ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2012年3月1日木曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識につ いて (下)



次の段落(p.210 4行目-p.212 11行目)をみよう。

ここは、まず、こう始まる。

『しかし、われわれはここで<現実存在(existence)>をめぐる主要な問題について触れている。』(p.210 4行目:<>内はテキスト傍点付きとイタリック)

われわれ一般の人間にはなんだかよくわかりもしないような大変難しい問題に、ここにおいて触れているという。実際、ベルクソンは続けてこう言っている。

『われわれはこの問題について軽く触れることだけしかできない。さもなければ、問題から問題へと連れ回された後で、形而上学の核心そのものに導かれることになろう。』(p.210 4行目-6行目)

 と言っている。ここまで、『現実存在(existence)』、『形而上学の核心』とは何かが難しいが、要するに、なぜわれわれは生きているか、ということを考え出すと止まらないどころか、どっか遠くの方に行ってしまう。たとえば、生命とは何か、とか、魂とは、とか。そのようなことを言っているのであろう。

では、ベルクソンはどのように考えて行こうとしているのか。

『経験に係る諸事象 —ここでわれわれの関心を占めている唯一のもの— について、現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われるとだけ言っておこう。』(p.210 6行目-8行目)

『経験に係わる諸事象』というところが難しい。『経験』ここまで、空間とその広がりの中で現在起っている物理的な現象と解釈してきた。『経験に係わる諸事象』もほぼ同様の意味であると考えることも可能である。しかし、ここでは、『直接的未来』と現在の状況に類似した『想起』そして、それらを結びつけるわれわれの『生き生きとしたイマージュ』も関係してくるという解釈も十分可能だと思われる。ここでは『連結された二つの条件』という言葉を含めてあとの文章を読まなければ、はっきりとしたことは言えないであろう。

(2012年2月15日筆者注:上の段落においては、草稿では必ずしも正しくない解釈を残していたが、今回、書き改めた。理由はやはり私なりに正しいと考える解釈を表わすべきと思ったこと。以前の文章は、草稿として公開していることも理由の一つ)

それでは、『連結された二つの条件』についてふれてあると思われる続きの文章を見てみよう。

『第一の条件は意識への現前化、第二の条件は、そのように呈示されたものと、それに先行するものならびにそれに後続するものとの論理的あるいは因果的結合である』(p.210 8行目-10行目)

この行も、なかなか難解であるけれども、前行においての考察からなんとなく理解できるような気もする。しかし、実際、続きをみないと、この行だけではよく分からない部分も多い。そこで、この行の解釈も、しばらく置いておいて、次へ進んで生きたい。この行は、これからベルクソンが展開して行くであろう『二つの条件』のそれぞれのタイトルと現在は捕らえておくことにする。

次の行(p.210 10行目-13行目)は、少し要約したい。難しくはないが、日本語で訳した場合、文の構造が複雑になってしまう、そのようなことが起きてると思われるからだ。

従ってこのように要約する。「われわれのいまの心のあり方、あるいは、ベルクソンの仮説ではその対称をなす物理的存在を、われわれがいままさにそれを感じているという『実在性』というものは、『われわれの意識がそれらを知覚していること』、と、それらが『物理的空間』における物理法則による因果関係によって『時間的あるいは空間的系列』の『一部をなしている』、という『二重の事実』の内にある」。もっと簡単に言うと、われわれが、いまそこにある、と感じられるのは、じつは、われわれが『知覚』しているから、ということと、物質が物理法則に従って『物質空間』に存在してるという、『二重の事実』がそこにはある、とベルクソンは言っているのである。

つまり、これは、

『経験に係る諸事象 —ここでわれわれの関心を占めている唯一のもの— について、現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われるとだけ言っておこう。第一の条件は意識への現前化、第二の条件は、そのように呈示されたものと、それに先行するものならびにそれに後続するものとの論理的あるいは因果的結合である』(p.210 6行目-10行目)

を言葉を換えて言い直したものであろう。

(2012年2月26日筆者注 上3段落、すなわち「つまり、これは、」から引用を挟んで 「を言葉を換えて言い直したものであろう」までを挿入)

『われわれの意識がそれらを知覚している』の部分はいっそ、観測している、という計量化を目的とする物理学で使われる常套句を用いたいように思うが、しかし、『意識』が『知覚』する限りに置いて、『純粋想起』がここに関連しているのではないか、と考える方が普通であろう。(もちろん、すでに第一章などで述べられた知覚の本質的な不完全性もあるかもしれない。)

さて、ここからの文章は少しまとめて呈示してみたい。そうでないと、なかなか意味をくみ取るのが難しい、という解説上の都合もある。

まず、

『しかし、この二つの条件は程度の多寡を容認するもので、どちらも必要条件でありながら、等しからざる仕方で満たされだろうと考えられる。』(p.210 13行目-15行目)

とある。この部分は、言葉はこれまでに比べて比較的平易だが、何をいいたいのかが非常に難解だ。それで、『この二つの条件』が、

『第一の条件は意識への現前化、第二の条件は、そのように呈示されたものと、それに先行するものならびにそれに後続するものとの論理的あるいは因果的結合である』(p.210 8行目-10行目)

言い換えれば、「『われわれの意識がそれらを知覚していること』」と、「『物理的空間』における物理法則による因果関係によって『時間的あるいは空間的系列』の『一部をなしている』」という「『二重の事実』」

(2012年2月26日筆者注 上一段落を挿入)

であったことを思い出してもらいながら、以下、一文ごとに、難しい語句についてのみ少々解説し、ある程度まで進んでからまとめの解説を行いたい。

『例えば、現在の内的状態の場合には、結合はそれほど緊密ではなく、過去による現在の決定は偶然性(contingence)大きな余地を残しており、数学的導出の特徴を持っていない。』(p.210 15行目-17行目)

『 —それに引き換え、意識の現前化は完璧であって、現在の心理学的状態は、われわれがそれを目にしている行為そのもののなかで、その内容の全体をわれわれに引き渡す。』(p.210 17行目-p.211 2行目)

ここまでは、われわれの過去(ここでは『純粋想起』)から、『知覚』によって現在の行動が決定されるまでのわれわれの内的な状況を説明しているのだろう。つまり、知覚されたことで最終的に行動が決定されるまでは、記憶の結びつきというのは、ある程度、予測されているとはいえ、決定されたものではない。『知覚』よって、ここではわかりやすく、外的なイベントと言い換えても良いだろうが、それによってはじめて『感覚』として決定され、それらすべてが、われわれは、自分の内的なこととして『意識』によって把握されている、ということが言いたいのであろう。

『反対に、外的諸対象に関しては、これらの対象は、必然的な諸法則に従っているのだから、完全なのは結合の方である。』(p.211 2行目-3行目)

『しかし、そのときもう一方の条件である意識への現前化のほうは、部分的に満たされているにすぎない。』(p.211 3行目-4行目)

ここまでくると、賢明なる読者諸氏においては、ベルクソンが何が言いたいかはおわかりであろう。外的な『物質空間』においては、物理的法則に支配され曖昧なところはない。しかし、受け取るわれわれにとって、『知覚』している部分だけでも十分すぎる情報量によって、あるいは、一部に限られてしまってるが為に、『感覚』という内的状態のようにすべてを把握しきれる物ではない、ということを言いたいのだろう。次の行はそのようなことが書かれているのだが、あまり難しくないので省略しよう。

結論として、

『 —われわれはそれゆえ、経験的な意味での現実存在は、意識的な把握と規則的な結合をつねに同時に、しかし様々に異なる程度で含意していると言わなければならないだろう』(p.210 7行目-9行目)

ここまで来れば、前出『二つの条件』が『知覚』として説明された内的状態と物理的な外部の状態の対照的な把握の仕方であり、『どちらも必要条件でありながら、等しからざる仕方で満たされている』(p.210 13行目-14行目)ということも理解していただけたはずである。

(2012年2月26日筆者注 「『知覚』として説明された」と「物理的な」という部分を挿入)

次へ進もう。

『われわれの悟性は、明確な区別を打ち立てることを機能としており、そのため、少しもこのような仕方で事態を把握していない』(p.211 9行目-10行目)

『悟性』という難しげな哲学用語が出てきた。小林秀雄さんによるとベルクソンの『悟性』には、常識という物が深く係わっている、あるいは、常識と同じ意味にとって良いと言っているのだが、小林秀雄さんのいう常識もなかなか難しいものがあって、一言には言い切れない。小林秀雄さんが何と言ってるかは、確か、講演を文章にな直したものに「常識について」というものがあったと記憶しているので、そちらを読んでいただきたい。ここでは、「理性的、論理的に考える能力」ぐらいに採っておけばいいと思う。

次の一文(p.211 10行目-15行目)は長いのだが、

『現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われるとだけ言っておこう。』(p.210 7行目-8行目)

という部分を思い出してもらいさえすれば、書いてある内容は難しくないので、次のように要約したい。

「前行にもあるように『悟性』は、内的な状態と外的な状態の二つの条件が混ざり合ってるということを、いちいち把握して考えず、この二つの条件を『外的諸対象』(p.211 12行目)と『内的諸対象』(p.211 13行目)にのそれぞれに分離させ、『外的諸対象』が支配的な場合は内的な状態の度合いを従属的に、『内的諸対象』が支配的な場合は外的な状態の度合いを従属的に割り当てて物事を把握しようとする。」

『そのとき、心理学的諸状態の現実存在は、意識によるそれらの状態の把握のうちに全面的に存するだろうし、外的諸状態の現実存在も同じく、それらの同時性ならびにそれらの継起との厳密な秩序のうちに全面的に存するだろう。』(p.211 15行目-17行目)

と続く。この引用文は若干言葉が難しいところがあるだけで、内容はほぼ同じだと分かっていただけると思う。念のために『外的諸状態の現実存在も同じく、それらの同時性ならびにそれらの継起との厳密な秩序のうちに』の部分だけ解説しておこうと思う。

ここでは、『外的諸状態』についてのみ、考えればいいのであるから、同時性、というのは、『現実空間』に同時に存在する、ということであり、『それらの継起との厳密な秩序』とは、物理法則に支配されている因果律に従う、というこれまでどおりの主張が繰り返されているだけのことである。

ここまでの『悟性』についての記述をまとめると『二つの条件』として挙げられたものの、支配的な方によって物事を把握しようとする、とごく簡単にまとめられるだろう。

ごくわかりやすく例を挙げて説明すれば、ものごとの捉え方を「冷えたジュースが机の上にある」とか、「運が悪かった」とか、主語になる名詞(もしくは代名詞)が、具象的か抽象的かということで、われわれ(の『悟性』)は『内的諸状態』もしくは『外的諸状態』の『現実存在』のうち支配的な方を表現している、と思えばいいのではないかと思う。続きを見れば、
(2012年2月26日筆者注 あとの説明の順に従い、「冷えたジュースが机の上にある」とか、「運が悪かった」とか と、具象的か抽象的か、について前後の順を入れ替えた)

『このことから、現実存在しているが、知覚されざる物質的対象には意識への関与を少しも残すことができなくなり、意識的ならざる内的状態には、現実存在への関与を少しも残すことができなくなるのだ。』(p.211 17行目-p.212 3行目)

と書いてある。すなわち、上記のようなことが行われる結果、『知覚されざる物質的対象』、つまり、把握しきれていない『現実存在』に対しては「運」という抽象的な名詞を割り当て、『意識の関与を少しも残すことができなくなり』、『意識的ならざる内的状態』には「冷えたジュース」という表現を使うことによって『現実存在への関与を少しも残すことができなくなるのだ』、と、ベルクソンは主張しているのであろう。

さて、これから先この段落の最後のまとめにはいるわけだが、まず、次の文章にある『この著作の冒頭』というのが具体的にどこを指すかが難しい。具体的に見ていこう。

『われわれは、この著作の冒頭で、第一の錯覚の諸帰結を示した。この錯覚は、物質についてのわれわれの表象を歪曲するに至ったのだ。』(p.212 3行目-4行目)

『第一の錯覚』とは、当然、この段落でも触れている『物質空間』あるいは『外的諸条件』に対する認識だろう。われわれは、これらに対して、すべてを知り得ない、あるいは情報が多すぎる、などの『知覚』の条件と、未来は心理的に脅威に満ちているということから、『形而学上』のたとえば「運」という言葉で表現していると理解してきたはずだ。つまりは、『この錯覚は、物質についてのわれわれの表象を歪曲するに至ったのだ。』

(2012年2月17日 以下、『この著作の冒頭で、第一の錯覚についての諸帰結を示した。』という部分についての考察、ほぼすべてを改めた。かならずしも間違っているとまでは言えないが、あまり的を射た解説でもないということが理由である。以前の記述は草稿を参照していただきたい。)

さて、先ほど言った『この著作の冒頭で、第一の錯覚の諸帰結を示した。』はいったいどこであろうか?ごく簡単に言ってしまえば、第一章全体であろうが、その内容をまず振り返ることにするなら、

『実在論と観念論との間に、更におそらくは唯物論と唯心論のあいだにさえあるような未解決も問題は、従って、われわれによれば、次のような語彙で提起される。<一方の体系では、おのおののイマージュは独自に、周囲の数々のイマージュから現実的作用を受けるまさにその割合に応じて変化するのに対して、他方の体系では、すべてのイマージュが、ただ一つのイマージュに対して、それらがこの特権的なイマージュの可能的作用を反映する割合に応じて変化するとして、その場合どうして、同じイマージュがこれら相異なる体系双方に入り込むことができるのか>』(p.20 8行目-15行目、<>内はテキスト傍点付き)

と初めに象徴的に示唆されている部分になるだろう。もっと具体的には、この前節『現在は何に存するか』でも見てきたように、この錯覚は元はと言えば、『現在の感覚と純粋想起のあいだに、本性の相違ではなく程度の違いしか認めないことによる』(p.199 8行目-9行目)ことから、考察は展開されてきた。この前後の文章もできれば引用したいところだが、そこは読者諸氏にお任せし、実は、第一章の節『純粋知覚』にも同じような文言の文章があるのでそこを引用することにしたい。

『主要な誤り、心理学から形而上学に遡ることで遂には身体についての認識を精神についての認識と同様に覆い隠すに至る誤りは、純粋知覚と想起のあいだに本性の相違を見る代わりに、程度の相違しか見ないことに存する誤りである。』(p.82 15行目-17行目)

ほぼ同じ文言が並んでいることがおわかりいただけるであろう。この錯覚から得られる誤りは、以下、次節『物質の問題への移行』にまで及ぶ。しかし、節『物質の問題への移行』で書かれている部分は主に第四章に関係するものであるから、以下、上記引用を含めてこの後の文章を節『物質の問題への移行』の第一段落まで引用しようと思う。(読みやすさを考え適宜、文章を分けている)

『主要な誤り、心理学から形而上学に遡ることで遂には身体についての認識を精神についての認識と同様に覆い隠すに至る誤りは、純粋知覚と想起のあいだに本性の相違を見る代わりに、程度の相違しか見ないことに存する誤りである。われわれの知覚にはおそらく数々の想起がしみこんでいるが、逆に想起は、われわれが後で示すようにそれが差し込まれる何らかの知覚の体を借りることによってしか、再び現在的なものにはならない。それゆえ、これら二つの行為、知覚と想起は、内的浸透(endosmose)の現象によってたがいの実質のうちの何かをつねに交換することで、つねに混じり合っているのだ。とすれば、心理学者の役割は、これら二つの行為を分離し、各々にそれ本来の純粋さを取り戻させることであろう。そうすることで、心理学が提起する多くの問題が、そしておそらくは形而上学が提起する多くの問題も解明されるだろう。』(p.82 15行目-p.83 7行目)

『しかし、<現実は>全くそうではないのだ。純粋知覚と純粋想起が不均等な含有量で全面的に合成されている混合状態が、単純な状態であると主張されているのである。それによって、純粋知覚と同様に純粋想起をも無視することを余儀なくされ、また、これら二つの相のどちらかが優勢であるかに応じて、時に想起、時に知覚と呼ばれるただ一つの種類の現象だけしかもはや認識せず、ひいては、知覚と想起の間に、もはや本性の相違ではなく、程度の相違しか認めないことを余儀なくされる。この誤りは、その第一の結果として、後で詳細に検討するように、記憶の理論を深々と汚染している。というのも、想起をより弱い知覚にすることで、過去を現在から区別する本質的な相違を見誤るからであり、また、再認(reconnaissance)の現象、より一般的には無意識的なもの(inconscient)の機構を理解することを放棄するからである。』(p.83 7行目-16行目、<現実は>は筆者がわかりやすさのために挿入、またテキスト「時に想起時に知覚」の部分を「時に想起、時に知覚」と改変した)

『しかし、逆に言うと、想起をより弱い知覚にしたのだから、もはや知覚のなかにより強い想起しか見ることはできないだろう。あたかも知覚が、想起のようなやり方で、一つの内的状態のように、われわれの人格の単なる一つの変化のようにわれわれに与えられると推論することになるだろう。知覚の本来の根本的な行為、純粋知覚を構成するこの行為、それによってわれわれがただちに諸事物のなかに身を置く行為は見誤られるだろう。そして同じ誤りが、心理学においては、記憶の機構を説明することができないという根本的無力によって表され、形而上学においては、物質についての観念的な考え方と実在論的な考え方双方に深々としみこむことになるだろう。』(p.83 16行目-p.84 7行目)

『 物質の問題への移行

 実際、実在論にとって、自然の諸現象の不変の秩序は、われわれの諸知覚の一つのはっきりした原因のうちに存している。その原因が認識不能なものであり続けねばならないにせよ、形而上学的構築の(つねに多かれ少なかれ恣意的な)努力によってわれわれがその原因に到達するにせよ。反対に観念論にとっては、これらの知覚が実在の全体であり、自然の諸現象の不変の秩序は、それによってわれわれが、実在的な知覚のほかに、可能的な知覚を表現するところの象徴(symbole)でしかない。しかし、実在論にとても観念論とっても同様に、諸知覚は「正しい幻覚(2)」(hallucinations vraies)であり、主体の外に投影された主体の諸状態である。これら二つの学説はただ単に、一方においては、これらの状態が実在を構成するのに対し、他方においては、それらが実在と合流するようになるという点でのみ異なっている』(p.84 8行目-p.85 2行目、(2)はテキスト章末文献番号)

ここまでの引用には、次の文で出てくる『第二の錯覚』も含まれている(『より一般には無意識的なもの(inconscient)の機構を理解することも放棄する』の部分)けれど、ほぼ、ここまでで説明されてきたことによる『第一の錯覚の諸帰結』ほぼすべてをを網羅していると思う。

さて、やや第一章を振り返った部分長くなったが、第三章に戻り、次の文をみよう。

『第一の錯覚の補足たる第二の錯覚は、無意識を偽りの難解さで覆うことで、精神についてのわれわれの概念を汚染している』(p.212 4行目-6行目)

『無意識を偽りの難解さで覆う』とは、この段落でも見てきた『内的(諸)状態』が時間と無関係に『知覚』と照合・照会される、ということがあたかも想起が突然幽霊のようによみがえって来ることを指しているのだろう。このことは、たとえば、この段落では物質についての記述に『冷えたジュース』というように、主観的な形容をあたかも客観的であるように表現する傾向として説明してきた。

以降の文章では、ベルクソンはこれらについてこのように説明している。

『われわれの過去の心的生はその全体がわれわれの現在の状態を条件付けるのだが、それを必然的な仕方で決定することはない。』(p.212 6行目-7行目)

『われわれの過去の心的生は同じくその全体がわれわれの性格の中であらわになるのだが、にもかかわらず、過去のどんな状態も明白にわれわれの意識に現れることはない』(p.212 7行目-9行目)

以上の二つの引用は、賢明なる読者諸氏には説明しないでも分かっていただけるだろう。

そして、この段落では一旦こう結論づける。

『結びつけられることで、これら二つの条件は、過去の心理学的諸状態の各々に、無意識的ではあるが真に現実的な現実的存在を保証しているのである。』(p.212 9行目-11行目)

このことは、言い換えれば、この段落のはじめ、『<現実存在(existense)>』(p.210 4行目)について触れて言うときに、

『現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われる』(p.210 7行目-8行目)

『第一の条件は意識への現前化、第二の条件は、そのように呈示されたものと、それに先行するものならびにそれに後続するものとの論理的あるいは因果的結合である』(p.210 8行目-10行目)

とあったところの繰り返しであり、かつこの段落の説明の結論である。

長くなったこの段落のまとめとして、もう一度説明を繰り返すならば、『現実的な現実存在』を『保証』しているのは、『外的(諸)条件』と『内的(諸)状態』の結びつきをその量的なバランスによって、『無意識的』に『外的条件』へ『内的状態』が埋没したり、あるいはその逆であったりすることだ、とベルクソンは結論づけている、と言って良いのではないかと思う。そして、このことが、この段落最初にあった『経験に関する諸現象』と解釈しても良いだろう。

(2012年2月26日筆者注 上段落最後の一文を追加)
(2012年3月1日筆者注 上記段落の内容は、第四段落最後の部分、

『実際、この想起がわれわれの現在の状態に貼り付くことは、気づかれていない諸対象に貼り付くことに完全に比較することができる。そして<無意識>は、二つの場合いずれにおいても、同様の役割を果たしているのである』(p.208 17行目-p.208 3行目、<>内はテキスト傍点付き)

とあった部分の具体的説明に相当すると思われる)


では、続いての段落(p.212 12行目-p.214 9行目)を見ていこう。長くなったこの節の解説もこの段落が最後の解説となる。

この段落の最初の部分は、われわれの脳にどうして記憶が(脳のある部分と知覚される物体が対応する形で)蓄積されていると思うのか?という錯覚について述べられている。あまり難しい内容ではないが、ここは、たくさんの人が関心を持つであろうから、一応引用しておこう。

『しかし、われわれは、実践の最大の利益を得るために諸事実の現実的な順序を逆転させることにとても慣れており、』(p.212 12行目-13行目)

『空間から引き出されたイマージュの脅迫(obsession)をあまりにも強く蒙<こうむ>っているので、われわれは、どこに想起が保存されているのかを問わずにはいられない。』(p.212 13行目-15行目:<>内は筆者によるふりがな)

一文を二つに分けたのは、前半部分を少し解説したいと思ったからである。この『諸事象の現実的な順序を逆転させることにとても慣れており』というのは、以前見た、われわれが何かしようと思うときには、『物質空間』においては因果律に従わざるをえないために、『(純粋)想起』はそれがいつ起こったか、ということとは無関係になる必要がある、と説明したことに相当する。(テキストp.209 10行目-14行目、もしくはもっと遡れば、p.206  10行目-p.208  6行目など)

(2012年2月22日筆者注:上段落については、現段階で自信のあるものではないことを告白しておく。というのは、『逆転させることに慣れて』いるのは確かに想起であろうが、それが、以下に続く文のように、『物理-化学的な現象は脳<のなかで>起こり、脳は身体<のなかに>あり、………』と、接続するには少々無理がある。その間には少し説明が必要であるように思う。しかし、どのような解釈が可能かというとかなり恣意的な意見が入るだろう。従って個人的な解釈として次のような解釈を試みる。

まず、上記引用の後半部分

『空間から引き出されたイマージュの脅迫(obsession)をあまりにも強く蒙<こうむ>っているので、』(p.212 13行目-15行目:<>内は筆者によるふりがな)

ということから、『想起』も因果律に従って当然であると考えがちである。そうして、想起が一見無秩序に現れるように見えるということも、『想起』も因果律に従っている以上コントロールできて当然だと考える。従って、『どこに保存されているかを問わずにはいられない』という結果になる。

そして、先に出た、『実践の最大の利益を得るために諸事実の現実的な順序を逆転させることにとても慣れており、』の部分は、例えば、こういうことだろう。以前にも例があったが、われわれが、いま居る部屋から出るには入ってきた時と逆の順序で道をたどるだろう。それは、『想起』の時間の流れを逆転させることに他ならないだろう。それは『想起』が物理的な因果関係とは無関係であり得るからである。そのように、われわれは物理的な因果関係や時間による順序を逆転させることにあまりにもなれている、ということではないかと思われる。)

続きをみよう。

『物理-化学的な現象は脳<のなかで>起こり、脳は身体<のなかに>あり、身体は身体を浸している空気の中にある等々と、われわれは思い描いている』(p.212 15行目-16行目:<>内はテキスト傍点付き)

『しかし、ひとたび成就された過去が保存されているとすれば、この過去はどこにあるのか。』

と続く。これから先は、はじめに述べた通りなのだが、結構長い。簡単に要点だけを見ようか。

まず、われわれは、『脳の<なかで>』起こる『物理-化学的』な『分子変化(modification mole'culaire)』として、『脳実質に置く』と考えるだろう。(p.212 17行目-p.213 2行目)

『脳』という『現実に与えられた貯蔵庫』に過去に起きたこと、その『知覚』を『イマージュ』として保存しておけば、いつでも取り出せると思うだろう。(p.213 2行目-4行目)

しかし、ベルクソンは、このことによって様々な錯覚が生み出される、ということをここから主張し始める。ここから先のこの段落の構成はかなり複雑だ。

『忘れられているのは、容器と中身の関係が、その見かけ上の明晰さと普遍性を、前方ではつねに空間を開き、後方ではつねに持続を閉ざさなければならないというわれわれの陥った必然性から借りていることだ』(p.213 5行目-8行目)

ここでは、要するに、『脳』にすべての記憶が保存されているという考え方は、わかりやすくて普遍性もあるように思えるけれども、その考え方は、前にも述べた、何かをするときには『(物質)空間』を順を追って動く必要があり、『(純粋)想起』は、その起こった順番や時間とは切り離される必要がある、ということを言っている。

ここでは、いったん意味的にここで区切られ、このあと指摘するのは、

『ある事物が別の事物のなかにあるのを示したからといって、それによって、前者の事物の保存という現象を明らかにしたことには少しもならない』(p.213 8行目-10行目)

『それだけではない。さしあたりは、過去が脳に蓄えられた想起の状態で生き続けてると認めておこう。そのとき、脳は想起を保存するためには、少なくても脳そのものが保存されていなければならないだろう』(p.213 10行目-12行目)

という。ここまでは、解説なしに読めるであろう。

(2011/06/28 以下、説明がやや不十分で、第三章第七節の解説に書いていることの方が正確である。あとで、第七節に書いた部分を第三節に統合し、またこの部分の解説をより詳しくすることを検討する必要がある

2012/02/23筆者追記  第七節での検討も、現在読み返すと余り正確でないところも散見される。以下の部分はここで改めて検討し直し、第七節の記述は改めて、必要な部分を残し、誤りは記述し直すなどの対応を取ることにする)

このあとの文(p.213 12行目-p.214 1行目)自体は難しくないし、ベルクソンの書き方はやや煩雑なので要約し解説する。

われわれの人生に置いて脳が連続してこの『物理空間』上に存在するとすれば、われわれの記憶も、少なくてもわれわれが生きてる間はわれわれの脳に保存されているとしても良いだろう。しかし、すでにこの節の冒頭(p.202 2行目-8行目)で見たように、一般的にわれわれは、意識をわれわれの『心理状態の本質的な特性』と考えており、『心理状態は、意識的なものをやめると必ず存在することをやめるだろう』と考えている。

また、『この脳は空間内に広げられたイマージュである限り、もっぱら現在の瞬間を占めるにすぎない』(p.213 12行目-p.213 13行目)

(2012/2/23筆者注  上記引用文を追加)

では、われわれの『意識』は途切れる、ということを前提にしているのに、あなたは『物質空間』がとぎれないということをどうして保証するのか?

そのためには次のような事を想定しなければならなくなるだろう。まず、意識が途切れ、また意識が戻る時に、すなわち、すべての人の意識にとってということになれば、『この宇宙が紛うことない奇跡によって、持続のあらゆる瞬間に滅びては甦るということ想定しなければならない』(p.213 14行目-p.213 16行目)ということになるか、

もしくは、『あなたが意識に認めていない現実存在の連続性を宇宙に移し替え、宇宙の過去をも、その現在のなかで生き続け、そこへと引き延ばされる一つの実在たらしめなければならない』(p.213 16行目-p.214 1行目)。言い換えれば、意識には認めていないが、宇宙は現実存在しておりかつ持続のなかで連続であること、そして、意識を宇宙の物理的存在として移し替えたのであるから、われわれの過去も、宇宙の過去のなかに存在するということを認めないといけないではないのか?

(2012/2/23筆者注  上三段落追記)

というのが、ベルクソンの批判である。

一方で、ベルクソンは、自身の仮説で、

『意識が、<現在>の言い換えるなら現実に生きられたものの、更に言い換えるなら、要するに<行動するもの>の特徴にすぎないとするれば、そのとき、行動しないものは、たとえそれが意識に属することをやめるとしても、必ずしも、何らかの仕方で存在することはやめずにいられるだろう』(p.202 4行目-8行目)

と言っているので、この節では明示してないがこのために、われわれの記憶も連続して存在するということを保証している、と考えているのであろう。

元に戻ろう。

ベルクソンが『意識』が存在しなくなることを前提としていて、どうして、『物質空間が』が連続した時間のなかでとぎれることなく存在することを保証できるのか(もしくは、誰かの意識がなくなると同時に無くなり、しかし、他の誰かの意識に上がると同時に奇跡的に復活するのか)、と疑問を呈しているということはすでに説明した。
(2012/2/23筆者注  上記段落(もしくは、.........復活するのか)を追記)

ベルクソン自身がこのあとまとめているので見てみよう。

『それゆえあなたは、想起を物質のなかに蓄えても何の得にもならないだろうし、反対にあなたが心理学的状態に認めなかった過去の独立した全面的な残存を、物質界の諸状態へ拡張されるのを余儀なくされる』(p.214 1行目-4行目)

つまりは、『意識』がわれわれの『心理状態の本質的な特性』と考えること自体に無理があると言っているわけだ。

ここで一区切り付けられ、このあと、ベルクソンは先の、

『忘れられているのは、容器と中身の関係が、その見かけ上の明晰さと普遍性を、前方ではつねに空間を開き、後方ではつねに持続を閉ざさなければならないというわれわれの陥った必然性から借りていることだ』(p.213 5行目-8行目)

までで、一旦意味的に区切られた部分について、再び述べられ始める。

見ていこう。

『過去の<それ自体としての>残存は、それゆえ、どちらの形であれ不可欠のものとして課せられるのだが、あなたがこの残存を思い描くのに感じる困難さは、<含むことと含まれること>の必要性 -これは空間内で瞬時に見いだされる諸物体の全体にしかあてはまらない- をわれわれが時間のなかの想起の系列に付与することに由来している』(p.214 4行目-7行目:<>内はテキスト傍点付き)

(2011/06/28 この部分は唯物論においても過去は全面的に保存されるということを意味していることを第三章第七節の解説において書いている。

2012/02/23追記 先の追記で述べたように第三章第七節は修正を考えている。また、唯物論においても、過去の全面的保存が主張されるのは間違いないが、ここで、それを主張しているというのはすこし、考え過ぎかもしれない)

つまり、『想起』が順番どおりに『脳』のなかに記憶されると考えてしまうことが問題だ、と指摘してるのであろう。

こうして、やや曖昧な記述のまま、この節の最後の文章を迎える。つまりは、このことが、次の節のテーマになるのだろう。

『根本的な錯覚はわれわれが持続に施す瞬間的な切断面の形を、過ぎゆく持続そのものへと移し替えることに存しているのだ。』(p.214 8行目-9 行目)

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識について (中)


ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識について (中)

次の段落(p.205 15行目-p.206 9行目)に進もう。

最初の数行は、もう一度、ケーキを装飾するクリーム絞り器のたとえを使って説明したい。

口金の出口の部分が意識だとしたときに、飾られる側のケーキは、『われわれがこれから知覚するものを表象している』(p.205 16行目−17行目)と考えられる。

一方で、クリーム絞り器の中にあるクリームは、『すでに知覚されたものだけ』(p.205 17行目−p.206 1行目)のはずである。

『ところで、過去はわれわれにとってもはや利害を有していない』(p.206 1行目)

少し省略して、

『反対に、直接的未来は、差し迫った行動のうちに、まだ費やされていないエネルギーのうちに存する』(p.206 3行目−4行目)

蛇足ながら、この文の解釈は、『直接的未来は』、『行動』と『エネルギー』のどちらかかどちらか両方のうちにあるというのが正しいと思う。

この段落は、ここからあとの文章が、一文が長くかつ難解である。

まず、

『物質的宇宙の知覚されていない部分は、数々の見込みと脅威に満ちていて、それゆえ、われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない実在性をわれわれに対して有している。』(p.206 4行目−7行目)

は、とりあえず、

『物質的宇宙の知覚されていない部分は、数々の見込みと脅威に満ちていて、』(p.206 4行目−5行目)

『それゆえ、われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない実在性をわれわれに対して有している。』(p.206 5行目−7行目)

とに分けてみたい。そうすると前半分の方は特に難しくはないのが分かるだろう。

後半部分、とくに、

『われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない実在性』(p.206 5行目−7行目)

の解釈が難しい。ひとまず、この部分をおいといて、最後の、

『われわれに対して有している。』(p.206 7行目)

の主語を考えよう。そうすると、これは、明らかに、

『物質的宇宙の知覚されていない部分は、』(p.206 4行目)

であろう。

残るは、

『われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない実在性』(p.206 5行目−7行目)

の部分の解釈だが、

『われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない』(p.206 5行目−6行目)

が、『実在性』(p.206 6行目−7行目)を修飾し、引用文の主な骨格としては、

『物質的宇宙の知覚されていない部分は(主語)、(中略)実在性を(目的語)われわれに対して(目的語)有している(述語)。』(p.206 4行目−7行目)

と考えていいのではないかと思う。

さて、残るは、『実在性』を修飾している

『われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない』(p.206 5行目−6行目)

の部分であるが、これがまた難解である。しかし、これは、ざっくりと『純粋想起』と捕らえて良いと思う。つまり、意識が認識できるのは、先に挙げたたとえで言うと、口金にあるクリームであろうから、それより奥にあるクリームは認識できない。そのことを『現下には認識されざる』と言っているのだと考えると『過去の生存のうち』も『(純粋)想起』のことを言っているのだな、と見当がつくだろう。したがって、『過去の生存のうち』を『(純粋)想起』全体の中で、と捕らえることができ、『現下には捕らえることができない諸期間』というのは、意識に捕らえられていない部分、言い方を変えれば、思い出すことによって『イマージュ』となっていない『(純粋)想起』を言っているのだろう。

そうすると、『有しえず、また有することがあってはならい』というのも、『(純粋)想起』はただの情報でしかないというこれまでの主張と何ら変わらないということが分かる。

さて、ここまで来れば、難解だったこの一文も、単に、『物質的宇宙の知覚されていない部分は』、『(純粋)想起』にはない『実在性をわれわれに対して有している』。というのが、大まかな意味だというのが分かっていただけたであろう。そして、そこには『数々の見込みと脅威に満ちている』ため、という、ある種の非常に情緒的な理由が挙げられている。

最後の文をみよう。

『しかし、この実利的な有用性や生活の物質的欲求とまったく相対的なこの区別は、われわれの精神の中では、ますますはっきりした形而上学的な区別の形を取るのである』(p.206 7行目−9行目)

『区別』ということさえはっきりさせれば、一見難解と思えるこの文も、意味がはっきりする。『区別』とは、前文における『物質宇宙の知覚されていない部分』と『われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間』の区別であり、少し遡れば、『過去』(p.206 1行目−2行目)と『直接的未来』(p.206 3行目)の『区別』であるということが分かる。蛇足ながら『過去』はここでは『純粋想起』に置き換えられることは、賢明な読者には自明のことであろう。

『区別』が何かがはっきりしたので、この文の解釈を簡単にまとめると、『直接的未来』は、『数々の見込みと脅威に満ちている』ために、『実在性』をもち、われわれの『過去』、ここでは、ただの情報である『(純粋)想起』は『有しえず、また有することがあってはならない』ということを、一つ前の引用文でベルクソンが書いているのを見たが、それらの『区別』は、『実利的な有用性や生活の物質的欲求とまったく相対的』な『区別』であるにもかかわらず、『われわれの精神のなかでは、益々はっきりした形而学的な区別の形をとる』とベルクソンは指摘している、ということになる。

そして、このことが前の段落でベルクソンが述べていた、

『その際、時間は、時間において継起する諸<状態>を次第に破壊していくのに対して、空間はそこに、並置されている諸<事物>を限りなく保存するように思われる』(p.205 7行目−10行目:<>内はテキスト傍点付き)

という、『錯覚』の『いくつかの本質的な点を指摘する』(p.205 14行目)と述べていたうちののうち、少なくても一つの『指摘』ということになるだろう。


では、次の段落(p.206 10行目−p.208 3行目)を見てみよう。ここでは前段落で示された『指摘』の詳しい説明となる。まず、はじめの部分を引用する。

『実際、すでに示したように、われわれの周りに置かれた諸対象は、われわれが諸事物に対して実行できる作用、あるいはわれわれが諸事物から被らなければならいだろう作用を、様々な程度で表象している。』(p.206 10行目−11行目)

最初の、『実際、すでに示したように』とは、二つ前の段落にもあった『この著作の第一章のなかで、われわれが客観性(objectivité)を扱ったときに行われた』(p.205 10行目−12行目)と同じことを言っているのであろうと思う。引用のその後の部分はあまり難しくはないだろう。内容のより具体的記述は、このあとに述べられているので、順次説明していきたい。
(興味のある方は、p.31 10行目−12行目の傍点部『知覚は行動が時間を自由にするのとちょうど同じだけ空間を自由にするのだ。』あたりが、相当すると思われるのでそのあたりを参照していただきたい。)

(2012年2月14日筆者注: 引用文と説明の順番を入れ替え説明文をさらに付け加えるなどの編集をした)

このあとの数行を、簡単に要約すると、先の段落で述べていた『直接的未来』の『脅威』ということについて、『未来』と『空間』との直接的つながりを陳べ、わかりやすく説明している。たとえば、

『空間における距離は、時間における脅威あるいはその見込みの近さを測り示している。』(p.206 13行目−14行目)

『それゆえ空間は、われわれの次なる未来の図式をわれわれに、このように一挙に与えている。』(p.206 14行目−15行目)

というように。

そして、われわれ人間にとって時間は無限に未来方向に続くわけと考えてもよいわけだから、『未来を象徴化している空間は』(p.206 16行目)、時間と同様に無限に広がっている(テキストでは、『その不動性において、無制限に開かれたままである』(p.206 16行目−17行目))ことを『特性としている』(p.206 17行目)。

と、いうことになるために、われわれは、知覚できる範囲という『圏(circle)』、それを含む、知覚できないが存在しているであろう『圏』、されには、それを含むであろう『圏』というような想定を無際限に繰り返し、そのことを矛盾のないことと見なす。

『したがって、それが延長である限り、われわれの現在の知覚は、それを内包するより広大で、無際限でさえある経験に比してつねに<含まれるもの=内容(contenu)>でしかないことを本質としている』(p.207 3行目−5行目、<>内は傍点付きとイタリック)

この引用において、『経験』というのが何を示すか具体的には難しいが、いわゆる科学を、哲学では、「科学的経験論」と呼んだりするが、このような、いわゆる、無限の内包関係をもち広がる圏のなかで現在という瞬間に生じている物理学的な法則に支配されて起るようなな事象のことを『経験』と言っているのではないかと思われる。

(2012年2月11日筆者注:『経験』についての解釈を変更した)

『この経験は、認知された地平をはみ出しているのだからわれわれの意識にとっては不在なのだが、それでも現実に与えられているように見える』(p.207 6行目−7行目)

と続く。『認知された地平をはみ出して』いるような『経験』ということだから、この『経験』をわれわれが感知することがない場所で発生しているはずの物理現象と捉えても矛盾しないと思う。

(2012年2月29日筆者注 上記段落の表現を変更)

さて、このように『物質的対象』(p.207 7行目−8行目)は、われわれの『知覚』できない部分であっても、強大な影響力を持っているとわれわれは感じる(ベルクソンの言葉で言えばわれわれはそれらに『引っかかってるように感じる』)ために、われわれは『それらを現存する実在と仕立て上げる』のに対し(p.207 7行目−9行目を要約)、

『反対にわれわれの想起は、過去のものである限り、われわれが自分と一緒に引きずっている足手まといであり』(p.207 9行目−10行目)

つまりは、なかったものとして考えたい、ベルクソンの言葉で言うと『解放されたふりをする方を好む』(p.207 10行目−11行目)わけである。

次の一文は『それによって』が難しいが、文の内容はこれまでの繰り返しなので、詳しい説明は省き、『それによって』は『本能』と等しいことだけを指摘しておく。

『われわれがそれによって自分の前に空間を無制限に開くところの本能とおなじ本能ゆえに、われわれはわれわれの後ろで、時間が過ぎ去るにつれて時間を閉め出す』(p.207 11行目−12行目)

(2012年2月14日筆者注:上記引用文を挿入)

次の行をみよう。そこには同じ内容の繰り返しがあり、ここまでのまとめが書かれている。

『実在は、延長である限り、無限にわれわれの知覚をはみ出しているようにわれわれには見えるのだが、反対に、われわれの内的生のなかでは、現在の瞬間と共に始まるものだけが実在的であるようにわれわれには思われ、その他のものは事実上消滅させられている。』(p.207 12行目−15行目)

長い文であるが、内容、構成は難しくはないだろう。一応、説明をしておくと、『実在』すなわち、『空間』に広がる『物質的存在』は、無限の内包関係のなかにあるようにわれわれには思われる。そのために、『無限にわれわれの知覚をはみ出しているようにわれわれには見える』。一方、『内的生』における『実在性』は、われわれには未来方向へ無限に続くと思える『現在の瞬間』において『知覚』しうる『経験』(p.207 5行目)だけが、『共に始まる』ものだけだ。その他、つまり、『直接的未来』(p.206 3行目)に関係しない 『われわれの想起』(p.207 9行目)などは、『事実上消滅させられている』と、言い換えることができるだろう。

(2012年2月12日筆者注、上記段落「われわれには未来方向へ無限に続くと思える『現在の瞬間』において『知覚』しうる『経験』(p.207 5行目)だけが、」の部分、草稿から一部表現を変えたが、意味的にはかなり変わっている)

だから、われわれには、『想起が意識に再び現れるとすれば、幽霊のような印象』となり、そのことを、さまざまな『特殊な要因』をもって説明する(p.207 15行目−17行目を要約)

さて、この段落の残りは、次の段落への投げかけになっているので、単に引用だけして、一旦、この段落の説明を終わりたい。

『実際、この想起がわれわれの現在に貼り付くことは、気づかれていない諸対象がわれわれの知覚している諸対象に貼り付くことに、完全に比較することができる。そして<無意識>は、二つの場合いずれにおいても、同種の役割を演じているのである。』(p.207 17行目−p.208 3行目、<>内はテキスト傍点付き)


次の段落(p.208 4行目−p.210 3行目)をみよう。

この段落は、こう始まる。

『しかし、われわれはそのように事象を表象することに非常に苦労を感じる』(p.208 4行目)

これは、まず、われわれの『錯覚』(p.205 10行目)についてまた一つ述べる、ということであり、その『錯覚』を述べることによって前段落の終わり(p.207 17行目−p.208 3行目)で述べられたことを説明する、ぐらいの意味だと取っておいて良いだろう。

さて、実際は、前段落の終わり(p.207 17行目−p.208 3行目)で述べられたようにあることを、『苦労に感じる』のか?それは、先に要約して言うと、知覚できる空間において、短い時間で変化するものは、『差異を強調し』、ゆっくりとしか変化しないつまり『類似』は『目立たなくする習慣を付けてしまったからだ』とベルクソンは言う。引用しよう。

『空間の中に同時的に並べられた諸<対象>と、時間のなかで継起的に展開された諸<状態>との差異を強調し、反対に類似を目立たなくする習慣を付けてしまっているからだ』(p.208 4行目−6行目:<>内はテキスト傍点付き)

言い方を変えれば、単位時間において、空間内の変化が急であるもの(『差異』)に対しては、われわれの知覚は敏感に反応するのに対し、わずかしか変化しないもの、ベルクソンの言葉で言うと『類似』のものに対してはあまり、反応しようとしない。

このことは、ベルクソンによると『習慣づけている』というが、われわれの視覚はすでにそのようなメカニズムになっているというのが、現代では分かっているが、しかし、訓練しだいでは、逆のことができるので、『習慣づけている』と言っているのであろう。

このような見方をすると、逆に、なぜ、訓練次第では、視覚のメカニズムに対して、逆のこともできるようになるか?という疑問も当然出てくるだろう。つまり、われわれは、目のメカニズムに従うことを『習慣づけている』わけである。

続きをみよう。

『前者において、諸項は完全に決まった仕方でお互いを条件付けており、』(p.208 7行目)

とあるが、これは、『前者』と『諸項』が何を指すかが問題であるだろう。

『前者』は『空間の中に同時的に並べられた諸<対象>』(p.208 5行目−6行目)であり、『諸項』は、『諸<対象>』と同じである。なぜ、『諸項』という言い方かというと、ここでは、このあとの文で、

『その結果、各々の新たな項の出現は予測されることができた。』(p.208 7行目−8行目)

続くことから、やや深読みした解説をすると、『予測されることができる』のは、一般に、科学の法則に従う場合であり、科学の法則は、再現性といって、誰がいつやっても同じ結果になる、ということが保証された法則のことだ。ここでは、物理学の法則と言っても良いだろう。

『空間の中に同時的に並べられた諸<対象>』(p.208 5行目−6行目)、『完全に決まった仕方でお互いを条件付けて』(p.208 6行目)などの言い方から判断すると、当然『諸<対象>』は、一般に、物質全般であり、いわゆる「物」である。それは物理学の法則で支配されているために予測可能だ。物理学の世界は、「物」は、計量できる『諸項』の関係性で表現可能な世界あるから、特に、物理学の法則で支配されていると言うことを強調するために『諸<対象>』を『諸項』と言ったり、われわれが普通に「物」と言ってるものを『項』と言っているのであろう。

それゆえ、われわれは、どこかへ行こうとするときに思い浮かべた道を通ればいい。直接知覚できなくても物理的に質量の大きい道が急になくなったりはしないというのはその性質上分かっている。

(2012年3月1日筆者注 上の段落、あとの文を付け加え、『しかし、』を次の段落の初めになるように切り離した)

しかし、

『反対に、私の想起は見たところ気まぐれな順序で現れる。』(p.208 9行目−10行目)

このあと、

『それゆえ、表象の順序は一方では必然的であり、他方では偶然的であって、(以下文末まで略)』(p.208 10行目−12行目)

と続く。

(2012年2月29日筆者注 上『続く。』以下削除)

以下、このことの詳細な説明となる。順番に見ることにしよう。

『知覚せざる諸対象の全体が与えられていると想定することに私が何の不都合も覚えないのは、』(p.208 12行目−13行目)

要するに、それらが物理法則に従うと考えているからで、物理法則は完全に原因があって結果があるという、因果律であるので、

『これらの対象の厳密に定められた順序がそれらにさらに一つの連鎖の様相を与えており、』(p.208 13行目−14行目)

『私の現在の知覚はもはやその連鎖の一つの環でしかないからだろう。』(p.208 14行目−15行目)

ここまでをまとめると、われわれの知覚というのは、因果律である物理法則が支配することが当然と一般に考えられている無限の内包関係もつ空間の一部の作用であるということをわれわれは、常識としてわきまえているからだ。言い換えれば、すなわち、物理世界は因果律に支配されていることはわかりきったことであるので、知覚はその一部しか受け取らずとも、『知覚せざる諸対象の全体が与えられていると想定することに』、われわれは、『なんの不都合も覚えない』ということであろう。

(2012年2月14日筆者注 草稿の上記段落部分は、記述がわかりにくいと思われたので、すべて記述を改めた)

『しかし、仔細に眺めるならば、われわれの想起も同種の鎖を形成しており、われわれのあらゆる決定につねに随伴するわれわれの<性格>なるものも、まさにわれわれの過去の状態すべての現実的総合であるのが分かるだろう』(p.208 15行目−17行目:<>内はテキスト傍点付き)

この、われわれの想起及び性格の記述は、特に、性格については、納得できない人もいるだろう。ベルクソンの主張においては、われわれの『意識』が『知覚』を受け取ったときの行動は、もっぱら『純粋想起』に従って行われる、というのはこの章でも見てきたとおりである。そして、前章によると、『純粋想起』は『身体の論理』によって曖昧さを許さないところまで分解され、レコードの溝のように記録されているのであり、意識は、無意識が、現代コンピュータのようにパイプラインに並べた、『純粋想起』を現在の瞬間において処理し続けていく、と言うことであったことを思い出して頂きたい。そこに性格というものがあるとベルクソンは考えている解釈できるのではないだろうか。

(2012年2月29日筆者注 上記段落、最後の一文を追加)

余談だが、ベルクソンには笑いについて書いた著作がある。笑いについて、ベルクソンの主張は、それが、連続から不連続に移るときに起こると主張し、これこそが、人間の人間たる理由であると主張していると記憶している。余談終わり。

さて、続きであるが、

『このような凝縮されたかたちのもと、以前のわれわれの心的生はわれわれにとって外的世界より以上のものとして存在しさえする』(p.208 17行目−p.209 2行目)

なぜなら、知覚は、光円錐の未来側として説明したようにわれわれの受け取るものはごく限られているのに対し、われわれの無意識は知覚に対応して、それこそ、無意識のうちに、受け取った知覚に対するさまざまな純粋想起とのあいだの膨大な照会・照合の処理をしているわけであるから、すなわち、われわれの記憶(=過去)全部を使っている、と言い換えても良いだろう。(p.209 2行目−3行目を要約・解説)

以下、このことについての詳しい説明がなされている。特に難しいところはないようなので要約すると、われわれの記憶は、要約された形で保存されていて、過去に知覚された部分については、すべて破棄されているか気まぐれに出現するようにわれわれには見える。(p.209 3行目−7行目)

(2012年2月14日筆者注 上の段落は二段に分かれていた部分を一つの段落にした。
 2012年2月29日追記 また後半部分の内容をテキストに沿う形で書き改めた)

『しかし、この完全な破壊あるいは気まぐれな甦りの外見は、現在の意識が各瞬間に有益なものを受け取り、余計なものを一時的に閉め出すことに由来する。』(p.209 7行目−8行目)

以下、先に要約して述べると、役に立つ記憶だけが『意識』によって活用される、ということを書いてあるのだが、そのためにいろんな現象も起きることによって、上に述べたような『知覚』の記憶についての錯覚も起きると説明できる、と続く。やや、難しい表現もあるので、順を追って見ていこうと思う。

『つねに行動へと向けられたわれわれの意識は、われわれの古い諸知覚のうち、最終決定に協力するために現在の知覚と一緒に組織されるものだけを物質化できる。』(p.209 8行目−10行目)

上の文の『われわれの意識』についての『つねに行動へと向けられた』という修飾は、この章で見た『感覚‐運動的』な『現在』をあつかう『意識』の働きであろう。そう考えると、『われわれの古い諸知覚』は、『イマージュ想起』ではなく、ここで扱っている『想起』は、これまでどおり『純粋想起』と考えるべきなのだろう。『知覚』の『物質化』も、いわゆる、「思い出す」と言う過程の中で神経回路の興奮によって『物質化』されると考えてきたのだから、つじつまは合う。従って『最終決定に協力するために一緒に組織される』という部分も、第二章で見た『注意』の働きではなく、『無意識』が、結果として『感覚‐運動的』な処理を司る『意識』のために用意したものなのである。

(2012年2月29日 二段落削除)

さて、続いて、次の行。ここも難しいが、上述のようにここでは、『感覚‐運動的』な『意識』についての記述であるとふまえておけば、少しはわかりやすくなるだろう。

『私の意志が空間の一定の点に現れるために、私の意識は、全体で<空間における距離>と呼ばれるものを構成している数々の中間物あるいは障害物を一つ一つ超えなければならないのだが、それに反して、この行動を照らし出すためには、現在の状況を以前の類似した状況から隔てている時間の隔たりを飛び越えることが私の意識にとって有益である。』(p.209 10行目−14行目:<>内はテキスト傍点付き)

実は、よく見ると、そんなには難しくない。表現の仕方がややこしく、一文が長いだけだ。見てみよう。

『私の意志が空間の一定の点に現れるために』が戸惑う表現だが、ごく簡単に、「われわれが何かをしようとすると」で良いだろう。いまは『感覚‐運動的』な『意識』を扱っているとだけ、気をつけておけばいい。そうすると、あとはごく簡単で、「何か行動しようと思ったら、障害物は避けないといけないけれども、そのとき、われわれの『純粋想起』は、その記憶を経験した時期とは無関係に思い出されるようになっていないとわれわれは何もできないだろう」、という程度の意味だということがお判りいただけるだろう。

このような、われわれにとってごく当たり前のことが、ベルクソンの指摘によって、重要な意味を持っているというとを改めて認識させられる。ここが、この段落のクライマックスである。

『私の意識はこのように、以前の類似した状況にひと飛びで身を移すのだから、過去の中間部分はその全体が私の意識の手から逃れている。』(p.209 14行目−16行目)

およそ意味はおわかりであろうが『過去の中間部分』というのは、『ひと飛び』で飛び越えられた部分ということで良いと思う。空間内の行動と違って『感覚‐運動的』である『意識』は想起の順序を追わないということを強調しているのだ。

以下の行は、ここまで分かると難しくないと思うので解説を省略しよう。内容も上記引用文とほぼ同じである。あとで必要になったら、また改めて引用することにしたい。

2012年2月29日水曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識について (上)



今回は、第三章第三節『無意識について』(p.201 14行目−p.214 9行目)について、段落ごとに解説します。

今回の節は、比較的長めなので結果として何回かに分けることになると思います。ご面倒とは思いますがご了承ください。

さて、この節は、無意識を扱う。第二章でも扱ったのを覚えているだろうか。そのときは『注意』することによって、『純粋想起』に『イマージュ記憶』がおそらく再帰的に当てはめられていくのだろう、という話をしたはずだ。では、ベルクソンがこの節では、無意識についてどう話しているか見てみよう。

(2012年1月30日筆者注:第二章での『注意』に関しての説明の部分では、無意識と明示されてはいないが、例えば、失語症に関する事例にもそのような部分があった。象徴的なものとしては、アルファベットのうち'F'なら'F'のみを認識できない事例である。無意識のうちに'F'を認識できないのであればどうしてその文字だけが認識できないかという意味で象徴的である)

第一段落(p.201 15行目−p.203 10行目)は、こう始まる。

『純粋想起のこの根本的な無力さは、どうして純粋想起が潜伏状態で保存されるのかということをわれわれが理解するのにまさに役立つであろう』(p.201 15行目−16行目)

なかなかに謎の言葉が、ここから続いていくのであるが、「ベルクソンさんは今回はきっと『純粋想起』を手がかりに無意識について話してくれるんだろうなあ」ぐらいに考えてひとまず先へ進んでいこうと思う。

『問題の核心にさらに踏み込むことはしないで、われわれは次のことを指摘するにとどめたい』(p.201 16行目−p.202 1行目)

少し先へ進むとわかるのだが、今回はまず、次のことをテーマとして上げて考えてみようという意味で言っている。

『すなわち、<無意識的な心理状態>を考えることへのわれわれの嫌悪は、とりわけわれわれが意識を心理状態の本質的な特性とみなすことに由来しており、そのため、心理状態は、意識的なものをやめると必ずや存在することをやめるだろうと思われているのだ』(p.202 1行目−4行目:<>内テキスト中、傍点付き)

続きもあるが、まず、少しだけ解説しよう。文章の区切りとしては、

『すなわち、<無意識的な心理状態>を考えることへのわれわれの嫌悪は、とりわけわれわれが意識を心理状態の本質的な特性と見なすことに由来しており、』(<>内テキスト中、傍点付き)

までが一つのまとまりで、『意識』をわれわれの『本質的な心理状態』と普通は考えているから、『<無意識的な心理状態>を考えること』を『嫌悪』している、と書き直すこともできるだろう。

このことをわかっていただければ、あとは易しいので、説明は省略し、次の行から見てみよう。

『しかし、意識が、現在の、言い換えるなら現実に生きられたものの、さらに言い換えるなら、要するに<行動するもの>の、特徴にすぎないとすれば、そのとき、行動しないものは、たとえそれが意識に属することをやめるとしても、必ずしも、何らかの仕方で存在することはやめずにいられるだろう』(p.202 4行目−7行目)(<>内テキスト中、傍点付き)

(2012年1月30日筆者注:上記引用の後半部分、

『そのとき、行動しないものは、たとえそれが意識に属することをやめるとしても、必ずしも、何らかの仕方で存在することはやめずにいられるだろう』

の部分、『行動しないもの』というものが何かということであるが、ここでは暗に『純粋想起』を指しているものと思われる)

とりあえず、ここまでを今回のテーマとして考えてもいいだろう。そのために、全文を引用した。

さて、続きをみよう。次の文も、文章が難しいこともあり引用して解説する。引用文は一文が長いのでわかりにくいと思い、二つに分けている。

『言い換えれば、心理学的な領域において、意識(conscience)は現実存在(existance)の同義語ではなく、単に、現実的行動あるいは直接的効力の同義語であって、』(p.202 8行目−9行目)

『この語の外延がそのように制限されれば、無意識的な心理状態、言い換えるなら、結局のところ無力であるような心理状態を思い浮かべるのに、それほど苦労しないだろう』(p.202 9行目−10行目)

その上で、前半は実は単語が難しいだけであるのがわかる。前節の主張の繰り返しだ。

後半部分も実は難しい語句が並んでいるだけで、『この語の外延がそのように制限されるなら』、というのは、『意識』という曖昧な言葉を、『単に、現実的行動あるいは直接的効力の同義語』と『制限するなら』という意味で使ってるにすぎない。残りの部分であるが、つまりは、そう制限するなら、あとは前章の『注意』のところで述べた現代パソコンのCPUでいう、パイプラインに相当するような『無意識』と『根本的に無力』な『純粋想起』とを想定してると、ここでは考えられるだろう。

次の行もやや難しいが、こう要約するならば、理解してもらえるだろう。ベルクソンの主張では『意識が、現在の(中略)、要するに行動するものの特徴にすぎない』(p.202 4行目−6行目)のであった。従って、たとえ、ここでわれわれが意識について『どのような観念を作り上げるにせよ』(p.202 12行目)、肉体(『身体的諸機能を遂行している存在』)を持っている以上、『意識』の役割は、『行動』と『選択』である。

『意識はそれゆえ、決断の直接的前件ならびに、過去の数々の想起とともに有益に組織されうるこれら想起の前件のすべてに光を投げかけ、残りのものは闇の中にとどまる』(p.202 14行目−16行目)

ここでの『前件』という初めて現れた言葉がなにを指すのかが難しい。

『純粋想起』、肉体の論理によって曖昧さのないところまで細分化されている、一連の行動である、というのはすでに第二章で説明した。

そこで、まず、ある二つのコンピュータサイエンスでの用語を解説すれば、厳密には一致しなくてもわかりやすくなるかもしれないと思う。「タスク」と「プロセス」の違いである。一般に「タスク」とは、人間がコンピュータにさせたい仕事のまとまり、「プロセス」はコンピュータの内部処理上での意味のまとまりのことだ。たとえば、パソコンであるネット動画を再生させる。これはわれわれ人間にとってマウスのワンクリックで済むひとつの「タスク」だ。一方で、コンピューターにとって、動画のデータを読み込み、内容を表示させるまでの様々な仕事が存在するであろう。そういうものを「プロセス」という。(他ににたような言葉で「スレッド」と言うのもある。「スレッド」は、「プロセス」がさらに分解された微少な行動のまとまり、あるいはコンピュータのプログラムで言えば関数やクラスに相当すると思っても良いだろう)

ところで、この『前件』は「タスク」なのか「プロセス」なのか?「タスク」と考える人もいるだろう。しかし、ベルクソンの言う『意識』の現在性というものを考えると、ここでベルクソンの言っている『前件』とは、ある一つの「プロセス」に相当するものだ、言っていると思われる。

つまり、上記引用は、『意識』はわれわれの行動に直結する直接の『前件』(プロセス)及び、その直後に起こるであろう一続きの『(純粋)想起』に属する『前件』だけに『光を当て』て、すなわち言い換えればそれらだけを意識し、ほかのものに関しては『闇の中にとどめる』と解釈できるだろう。

(2012年2月29日筆者注 上段落を追加)

こう書くと、混乱する人もいるだろう。一般的な『意識』の観念とは違うことを言われている気がするからだ。われわれの読者側の納得できないような複雑な気持ち察してか、ベルクソンは次の行にこう書いている。

(2012年2月29日筆者注 「一般的な『意識』の観念とは違うことを言われている気がするからだ。」の一文を追加)

『しかし、われわれはここに、われわれがこの著作の冒頭から追求しているような錯覚、絶えず甦ってくるような錯覚を再び見いだす。意識は、たとえ身体の諸機能と結合されていても、たまたま実践的であるだけで、本質的には思弁の方を向いた能力であるというのだ。』(p.202 16行目−p.203 2行目)

これは、ベルクソンは錯覚というが、われわれほとんどの人間は、大いに納得できるベルクソンに対する反論だろう。

ここからあと、しばらく書かかれていることは、この段落だけ見てもわからないだろう。まず、次の段落(p.203 11行目‐p.206 9行目)に詳細があるということを、その段落初めの部分を引用して示し、この段落の残りの部分は要約だけを示し、必要があれば、戻って解説することにしたい。

(2012年2月29日 上段落については内容をそのままに表現を大幅に変更した)

『この最後の点を強調しておこう。というのもそれが無意識の領域を問題を取り巻く諸困難の中心であり、それを取り巻く曖昧さの源泉であるのだから』(p.203 11行目−12行目)

この文章の解釈は、次の段落の解説でするとして、いまは、次の段落で要点を詳しく説明するのだな、と了解していただければいいと思う。では、この段落の残りの部分の要約を示そう。

『意識は、(中略)本質的に思弁の方を向いた能力である』(p.202 17行目−p.203 2行目)

というのが、有力なベルクソンへの反論ではないか?と述べた。それに対して、ベルクソンは、

『意識は純粋な認識にゆだねられているので、意識が保持している諸知識を取り落とされることで意識が利益を得るなどという理屈が通らないのと同様、意識が意識にとって完全には失われていないものを明らかにするのを断念しているということも納得されない。』(p.203 2行目−5行目)

つまり、『意識』を『意識』するような「メタ意識」などというものは存在しないじゃないか、と反論している。現在の状況を処理するための『意識』を理解する『メタ意識』があって初めて、いわゆる「タスク」を処理していると理解してるのではないのか?という反論と理解して良いだろう。

(2012年2月29日筆者注 上の引用は非常に難解だ。したがって、本文でわかりやすく解説したつもりが、そうなっていないかもしれない。そこで、この注記によって再度考察してみたい。

まず、『意識が純粋な認識にゆだねられているので』というのは、哲学でいうところの独断論的な純粋認識を想定していると思われる。その様な場合、『意識が保持している諸知識を取り落とす』ことというのは、意識と理性が一致するということであり、その場合、(ベルクソンが考えているような)本来的な意識のもつ知識が取り落とされ、結果(独断論的な)『意識(=理性)得をする』というのは、つまり、『独断論』の根底的な欠陥を批判していると思われる。つまり、『理性』を無批判にブラックボックス化することに対する批判と思って良いのではないか

さらに、『意識が意識にとって完全には失われていないもの』という部分はおそらくここまでのべた『無意識』あるいは、現在は無力であるような『(純粋)想起』を想定しているのだろう。そして、その絶えず進行していく現在において、その『純粋想起』の『感覚‐運動』の仕組みが次々に変化していく、従って、『光をなげかけ』る『想起』も次々に変わっていく、その仕組みに対しての説明も必要なのだが、それについて放棄する(『明らかにすることを断念している』)仮説についても『許されない』と批判していると解釈できる。つまりは、この部分は、『知覚』と『想起』に本質的に程度の差しか見ないような、『観念論』や『心理学者達の説』を批判していると思われる)

したがって、ベルクソンが言うには、われわれの考えるようなベルクソンに対する反論は、

『意識が事実的に所有してるものだけが権利的に意識に属しており、また、意識の領域において実在的なものはすべて現在性を有していることになる』(p.203 5行目- 7行目)

端的に言えば、本来なら存在しないはずの「メタ意識」、と『諸知識』を保持しているはずのその「意識」とを、現在性ということのみに着眼しすることで混同して、その区別が付いていないのではないか?と指摘している、と考えても良いだろう。

(2012年2月29日筆者注 「メタ意識」という言葉をたくさん使っているが、この当時、哲学的な知識に乏しかったため(いまもあるとは言えないが)であり、当時の思考の指向は計算機理論にメタファーを取ることが多かったためである。専門家の方から見れば噴飯ものの推論かもしれないが、技術者出身の私の当時の思考はそれなりに興味深いものがあるので(無知すぎる現在と当時を思い返す恥ずかしさから来る冷や汗とともに)、このままにしておきたい。)

しかし、現在性とは、物質は確かにイマージュとして外界に存在し、過去はそれだけでは無力なものとしてわれわれの中に存在するのだから、われわれの意識は『感覚-運動的』なものであったはずだ。(p.203 7行目−10行目の要約)

結論として、われわれが『本質的に思弁の方を向いた能力である』と考えているような『意識』は、一般に『意識』と思われているものは、実は「メタ意識」と言った方が適切であり、本来存在しないはずだ、と指摘しているとも考えてはよいのではないだろうか。

(2012年2月9日注:上記段落において、内容はほぼそのままに表現を変更した)


さて、次の段落(p.203 11行目−p.205 14行目)はベルクソンの詳細なる解説であるはずだ。一度引用した部分であるが、再度提示しよう。

『この最後の点を強調しておこう。というのもそれが無意識の領域を問題を取り巻く諸困難の中心であり、それを取り巻く曖昧さの源泉であるのだから』(p.203 11行目−12行目)

『この最後の点』というのがまず問題だが、これは、前段落で要約した部分のことである。ここで必要になったので、すこし戻って引用しよう。

『しかし、意識にその真の役割を返してみなさい。そうすれば、私が物質的対象を知覚するのをやめるとき物質的対象は存在するのをやめるのだと想定する理由がなくなるのと同様、過去はひとたび知覚されれば消えてしまうと言う理由も存在しなくなるだろう』(p.203 7行目−10行目)

少し長くなったが、全文を引用した。この引用で、要点を指摘すれば当然『しかし、意識にその真の役割を返してみなさい』であろう。そうしたときに、今度は無意識についても、その役割がはっきりしてくる。

『<無意識的表象>の観念は、流布されている偏見にも関わらず明白なものである。』(p.203 12行目−13行目、<>内はテキスト傍点付き)

ここから、少しだけ要約して続けると、われわれは、現在、知覚してる『イマージュ』だけが『物質の全体ではないということは誰もが認めている』(p.203 14行目−16行目)

『しかし他方、知覚されない物質的対象、イマージュ化されないイマージュは、一種の無意識的な精神状態でないとすれば、いったい何であろうか』(p.203 16行目−17行目)

ここで、『イマージュ化されないイマージュ』とは、『注意』によって『イマージュ中枢』に『イマージュ化されない』と解釈いいだろう。『イマージュ記憶』というわけではないのは聡明な読者の方々なら明らかと思ったが念のために注釈を加えた。

さて、以上のように『無意識的な精神状態』を考えるとき、『実在論者であれ観念論者であれ』(p.204 3行目)、何かの対象、たとえば『町や通りや家の他の部屋について話しているとき』(p.204 4行目)、

『それだけ多くの知覚、あなたの意識のうちにはないが、それでもあなたの意識の外に与えられているような知覚に思いを馳せている。』(p.204 4行目−6行目)

ここでの文を分けたのは、見やすさのためだけなのだが、ここで『知覚』に『思いを馳せている』という言い方には注意して欲しい。『知覚』は、もちろん『想起』ではないのであるが、『思いを馳せている』ということが、いわゆる、「思い出す」とわれわれが考えることに相当している。つまり、無力な『想起』を『イマージュ化』しているわけだ。少しややこしいが、ベルクソンの主張の大事な部分であるので、あえて注釈を加えた。

さて、ここからさらにややこしくなる。

『それらの知覚は、あなたの意識がそれらを受け入れるにつれて生み出されるのではない。それゆえこれらの知覚はいわばすでに存在していたのだ』(p.204 6行目−7行目)

ここで、もう一度、注意しよう。『思いを馳せ』た対象の『知覚』は、思い出される過程によって、存在を新たにイマージュ化する。したがって、

『仮説からして、あなたの意識はそれらを気にかけていなかったのだから、どうしてそれらは、無意識的な状態でなければ、それ自体として現実存在することができたのであろうか』(p.204 7行目−9行目)

ということになるだろう。さて、

『その場合、諸対象が問題であるときには、<意識外の現実存在>はわれわれに明白であるように思われ、われわれが主体について話すときには漠然としているように思われるのはなぜなのであろうか』(p.204 9行目−12行目:<>はテキスト傍点付き)

さらにここからは、もう一つの疑問が提示されるのだが、少し要約しよう。数学のような書き方が苦手な方も多いと聞くので、私なりにわかりやすく書きたい。

以前紹介した、光円錐に近いイメージで具体的な例をあげるとすると、こういう例はどうだろう。

(2012年2月9日筆者注: 以下、ケーキを装飾するクリームを想起として考える例をあげているが、草稿段階のものは非常に良くないので、多くの修正をしている)

ケーキを装飾するときのクリームを例に取ろう。クリームは先に星形の口が開いた金型の袋、つまりクリーム絞り器に入れられ後ろから押し出されてケーキを飾る。このクリームをわれわれの想起と考えてみよう。クリームの入った袋というのは、われわれの記憶全体に相当するだろう。そして、クリームが押し出されて袋から出るところ、星形の口のついた金型、この口金の部分がわれわれの「感覚ー運動」の主体であるわれわれという「生き生きとしたイマージュ」ということに相当するだろう。そうしたときに、ケーキは我々が生きているこの全世界として考えてみることができるだろう。

こう置き換えてみると、現在クリーム絞り器の中にあるクリーム(すなわち想起)は、それ自体は無力である。将来役に立つだろうが、袋の出口の星型をした金型がなければ意味のないもの、成型のため後ろからの圧力がなければ、無力であるものとして存在している。

クリームは、ケーキ作りの職人さんによって、袋に圧力をかけられ、瞬間的に成型され、ケーキの装飾となる。そのケーキの装飾となる瞬間は、厳密に言えばクリームとケーキがふれた瞬間からであろう。しかし、わかりやすく、クリームが袋の先の金型によって星形になる、そこが、想起の出口であり、われわれの意識ということにしよう。

さて、われわれの空間認知は、現在という瞬間、仮想的には大きさ0の時間でも、物質の存在に関して疑うことはない。先ほど例では、クリームの入った袋の先にあるケーキ全体の存在を疑うことがないのと同様に。しかしながら、われわれの身体に相当するクリーム絞り器口金の部分はその瞬間にはケーキの一部としか接触することはない。言い換えれば、その瞬間には、世界のある一部分しか知覚していない。そして、われわれは、世界全体の存在を信じていながら、その瞬間に認識しているものだけが『真に存在しているようにわれわれに思われる唯一の点であるのはなぜだろう』(p.205 1行目−2行目)とベルクソンは問いかける。

以下、ベルクソンはこう言う。

『時間と空間の二つの列のあいだの根本的な区別の底には、実に多くの混乱した観念あるいは不明瞭な観念、(中略)、われわれはそれをすべて一挙に分析し尽くせないほどである。』(p.205 2行目−4行目)

ここには何らかの錯覚があるのだが、その『錯覚を完全に暴くためには、その二重の運動を、錯覚の起源において探求し、その紆余曲折を通って辿らなければならいだろう』(p.205 4行目−6行目)

ただし、

『その二重の運動によって、われわれは、意識と関係のない客観的実在ならびに客観的実在のない意識状態を措定するに至る』(p.205 6行目−7行目)

という特徴がある。『措定に至る』という部分は、辞書ひけば「対象として規定するに至る」、だろうが、ここでは、勝手にそういう風に思い込んでしまう、ぐらいの意味で良いだろう。

そのため、

『その際、時間は、時間において継起する諸<状態>を次第に破壊していくのに対して、空間はそこに、並置されている諸<事物>を限りなく保存するように思われる』(p.205 7行目−10行目:<>内はテキスト傍点付き)

つまり、時間が止まっていれば何も変わらないはずだけど、時間が動くために状態が変化するような錯覚を持ってしまう。たとえ、われわれが直接的な知覚をするできえないようなものに対しても。

(2012年2月9日筆者注: ブラックホールの例を挙げた段落を削除)

さて、残りの部分(p.205 10行目−14行目)であるが、難しくないので簡単に紹介しよう。

『錯覚を暴く』ことは、一部は第一章で『われわれが客観性(objectivité)一般を扱ったときに行われた』し、もう一方は、『この著作の最後の箇所でわれわれが物質の観念について語るときに行われるだろう』。

なので、

『ここでは、いくつかの本質的な点を指摘するにとどめよう』(p.205 13行目−14行目)

(※ 注記 ここで段落が終わっている)

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その2 第二節 現在は何に存するか



ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その2 第二節 現在は何に存するか

今回は、第三章第二節『現在は何に存するか』(p.198 2行目-p.201 13行目)について、段落ごとに解説します。

早速、本題へ。

第一段落(p.198 3行目-p.199 7行目)は、前節の終わり『私の現在は本質からして感覚-運動的なものである』(p.198 1行目)を受けて、こう始まる。

『ということはつまり、私の現在は、私が私の身体に有している意識のうちに存するということだ』(p.198 3行目-4行目)

以下、数行要約すると、われわれの肉体の直接直近の過去に相当する『感覚』と同じく直接直近の未来の『運動』を結びつけているのはわれわれの肉体であるので、『ある決まった瞬間には、運動と感覚のただ一つの体系<システム>だけしか存在できない』(p.198 6行目、<>内はテキストフリガナ)

『そういうわけで、私の現在は、私には、完全に規定されたもの、私の過去と際だった対比をなすものとして私に現れる』(p.198 7行目-8行目)

ということになる。以下、数行要約すると、あくまでも物理的な法則に従う世界におかれた『私の身体』は、われわれの一人一人の『行動の中心であり』、『受け取られた諸印象』は、われわれ一人一人が適切だと考えて選択する『運動』を統合したものである『行動』へ、と変化していく。

まさに、『私の身体』という現存在こそがわれわれの現在であり、より一般的には時間の流れのなかでの現在という切断面である。以下、若干難しい表現もあるので、解説の必要もあるために引用すると、

『私の身体は、(中略)まさに私の生成の現在の状態、私の持続のなかで形成途中を表している』(p.198 10行目-11行目)

これは、単純に考えて、『私の身体』は、『私』という過去から未来においてある一定の期間存在し続けるものにおいて、まさに、現在を表す、という意味にとって良いと思う。

ここで、少し遡って見てみよう。『感覚』が過去、特に、現在の『知覚』受けて『純粋想起』か引き起こされるもの、と想定してもいいだろう。というのは、前節の最後の段落において、直接過去は『感覚』とほぼ等しいと説明している(『直接過去とは、知覚されたものである限り、われわれがやがて見るように、感覚である』p.197 11行目-12行目)。

また、その前の段落の終わりには、『われわれが「純粋想起」(souvenir pur)と呼ぶものを現在の知覚と対比させるだけでも、われわれはすぐに「純粋想起」の本性をよりよく理解するだろう』(p.196 7行目-9行目)とある。

(2012年2月28日筆者注 上段落は草稿では一つだったものを二つに分けて若干表現を変更した)

このことが、さきほどの引用の『私の身体』が『私の生成の現在の状態』とか『私の持続のなかで途中形成のもの』を表している、と言う表現につながっているのだろう。もっと大胆に言えば、『私』は私の記憶そのものだ、ということになるかもしれない。しかし、いま、そこまで考えずとも、現段階でベルクソンの言いたいことはお判りいただけたのではないかと思う。

さて、このあとの行を見てみよう。

『より一般的には、実在そのものである生成のこの連続性において、現在の瞬間は、流れつつある塊のなかにわれわれの知覚が作り出すほとんど瞬間的な切断面において構成されており、この切断面こそがまさにわれわれが物質界と呼ぶものである。』(p.198 11行目-14行目)

『われわれの身体はこの切断面の中心を占めている』(p.198 14行目-15行目)

以上の引用は、まず、言葉で説明するより図4(p.218)や図5(p.232)を見てもらう方がわかりやすいだろう。これらは、光円錐の未来側とほぼ同じ考えの図である。違うのは、規定されているのが、光の速度か『知覚』が将来の時間ににおいておよぶ範囲かどうか、であろう。




たとえば、図4(p.218)においては、平面Pが『われわれの知覚が作り出すほとんど瞬間的な切断面』に相当し、点Sが『この切断面の中心』である『われわれの身体』となるだろう。

特殊相対性理論は、完全に物理学の理論であるために0という大きさの時間である現在を想定し考慮することが可能であるが、ここでは、どうしても微少の反応時間が必要な『われわれの知覚』が時間の切断面を作り出すわけであるから、表現としてはどうしても『ほとんど瞬間的な切断面』という、やや曖昧な表現になる、ということだけを注意しておけば良いだけで他に難しい表現はないだろう。

以下数行、われわれの肉体こそが、われわれに物質世界においての現在をまさに示している、ということが書いてある。そこから、少し引用しよう。

『物質は、空間の延長である限り、われわれによれば、絶えず繰り返される現在と定義されなければならない』(p.199 1行目-2行目)

(2012年2月29日筆者注 このことに関しての具体的な考察はこのあとの第三節で行われる)

『逆にわれわれの現在は、われわれの現実存在(existstence)の物質性そのもの、すなわち感覚と運動の全体であり、それ以外の何者でもないのだ』(p.199 2行目-4行目)

ここで、我々の現在とは我々の物質的な存在である身体の物質性にほかならない、とベルクソンは断定していると言えるだろう。

(2012年1月21日筆者注:一行削除、一行追加)

このあとの数行は、大事ではあるが、表現には難しいところがないので簡単に要約すると、われわれの現在は、われわれの身体が規定する『感覚-運動』のシステムに基づいて行動する。しかし、その結びつきは、一度きりのものであり、途中出てくるベルクソンの言葉で言えば『唯一無二』のものである。

『それはまさに、感覚と運動が空間の場所を占めていて、同じ場所に同時にいくつもの事物が存在することはできないからだ』(p.199 5行目-6行目)。

これも、ベルクソンのこれまでの主張から論理的に導き出される、ベルクソンの哲学のもっとも大切な考えの一つであろう。つまりは、われわれの人生は一度切りのものなのである。

(2012年1月21日筆者注:上三段落は元は一段落であったが、引用文を入れ、そのために3つに分けた)

さて、この段落は、次の問いかけを持って終わる。

『—どうして、結局は常識に属する考えにほかならないこれほど単純でこれほど明らかな真理を、見誤ることができたのだろうか』(p.199 6行目-7行目)

(2012年1月21日筆者注:この段落を終えての後書きを削除。論自体は興味深いところもあり、またイマージュは大変重要な概念であるが特にここで述べる必要はないと思われるため)


次の段落(p.199 8行目-p.201 3行目)に入ろう。

先の段落の最後にあった疑問を受けて、この段落は次のように始まる。

『その理由はまさしく、現在の感覚と純粋想起のあいだに、本性の相違ではなく程度の相違しか認めないことにある。この相違はわれわれによれば根本的である。』(p.199 8行目-9行目)

『相違』が三つ出てきたので、念のために最後の『相違』解説しよう。これは、もちろん、ベルクソンが少しシャレているのであって、『本性の相違』をみるのか、結果的に『程度の相違』しかみないのか、二つの間の『相違』である。

ここから、ベルクソンが『相違』が『根本的』である理由を解説し始める。

『私の現在の感覚は、私の身体の表面のある決まった部分を占めるものだ』(p.199 9行目-10行目)

『純粋想起は逆に、私の身体のどんな部分にも関与することがない』(p.199 10行目-11行目)

『純粋想起』について、再び遡って見てみよう。読者はこの章の前書きにこういう記述があったのを覚えておられるだろうか?

『最後に、純粋想起は、権利的にはおそらく独立しているのだが、純粋想起を現像する色鮮やかで生き生きとしたイマージュのなかでしか、通常は現れることはない』(p.190 7行目-9行目)

これも、『純粋想起』は独立して存在する。なぜなら、それは、おそらく、ニューロンの結びつきにより情報がわれわれの脳のなかで物質化したものだからだ。しかし、それは、本質的に情報であり、独立してはいるけれども、その存在自体に意味を持たせるのは、『色鮮やかで生き生きとしたイマージュ』の中であり、それは、すなわちわれわれの肉体と言っても良いだろう、と述べた。

続きをみよう。

『おそらく、純粋想起は物質化されることで感覚を生み出すのだろう。しかし、ちょうどそのときに純粋想起は、想起であることをやめ、現実に生きられた現在の事物の状態へと移るだろう』(p.199 11行目-13行目)

これも、同じ意味で言っていることは、賢明な読者の方々ならおわかりいただけるはずだ。さらに、ベルクソンはこう続ける。

『私が、純粋想起に想起としての性質を取り戻させるためには、私が過去の奥底から、潜在的なものたるこの想起を呼び起こす操作に立ち戻るしかない』(p.199 13行目-15行目)

ここでは、つまり、『純粋想起』は呼び覚まされるとすぐに物質化した『現在』となってしまうので、『想起』としては、『その性質を取り戻させるためには』、もう一度、「思い出す」ということ、ベルクソンの言葉を借りれば『過去の奥底から、潜在的たるこの想起を呼び起こす操作に立ち戻る』ということになる。

(2012年2月28日筆者注 「『その性質を取り戻させるためには』、」の一文を挿入)

一方で、『純粋想起』を『活動的で能動的な』ものにすることは、『現在的なもの』すなわち『運動を引き起こす感覚』に化すことである。(p.199 15行目-17行目を要約)

以下、p.199 17行目-p.200 17行目は、『大部分の心理学者たち』(p.199 17行目)に対するベルクソンの批判である。ここは、要約しよう。

問題点としてまず上げられているのは、

『純粋想起のうちに、より微弱な知覚、生まれつつある諸感覚の一つの総体しか見ていない』(p.199 17行目-p.200 1行目)

という問題が再び指摘される。『本性の相違ではなく程度の相違しか認めていない』(p.199 8行目-9行目)という部分の繰り返しだ。

それは、つまりは、『想起を物質化し、感覚を理念化する』(p.200 3行目)ということになる、という指摘だ。

結果、『心理学者たち』は、『想起』を『イマージュの形でしか認識しない』(p.200 4行目)。

そして、『感覚の大部分を想起に移し替えたので、また、この想起の理念性のうちに感覚そのものとは対照的で異なった何かを見ようととしないのだから』(p.200 5行目-7行目)、『純粋な感覚』に対しては、想起の性質を残すことになる(p.200 7行目-9行目)

これらのことが、次にこのような表現でまとめられているので、ここは少し解説しよう。

『実際、仮説からしてもはや働きかけることなき過去が、微弱な感覚で存続することができるとすれば、それはつまり無力な感覚が存在するということである』(p.200 9行目-11行目)

『仮説からしてもはや働きかける事なき過去』とは何か、ということをまず説明すべきだろう。これは、第一節の説明ではこの部分、少し不十分なところもあり、理解されていない読者もいるであろうと思われるからだ。従って、念のために、再び入念に繰り返し説明しよう。

(2012年1月26日筆者注:表現を変えると同時に、二つに段落分けしていた部分を1つにまとめた)

まず、『心理学者』たちの『仮説』とは、

『思い出された感覚はそれとより深く関与するときより現実的なものとなることから、感覚についての想起は生まれつつある感覚そのものであった』(p.194 4行目-6行目)

ということであろう。

(2012年2月29日筆者注 上の文と下の段落を二つに分けた)

ところで、この仮説を検証するために、ベルクソンは、『催眠術をかけられた被験者が、熱い、熱い、と言われて最後には熱さを感じるようになるからと言って暗示の言葉それ自体がすでに熱いということにはならない。同様に(中略)想起は生まれつつある感覚であったと結論してもならない』(p.194 11行目-14行目)と言っていた。しかしこの指摘にもかかわらず、『心理学者たち』の『仮説』は、おそらく怪しいながらも、『想起が現実化するにつれて変化するという異論の余地なき真実の恩恵を受けている』(p.195 1行目-2行目)とも続けていた。

そのため、そのあと今度は、

『これとは逆の歩み - とはいえ、ここで身を置いている仮説のなかでは、逆の歩みも同じく正当なものであるはずだ - を辿りながら推論するとき、つまり、純粋想起の強度を増加させる代わりに感覚の強度を減少させるとき、この種の推論の不合理が発覚する』(p.195 2行目-5行目)

と、ベルクソンは陳べていた。前節の解説で私が端的に「しかし、微弱な感覚が、はっきりと思い出せる強い想起であるということは、おかしいではないか。」と言ったところでもある。

(2012年2月29日筆者注 上段落は二つに分けていたものを一つにまとめた)

さて、延々と繰り返して説明したわけだが、先ほどの、

『実際、仮説からしてもはや働きかけることなき過去が、微弱な感覚で存続することができるとすれば、それはつまり無力な感覚が存在するということである』(p.200 9行目-11行目)

ということの説明も、今度は簡単に理解していただけるのではないかと思う。

まず、『もはや働きかけることのなき過去』は、心理学者達の説を批判している部分での、
(2012年2月29日筆者注 「心理学者達の説を批判している部分での、」を挿入)

『思い出された感覚はそれとより深く関与するときより現実的なものとなること』(p.194 4行目-5行目)

に相当し、

また、つぎの『微弱な感覚で存続する』は、『感覚についての想起は生まれつつある感覚そのものであった』(p.194 5行目-6行目)、すなわち言い換えれば、「微弱な感覚が、はっきりと思い出せる強い想起である」と等しく、つまりは、

『無力な感覚が存在すると言うことである』

ということになる。

以下、数行をまとめると、同様に、この仮説においては、『純粋想起』は、身体のどこにも関与しないし、それが、『生まれつつある感覚』であるとするならば、それは、身体のどこにも関与しない『生まれつつある感覚であろう』となるはずである。

『ここからある錯覚が生じる』(p.200 13行目)とベルクソンはと切り出す。

『この錯覚は感覚のうちに流動的で非伸張的な状態しか見ることがなく、この状態が伸張性を獲得し、身体のなかで固定されるのは偶然によってでしかない』(p.200 13行目-16行目)

やや難しい表現があるので解説すると、まず、『この錯覚』とは、先に述べていた『もはや働きかけることのなき過去が微弱な状態で存続』したり、「身体のどこにも関与しない『生まれつつある感覚であろう』」ということである。

また、その『錯覚』とは、『感覚のなかに流動的で非伸張な状態しか見ることはなく』、つまり、感覚はごく抽象的でまるで数式のようにきちんと定義されたものであると主張しているわけであり、『この状態が伸張性を獲得し、身体のうちで固定されるのは』というのは、上に見たように抽象的で数式のようにきちんと定義されたものであるはずの感覚が、なんらかの特定された身体の感覚として具体化されるのは、『偶然によってでしかない』と、ベルクソンが批判する『心理学者たち』の説を指している。

(2012年2月29日 上段落表現を変更して意味を取りやすくした)

具体的に「痛み」という感覚を考えてみよう。『心理学者たち』の説によると、「痛み」は何らかのきちんと定義されている数学の変数xのようなものだ。これが、われわれのからだの「痛み」として具体化するのは、いったいどうやってか?われわれの身体に、何かものが当たったり刺さったりあるいはその他の方法で傷ついたりすると、抽象的な「痛み」xは、その定義に従って微少の痛みという感覚の何倍かの具体的な痛みに変わる、ということになるだろう。

別の言い方で、繰り返すならば、『心理学者たち』の説によれば、何らかの定義された「痛み」なら「痛み」の感覚が元々定義されている。それは、仮説からして、はっきりと知覚されるごく弱い感覚で、しかし、それは、あくまで観念であり、『非伸張』であるわけであるから、なんらかの偶然によってでしか『伸張性』をもち『固定化』されることはできないだろう。

(2012年2月29日筆者注 「しかし、それは、あくまで観念であり、『非伸張』であるわけであるから、なんらかの」という文言を上段落に挿入)

と、言い換えることもできるだろう。

しかし、ベルクソンによると、一見正しいようにも思えるこの考え方は、すでに指摘しているようにそれらは『錯覚』であり、

『この錯覚は、われわれが見たように外的知覚の理論を深く汚染しており、物質についての様々な形而学上のあいだで係争中の実に多数の問題を惹起している』(p.200 15行目-17行目)

と批判する。

そうして、ベルクソンは、自分たちの考えを受け入れなさい、これは『避けがたいこと』なのだと言う。どういうことだったか。

『感覚は、本質からして伸張的で局所化されている、それは運動の一つの源泉であるが - 純粋想起はというと、非伸張的で無力であるので、どうやっても感覚の性質を帯びることはない』(p.200 17行目-p.201 3行目)

つまり、『感覚』と『純粋想起』は本質からして違う。この段落のはじめを思い出してもらえば十分であろう(p.199 9行目-17行目)。

さて、図らずも、『純粋想起』であれ、書かれた文章でれ、情報は過去であり、それを現在に生かすには、『色鮮やかで生き生きとしたイマージュ』が必要だと体験していただいたところで、次の段落(p.201 4行目-13行目)へ行こう。


まず、一般に『私の現在』は『感覚-運動的』であるという説明からはいる(p.201 4行目-8行目)。要約すると、『感覚-運動的』な私の現在には、過去のイマージュのうち、『役に立ちうるものだけ』(p.201 8行目)が、この『感覚-運動的』なものに組み入れられる。つまりは、『純粋想起』になると言っていいだろう。

『しかし、それがイマージュとなるや否や、過去は純粋想起の状態を離れ、私の現在と混じり合う』
(p.201 8行目-9行目)。

解説はもう不要だろう。

残りは、最後のまとめであり、難しいところもなく、ここは全文を引用しようかと思う(p.201 9行目-13行目)。

『イマージュへと現実化された想起は、それゆえ、この純粋想起とは根底的に異なっている。イマージュとは一つの現在の状態であり、その出所である想起によってしか、過去の性質を帯びることはできない。』(p.201 9行目-11行目)

『逆に想起は、それに役に立たないままであり、感覚との一切の混合がまったくできないままであり、現在との繋がりを持たず、従って非伸張なものである限り、無力なのである』(p.201 11行目-13行目)

後半部分の、『逆に想起は』というところの説明が少しわかりにくいかかもしれないので、簡単に解説すると、この『想起』(ここでは、『純粋想起』と等しい)は、単なる情報であり、まえに催眠術師の「熱い」という言葉がすなわち、熱いわけではない、という説明にほぼ等しい。

この情報(=想起)が、たとえば腕に熱湯がかかるというようなきっかけで思い出される、という経緯をたどって現在のわれわれの生き生きした生命(肉体)よって辿られることでしか、それは『感覚』としての現在にはならない。当然、『想起』はそのままであり続け、一方で、『感覚』は現在の『私』というイマージュと同一になる。

レコードを知っている人なら、より容易に理解できるかも知れない。


2012年2月28日火曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その1 第1節 純粋想起 (mixi:2010年6月28日)


ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その1 第1節 純粋想起
(mixi:2010年6月28日)

今回は、第三章第一節『純粋想起』(p.190 13行目−p.198 1行目)について、段落ごとに解説しています。解説の便宜上、一続きの文章を、意図的に分けている場合があるのはこれまでの通りです。

第一段落(p.190 14行目−p.191 13行目)は、大事だから、まず、詳しく解説しよう。

まず、前回の前置きの解説で、感覚とイマージュ想起、純粋想起の三つの区別について説明され、その三つの境界は非常に曖昧なものであるということを説明した。

そして、この節は次のような文章から始まる。

『このことはそもそも、記憶を分析するために、意識が、活動しつつある記憶の運動そのものを辿るそのたびに、その意識が苦もなく確認していることである。』(p.190 14行目−15行目)

このあと、こう問いかける。

『では、想起を再び見いだすこと、われわれの歴史の一時期を想起することはどうだろうか。』(p.190 15行目−16行目)

ベルクソンは、このことを『写真機の焦点合わせに類似』(p.191 2行目)しているという。テキストではこの前の部分に、こうある。

『われわれは、最初に過去一般のなかに身を置き、次いで過去のある領域のなかに身を置くために、われわれが現在から身を引き離すための独特な行為を意識する。』(p.190 16行目−p.191 2行目)

注意すべきは、このとき『われわれの想起は依然として潜在的な状態のままである。』(p.191 3行目)ということである。言い方を変えれば、まだ、はっきりとは意識できず、うすぼんやりなんとなく、という状態であると言っていいだろう。脳を現代のコンピュータに例えればパイプラインに相当する、無意識の自動的な処理に、外部のメモリ(これにはコンピューターでは、主記憶装置、キャッシュメモリ、あるいは、SDDやHDDなどの外部記憶装置などがある)から適切なデータを探し出してきて、データを並べようとしている、そんな状態に相当すると言えるだろう。

ベルクソンの言い方では、

『われわれはそのようにして、適切な態度を採りながら、単にわれわれの想起を受け入れようとしているだけである。』(p.191 5行目−6行目)

やがて、

『すこしずつ、われわれの想起は濃縮する靄(もや)のように現れる。』(p.191 5行目)

この段階に及ぶと、ようやく、『潜勢態から現勢的な状態へ移る。』(p.191 5行目−6行目)易しく言えば、「何となく」から「ああ、あれかなぁ」、という状態になってきたということだ。

『そして、輪郭が明確化され、表面が色づいてくるにつれて、われわれの想起は知覚と次第に相似していく。』(p.191 6行目−7行目)

コンピュータならばここに置いてCPUのパイプラインに命令と共にデータが並べられ、処理が始まってきたということに当たるだろうか。

このあとの文章(p.191 7行目−13行目)が一つの文であり、一文としてはかなり長いのでその分やや難解になっている。わかりやすくするために、分けて少し手を入れてみれば、こうなる。

まず、『しかし、われわれの想起は深く張られたその根によって過去につながれたままで、』(p.191 7行目−9行目)の部分でいったん区切ることができ、最後を『つながれたままであるので、』としても同じ意味の文章になる。

このあと、『われわれの想起がひとたび現実化されると、その本源的潜在性の跡が見えなくなるのだとすれば、また、想起が現在の状態であると同時に現在と際だった対比をなす何かでないのだとすれば、』(p.191 9行目−12行目)と続く部分を一つ独立したものと考える。そうみるとき、この部分は、先に述べた『想起が過去につながれたまま』ということの正反対の仮定をくわしく述べて、もし、そういう正反対の状態にあるとすれば、『われわれはその想起を想起として再認する事は決してないであろう。』(p.191 12行目−13行目)といったん結論づけているということになる。

このことはまた、最初の想起が過去との強く結びついているという『深く張られたその根』(p.191 8行目)という曖昧な比喩表現を反語的に説明する効果を狙っていると、理解すべきであろう。

(2012年1月12日 筆者注:上三段落は、細部の表現を変更した。以下、第3章以降の草稿はブログ『徒然の種々』でそのまま公開を続けるということもあり、細部の表現の変更は一々注意書きしない)

以上を要約すると、再認された想起というものは過去のものである(本源的潜在性)とはっきり我々にはわかる、ということであり、同時にそれはまた、『現在と際だった対比をなす』ものであろう、ということである。


次の段落(p.191 14行目−p.193 15行目)では、前半三分の二(p.191 14行目−p.193 6行目)は、当時あった『観念連合論』への批判に割かれている。

ここは、概略だけ述べて省略したい。

まず、ここでの観念連合論とは、前節『ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その4 想起と運動 (下)』で、概略だけ述べた、『科学的思考』への批判(p.164 12行目−p.171 12行目)とほぼ同じだと言っていいだろう。

すなわち、できるだけ単純化した要素の組み合わせだけで、人間の記憶について説明しようとするけれども、結局は、どのようにそれらが連携して記憶を構成しているかは説明できない。前章での説明は簡単にはこうだった。

まず、この段落でも同じ批判が繰り返される。

『観念連合論の恒常的な誤りは、生きた実存であるこの生成の連続を、惰性的で並外れた多数の不連続の諸要素と置き換えていることである』(p.191 14行目−16行目)

さて、今回の批判の焦点は、

『かくして、心理学的生はその全体が、感覚とイマージュの二つの要素に帰着する』(p.192 17行目)

ということになる。
(筆者注:観念連合論ではこの『感覚』と『イマージュ』の二つしかないことに注意。また、ここで、観念連合論の『感覚』をこれまでの『知覚』と混同しないようにあらかじめ注意しておく。)

このことについて、すでに述べたようにこの段落における議論の詳細は省略したい。この節の本来の目的は批判にあるのではないからだ。参考までに、先の文章の続きで、ベルクソンはこれまでの議論をこうまとめているので、挙げておこう。

『一方では、イマージュのなかに、イマージュの始原的状態をなしていた純粋想起を埋め込み、他方では、知覚のなかに、イマージュそれ自体に属する何かを置くことでイマージュをさらに知覚に近づけたのだから、これらはもはや程度の相違や強度の相違しか見いだせられないだろう』(p.193 3行目−6行目)

これに、もう少しだけ説明を加えよう。

『観念連合論の恒常的な誤りは、生きた実存であるこの生成の連続を、惰性的で並外れた多数の不連続の諸要素と置き換えていることである』(p.191 14行目−16行目)

と、この部分とそのあと記述されているベルクソンの説明を要約するならば、以下のようになるだろう。

まず、諸要素は、基本単位であるが故に記憶の連続性や他の要素に対する連続性を確保するための時間的、位置座標も構成要素を属性として持つだろう。また、そこには、視覚の要素であれば、われわれが、単に黄色という以上の、たとえば、RGBのデータがあるだろう。それだけならともかく、観念的にものを受け取るための要素の最小の要素であるからには、上の例で言えば「黄色」という色の名前や、そのほか、われわれの「熱い」、「寒い」といった感覚や、「そのときの気持ち」を引き起こすためのすべての要素が用意されているに違いない。というのも、観念論においては、すべてがわれわれが先天的に持つ科学的存在論の原子の様な観念こそが諸事物を認識する最小の基礎単位なのであるから。

外界が(本質的にはわれわれの中であらかじめ用意されているものに過ぎないのだが)、そういうもので構成されている以上、外部のイマージュから受け取る知覚も当然そのように構成されているに違いない。

また、記憶は知覚されたものに対して用意されたものを限定して脳のなかという限定された外界に記憶されているだけなので、結局、われわれの知覚と記憶には程度の違いしかないだろう。

ということになるだろうか。

以上、要約であるが、観念論において、基本的諸要素を想定し、それを用いて、外界、知覚、記憶が構成されているという、観念連合論の主張を大まかに説明し、本質的にそこでは、知覚と記憶は、程度の違いしかないということを説明した。

では、観念連合と対する、ベルクソンの主張はどうなのか、残りの部分を少しくわしく解説してみよう。

『しかし、本当のことはわれわれが一挙に過去に身を置くのでないならば、われわれは決して過去に到着しないのだ』(p.193 6行目−8行目)

このことに違和感を覚える方もあるかもしれない。しかし、われわれは、すでに、第二章『想起の現実化』という節での聴覚の再認の説明で、似たような主張をしているのを見ている。そこを再び引用しよう。

『われわれが正しければ、<聞き手は一挙に対応する諸観念の中に身を置き>、それらの観念を、聴覚的表象へ展開させ、それらの表象が、運動図式の中へ自力ではまりこむことで、知覚された生の音を覆うのではなければならないだろう。』 (p.156 12行目−15行目:<>内はテキスト傍点付き)

今回は、ベルクソンは、続けて以下のように説明している。

『本質的に潜在的なものたる過去が、われわれによって過去として捉えられうるのは、過去が暗闇から白日の下に現れることで現在のイマージュへと開花する運動をわれわれが辿り、採用する場合だけである』(p.193 8行目−10行目)

このあと観念連合論への批判が続いて段落は終わる。

たとえば、

『何か現在的ですでに現実化されたもののなかに過去の痕跡を探しても無駄だろう』(p.193 10行目−11行目)

つまり、観念連合論において、すべては現在のわれわれのなかで展開されているので、時間的な要素が基本要素にあったとしても、知覚と記憶に本質的な違いはないし、そうである以上、実際の時間とは関係なしに記憶を連続性してたどれるかについても説明できていない、という批判として置き換えられるのではないだろうか。

それゆえに、

『現在的なもののなかに置かれた観念連合論は、現実化された現在の状態のうちに、その過去の起源の痕跡を発見し、』(p.193 12行目−13行目)あるいは、『あらかじめ大きさの相違でしかないことを余儀なくされたものを、本性の違いへ仕立て上げようと』(p.193 13行目−14行目)

したのではあるが、結局は、

『無駄な努力をして力つきたのである』(p.193 14行目−15行目)


次の段落(p.193 16行目−p.195 13行目)からは、しばらく、当時の心理学の通説を批判している。それ見ていこう。

最初にこの段落のテーマが提示される。これは名文だ。

『<イマージュ化すること[想像すること](imaginer)>は、<想起すること(se souvenir>)ではない。おそらく想起は、現実化するにつれて、イマージュのなかで生きるようになる』(p.193 16行目−17行目:<>内は傍点付きとイタリック)

『しかし逆は真でなく、純然たるイマージュが私を過去に連れ戻すのは私が実際に過去のなかにそのイマージュを探しに行き、そうすることで、このイマージュを闇から光へ連れて来た連続的進展を辿る場合だけであろう』(p.194 1行目−3行目)

ここまでは、解説の必要はあるまい。このあと、観念連合論批判と同様に、今度は現在の『感覚』と、現在の『想起した感覚』を同じものだと見なす心理学者への批判が展開される。

『これこそが、心理学者たちがあまりにもしばしば失念していることであって、それを失念しつつ彼らは、思い出された感覚はそれと深く関与するときより現実的になるということから、感覚についての想起は生まれつつあるこの感覚そのものであったというのである』(p.194 3行目−6行目)

これは、観念連合論批判と逆の構図の問題が心理学者たちに起こっている、というのを指摘している。『深く関与するときより現実的になる』、といういう程度の差によって、『感覚についての想起』と『生まれつつある感覚』の違いがあるだけで本質的に相違点はない、と、今度は、その起源を無視し、すなわち、現在起こっていることと区別がないということから、『感覚についての想起』と『生まれつつある感覚』を同じものだと見なしている。

このあと、『心理学者が引き合いに出す事実はおそらく正しい』(p.194 6行目−7行目)と認めながらも、

『問題なのは、苦痛の想起が真に当初の苦痛であったのかどうかを知ることである。』(p.194 10行目)

と指摘してる。

たとえば、

『催眠術をかけられた被験者が、熱い熱いと執拗に繰り返し言われたとき、最後には熱さを感じるようになったからといって、暗示の言葉それ自体がすでに熱いということにはならない。』(p.194 11行目−13行目)

『これと同様に、ある感覚の想起がこの感覚そのものへ引き継がれるからといって、そこから、想起は生まれつつある感覚であったと結論してはならない』(p.194 13行目−14行目)

こう考えると、ベルクソンが批判する『心理学者たち』の論がおかしいかもしれない、というのはわれわれにもわかってくる。

しかし、

『それでもこの推論は間違ってはいない。なぜなら、この推論は、想起が現実化するにつれて変化するという異論の余地なき真実の恩恵を受けているからだ』(p.194 17行目−p.195 2行目)

この段落の最初を思い出して欲しい。そこにはこうあった。

『<イマージュ化すること[想像すること](imaginer)>は、<想起すること(se souvenir>)ではない。おそらく想起は、現実化するにつれて、イマージュのなかで生きるようになる』(p.193 16行目−17行目:<>内は傍点付きとイタリック)

繰り返すが、『おそらく想起は、現実化するにつれて、イマージュのなかで生きるようになる』わけであるから、現実化したときに区別は付かない、という心理学者の主張は否定できない、と言っているのだ。

しかし、その引用の続きには、こうあった。

『しかし逆は真でなく、純然たるイマージュが私を過去に連れ戻すのは私が実際に過去のなかにそのイマージュを探しに行き、そうすることで、このイマージュを闇から光へ連れて来た連続的進展を辿る場合だけであろう』(p.194 1行目−3行目)

このことを念頭に、続きの部分を見てみよう。

『しかし、これとは逆の歩み —とはいえ、ここで身をおいている仮説のなかでは、逆の歩みも同じく正当なものであるはずだ— を辿りながら推論するとき、つまり、純粋想起の強度を増加させる代わりに感覚の強度を減少させるときにこの種の推論の不合理が生じる』(p.195 2行目−5行目)

ここからの文章は比較的易しいので私の言葉でまとめさせてもらうが、つまりは、感覚の強度を減少させたときに想起と区別が付かない、ベルクソンの言葉で言えば、『ある瞬間に感覚が想起に変身する』(p.195 6行目)はずである。

たとえば、想起が、催眠術の暗示と違いある種の感覚に等しければ、熱いという感覚は、いつか熱いという想起に置き換わって、その区別は付かない。心理学者のいう通りならば。

しかし、微弱な感覚が、はっきりと思い出せる強い想起であるということは、おかしいではないか。はっきりと思い出せる微少の熱さ。それがなければ、非常に熱いという感覚が徐々に想起に置き換わるというような現象が起こりうるだろうか?

われわれは、知覚されたある時の感覚をまともにそのまま覚えており(イマージュ記憶)それが脳でわれわれの曖昧さを許さない肉体理論によりの物質化されることが純粋想起である。そしてその区別をつけることは難しい(図2)、というのがベルクソンの主張だった。そして、『想起』するとは、催眠術者の言葉のようにそれ自体が熱いということではなく、ある種のきっかけで、熱いという体験自体をもう一度辿ることによって起こる(現代風にいうと神経回路の興奮が暗示によって起こる)のであり、熱いという言葉が熱いのでないように、はっきり思い出せる微少な感覚が、現実の強い感覚に置き換わるのではない。



このように、『心理学者たち』も再び、観念連合論とほぼ同じ結論、つまり、『感覚』と『想起』は程度の差でしかない、という結論に、別のアプローチで陥ったといっていいだろう。これが次の段落から展開される批判に続いていく。


では、次の段落(p.195 14行目−p.196 9行目)を見てみよう。

ここではこう始まる。

『しかし、想起と知覚のあいだに程度の相違しか確立しないことに存する錯覚は、観念連合論の単なる一帰結以上のものがあり、哲学史における一偶発事以上のものである。この錯覚は深い根を有している。それは、結局のところ、外的知覚の本性ならびに対象についての誤った観念に立脚している。』(p.195 14行目−17行目)

ここは、非常に大事であるので、ベルクソンの指摘を、もう一度私なりに解釈して繰り返すならば、こうなるだろう。

『想起と知覚との間に程度の相違しか確立しないことに存する錯覚』というのは、これまで見てきた『観念連合論』と『心理学者たち』の説の説のことで、これらの説は二つの説は本質を見極めていくとともに『想起と知覚の間に程度の違いしか』見ていない。

しかも、このことは、単に『観念連合論』や『哲学史の一偶発事』と済ますには、『この錯覚は深い根を有している』と指摘している。

この『深い根を有』する『錯覚』の本質的な問題は、『結局のところ、外的知覚の本性ならびに対象についての誤った観念に立脚している』という、ここまでで見てきた、ベルクソンの批判に帰着するわけだ。

それを、ここでは、

『純粋精神に差し向けられる、全く思弁的な関心を持った教えしか知覚のなかに見ないつもりなのだ』(p.195 17行目−p.196 1行目)

という言い方で批判している。これは、観念論的な、もしくは唯心論的なものの見方に結局は汚染されているではないか、という批判であると言い換えられるだろう。数行省略して、

『しかし、過去と現在のあいだには、程度の相違とは別のものがまさに存在している』(p.196 4行目−5行目)

と、ベルクソンは主張する。それは、

『要するに、私の過去が本質的に無力であるのに対して、私の現在は私に行動をするように促すものなのだ』(p.196 6行目−7行目)

このあと、ベルクソンは

『この点について詳述しよう。われわれが「純粋想起」(souvenir pur)と呼ぶものを現在の知覚と対比させるだけでも、われわれはすぐに「純粋想起」の本性をよりよく理解できるだろう』(p.196 7行目−9行目)
<※筆者註:引用文はテキストでは『われわれはすでに「純粋想起」』となっているが、意味が通らないので『すでに』を『すぐに』に修正した。>


次の段落(p.196 10行目−p.198 1行目)を見てみよう。

『実際、意識によって受け入れられた、現在の実在についての具体的な特徴を定義することから始めるのでなければ、過去の状態の想起を特徴づけようとつとめても無駄であろう』(p.196 10行目−11行目)

で始まるこの文章が、この段落のテーマであると言い換えてもいいだろう。つまりは、『知覚』と『純粋想起』の対比である。

さて、次の行はこう続く『私にとって現在の瞬間(moment)とは何なのか』(p.196 11行目−12行目)

哲学らしい問いかけが、ようやくこの段階に至って出てきた。

次に、こういう話をベルクソンはする。

『時間の本性は、過ぎ去ってゆくことだ』(p.196 12行目)

これは、なかなかおもしろい回答だと言えよう。ベルクソンの処女作は「意識に直接与えられたものについての試論」であるが、英訳されたときに「時間と自由」というタイトルになっているし、後にアインシュタインが相対性理論を唱えたときベルクソンはそれを批判している。つまり、時間は本質的に過ぎ去って行くものだ、一般相対性理論の唱える時空とは全く違うものだ、と述べているに等しい。このことについては、第四章でも詳しく論じられるが、先回りしてもう少し解説しておけば、我々、生物にとっての時間というものは、物理学的時間あるいは時空という概念とは全く異なった扱いをされるべきものだという主張が、ベルクソンの哲学にはある。

(2012年1月20日筆者注:上段落に於いては、ベルクソンの時間に関する考え方の部分を主に追加した。)

さて、その物理的な理論と、われわれの認識論の隔たりは一応置いておこう。物理学の理論の説明するところと、われわれの直感が違うというのは、なにも相対性理論に限らず、量子力学などに於いても見られる、現代では珍しいことではないからだし、一般相対性理論に従ってみたとしても、(少なくとも現在は、)現実に人間は、物理的な肉体を保ったまま過去には戻れないからでもある。ここでは、純粋に時間に対する認識の問題として扱うことにする。

続きを見てみよう。煩雑かもしれないが、先の文章を入れた形で、続きを引用しよう。

『時間の本性は過ぎ去っていくことだ。すでに過ぎ去った時間が過去であり、われわれは、時間が過ぎ去るその瞬間を現在と呼ぶのである。』(p.196 12行目−14行目)

『しかし、ここでは、数学的な瞬間(instant)が問題なのではない。(中略)実在的で具体的な生きられた現在、私が私の現在の知覚について話しているときにまさに話されているところの現在は、必然的にある持続(durée)を占めている。』(p.196 14行目−p.197 2行目)

これは、簡単に言うなら、私たちが何かしようとしている、動作であれ、知覚であれ、思考であれ、それはわれわれが瞬間と感じ取ってはいるものの、実際には、ある程度の時間(数ナノ秒なり数マイクロ秒なり、あるいは、ミリ秒単位なりの)が必要と言えるだろう。

『それでは、この持続はどこに位置づけられるのか』(p.197 1行目−2行目)

と、ベルクソンは問いかけ、こう答えている。

『この持続が全く同時にこちら側と向こう側にあるということ、私が「私の現在」と呼ぶものはまったく同時に私の過去と未来に食い込んでいることは、あまりにも明白である』(p.197 3行目−5行目)

私たちは、残念ながら、数学の観念である0というような瞬間を現実世界において感じることはできない。0という観念的な基準で現在を考えたとき、実際感じる瞬間は、過去と未来にまたがっている。言い替えれば、数学的な0の大きさを持つ現在という瞬間は、われわれの現実の生の過去と未来の中間にある、そのまま観念的な瞬間だ、と言い換えられるだろう。

ここからあとの文章はしばらく要約したい。

ベルクソンは、時間は、(われわれの認識からして)不可分であり、一方通行である、ということを違う言い方で繰り返す。そして、われわれは、未来側に進んでいるのであるから、

『それゆえ、私が、「私の現在」と呼ぶ心理学的状態は、直接的過去の知覚であると同時に、直接的未来の限定でなければならない』(p.197 10行目−11行目)

より具体的に、特殊相対性理論で説明される光円錐を思い浮かべる方もいるだろう。もちろん、ベルクソンが『純粋知覚』は物理現象そのものであり(第一章第四節『イマージュの選択』(p.29 1行目−p.46 14行目)もしくは第一章第十一節『イマージュ本来の伸張性』(p.74 9行目)から数節である)、イマージュ記憶は『純粋知覚』を含めて物理現象として受け取ったものをそのまま覚えている(第二章『記憶の二つの形式』特にまとめてある部分としてp.116 4行目−p.117 4行目参照)、と言っているからには、未来方向には光円錐を思い出してもかまわない。先取りすれば、たとえば、p.218 図4には、光円錐の未来側だけを切り出した図とほぼ同じものが描かれている。

(2012年2月27日筆者注 純粋知覚が最初に出てきているのは第一章第四節『イマージュの選択』であり、特に一種の仮説として定義されているのはp.34 7行目−11行目辺りである。そしてその理論検証したあと、それを使って本章の内容について触れていくのは第一章第十一節『イマージュ本来の伸張性』以降数節であるので書き改めた)



『ところで、直接的過去とは、知覚されたものである限り、われわれがやがて見るように、感覚である。というのは、どの感覚も、非常に長い一連の基礎的な振動を翻訳しているからだ』(p.197 11行目−13行目)

ここで、『知覚』と『感覚』が分けられている。『やがてわれわれが見るように、感覚である』とあるので、『感覚』に関しては、後に詳細に説明されるであろう。『知覚』は、ここでは単にわれわれの感覚器官が対象となるイマージュから受け取ったもの、としておこう。例えるなら、目の網膜に写った画像ぐらいに思えばいいのではないか。もっと単純に、感覚器官による神経細胞への刺激に相当するが適当であるかもしれない。一方で『感覚』とは、感覚器官で『知覚』されたものが、人間の神経によって伝搬されるある種の信号(テキスト中では『震動』)となり、たとえば、赤い色を見たときに「赤い」と思うだけでなく、「暖かい」と思うような、様々な感情を自動的に引き起こしたりする、ということに相当するだろう。

(2012年2月27日筆者注 上段落での『知覚』はおそらく、第一章の『純粋知覚』であろう。第一章の『純粋知覚』に関しての説明としてみても上段落に書いてあるものは大体正しい。簡単に言えば、感情その他の主観的な見方を省いた感覚器官から得られる情報といえるだろう。この『純粋知覚』について簡単に説明するのは難しいが、もう少し例を挙げて説明するならば、例えば、われわれは通常二つの目で何かものを見ているだろう。網膜に映ったものを認識するにはわずかではあるが時間も必要だし、二つの目から得られる情報を統合するには記憶からの情報も必要だ。しかし、その時間的な厚みを除いて、ベルクソンの言葉を借りれば『権利的』な、ある物に関してのわれわれの純粋な知覚認識情報のことを『純粋知覚』とベルクソンは呼んでおり、この場合の『知覚』もそれであると思われる)

中途半端な解説で申し訳ない。続きをみよう。

(2012年2月27日筆者注 上の記述は全く恥ずかしい話しだが、ここでは当時の私の未熟さをこのまましておきたい)

『直接的未来はというと、みずからを限定して行くものである限り、行動もしくは運動である。』(p.197 13行目−14行目)

『私の現在はそれゆえ、感覚と同時に運動である』(p.197 14行目−15行目)

煩雑に思われる方もいらっしゃるだろうが、反復しておこう。『直接過去は、(中略)感覚である』(p.197 12行目−13行目)。一方で『直接的未来は、(中略)行動もしくは運動である』(p.197 13行目−14行目)。そのうえで、

『私が、「私の現在」と呼ぶ心理学的状態は、直接的過去の知覚であると同時に、直接的未来の限定でなければならない』(p.197 10行目−11行目)

であったから、

『私の現在はそれゆえ、感覚と同時に運動である』(p.197 14行目−15行目)

という論理的帰結に達すると、ベルクソンは主張している。

『そして、私の現在は、不可分な全体を構成しているのだから、この運動はこの感覚に張り付き、この感覚を行動へと引き延ばすはずだ』(p.197 15行目−16行目)

この引用の部分は、『この運動』が少しわかりにくい。私なりの解釈で、もうすこしわかりやすく言い換えれば、

「『感覚』と『運動』はお互いに結びつき、お互いから見てお互いが付属しあう状態になる。(ベルクソンのこれまでの主張からみても、あるいはこれが記憶の最小単位と言っても良いかもしれない。しかし、これが、「クオリア」でないことも自明だし、『感覚』と『運動』が結びついたものである以上、それぞれの単位である『感覚』も『運動』も人によって異なる、いわゆるそれぞれに属人性のあるものである、というのは言うまでもない)。そして、『直接的過去』である『感覚』は、『直接的未来』で『運動』となり、さらには、より総合的な『未来』の『行動』と『引き延ば』されることになるだろう。」

ということになるだろうか。

さて、以下、ベルクソンによる、この節の結論である。

『このことから私は、私の現在が諸感覚と諸運動の組み合わされた体系<システム>からなるのだと結論する。私の現在は本質からして感覚-運動的なものなのである』(p.197 行目−p.198 1行目、<>内はテキストフリガナ)