ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2010年1月23日土曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その2 記憶の二つの形式(mixi: 2009年07月25日)


ベルクソン 「物質と時間」メモ その3 記憶と想起 その2 記憶の二つの形式
2009年07月25日

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。以下の文章のページと行はこのテキストのものです。毎回同じような文章が続きますがお約束のようなものなので、よろしくお願いします。

(2012年1月2日筆者注:原稿では残っていた上の部分が抜けていたので付け加えた。)
  
さて、記憶の二つの形式が今回の記事のテーマであるが、今回説明する部分は、テキストのこの部分から始める。

『I - 記憶の二つの形式。 - 私はある暗唱用課題を勉強する。そして、それを暗唱するために、最初に、音節を区切りながら課題を一行一行読む。それから何度かそれを繰り返す。新たに読むごとに、進歩が成し遂げられ、語は互いにより緊密に結びつき、最後には一つにまとまるようになる。まさにこのとき、私は私の課題を暗記してしまっているのであり、「それは想起と化した」「それは私の記憶の中に刻み込まれた」と言われる。』 (p.103 1-5行目)

(引用に『』を用いたのは文中の「」と区別するため。以降、引用は『』に統一します。)

次に、思い出すとき、ベルクソンの言い方では想起を行ったときの状況を延べ、それからこう説明している。

『要するに、それぞれの朗読は、私の歴史のある特定の出来事(evenement)として私の前を通過する。これらのイマージュは想起であり、これらのイマージュが私の中に刻み込まれたのだ、と再び言われるだろう。二つの事例について同じ言葉が用いられている。まさに同じことが問題なのだろうか。』 (p.103 11-14行目)

この2種類の記憶は明らかに違う。

『課題の想起は、暗記されたものである限り、習慣(habitude)のすべての特徴を持っている』(p.103 15行目)

に対し、

『その他の朗読は、定義そのものからして、異なる想起を構成しているからだ。それは私の人生の出来事のようなものである。それは日付を持ち、従って、繰り返され得ないことを本質としている。』(p.104 6行目-8行目)

と説明している。

もちろん、二つが混合している場合もあるかもしれない。

しかし、ある朗読という人生の出来事の方は、

『益々よく覚えられていく課題としてではなく、絶えず更新される朗読として考察されれば、完全に自足しており、それが生じたままに存続し、同時に起こっていたすべての知覚と共に、私の歴史の還元できない瞬間を構成すると言うこと、これもまた確かである。』(p.105 1-4行目)

と、指摘している。


さて、これから、割合テクニカルな考察をするので、少々ややこしいかもしれないけれど、何とかついてきて頂ければ、と思う。

まず、p.105 4行目-p.106 3行目を簡単にまとめよう。

上の例の朗読の出来事の記憶の方は、ベルクソンの言い方では、

『ある一定の朗読の想起は表象であり、また表象にすぎな』く『それは、私が私の好きなように延ばしたり縮めたりできる精神の直感の中に収まっている』(p.105 6-7行目)のに対し、暗記されてしまった課題の方については、 『それは、歩いたり書いたりする私の習慣と同じ資格で、私の現在の一部をなしている。それは表象されると言うよりむしろ生きられ「作用される」のである。』(p.105 14-16行目)

これを押し進めると、理論的に次の二つに分けられる。

『第一の記憶は、われわれの日常すべての出来事を、それが展開するにつれて、イマージュ想起(images-souvenirs)の形で記録するだろう。』(p.106 5行目-6行目) この記憶には、位置と日付が付加される。そして、日付が与えられるということは本質的に繰り返し得ない。というのがこの記憶の特徴となる。

『しかし、あらゆる知覚は、生まれつつある行動へと引き継がれる。』(p.106 12行目) 『この機構は、外的刺激に対する益々多種多様なものと化す反応、普段に漸増する可能的な呼びかけに対するすっかり用意した応答を伴っている。』(p.106 16行目-p.107 1行目)

つまり、後者は運動や習慣と同じ形で記憶され想起されてる。そして、そこにはすでに意識的な表象は存在していない。

(2012年1月2日筆者注:上の段落の「表彰は存在していない」の前に「意識的な」を付け加えてよりはっきりした意味にした)

端的にまとめるとこうなるだろう。
『一方は想像し・イマージュ化し(imaginer)、他方は反復する(repeter)。』(p.107 13行目)もちろん混合することもある。後者は前者を補い、一部を置換することもあり得るし、また、われわれの持つ脳の記憶と想起の機構上、前者が少しずつ後者へと変わっていくこともある。

さて、人間と動物を分けているのはなんであろうか?ベルクソンは、テキストp.108において、動物が基本的に後者の記憶しか持たないと指摘している。取り返しのつかない、従って繰り返すことのない一度きりの思い出を持つことのできるのはおそらく人間だけなのだと。

以上で、今回の主な部分は語ったのであるが、いくつか、興味深い部分などを指摘しておきたい。

まず、イマージュ記憶があるということで夢を見るのではないかという指摘をしている。つまり、意識の注意がゆるむことで、勝手にイマージュ記憶が知覚として現れるという指摘である。(p.111 13行目-p.111 17行目)

(2011年1月2日筆者注:以下の部分は、必ずしも正確な記述になっていないと指摘しておかなければならない。ベルクソンは二つの記憶の考え方から出てくる『観念連合』の考え方に対して、別の考え方を述べるのであるが、ここまでの記述ではそのことをあまりはっきりとは述べていない。『観念連合論』に対しての批判は第三章に詳しいが、ここでは、「観念」というものについての記述をしていると考えたほうがいいだろう)

この指摘から、『観念連合』という概念を説明している。(p.112 3行目)これは、イマージュ記憶を運動の働きに関する記憶で必要に応じて制御していると言う考え方である。

このことについては、ベルクソンは痴呆症や失語症の患者についての研究を紹介している。 (p.113 4行目-p.116 3行目) それは、ある痴呆症の患者たちは、会話の内容は全く理解していないにも関わらず、一連の質問に返事をしている目撃例や、失語症の患者たちが、自発的に言葉を発することができないにも関わらず、歌を歌ったり、あるいはお祈り言葉を述べたり、連続した数字などを暗唱したりする。

このような高度なことが意識を介在しないでに行われるということから、『複合観念(idee complexe)』ということも話している。それは、言葉を理解したり発したりするにはすでにそのような機構があり、記憶はこれを利用してるだろう、ということだ。


(筆者注:以前の記事ではここから「さて、以上のようなことの考察は」と始まっていたが、これが非常に誤解を与えやすい記述だったと思う。まだ、第三章及びここまでを十分に理解していなかったために起こったことであり、未熟の致すところでした。お詫びし、以下のように修正したい。)

さて、以上のような二つの記憶についての考察、ベルクソン自身の言葉を借りれば、『この記憶はなんなのか、この記憶はどこから派生したのか、どのようにそれは振る舞うのか』(p.116 4-5行目)などの詳細な考察は、第三章によって行われることになるだろう。

しかし、第二章においては、次のような図式的な説明というのがベルクソン自身によって行われているので、その記述の範囲だけを紹介しておく(p.116 4行目-p.117 3行目)。われわれは今ここまで知っておけば十分であろう。テキストを持ってる人は、まとめにもなっているので是非読んでいただきたいと思う。

次の記事では、再認について語られる。それは、
『われわれが過去を現在のうちで改めて把持する具体的な行為とは再認である。それゆえ、再認こそわれわれが検討しなければならいもの』だからである。(p.118 11-13行目)


ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その1 概要(mixi:2009年07月19日)


さて、前の記事にまとめて前置きを書いておいた。ここからは、記憶を詳細に研究することによってどうして物質と精神が結びつけられるのか、あるいは精神の本性とは何か、についてベルクソンの考察が展開されていくところを説明していくことになるだろう。

まず、この第二章では、ベルクソンは物質の運動という面から記憶というものに関して検証する。前回の「その0」で最後に書いた言い方をすれば、『精神生理学の方へと心理学を凌駕』する方について心理学の分野から生理学へとはみ出すことについてとなる。

これによって、まず、

「I - 過去は、二つの異なる形式で存続する。第一は運動の機構の中で、第二は独立した想起の中で」(テキスト p.101 2-3行目)

と、まず、記憶が大別して2種類に分かれると主張する。そして、前者を特に、「純粋想起」、後者を「イマージュ想起」と言う呼び方もする。後者については、詳しくは「第三章 イマージュの残存について - 記憶と精神」において詳しく述べられることとなるが、簡単にはp.116 4行目 - p.117 4行目までにまとめられている。

(2010年1月23日 筆者注:第三章における図2(p.191)においては、知覚と純粋想起を対極においてその中間にイマージュ想起をおいている。一方でここでは運動性の機能(純粋想起)とイマージュ(想起)について対比させていることを混同しないように注意する必要がある)

(2012年1月2日 筆者注:上の段落について、一部表現を変更した。理由としては以下に述べる。まず、この第二章においては、記憶には『純粋想起』と『イマージュ想起』の2種類があることを臨床的な心理学の見地から説明を試みている。一方、第三章においては、その記憶の二つの形式をもとに、無意識の働きをより詳しく検証し、さらには、いかにわれわれが、さまざまな大脳生理学的、心理学的誤謬に陥りやすいかということを特大きな部分の裂いてに説明している。上の段落は、そのように考えれば、本来は書き換えられるべきであろうが、ブログ(あるいは当時の考え方の記録)として見た場合に、そのときの考え方を残すべきだと考え、しかし、内容の説明としてはより間違いの少ないような表現に書き改めることにした)

この記事は概要のみであるので、詳しい説明は後に回し、いまはここまでにする。

記憶を2種類にわけたあとは再認について詳しく述べられることとなる。

ベルクソン自身は

「II - 現在の対象の再認は、それが対象から生じるときには運動によって行われ、それが主体に由来するときには表象によって行われる」(テキスト p.101 10-11行目)

あるいは、p.118 14行目から始まる節「運動と想起」の最初では、

「II - 再認一般、イマージュ想起と運動について」

という言い方をしている。

ここからは、主に脳の損傷などによって起こる症状を検証することによって再認について考察していくこととなる。

たとえば、われわれが、記憶している街並みを以前に見たものと全く同一ではないのに同じだと断定できると言う不思議、あるいは、異なる人のしゃべる言葉を、癖や、しゃべり方は全く違っても理解できる不思議。これは、脳の一部が損傷していたりするとできない、ということが述べられている。

そして、最後に、イマージュ記憶が運動の機能へ置き換わっていく働き、あるいは注意とはなにかということが考察される。テキストでは

「III - 時間に沿って並べられた数々の想起から、空間内でのそれらの生まれつつある行動もしくは可能的な行動を描く諸運動へと、感じられないほど徐々に移行がなされる。脳の損傷はこれらの運動を傷つけることはできるが、これらの想起を損なうことはできない」 (p.102 13-15行目)

あるいは、p.131 13行目から始まる節「想起と運動」の冒頭では

「III - 想起から運動への漸進的な移行、再認と注意」

というように書かれている。

概要としては以上である。

補足としては、ベルクソンはこれらを三つの命題と呼び、第二章の最初の節『記憶の二つの形式』のはじめの三ページ(p.100?p.102)で、端的に示したあと最後に『残る課題は、経験がこれら三つの命題を実証しているのかどうかを知ることである』(p.102 最後の行)と述べている、ということを付け加えておく。


2010年1月17日日曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その0 まえおき(mixi: 2009年07月19日 )

今回からしばらく、記事『ベルクソン「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起』の「その0」から「その3」まででは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」の「第二章 イマージュの再認 — 記憶と脳について」(p.99-187)内容について考察します。ただし、この「その0」にでは、補足として第一章でなぜ記憶の問題を扱うかについて説明してある部分について取り上げて説明しています。

文章が長く、また内容も高度になっていくのは、テキスト中の議論が詳細になっていくためであり、できるだけわかりやすくとは心がけてはいますが、力が及ばないところもあるもしれません。それについては、お許し願いたい。

さて、前置きが若干長くなったが、まず、なぜベルクソンが記憶について扱うかについて述べてあるところを示しておこう。基本的な部分(これをここでは仮に第一の目的としておく)は、第一章の節『記憶の問題への移行』(p.89-p.94)がそれに相当するだろう。その中から更に要約してみることにする。

現在の一般的に「心脳問題」と呼ばれている問題で、記憶を扱う一般的な理由としては、ベルクソン自身はp.93の2行目でわずかに触れているが、一般的な常識では、『記憶の現象において精神の現象が意識と物質の接点であるという理由』であると、当時から考えられていた、というのがその理由だと言っていいだろう。

その上で、p.93 5-11行を引用すると、
「物質は、(中略)認識の基盤ではなく、行動の伝達手段であるということを積極的に確立することができれば、われわれが支持する主張は、最もそれに不利なものと判断される例に基づいて証明されることになるだろうし、精神を独立した実在に仕立て上げる必要性が課せられるだろう。しかし、まさにそれによって、精神と呼ばれるものの本性並びに、精神と物質が働きかける可能性がおそらく部分的に解明されるだろう」

と言うのである。この部分を私なりに要約すると、物質はあくまで物質でしかない。それは単に行動の基盤である。これをはっきりさせる。一方で、精神を独立して存在することのできる、「独立した実在」とする。そのときに、記憶というものを詳細に検証するこによって「精神と呼ばれるものの本性並びに、精神と物質が互いに働きかける可能性がおそらく部分的に解明されるだろう。」ということになるであろう。

さらに、もうすこしだけ詳しく解説しておく必要があるかもしれない。

まず、前回の記事、『ベルグソン 「物質と記憶」メモ その2 唯心論の検証』では、ベルクソンの仮定する純粋な物理的反応である「純粋知覚」から展開して、それを脳の物理的な反応である「意識的知覚」に置き換えるときに、またその認識の曖昧さが意欲の曖昧さにつながるという主張をした。それは、様々な知覚の手段によって、曖昧な『表象』が物理的現象として脳の「意識的知覚」で発生するからである。これによって『イマージュ』の『表象』は、精神から展開される物ではないと唯心論を否定した。

もっとわかりやすく書いてある部分を引用すると、『諸イマージュにとって、存在することと意識的に知覚されることの間には、単なる程度の相違があるのであって本性の相違があるのではない』(p.39 3行目-5行目)
がそれに相当するだろう。

さて、さらに、ベルクソンはこの「純粋知覚」を想定することにより、唯物論的考え方も否定しているが、その論は複雑だし、省略する。

これらが「純粋知覚」の理論として、記憶の問題を扱う上での前提となってくる。


それでは、記憶の問題の話に戻ろう。

テキストでは、少し戻って節『純粋知覚』(p.80 2行目-p.84 7行目)、および、節『物質の問題への移行』(p.84 8行目-p.88 最終行)をから始めよう。

ここでは、「純粋知覚」と「純粋想起(記憶)」という概念について、ベルクソンの考えてることを少しだけ解説しておけば十分であると考えている。

ベルクソンは、知覚と記憶は本来ならば我々において不可分の物であると説明する。しかし、このことが、実在論と観念論における共通の誤りの根元である、と指摘している。なぜならば、双方において記憶は知覚の弱いものにしかすぎないという誤りがあるからである。

このことは最終的にはこの節の最後の3行目に集約されるので、その部分だけを引用しよう。

『少なくとも以上のことが、本書の最終章で引き出されるのを我々が期待してるところの結論である。主体と対象、それらの区別とそれらの結合に係わる諸問題は、空間に応じてではなくむしろ時間に応じて提出されなければならない。』

これが先に言った一つ目の目的であり、『最終章で導かれることを期待しているところの結論』とあるからにはベルクソンの目指す最終的な目的であるだろう。

さて、さらに、次の節『記憶の問題への移行』(既出)の最初においては、二番目の目的が書かれているので紹介しておこう。

『純粋知覚は、物質の本性に関する指示をわれわれに与えることで、実在論と観念論の中間の立場をわれわれが採ることを可能にするに違いないのだが、それに対して純粋記憶は、精神と呼ばれるものへの見通しをわれわれに開くことで、今度は、唯物論と唯心論という別の二つの学説にも裁決を下すに違いないだろう。以下に続く二つの章のなかで、われわれが専心することになるのは、まさに問いのこの側面である。なぜなら、まさにこの側面をヘることで、われわれの仮説はいわば実験的な検証を伴うことになるからだ』(p.90 3行目-8行目)

つまり、もう一つの目的は、仮説を検証することであり、それは第二章と第三章で行われであろう、と言っている。

この文章は第二章について述べるための前置きであるけれども、少しだけ、「純粋知覚」と「純粋記憶」に関しての図式を第三章から引用しよう。


これは、「知覚」、「純粋想起」、「イマージュ想起」を図式的に書いた図である(p.191 図2)。




さて、さらに、第一章の最終節『物質と記憶』(p.94 4行目-p.97 3行目)の節の始めで、上記の二番目の目的として書かれたことの内容を、ベルクソンは、『第三の形式を示すことで、どうしてわれわれの目には記憶の問題が一つの特権的な問題と映るのかということをまさに明らかにしなければならない』、と言っている。

その部分を要約して紹介しよう。

まず、純粋知覚を仮定することによって得られる結論は、『いわば分岐した二つの結論であって、その一方は精神生理学の方へと心理学を凌駕し、もう一方は形而上学へとはみ出すので、結局はそのどちらも直接的な実証を含まない。』(p.94 7行目-9行目)

始めに、『精神生理学の方へと心理学を凌駕』する方の結論であるが、これは、『純粋知覚』を仮定することにより、『脳は行動の道具であり、表象の道具ではない』と言うことを『第一の結論』としたが、検証はできなかった。これは対象の『イマージュ』を脳という『イマージュ』を『絶対知覚』によって単なる物質としてみたときの、対象の『イマージュ』の脳という物質に投影されるときの曖昧さがあるわけだが、われわれが体験するように、記憶自体の曖昧さもあるので、区別が付かないということによる。つまり、われわれの反応が「純粋知覚」と「純粋記憶(想起)」にきちんと区別が付かない以上、二つの曖昧さの区別も付かない。

しかし、記憶自体を調べることにより、区別が付くようになるだろう、とベルクソンは主張するのである。これは、『純粋想起とは、仮定からして、不在の対象の表象である。』したがって、脳のなかに記憶が全面的に保存されているならば、脳の活動だけで、対象があるのと全く同じ知覚を再現できるだろう。しかし、『何らかの仕方で想起を条件づけてはいるが』、保持していない、あるいは『脳の機構は思い出された知覚のなかでわれわれの表象よりは行動に関係している』ということが分かれば、脳は『知覚のうちの類似の役割を演じ』かつ、その機構は『単に現在の対象に対するわれわれの有効な行動を保証すること』を目的とした単なる『物質』であることが証明される。

次に、『形而上学へとはみ出す』方の結論の検証であるが、これは、『われわれは純粋知覚においてまさしくわれわれの外におかれているのであり、われわれはその時直接的直感において対象の実在にふれるのである』と言い換えられるだろう。

しかし、この説も『純粋知覚』だけでは検証不可能であった。なぜなら、われわれにとっては、『対象の実在が直感によって知覚されたにせよ、理性によって構築されたものにせよ同じもので』区別が付かないからである。言い方を易しくすれば、この説はあるのは外的な現象による知覚も、脳のなかで組み立てられたものも、直感によって直覚するだけであり、あるとしても『程度の相違』だけだろうからである。『知覚と想起はどちらも自足した表象の現象』と言い換えてもいいだろう。

しかし、もし、知覚と想起に、『本性の根本的な相違があるということをわれわれが見出すならば、想起の中には全く存在しない何かを、直感によって把握された一つの実在を知覚の中に介在させる仮説が有利になるような数々の推測がなされるだろう。』

以上が、ベルクソンのいう『記憶が精神の特権的な問題であるとわれわれの目に映る』ところの『第三の形式』による説明となる。

さて、この後、続く第二章、第三章についての内容をベルクソンの言うところの『第三の形式』という言い方でに従って、改めて端的に説明すると、第二章については前半の『精神生理学の方へと心理学を凌駕』する方について説明し、第三章については後半の『形而上学へとはみ出す』ことについて詳しく述べられる、と言うことになる。