ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2012年3月17日土曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その4 第四節 過去と現在の関係 (上)



ここでは、第四節『過去と現在の関係』(p.214  10行目-p.223 1行目)を見ていきます。

早速内容を見よう。

最初の段落(p.214 11行目-p.215 11行目)は、前段落を受けてわれわれの過去がどのように保存されているか、という疑問について、このような問いをまず投げかけ、それに対してベルクソンの考えを述べるというやり方で始まる。

『それにしても、仮定からして、存在することをやめた過去が、どうして自分自身によって保存されうるのだろうか。ここには紛れもない矛盾があるのではないだろうか。』(p.214 11行目-12行目)

この、問いを少し解説すれば、

「よろしい。意識が、われわれが寝ているときも働いているものだとしましょう。ふつう常識的な意味の意識とはちがう独特の定義の仕方ですけどね、ベルクソンさん。過去は文字通り過ぎ去ってしまってなくなってしまった訳でしょう?意識は、われわれの現在そのものであって、実は単なる『感覚‐運動的』な活動の結果ですから。では、われわれの過去たるその『純粋想起』という情報とやらは、そもそもどこから作り出されるんですか?ちょっとおかしくないですか?ベルクソンさん」。

という問いかけであろう。

それに対して、ベルクソンの答えは、

『—それに対してわれわれは、問われているのはまさに過去が存在するのをやめたかどうかあるいは過去は単に有益であることをやめたかどうかを知ることではないかと応じる』(p.214 12行目-14行目)

である。常識的には、お話にならない。しかし、われわれはベルクソンの主張をこれまで通り、辛抱強く追っていこう。

まず、こう、ベルクソンは切り出す。

『現在は単に<成るもの>であるのに、あなたは現在を<存在するもの(ce qui est)>と勝手に定義している。あなたが、現在の瞬間ということで、過去を未来から区別する不可分な(limite indivisible)のことを考えているなら、このような現在ほど存在しないものは何もない』(p.214 15行目-p.215 2行目:<>内テキスト傍点付きとイタリック)

現在の物質空間というのは物理法則に支配されているがゆえに、まるで写真のように、瞬間を切り取って把握しているような静止した物質空間というものはどこにもない。物理的空間の現在はつねに一瞬前の過去から因果律たる物理法則よって生成されているとベルクソンは言っているのだろう。

(2011/06/29筆者注 以前は次のような記述であったが正確性に欠けるために変更した。「要するに、あなたは、まだ、現在というものが、物理法則に支配された『物質空間』と同等のものであると考えているからいけないのですよ、とベルクソンはいう。」 )

『そして、われわれがこの現在を、存在しなければならないものと考えているときはまだ存在していない。そして、われわれがこの現在を、現実存在するものと考えているときにはそれは過ぎ去っている』(p.215 2行目-4行目)

(2012/03/02筆者注 一段落削除)

あなたが、だれかが投げたボールをバットで打つ、ということで置き換えて考えればわかりやすいと思う。ボールは動いているのであるから、ボールを打つ瞬間という現在は、数瞬前の未来だ。つまり『われわれがこの現在を、存在しなければならないものと考えているときはまだ存在していない』。ボールを打ったと思った、その瞬間には、ボールはもうバットから離れてしまっているだろう。つまりは、『われわれがこの現在を、現実存在するものと考えているときにはそれは過ぎ去っている』。

『反対にあなたが、具体的で、意識によって実際に生きられている現在を考察するならば、この現在は大部分が直前の過去のうちに存すると言うことができる。』(p.215 4行目-6行目)

ベルクソンの言う通りに意識というものを考えるならば、『この現在』というのは、すべてが実は過去であるということができる。つまり、考え方次第で、現在というものは、数瞬前の未来であったり過去であったりしたけれども、ベルクソンの主張する意識の定義を正しく受け止めれば、『この現在』というのはこのあとに出てくるように『知覚』であり、必ず、数瞬前の過去として扱うことができる、ということになる。

(2012/03/17筆者注 2011/06/29筆者注の文章を削除、また記述をより正確に改めた)

このあと数行略して、そこに書かれている結論から見ていきたい。

『実を言うと、すべての知覚はすでに記憶なのである。』(p.215 10行目)

まず、説明上は、『すでに記憶』というのは『すでに過去』であると言い換えるべきかもしれない。つまり、知覚のどの瞬間であっても微少な反応時間が必要である。そういう意味がある。そして、知覚はイマージュではなく、何らかの信号、それらは情報として脳では扱われるのだから過去であり『すでに記憶』なのだ。

ベルクソンによるこの段落のまとめを見よう。

『<われわれは、実際には、過去しか知覚していない>。純粋な現在は、未来を浸食する過去の捉え難い進展なのである。』(p.215 10行目-11行目)


次の段落(p.215 12行目-p.216 6行目)を見よう。

まず、最初の文を引用しよう。

『意識はそれゆえ、この微光によって直前の過去を普段に照らし出しているのだが、』(p.215 12行目-13行目)

『この部分はというと、未来へと傾けられながら、未来を現実化して未来に加わろうと努力している』(p.215 12行目-13行目)

前段落の最終行を受けてのこの部分は、まず、『直前の過去』というのは『知覚』のことであろう。前段落でも見たように『意識』という形で定義される現在とは、純粋に物理学的な現在であり数学的な点でもある。そこに我々の肉体の物質性も含まれる。そして、この現在たる『意識』とは『行動するものの特徴』(p.202 5行目)にすぎない。従って、『微光』とは、前段落での最後の文にあった『未来を浸食する過去の捉え難い進展』ということであり、『われわれの現実存在(existence)の物質性そのもの』((p.199 2行目−3行目)だろう。それが、『この部分はというと、未来へと傾けられながら、未来を現実化して未来に加わろうと努力している』という表現になっているのだろう。

(2012/03/16筆者注 上の段落は、以前とは全く解釈を改めた。以前は「『意識』が知覚として受け取る『記憶』と『純粋想起』を絶えず結びつけようとする働きを『微光』」と解釈していたが、正確ではないと思われたため)

『不確定な未来を決定することだけに没頭するこことで、意識は、もっと遠い過去の諸状態のうち、われわれの現在の状態、つまり直前の過去と有効に組織されるだろう状態に対してその光を放つことができるだろう。その他のものは不分明なままである。』(p.215 14行目-17行目)

これまでにも繰り返された通り、無意識では、絶え間なく『知覚』情報と『純粋想起』の照会・照合過程は行われるのであるが、その中でも、『知覚』と合致している『純粋想起』によって、『意識』はその『感覚-運動的』な『私の現在』(p.194 1行目)の行動を決定するだろう。しかし、その他の『純粋想起』は意識にはわからないままである、と言っているのだろう。

(2012年3月16日筆者注 上の段落も引き続き解釈を改めた。特に、「『意識』は結果としてある程度の長さの未来も予測できるだろう。」の部分が余計と思われたため)

『一つの行動法則に他ならない生の根本法則のおかげで、われわれはまさにわれわれの歴史のこの分明な部分のなかに位置づけられたままなのだ。』(p.215 17行目-p.216 1行目)

これは、要するにこれまで述べてきたように『物理空間』に於いては物理法則が適用されるために、われわれの『純粋想起』は、その記憶が構成された日時とはまったく無関係に、『意識』という現象のために『無意識』のなかで照会・照合の為に使われる。このことを、ベルクソンは『生の根本法則』と言い、『意識』は、分明のなかにあると強調ししている。これは言い換えれば『感覚-運動的』なわれわれの生の根本原則とも言って良いだろう。

さて、そのことによって、

『闇の中に保存された想起なるものを思い描く際ににわれわれの感じる困難が生じる』(p.216 1行目-2行目)

と述べ、更にこう続ける。

『過去の全面的な残存を認めることに対するわれわれの嫌悪は、それゆえ、われわれの心的生の方位そのもの、諸状態の紛れもない進展に由来するするのだが、』(p.216 2行目-4行目)

『これらの状態においてわれわれは、完全に展開されたものではなく、展開されつつあるものにまなざしを向ける方が得なのである』(p.216 4行目-5行目)

これら引用文の前半部分は、要するにわれわれの『意識』は、『感覚-運動的』であることを特徴としているので、と言い換えても良いであろう。つまり、何かの『知覚』をきっかけにそれに合致した『純粋想起』によってその部分の未来は予測可能であると言うことが絶えずわれわれには生じているわけだから、『無意識』や合致しない部分の『不分明』な『純粋想起』に対してまなざしを向けることは、難しく、意味があることとは思えないようにわれわれはできている、ということだろう。それが、結果として『無意識』に対する『嫌悪感』なのであるとベルクソンは主張しているのだ。

(2012/03/03筆者注 第三節『無意識について』には次のように記述されていたことを参考までに、再度引用させていただきたい。

『従って、それが延長である限り、われわれの知覚は、それを内包するより広大で、無際限でさえある経験に比して<常に含まれるもの=内容(contenu)>でしかないことを本質としている。この経験は、認知された地平をはみ出しているのだからわれわれの意識にとっては不在なのだが、それでも現実に与えられているように見える。しかし、われわれはこれらの物質的対象に引っかかっているように感じ、かくしてそれらを現存する実在へと仕立て上げるのに対して、反対にわれわれの想起は、過去のものである限り、われわれが自分と一緒に引きずっている足手まといであり、われわれは、それから解放されたふりをするのを好むのである。われわれがそれによって自分の前に空間を無際限に開くところの本能と同じ本能故に、われわれはわれわれの後ろで、時間が過ぎ去るにつれて時間を閉め出す』(p.207 3行目-12行目、<>内はテキスト傍点付きとイタリック))


続いて、次の段落(p.216 7行目-p.219 5行目)を見てみよう。

まず、この段落の始まりは、次のように始まる。

『われわれはこのように長い回り道をしてわれわれの出発点に戻ってくる。』(p.216 7行目)

この後の論を進めるにあったって、この部分にあまりこだわる必要はない。しかし、これは、ベルクソンがこれまでのことを振り返ってみれば、と言っているのに等しいので、あえてこだわって、これまでのことを振り返ってみることにしよう。

まず、われわれの出発点はこの章の第一節『純粋想起』(p.190 13行目-p.198 1行目)に於いて、『知覚』と『純粋想起』は本質的な点に於いて異なる、ということを述べた。これは、知覚がはっきりと思い出せる微少な知覚の想起から構成されているのではない、ということでもあっただろう。(図2参照)




『本当のことは、われわれが一挙に過去に身を置くのでなければ、われわれが決して過去に到達しないだろうということなのだ。本質的に潜在的なものたる過去が、われわれによって過去として捉えられうるのは、過去が暗闇から白日の下に現れることで現在のイマージュへと開花する運動をわれわれが辿り、採用する場合だけである』(p.193 6行目-10行目)

(2012/03/16筆者注 上二つに分けていた引用文を一つにした。)

と、まず『観念連合論』を批判していた。そのあと『心理学者たちの説』に対しての反論を述べ、そこでは、まず初めに提示された結論はこうであったろう。

『<イマージュ化すること[想像すること](imaginer)>は、<想起すること(se souvenir)>ではない。おそらく想起は、現実化するにつれて、イマージュの中で生きるようになる。しかし逆は真ではなく、純然たるイマージュが私を過去に連れ戻すのは、私が実際に過去のなかにそのイマージュを探しに行き、そうすることで、このイマージュを闇から光へ連れてきた連続的進展をたどる場合である』(p.193 16行目-p.194 3行目、<>内はテキスト傍点付きとイタリック)

(2012/03/16筆者注 上の『心理学者達の説』と引用文を追加した)

その後、

『しかし、想起と知覚との間に程度の相違しか確立しないことに存する錯覚は、観念連行論の単なる一帰結以上のものであり、哲学史における一偶発事以上のものがある。』(p.195 14行目-15行目)

という指摘をしていた。このことに関しての考察は次のように進んでいた。

『要するに、私の過去が本質的に無力であるのに対して、私の現在は私に行動を促すものなのだ。』(p.196 6行目-7行目)

として、まず、『現在の知覚』と『純粋想起』を対比させ、ベルクソンは様々なことを説明していく。

まず、『現在』というものについて、

『私が「私の現在」と呼ぶ心理学的状態は、直接的過去の知覚であると同時に、直接的未来の限定でなければならない』(p.197 10行目-11行目)

と述べ、『直接的過去』の『知覚』は『感覚』であるということを定義し、『直接的未来』は『行動もしくは運動である』と定義した。(p.197 11行目-14行目を要約)

これらのことから、

『私の現在は本質的からして感覚-運動的なものである。』

という、結論が導き出されて第一節は終わる。


次の第二節『現在は何に存するか』(p.198 2行目-p.211 13行目)はこう始まった。

『ということはつまり、私の現在は、私が私の身体について有している意識の上に存するということだ』(p.198 3行目-4行目)

ここでは、ベルクソンが主張する『われわれの現在』がまさに『感覚-運動的』であることがまず示される。主な部分を引用しよう。

『われわれの身体の現在の状態に、われわれの現在の現在性は存している』(p.198 17行目-p.199 1行目)

『逆にわれわれの現在は、われわれの現実存在(existence)の物質性そのもの、すなわち感覚と運動の全体であり、それ以外のなにものでもないのだ』(p.199 2行目-4行目)

『この全体は限定されており、持続の瞬間それぞれにとって唯一無二のものである。それはまさに、感覚と運動が空間の場所を占めていていて、同じ場所に同時にいくつもの事象が存在することはできないからだ』(p.199 4行目-6行目)

このあと、

『 -どうして、結局は常識に属する考えに他ならないこれほど単純でこれほど明らかな真理を、見誤ることができたのであろうか』(p.199 6行目-8行目)

と続くのであるが、これは、結局、『知覚』と『想起』に『程度の相違』しか見てないことによると述べる。(p.199 7行目-8行目を要約)このあと、このことについての考察がされているのだが特に繰り返す必要もないと思われるので、省略したい。

さて、第三節『無意識について』(p.201 14行目-p.214 9行目)であるが、この節はこう始まった。

『純粋想起のこの根本的な無力さは、どうして純粋想起が潜伏的状態で保存されるのかということをわれわれが理解することにまさに役立つであろう。』(p.201 15行目-16行目)

『問題の核心に更に踏み込むことはしないでわれわれは次のことを指摘するにとどめたい。すなわち、<無意識的な心理状態>を考えることへのわれわれの嫌悪は、とりわけわれわれが意識を心理状態の本質的な特性とみなすことに由来しており、そのために、心理状態は、意識的なものであることやめると必ずや存在することをやめるであろうと思われているのだ』(p.201 16行目-p.202 4行目:<>内はテキスト傍点付き)

と、はじまり、この後、実は意識は生きるものの単なる特徴であり結果的に起こる現象にすぎない(p.202 4行目-11行目を要約)ということが書いてある。

(2012年3月6日‐2012年3月8日筆者注 ここから以前は書いていなかった第三節の概要を書くことにした。以下、数段落はその記述である)

そのように主に意識についての検討がなされた(-p.203 10行目)あと、次に無意識について検討される。ベルクソンの言う無意識とは、『知覚』から得られる『直接的未来』(p.206 3行目)である物理法則の因果性に基づいた『経験』(p.207 4行目、言い換えれば物質世界の現象)と、『過去』である『(純粋)想起』の紹介・照合を行っているものである。そして、『現在』に相当するであろう『感覚‐運動的』なるわれわれの『意識』は、『感覚』に相当する部分の『想起』しか感じることができない。ということが説明される(p.201 14行目-p.206 9行目)。

ところで、この部分の最後で、次のような指摘がなされていた。かなり難解な部分ではあるけれども、引用したい。

『物質的宇宙の知覚されていない部分は、数々の脅威と見込みに満ちていて、それゆえ、われわれの過去の生存のうち現下には認知せざる諸期間が有しえず、また有することのあってはならない実在性をわれわれに対して有している。しかし、この実利的な有用性や生活の物質的欲求とまったく相対的なこの区別は、われわれの精神の中では、ますますはっきりした形而上学的な区別の形を取るのである』(p.206 4行目‐9行目)

これはつまり、『物質的宇宙の知覚されていない部分』は想起とは違い、われわれにとって非常に切迫した『実在性』をもっているが為に、『ますますはっきりした形而上学的な区別』、例えば運というような、を取ると、言っているのであったろう。

(2012/03/16筆者注 上の段落を追加)

このように指摘したあと、無意識についてわれわれが理解することの困難さを例えば、

『われわれがそれによって自分の前に空間を無制限に開くところの本能とおなじ本能ゆえに、われわれはわれわれの後ろで、時間が過ぎ去るにつれて時間を閉め出す』(p.207 11行目−12行目)

というように語り、さらに、

『私の意志が空間の一定の点に現れるために、私の意識は、全体で<空間における距離>と呼ばれるものを構成している数々の中間物あるいは障害物を一つ一つ超えなければならないのだが、それに反して、この行動を照らし出すためには、現在の状況を以前の類似した状況から隔てている時間の隔たりを飛び越えることが私の意識にとって有益である。』(p.209 10行目−14行目、<>内はテキスト傍点付き)

ということを指摘し、われわれにとって、『想起』がなぜ不意に出現するように見えるかを説明している。

そして、その前に、少し次のように触れられていた、『現実存在(existance)』の話のうち、『経験に係る諸事象 —ここでわれわれの関心を占めている唯一のもの— について、現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われるとだけ言っておこう。』(p.210 6行目-8行目)ということ、すなわち『現実的な現実存在』(p.212 10行目)言及に入る。

『実際、この想起がわれわれの現在に貼り付くことは、気づかれていない諸対象がわれわれの知覚している諸対象に貼り付くことに、完全に比較することができる。そして<無意識>は、二つの場合いずれにおいても、同種の役割を演じているのである。』(p.207 17行目−p.208 3行目、<>内はテキスト傍点付き)

すなわち、「ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識について (下)」から引用すれば、

「前行にもあるように『悟性』は、内的な状態と外的な状態の二つの条件が混ざり合ってるということを、いちいち把握して考えず、この二つの条件を『外的諸対象』(p.211 12行目)と『内的諸対象』(p.211 13行目)にのそれぞれに分離させ、『外的諸対象』が支配的な場合は内的な状態の度合いを従属的に、『内的諸対象』が支配的な場合は外的な状態の度合いを従属的に割り当てて物事を把握しようとする。」

ということであった。そうして、さらに、

『第一の錯覚の補足たる第二の錯覚は、無意識を偽りの難解さで覆うことで、精神についてのわれわれの概念を汚染している』(p.212 4行目-6行目)

ということを指摘し、また、ここで、無意識のもう一つの役割を説明している。このあと、

『われわれの過去の心的生はその全体がわれわれの現在の状態を条件付けるのだが、それを必然的な仕方で決定することはない。』(p.212 6行目-7行目)

『われわれの過去の心的生は同じくその全体がわれわれの性格の中であらわになるのだが、にもかかわらず、過去のどんな状態も明白にわれわれの意識に現れることはない』(p.212 7行目-9行目)

『結びつけられることで、これら二つの条件は、過去の心理学的諸状態の各々に、無意識的ではあるが真に現実的な現実的存在を保証しているのである』(p.212 9行目-11行目)

と、一旦段落をまとめている。そのあと、記憶がどこに存在するのかという議論に入ったのを読者諸氏も覚えておられるだろう。

『物理‐化学的な現象は脳<のなかで>起こり、脳は身体<のなかに>あり、身体は身体を浸している空気の中にある等々と、われわれは思い描いている』(p.212 15行目-16行目:<>内はテキスト傍点付き)

という、現在でも一般的であると思われる記憶の保存場所、保存方法について、ベルクソンは、

『忘れられているのは、容器と中身の関係が、その見かけ上の明晰さと普遍性を、前方ではつねに空間を開き、後方ではつねに持続を閉ざさなければならないというわれわれの陥った必然性から借りていることだ』(p.213 5行目-8行目)

と反論していた。このことについて、さらに以下のように述べ、

『ある事物が別の事物のなかにあるのを示したからといって、それによって、前者の事物の保存という現象を明らかにしたことには少しもならない』(p.213 8行目-10行目)

『それだけではない。さしあたりは、過去が脳に蓄えられた想起の状態で生き続けてると認めておこう。そのとき、脳は想起を保存するためには、少なくても脳そのものが保存されていなければならないだろう』(p.213 10行目-12行目)

これに対し、われわれが『意識』が『心理的状態の本質的な特性』(p.202 2行目‐3行目)と考えていること、また、『心理状態は、意識的なものをやめると必ず存在することをやめるだろう』(p.202 3行目‐4行目)と考えているのに、『想起』が保管されているはずのイマージュである脳はどうして『意識』が途切れるのに途切れないというのか、という指摘をしていた。

このように述べたあと、第三節は次のように結ばれていた。

『過去の<それ自体としての>残存は、それゆえ、どちらの形であれ不可欠のものとして課せられるのだが、あなたがこの残存を思い描くのに感じる困難さは、<含むことと含まれること>の必要性 -これは空間内で瞬時に見いだされる諸物体の全体にしかあてはまらない- をわれわれが時間のなかの想起の系列に付与することに由来している』(p.214 4行目-7行目:<>内はテキスト傍点付き)

『根本的な錯覚はわれわれが持続に施す瞬間的な切断面の形を、過ぎゆく持続そのものへと移し替えることに存しているのだ。』(p.214 8行目-9 行目)

こうして、この節にたどり着き、次のような記述を目にすることになる。

『われわれはこのように長い回り道をしてわれわれの出発点に戻ってくる。』(p.216 7行目)

この第三章のこれまでの記述に於いて、特に、この説に入って考察された『知覚』も一種の『記憶』つまり過去であるということから再び、われわれは、記憶がどのように保存されているのかということを、これから、見ていくことになるのだろう。

(2012/03/16筆者注 実際はベルクソンは記憶の全保存を主張するが、どこに保存されているかと言うことは、わからないと述べている。そのことがこの節の始めの記憶の保存についての曖昧な言説

『—それに対してわれわれは、問われているのはまさに過去が存在するのをやめたかどうかあるいは過去は単に有益であることをやめたかどうかを知ることではないかと応じる』(p.214 12行目-14行目)

となっているのだろう。このあとで見るようにイマージュ記憶は各事実に日付が刻まれていることなどのことを主張しているわけであるから、この点はかなり難しい。ただし、言葉によって純粋想起が呼び起こされて過去の感覚が甦るというようなことを述べているので、ある種の情報がそういうことを引き起こすことは認めてはいる。)

では、ようやくこの段落の続きへと戻る。

『根底的に異なる二つの記憶があるとわれわれは言った。』(p.216 7行目-8行目)

『一方は、有機体のなかに固定されており、様々な可能的な呼びかけ(interpellation)しかるべき(réplique)を保証する、巧みに備え付けられた諸機構の全体に他ならない』(p.216 7行目-10行目)

これは、明らかに『純粋想起』の記述だろう。この章でもずいぶん説明してきたので、このあと少し省略してもう一つの記憶についてのベルクソンの記述をみよう。

『もう一方が、真の記憶である。』(p.216 14行目)

『意識と同じだけの伸張を有したものとして、この記憶は、われわれの諸状態が生じるにつれて、そのすべてを記憶にとどめ、それぞれを次々に併置するのだが、その際この記憶は、各々の事実にその場所を与え、ひいては各々の事実に日付を刻み、第一の記憶のように不断に再開される現在のなかではなく、決定的な過去のなかでまさに現実に活動している』(p.216 14行目-p.217 1行目)

これはまさしく『イマージュ想起』だろう。ここで述べている『イマージュ想起』についての特筆すべき特徴は、二つある。まず、『われわれの諸状態が生じるにつれてそのすべてを記憶に留め』、『併置する』。そして『各々の事実に場所を与え』る。これが一つ。そしてもう一つ『ひいては各々の事実日付を刻む』。ということだ。『決定的な過去』はもう起こってしまったことは、変更不可能という意味だ。

要するに、因果律たる物理法則によって支配されている『物質空間』の過去は変更不可能であるがために、その状態は、因果律であるが故に、連続して保存されるほかなく、また、個々の事象も同じ『物質空間』にある以上は無関係でもないので『併置』される。時間軸上で連続しているが故に何らかの形で『日付』もつけられるだろう、と言っているのである。

こう言い換えることができるかもしれない。『イマージュ想起』は、すなわち、この宇宙の『記憶』なのであって、それは、因果律たる物理法則によってすでに決定されてしまっている。因果律に従うが故に、われわれの『純粋想起』とはちがい、この宇宙の『記憶』はその状態の遷移を時間軸上に連続させて保持しているだろう。これは、物理法則を、ニュートン力学だろうが一般相対性理論だろうがあるいは量子力学で表現しようが、ブラックホールのような特異点を除けば、マクロ的には間違いのない事実であろう。時間を熱力学第二の法則で表そうが、何で表そうが関係はあるまい。物理法則にしたがった状態遷移を順番に並べているだけであるからだ。そこにどういう『日付』が刻まれるのかは興味のある問題だろうが、順番である限りは、相対的にも参照可能であるに違いないのである。

(2012年3月8日筆者注 上二段落の解釈は『意識と同じだけの伸張を有したものとして、』という部分をあえて無視しているようにも見える。しかし、客観性の観点から見ると、この記憶はそもそもは『知覚』された物理現象であり『知覚』自体も物理現象であるとも言える。何故なら、われわれの物質的『現在』が『感覚ー行動』的であるわれわれの生き生きとしたイマージュの肉体性によるからであり(参照:第三章第二節『現在は何に存するのか』)、第一章で説明された権利的で時間の厚みのない『純粋知覚』もこの部分に負うているからである。従って、やや、唯物論的傾向が強い解釈とも言えなくもないが、現時点では、このままにしておきたい。)

ここからは、これら『純粋想起』と『イマージュ想起』がどう交わるかである。

まず、ここまでそのことについては考察してこなかったということを指摘し(p.217 1行目-4行目)、こう述べる。

『しかし、われわれがその直接的過去以外のものを決して知覚しないのであれば、われわれの現在の意識がすでに記憶であるならば、われわれが最初に分離した二つの項は緊密に接合されて一つになるだろう。』(p.217 4行目-7行目)

これから、『純粋想起』と『イマージュ想起』が一つになることを、『直接的過去以外のものを決して知覚しない』ことから導きだそうというのであろう。

『この新たな観点から考察されれば、実際、われわれの身体は、われわれの表象の変わることなく甦る部分、つねに現存する部分、というよりむしろ、というより、どの瞬間にも過ぎ去ったばかりの部分に他ならない。』(p.217 7行目-9行目)

難しくはないが、一応解説しておくと、われわれの身体の知覚は『われわれの表象の変わることなく甦る部分』や『つねに現存する部分』というよりも、厳密には、われわれの身体という、すで確定している物質の『記憶』だ、といっているのだろう。『われわれの表象の絶えず甦る部分、つねに現存する部分』というのは第三節の最後に記憶の保存について触れた時の記述(p.213 14行目−p.214 1行目)を指しているのだろう。

(2012年3月10日筆者注 上段落は第三節の記述を変更したと共に変更した)

『イマージュそのものであるこの身体は諸イマージュを蓄えることはできない。というのは、この身体は諸イマージュの一部をなしているからだ。』(p.217 9行目-11行目)

これは、これまでの説明からも自明だろう。

『そういうわけで、過去の知覚あるいは現在の知覚さえも脳のなかに位置づけようとするのは荒唐無稽である。これらの知覚は脳のなかにはない。脳の方がこれらの知覚のなかにあるのだ。』(p.217 11行目-13行目)

何というパラドックスであろうか。と、ここは単に驚けばいいのであろう。ここでは、単に脳というイマージュも『知覚』なしにはそれこそ知覚しえない、と言いたいだけのようだ。

もう少し先を読んでみよう。

『しかし、他の数々のイマージュの真ん中で存続し、私が私の身体と呼ぶこのまったく特殊なイマージュは、各瞬間にわれわれが言ったように、万物の生成の一つの横断面を構成している』(p.217 13行目-15行目)

要するに、われわれの身体も他のイマージュと同等であるからには純粋に時間としての大きさ0の現在と言う時間の断面を構成しているのは間違いないだろう、ということだ。『万物の生成』というのはその瞬間、すべてのイマージュは確定すると言う意味であろう。しかし、われわれは、われわれの身体を通して『知覚』を得るのであるから、われわれにとってわれわれの身体は特権的イマージュである。(『<私が宇宙と呼ぶこのイマージュの総体の中では、ある特殊なイマージュ —その典型は私の身体によって私に与えられている— を介することなしには、真に新しいものは何も生み出されえないかのように、すべてが進行しているのである>』(p.10 2行目-4行目:<>内はテキスト傍点付き)を参照)

次の行も難しくないので要約すると、『私の身体』は特権的なイマージュであると同時に現在という過去と未来の境界面につねに存在するだろう。従って、私の身体は、つねに、私の記憶と、私が将来にわたって知覚として受け取り続けるであろう、私の体に起こる物理現象すなわち未来の『物質空間』の『<通過する場所>(lieu de passage)、私に作用する事物と私が働きかける事物との間の連結符、一言でいえば、感覚-運動的諸現象の座なのである』。(p.217 15行目-17行目を要約、<>内はテキスト傍点付きとイタリック)

(2012年3月10日筆者注 上段落についていくつかの部分を改稿した)

ここから先、この段落の終わりまで、ほぼ、すでに、私が光円錐の未来部分として紹介したことのある図4の説明があるが、今更特に説明する必要もないと思われるので、最後の部分だけ紹介して、残りは省略しよう。



『身体のイマージュは(点)Sに凝縮される。そして、平面を構成しているすべてのイマージュから発する諸作用を受けると共に返しているだけなのだ』(p.218 5行目-9行目)