの反応が「純粋知覚」と「純粋記憶(想起)」にきちんと区別が付かない以上、二つの曖昧さの区別も付かない。

しかし、記憶自体を調べることにより、区別が付くようになるだろう、とベルクソンは主張するのである。これは、『純粋想起とは、仮定からして、不在の対象の表象である。』したがって、脳のなかに記憶が全面的に保存されているならば、脳の活動だけで、対象があるのと全く同じ知覚を再現できるだろう。しかし、『何らかの仕方で想起を条件づけてはいるが』、保持していない、あるいは『脳の機構は思い出された知覚のなかでわれわれの表象よりは行動に関係している』ということが分かれば、脳は『知覚のうちの類似の役割を演じ』かつ、その機構は『単に現在の対象に対するわれわれの有効な行動を保証すること』を目的とした単なる『物質』であることが証明される。

次に、『形而上学へとはみ出す』方の結論の検証であるが、これは、『われわれは純粋知覚においてまさしくわれわれの外におかれているのであり、われわれはその時直接的直感において対象の実在にふれるのである』と言い換えられるだろう。

しかし、この説も『純粋知覚』だけでは検証不可能であった。なぜなら、われわれにとっては、『対象の実在が直感によって知覚されたにせよ、理性によって構築されたものにせよ同じもので』区別が付かないからである。言い方を易しくすれば、この説はあるのは外的な現象による知覚も、脳のなかで組み立てられたものも、直感によって直覚するだけであり、あるとしても『程度の相違』だけだろうからである。『知覚と想起はどちらも自足した表象の現象』と言い換えてもいいだろう。

しかし、もし、知覚と想起に、『本性の根本的な相違があるということをわれわれが見出すならば、想起の中には全く存在しない何かを、直感によって把握された一つの実在を知覚の中に介在させる仮説が有利になるような数々の推測がなされるだろう。』

以上が、ベルクソンのいう『記憶が精神の特権的な問題であるとわれわれの目に映る』ところの『第三の形式』による説明となる。

さて、この後、続く第二章、第三章についての内容をベルクソンの言うところの『第三の形式』という言い方でに従って、改めて端的に説明すると、第二章については前半の『精神生理学の方へと心理学を凌駕』する方について説明し、第三章については後半の『形而上学へとはみ出す』ことについて詳しく述べられる、と言うことになる。

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