ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2010年3月29日月曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 補足(mixi:2009年12月02日 )


ベルクソン 「物質と時間」メモ その3 記憶と想起 補足  
2009年12月02日

『ベルクソン「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その4 想起と運動』(上)、(中)、(下)では、十分意図とするべき話が伝わっていないのではないかと感じています。説明が下手なせいでしょう。特に、(下)の最後の部分は、手を入れる前は、われながら本当にひどかった。ここで改めてお詫びをする次第です。それに、あまりにも、運動図式や、イマージュ記憶が脳にはないのではないか、というところに力を入れすぎてしまったかも。それで、補足をしようかと思った次第です。

前回までの記事で、『第二章 イマージュの再認について - 記憶と脳』について一通り終わってしまったつもりでいたのですが、最後の二ページに相当する部分(p.174 16行目-177 2行目)を解説していなかったので、その部分の少し詳しい解説を中心に、すこし説明を補足してみたいと思います。(テキストを持ってない人のために言っておくとp.174 2行しか残ってません。 p.177も2行。実質、p.175-p176の2ページ分)

まず、私の理解している第二章、というのを述べ、そのあと、実際にベルクソンがどのようにまとめているかを見てみたいと思います。

私の理解は以下の通り。

記憶はイマージュ想起と運動図式として展開される純粋想起に分かれている。連続した知覚においては、運動図式はあらかじめ機械的に用意されている。これが無意識的な行動にも相当する。

一方で、イマージュ想起というのは、知覚がすべてが保存されているが、それは、われわれの意識からは逃げ去りやすいものでもあり、なおかつ、任意に思い出すことはできない。しかし、保存されているのはどこかははっきりとは分からないが、イマージュ想起はすべて保存されていて、夢でならすべてアクセスできるだろう。

ベルクソンによると脳以外の部分にそれは保存されているはずであり、イマージュ想起は徐々に運動図式に置き換わり、その運動図式こそが脳に保存されている。これを、純粋想起と言い換えてもいいだろう。

先ほども述べたように、われわれが何かする場合には、無意識の段階で、すでに、運動図式は用意されている。では、どうやって意識的な再認をするのか?

それは、簡単に言うと注意の力であり、無意識の段階で知覚により用意されている運動図式に対応するイマージュ想起を当てはめる、意識的な再認を行うのである。

以上が、私の認識ですが、テキストにはどう書かれているかを見ていきたいと思います。

まず、端的に記述されているのは、テキストでは、少し戻って、p.171 13行目-p.172 9行目の段落になります。 引用すると、

『一方では、完全な知覚は実際、われわれがその知覚の前に投げかけるイマージュ想起とその知覚によってしか定義されないし、それと見分けがつかない。注意がかかる融合の条件であり、注意なしには機械的な反応を伴う諸感覚の受動的な並置があるだけだ。』 (p.171 13行目-15行目)

つづけて、

『しかし他方では、われわれがもっとあとで示すことになるであろう様に、イマージュ想起それ自体は純粋想起の状態に還元されれば無効なままだろう。潜在的なものとして、この想起は、それを引き寄せる知覚によってしか現実的なものとなり得ない。』 (p.171 16行目-p.172 1行目)

とあります。

そして、この段落の最後には、『この二つが合わさって初めて判明かつ再認された知覚を形成する。』

(2012年1月5日筆者注:上段落の『』内は要約であり、テキストでは、

『結びつけられる事で、これら二つの流れは合流点において、判明でかつ再認された知覚を形成するのである』(p.172 7行目−9行目)

)

とあります。

要するに、『知覚』によって呼び寄せられ無意識のうちに予め用意される『運動図式』と呼んでいるものによって、無意識にでもある程度のことはできるけど、ちゃんと分かろうと思ったら、ちゃんと『注意』をしてイマージュ想起と照合していかないといけませんよ。ただし、この照合は、まったく同じイマージュを探すのではなく、注意のところでも書いたように、再帰的に分解していって、照合結果のイマージュ記憶を再構成します。

この辺のことを、テキストp.139 11-14行目に端的に書いてあるので引用してみます。

『注意の行為は、精神とその対象の強い連帯を伴い、それは非常にしっかりと閉じられた回路であるので、高度な集中の状態に移る度に新しい回路を一から十まで作り上げなければならなくなるのだが、これらの新しい回路は最初の回路を含みつつも見られてる対象しか相互に共通なものはない。』

つまり、人間というのは、注意して見ると言うときはイマージュ想起を思い出している。しかし、それは、注意の程度やそのときの脳の活動の状況によって、同じものを見ていても、違う場合には違う形で物事を再認をしてると言っていいでしょう。これは、誰もが体験することですよね。

もう一つ言えるのは、この行為が、仮に同じ対象を見ている場合でも、異なる機会ならば、それぞれはじめから繰り返されるということです。

さて、これらのことが、最後のまとめの部分、p.174 16行目から章末までの約2ページにはどう書かれているか?

『最後にもう一度言い換えれば、基礎的な諸感覚が生じる諸中枢は、いわば前からと後ろから、相異なる二つの面から動かされてことができるのだ。前からは、諸中枢は諸感覚器官、従って<現実的対象(object rèal)>を受け取り、後ろからは媒介に媒介を重ねて<潜在的対象(object virtuel)>の影響を受ける。イマージュ中枢は、それがあるとすれば、これらの感覚中枢との関連で、諸感覚と対照的な諸器官でしかあり得ない。』 (p.174 16行目-p.175 5行目、<>内はテキスト内では傍点付きとイタリック)

ということが書いてあります。

少し省略して、次の段落(p.175 6行目-p175. 17行目)のはじめには、

『これは、実際に起こり得ることの無限に縮約された翻訳でしかないということを付け加えておこう。』

と書いてあり、次に一行飛ばして、

『われわれが純粋想起と呼ぶものであるような意向(intention)と、いわゆる聴覚的イマージュ想起とのあいだに、非常に頻繁に、それらにとって中間的な数々の想起が介在することになるのだが、それらの想起は多少とも遠隔的な諸中枢において、イマージュ想起としてまずもって現実化されなけねばならない。』 (p.175 8行目-11行目)

とあります。

このあともう少し具体的な例があるので引用すると、

『そのとき、観念が言語的イマージュという特殊なイマージュへと具現されるに至るのは、連続した諸段階を通ってのことである。これによって、心的聴覚は、多様な中枢と、そこに通じる数々の道に従属させられうるものとなる。』(p.175 11行目-14行目)

とあります。

最終的にはまとめると次の次の行、

『中間に置かれた諸項の数と質がいかなるものであれ、われわれは、知覚から観念へ進むのではなく、観念から知覚へ進むのであり、再認に特徴的な過程は求心的ではなく遠心的なのである』(p.175 15行目-17行目)

つまり、いろんなイマージュ想起を様々な中枢を通って再帰的に構成し直すと言っていいでしょう。また、具体化した統合的なイマージュ想起、ベルクソンの言い方では『言語イマージュという特殊なイマージュへと具現』されたものと言えるでしょうが、ここではこれを、ベルクソンは具体化した観念と言っていると言って良いでしょう。言語中枢の話ですからね。もちろんイマージュ想起の再構成は、『運動図式』という容器にみずから入り込むというイメージで具体化されるとベルクソンは説明していましたから、ある種の『運動図式』を、具体化する前の観念としてとらえても良いのだと思います。

さて、次のページが、また難しいかもしれません。
まず、ざっくり行きましょう。

『たしかに、内側から発する刺激が大脳皮質またはほかの諸中枢に働きかけることで、いかにして諸感覚を引き起こすかを知ることが課題として残されている。ただ、これが意見を述べるための一つの安易な仕方でしかないのは非常に明らかである。』(p.176 1行目-3行目)

とまず、問いかけとその注意点がかかれています。

つぎに、純粋想起の話があります。

『純粋想起は、それが現実化するにつれて、それに対応するすべての感覚を身体のうちに惹起するようになる。』(p.176 3行目-4行目)

つまり、純粋想起は、身体の感覚においてもいわゆる運動図式の形で実際的な感覚も引き起こす仕組みを持っている、ということになるでしょう。

で、その純粋想起が惹起できるところの感覚は、実際にはあらかじめ無意識の内に用意されてるよ、という話が次の行からです。

『しかし、これらの潜在的な感覚そのものは、それらが現実的になるために、身体を行動させ、身体に数々の運動と態度 - 潜在的な感覚はその前哨である - を刻みつけるようにならなければならない。いわゆる感覚中枢の諸震動は、身体によって成就されたり素描されたりする震動にふつうは先立っており、運動を開始しながらそれを準備することを正常な役割として有してさえいるのだが、』 (p.176 5行目-9行目)

が、それに相当します。

つづいて、

『それゆえこれらの震動(筆者註:感覚中枢の諸震動)は、感覚の現実的原因というよりも、感覚の力能の現れであり、その効力の条件である。』
(p.176 9行目-10行目)

以上は、知覚が感覚中枢によって運動図式に展開され、意識的再認のために用意される過程です。次に、イマージュ想起側の話がこのあとの行からとなります。

『潜在的イマージュが現実化される際の進展は、このイマージュが身体から有用な振る舞いを獲得するに至るための一連の段階にほかならない。』 (p.176 10行目-12行目)

ここでは少ししか書いてありませんが、注意することによりイマージュ想起が運動図式に再帰的に分解されながら当てはまっていく過程です。(先にも似た表現を使って説明しましたが、ベルクソンはこれを容器にイマージュ想起が自分から入っていくという表現を何度かしています)

そして、最終的には、

『いわゆる感覚中枢の刺激はこれらの段階の最後の段階である。』 (p.176 12行目)

ということになります。

つまり、ここで説明している一般的な感覚中枢が刺激されるのは思い出すときの脳の活動の最後なると言っているのであり、言語中枢ならば、このときに始めて観念を意識的に理解する。

(2012年1月5日筆者注:「この時観念を始めて意識的に理解する」という記述は少々誤解を招く。『言語中枢』はまず『観念』を理解し『イマージュ想起』を迎え入れるというのがベルクソンの主張だったからである。しかし、『言語』においてはその言葉の『観念』というのはここにおいては『運動図式』と同等であろう。つまり、ベルクソンの使っている『観念』は無意識のうちに用意される『運動図式』という事を意味していて、われわれが普段使っているような言葉で定義されるような『観念』は若干ニュアンスが違うという事を但し書きしておきたい)


『それは、運動反応の前兆であり、空間における一つの行動の始まりである。』 (p.176 12行目-13行目)


これは、すこし前に書いてあった『いわゆる感覚中枢の諸震動は、身体によって成就されたり素描されたりする震動にふつうは先立っており、運動を開始しながらそれを準備することを正常な役割として有してさえいるのだが、』 (p.176 7行目-9行目)というところを受けていて、どう感覚を脳の中に処理されたか、をまず書いて、それが運動のきっかけになってると述べているわけです。

もう少し、ベルクソンは続けていますので、つきあってくださいね。
 
『別言するなら、潜在的イマージュは潜在的感覚に向かって進展し、潜在的感覚は現実的運動に向かって進展する』 (p.176 13行目-14行目)

と簡単にまとめてから、次の行、

『この運動は、みずからを現実化しつつ、感覚 - この運動はそれを自然に引き延ばしたものである - と、感覚と一体化せんとしたイマージュの双方を同時に現実化する。』 (p.176 14行目-16行目)

と書いてあります。もちろんこの行の『この運動』は、前の行に書いてある進展の運動、そのものを指すのであり、前行中に書いてある『現実的運動』である訳ではないことは、注意しないといけません。

それで、最後にこう書いてあります。

『これにより、われわれは、これらの潜在的状態を掘り下げると共に、心的諸活動ならびに精神的生理学諸活動の内的機構のうちに更に深く入り込むことで、いかなる連続的進展によって、過去がその失われた影響を取り戻して現実化されるのかを示すつもりである。』(p.176 16行目-p177. 2行目)

ま、これは、更に詳しく研究していきますよということです。

さて、まとめの部分、一通り解説をしましたが、おわかりいただけたでしょうか。

ここまで、あまり分かってない、という人も、分かったよ、という人もいらっしゃると思いますが、私の認識を共有していただくとこれからの説明も楽になるだろうなぁと思うので、注意点と課題と思ってることを書き出してみます。

1. われわれは、記憶を二種類持っている。純粋想起とイマージュ想起である。 注意を惹起するために予め言っておけば、イマージュ想起は、純粋知覚と純粋想起の中間に当たるものとなる。(テキストp.191 図3を参照のこと)

2. 純粋想起は、われわれがまねをすることが可能な運動として脳の中に展開される、いわゆる、運動図式である。また、観念も更に複雑に展開されたこの運動図式にはいっているだろう。

(2012年1月5日筆者注:「また、観念も更に複雑に展開されたこの運動図式にはいっているだろう」という記述は、上記中にも書いたものを見て頂ければ分かると思うが正確ではない。ベルクソンのいう『観念』というのが、『言語』の『運動図式』と等しいものと思われるという事をもう一度指摘しておきたい)

3. イマージュ想起はすべてがそのままの形でとこかに保存されている。われわれは、一般的に意識的に、ありのままにこのイマージュ想起にアクセスすることはできない。そのままのイマージュ想起にアクセスできるとしたら夢の中だろう。

4. 一方で、意識的に記憶を思い出そうとするときには(意識的再認)、注意の力によって、運動図式に(あるいは、イマージュ中枢というものがあるなら、イマージュ中枢の中のこのような運動図式をコピーされて)、このイマージュ想起が再帰的に分解され当てはまることにより記憶が現実化する。ただし、これは、再認の対象が同じ対象であるとしても、各々一回だけの現象である。われわれの再認の仕組みでは、ものを再認するための仕組みは同じくしても、再認の行為は、それぞれどれもまったく同じ行為ではあり得ない。

5.最後に、純粋想起とイマージュ想起とに大きく分けてみたが、実際には、純粋想起が知覚もしくはイマージュ想起から形成されるという仕組みである以上、しかも繰り返しによって徐々に形成されるという性質がある以上、純粋想起とイマージュ想起を厳密に区別することは難しい。

以上が、簡単なまとめであり、現在のわれわれのもっとも大きな課題は、イマージュ記憶にどのようにアクセスしているか?であるでしょう。

しかし、おそらく、われわれがこの仕組みを、現実の物理的な現象として説明することは、少なくても現在のところは非常に難しいと言わざるを得ない状況です。おそらく将来にわたってもできないかもしれない。しかし、茂木氏も言ってるように、進化論がそうであるように過去にアクセスできているという断片的な証拠であっても、それを集めることによって、イマージュ記憶がそのままの過去を丸ごと保存しているという証拠になるかも知れません。(たまには良いこと言うなぁ、茂木さんも)

さて、締めますか。

われわれは、何かを注意して思い出そうとするときには、そのままのイマージュを取り出すことはできないにしろ、このイマージュ想起にアクセスしているのでは?と思わせるものは確かにある。記憶が仮に純粋想起だけだと考えて、運動図式が、たとえば、文字認識のニューラルネットワークであるなら、現実世界からの入力だけでは、われわれは機械的な行動しかできないかも知れない、あるいは、知覚の不確定性によって発生する、まったくでたらめに近い行動か。なぜ、その時々に思い出すこと、全く同じだったり、まるで違ったりするのか?どうして、われわれの記憶は、意識的にはコントロールできないのか?たとえば、夢の中では、丸ごとの記憶が思い出せるのに、起きている間はそのようなことが難しいのか?なぜ、不意に、奇妙なことを思い出して笑ってしまったりするのか?

つまり、ベルクソンの主張を信じるなら、われわれの精神においてもっとも神秘的なのは、ベルクソンの言うイマージュ記憶であり、思い出すことだといっても良いかもしれない。

(2010年3月28日 追加記述)
小林秀雄さんの「本居宣長」を読み進める過程で、言語は時代により変化する、時代時代の言語のあり方はその言語を用いている人たち共通の一つの記憶ともいえるだろう。ということを学んだ。

ここでは、イマージュ記憶へどのようにアクセスするかが不明であると説明したが、言語が、使う人々の共通のものということは、言い換えれば、人間は言語の内側にいる、つまりは、言語は人間の外側に存在する、と言ってもいいだろう。

そこにも何らかのヒントがあるのではないかとも思う。

(2012年1月5日 追加記述)

最近では、ニューラルネットワークが一種の情報圧縮を行っているという研究結果を読んだ。イマージュ想起は、圧縮された情報が展開されている、というかのせいがある事も、ここでは一応指摘しておきたい。(キーワード、「ニューラルネットワーク 情報圧縮」でインターネット上で検索すれば幾つもの論文がヒットする)

2010年3月28日日曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その4 想起と運動 (下) (mixi:2009年10月27日 )


さて、節が変わる。ここまでも長かったが、もう少しおつきあいいただきたい。

節名は上述したように、『想起の現実化』(p.156 6行目-p.177 2行目)である。
また段落ごとに説明していくが、ここでは、節の書き出しがどうなってるかをまず紹介しよう。

『二、われわれはこの研究の第二の部分に取りかかる。運動からわれわれは想起へ移る。』(p.156 7行目)

それでは、段落ごとに見ていくことにしよう。

この節の最初の段落(p.156 7行目-p.157 6行目)は、先ほど引用した、『二、われわれはこの研究の第二の部分に取りかかる。運動からわれわれは想起へ移る。』(p.156 7行目)
のあと、まず、『注意的再認は紛れもない回路』であるということの主張を繰り返す。

続く言葉はこうなる。

『そこにおいて、外的対象は、それと対称的におかれた記憶が、その数々の想起を外的対象に投影するためにより高い緊張を採用するにつれて、対象そのものの益々深い部分をわれわれに引き渡す。』(p.156 8行目-10行目)

例えば、知らない言語を学んでいるような場合、外的対象は学習中の言語であり、学習中の言語は、まずその『諸観念は彼の意識の中で聴覚的表象へと開花し、次いで、発音された語として物質化される。』(p.156 11行目-12行目)ということになるはずである。

(2012年1月5日筆者注:上の段落の最初の「これまでは、」を削除)

ごくわかりやすい例を挙げるなら、多くの日本人がなじみのある「This is a pen.」という英文は、まず、「pen」という『観念』を先の英文の中からこの単語を教わり聞き分け区別できるようになる、すなわち『聴覚的表象へと開花』する。そして、そのことが繰り返しの学習のなかで、意識されることなく認識できるようになる、すなわち、『物質化される』わけである。

このことによって学習済みの言語を聞き取ったときに起こる過程を、ベルクソンは独特の表現方法でこう説明している。

『われわれが正しければ、<聞き手は一挙に対応する諸観念の中に身を置き>、それらの観念を、聴覚的表象へ展開させ、それらの表象が、運動図式の中へ自力ではまりこむことで、知覚された生の音を覆うのではなければならないだろう。』 (p.156 12行目-15行目、<>内はテキスト傍点付き)

以前にも指摘しておいたが、この考え方は、われわれが、例えばニューラルネットワークによる手書き文字の認識の概念によく似ている。もっとも、ベルクソンの例はもっと高等な処理がされているとは思われる。しかし、ここでは、一見奇妙に見える『表象が、運動図式に自力ではまりこむ』という表現も、現代、われわれが知っている理論や技術でもある程度であれば、十分説明できるだろう、ということを指摘しておきたいのである。

この段落の前半は、以上のように、これまで展開された論のまとめだと言える。

後半は、いよいよ、これから展開される、意識的な知的活動について、まず簡単に触れてある。

『計算を辿ることは、自分自身で計算をやり直すことである。(中略)より一般的には、注意すること、知的に再認すること、解釈することは互いに混じり合って同じ一つの操作と化すだろうが』(p.156 15行目-p.157 4行目) 、しかし、『その操作によって精神は、みずからの水準を定めた後で、また、生の知覚との関連で、知覚の多少とも直接的な原因と対になる点を精神そのもののうちで選んだ後で、数々の想起を知覚に向けて流出させ、これらの想起がやがて知覚をおおうことになるだろう。』 (p.157 4行目-6行目)

これが、ベルクソンが展開させる自身の仮説のテーマとなっている。『精神がみずからの水準を定めた後で』、『知覚の多少とも直接的な原因と対になる点』、など、いくつか難解な点があるが、これらは、後々わかってくるだろう。

次の段落から(p.157 7行目-16行目)、数段落のあいだ、しばらくは、ベルクソンと違うタイプの仮説に対する批判が続く。『急いで言っておくが、通常はこのような仕方で自体が思い描かれることは全くない。ここにはわれわれの連合主義的習慣があって、(以下略)』云々。

つまりは、知覚と想起などの連合中枢主義的な考え方の批判であるが、とりあえずはp.159 14行目まで省略したい。

その次の段落(p.159 15行目-p.163 7行目)に入ろう。

この段落においては、まず、脳のある部分に想起が蓄積されているかが論じられ、そのような考え方に対する、反証として感覚性失語症の例を挙げている。

『皮質の諸細胞の中に置かれた想起が本当にあるとすれば、たとえば感覚的失語症においては、ある決まった語の取り返しのつかない喪失と、他の語の全面的な保存が確認されるだろう』(p.159 15行目-17行目)

しかし実際はそうはならないとベルクソンは言う。

『ある時は、消え去るのは想起の全体であり、精神の聴覚機能が完全に消滅させられるが、ある時はこの機能の全体的な低下が見られるのだ。しかし、弱められるのは通常、機能であって想起の数量ではない。』(p.159 17行目-p.160 3行目)

『患者は、聴覚的想起を取り戻す力をもはや持っておらず、言語的イマージュの周りを回転しつつも、イマージュそれ自体とは接触することができずにいるように思われる。』(p.160 3-5行目)

(ここまで、実際には連続している文でも、わかりやすいように分割して引用した)

何のことかわからない人もいるだろうが、例えば、われわれが、ものの名前を思い出せなくて、「あれだよ、あれ。ねじを回すやつってなんてったっけ?」などという会話をよくするだろう。この場合、答えは、ドライバーなのであるが、『患者に語を再び見つけさせるためには、しばしば、その人に手がかりを与えること、患者に最初の音節を示し(53)、あるいは単に患者を励ます(54)ことだけで十分である。』(p.160 5-6行目)

『感情の高ぶりも同じ効果をもたらしうるだろう。』(p.160 6-7行目)これは外国でトラブったときに、やたらとそこの言葉がぺらぺらとしゃべれるようになることを経験した人もいるだろう。

このような卑近な例に似た多様な症状を、ベルクソンは検討の結果、二つのカテゴリーに分類したと述べている。

『第一のカテゴリーでは、想起の喪失は総じて突然である。第二のカテゴリーでは、それは漸進的である。』(p.160 10-11行目)

ここで、第一のカテゴリーとは、われわれがよく経験するようないわゆるど忘れが、長く続いてたり、程度がひどくなっていることとほぼ同じと思って良い。

『第二のカテゴリーでは、言葉は消失するにあたって体系的で文法規則にかなった順序を辿るのだが、この順序はまさにリボーの法則が示しているもので、最初に固有名詞が消え、次いで普通名詞が消え、最後に動詞が消えるのだ(56)。』(p.160 14-16行目)

さらに、ベルクソンは詳しい症例を説明しているのだが、ここではごく簡単に触れたい。

第一の種類の記憶消失は、何らかの激しい衝撃の結果として起こったものがほとんどで、実際は記憶はありながら、障害が起こってるように見えるという。

例えば、『ウィンズロウからしばしば借用された一つの例(57)、即ち、文字F、しかも文字Fだけを忘れてしまった患者を取り上げるならば』(p.161 4-5行目)、Fという文字は認識していながら、忘れていると言わざるを得ないだろう。以下いくつかの例が挙げられているが、ここでは省略する。

ただ、このような症例の場合、『(前略)消滅した想起の全面的回復がしばしば見受けられる。』(p.161 10-11行目)とある。

それらの例以外、『すべて第二の種類の失語症、真の失語症である』(p.161 17行目)

『これらの失語症は、われわれがまもなく示そうとつとめるように、はっきり局所化された一機能、語についての想起の現実化の能力が徐々に弱まることに起因する。』(p.161 17行目-p.162 2行目)

さて、ここで、記憶が脳細胞の一部分に蓄積されているのはおかしいのではないかとベルクソンは指摘する。

『記憶喪失がここでは、固有名詞から始まり動詞で終わる体系的な経過を辿ることをどのように説明すればいいのだろうか』(p.162 2-4行目)

『言語的イマージュが本当に皮質の諸細胞のうちに置かれているとすれば、説明の方法はほとんどないだろう。実際、疾患がつねに同じ順序でこれらの細胞を損なうなどということは奇妙ではないだろうか(61)。』(p.162 4-6行目)

しかし、ベルクソンの主張する仮説のように、『想起が現実化するためには、運動の随伴を必要とすること、また、呼び起こされるためには、想起は、身体的態度のうちにおのずと挿入される一種の精神的態度を要請するということをわれわれとともに認めるならば、事実は解明するだろう。』(p.162 6-9行目)

上述の引用は、言葉は難しいが、要するに、前節で、想起が『運動図式』へおのずから入り込むということを認めれば説明がつくのではないか?と主張しているのである。

『そのとき、動詞、-その本質は模倣可能な行動を表現することにある-とはまさに、言語の機能がいまにもわれわれから脱落しようとしているときに、身体の努力によってわれわれから取り戻しうる語である。反対に固有名詞は、すべての語の中でも、われわれの身体が素描することのできる非人格的行動からもっとも隔たっているので、機能低下が最初に損なうところの語である。』(p.162 9-13行目)と、いうように。

テキストは、ここからしばらくが少しわかりにくいのであるが、『次の奇妙な事実』(p.162 12行目)として周期的にど忘れに似たことに陥る患者の例が書いてある。実詞というのは、実際のものをさす言葉で、この患者の場合『自分の探している実詞を見つけることが決してできない状態に周期的に陥り、適当な遠回しの表現を用いるようになるのだが』(p.162 14-15行目)、それには別の場合思い出すことのできなかった実詞が用いたれたりもする。『正しい語を考えることができないので、この患者はそれに対応する行動のことを考えた』(p.162 17行目-p.163 1行目)というわけであり、このことが、この患者が思い出す出そうとするために説明をするための文章を話すための運動を規定した、とベルクソンは述べている。また、われわれが、単語のはじめの音を繰り返すことでその単語を思い出す例も書いてある。

つまり、ふたたび、ど忘れと似た第一場合の例を挙げて、第二の場合の様な『機能の全体が損なわれる』例と比較することにより、『第一の種類では、忘却は外見的に顕著であるとはいえ、実際には決して決定的なものであるはずがない』(p.163 4-5行目)、と主張し、また、『どちらの場合にも、われわれは、脳実質の特定の諸細胞の中に局所化され、これらの細胞によって消滅させられるような想起を見出すことはない。』(p.163  5-7行目)と結論づけている。

さて、長かったこの段落も、以上の引用で終わるのであるが、ここではベルクソンの『運動図式』仮説と仮にここで呼んでいるもの仕組み全体の検証ではないところには注意してほしい。ここでは、脳のある部分に想起が蓄積されているか、それともベルクソンの唱える仮説のように、想起自体は別のところにあるかということを、比較的わかりやすい例を引いて述べているのである。

さて、次の段落(p.163 8行目-p.163 最終行)に入りたい。
『そうではなく、われわれの意識に問いかけてみよう。われわれが他人の発語(parole d'autrui)を、それを理解しようと考えながら聞いているとき、何が起こっているかを意識に尋ねてみよう。』と始まる。

このとき、『諸印象がみずからイマージュを探しに行く』というような状態でなく、われわれ自身何かを、しかし無意識のうちに機械的に、ベルクソンの言う『運動図式』を予測し用意しながらながら聞いているだろう。段落の終わり、ベルクソンの言葉引くと

『運動図式は、対話者の抑揚を際だたせながら、対話者の思考の曲線を曲がり角から曲がり角へと辿りながら、われわれの思考に道を示す。それは空っぽの容器であり、この容器に流れ込む流体的塊が目指してる形を、みずからの形によって規定する。』 (p.163 14行目-17行目)

また、そうでなければ、人によって、話の受け止め方や深みが微妙に違うということが生じるだろうか?

しかしながら、次の段落(p.164 1行目-p.166 2行目)の始めに、このことがなかなか認めがたい考え方だ、ということもベルクソン自身が述べている。この段落から数段落(p.164 1行目-p.169 7行目)は、分析から分析へ向かう科学的思想を哲学者の観点から批判している部分で、記述の仕方が非常に難解でもあるし、ベルクソンの記憶についての仮説には直接関係ないため、説明のための労力を節約したいということもあり省略したい。

同様に、その次の行からの数段落(p.169 8行目-p.171 12行目)も説明を省略したい。これは、上の批判に対して、ベルクソンの唱える仮説がいかに有用であるかの繰り返しに、ほぼ相当するからだ。

ただし、一部は、前節「ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その4 想起と運動 (中)」でも引用した。それゆえ、ごく簡単に、概要だけ言っておくと、『科学的思考』に基づく、要素分解-再構成の考え方では、その時々において、例えば、聴覚から入る一連の文章を理解するのには、一旦、要素に分解し、後で再構成する。ところで、その要素に分解する過程はいくらでも細かく分解でき複雑にもできる。また、それを、例えば、文法中枢において再構成するにしろ、一体どのようなやり方で行われるのかは具体的に説明が難しいだろう。そうではなく、予め運動図式が、その時々において、無意識の中で機械的に用意されておいて、聴覚中枢などから入ってきた表象に従って、選ばれていくという方が自然だろう、という主張だと思っていただければいいだろう。

ベルクソンの意識的な外的知覚理解の仮説のまとめとしては、p.171 13行目-p.172 9行目までの段落にある記述が、私には特に重要に思える。

少し長くなるが、引用しよう。

『一方では、完全な知覚は実際、われわれがその知覚の前に投げかけるイマージュ想起とその知覚の融合によってしか定義されないし、それと見分けられない。注意がかかる融合の条件であり、注意なしには機械的な反応を伴う諸感覚の受動的な並置があるだけだ。』(p.171 13行目-15行目)

『しかし他方では、われわれがもっと後で示すことになるように、イマージュ想起それ自体は、純粋想起の状態に還元され<なけ>れば無効なままだろう。潜在的なものとして、この想起は、それを引き寄せる知覚によってしか現実的なものとなり得ない。無力なものとして、この想起はその生命と効力を現在の感覚から借りていて、現在の感覚の中で物質化される。』 (p.171 16行目-p.172 2行目、<>内の二文字は筆者挿入)

『ということはつまり、判明な知覚は、一方の外的対象から来る求心的な流れと、他方われわれが「純粋想起」と呼ぶものを出発点とする遠心的な流れという反対方向の二つの流れによって引き寄せられているということだろうか。』 (p.172 3行目-5行目)

こう問いかけ、最後に、ベルクソンはこう答える。

『第一の流れはそれだけでは、受動的な知覚とそれに伴う機械的な諸反応しか与えないだろう。第二の流れは自分だけでは、流れが強まるにつれてますます現実的になるような、現実化された想起を与えようとする。結びつけられることで、これら二つの流れは合流点において、判明でかつ再認された知覚を形成するのである。』(p.172 5行目-9行目)


次の段落からは、ベルクソン自身が意図しているよりは、やや早いが、この章のまとめと言えるだろう。

その段落(p.172 10-16行目)は、最初と最後だけ見ればいいだろう。
『以上は内的観察が語るとことである。』 (p.172 10行目)
いろいろと考察をしてきたが、要点としては、
『脳を想起の保管者と見なすことをやめるとき、既知の諸事実がどうなるのかをわれわれは探求しなければならない。』(p.172 14行目-16行目) ということである、とベルクソンは言っているのである。

次の段落(p.172 17行目-p.174 8行目)とその次の段落(p.174 9行目-15行目)までは、ほぼこれまでの繰り返しだが、ここまでは解説して、その後の2ページ少しは、ベルクソン自身がまとめているので、そこは、少し難しいが、テキストを持っている方は、自分自身で読んでいただくことが理解を深めるためにも良いと思うので、そうしたい。

さて、この章、最後の解説を始めよう。

『少しのあいだ、説明を簡単にするために、外からきた刺激は、大脳皮質であれ、ほかの諸中枢であれ、基礎的な諸感覚を引き起こしているとしておこう。われわれはそこではつねに基礎的な諸感覚しか持たない。』(p.172 17行目-p.173 2行目)

『ところで実際、各々の知覚は、すべてが共存しつつ一定の順序で置かれているかなり多数の諸感覚を包み込んでいる』(p.173 2-3行目)

ここからが問題なのだ、とベルクソンは言う。

『どこからこの順序=秩序(ordre)は来るのだろうか、そして何がこの共存(coexistence)を保証するのだろうか』 (p.173 3-5行目)

これに対して、まず、外的に存在する(以前にも触れているが、哲学的に存在してるということをどう考えるかについては、大きく唯物論と唯心論の系統に分かれるが、われわれはいまそこを議論しない)物質については、知覚によるものであるのは間違いない、とベルクソンは言う。ここではこういう言い方をしている。

『現存している物質的対象の場合、答えは疑いない。順序と共存は、外的対象によって印象を与えられた諸感覚器官(organe des sens)に由来する。』(p.173 5―6行目)これらの器官自体が、その平行に起きる刺激を、それなりの構成で脳に『振動』を伝えるだろう。これを、ベルクソンは『巨大な鍵盤』(p.173 9行目) と表現してこう述べている。

『外的対象は、無数の音からなる和音を一挙に奏で、そうすることで、この対象と係わる感覚中枢のすべての点に対応する膨大な数の要素的感覚を一定の秩序で唯一の瞬間に惹起するのである。』 (p.173 9-11行目)

では、『次に外的対象か感覚器官、あるいはその両方を消して見なさい。』 (p.173 11-12行目)

『その場合にも先と同じ基礎的諸感覚は刺激を受けることができる。というのも、そこには同じ弦があって、この弦は同じ仕方で鳴り響く準備ができているからだ。』 (p.173 12-14行目)

これが『運動図式』ということをベルクソンは言いたいようである。

ところで、『しかし、同時に数千もの弦を鳴らし、かくも多くの単純な音を、同じ和音にまとめることを可能にするような鍵盤などどこにあるのだろうか。』(p.173 14-16行目)

『われわれの考えでは、「諸イマージュの領域」は、もしそれが実在するとすれば、この種の鍵盤でしかありえない。』(p.173 16行目-p.173 17行目)

『たしかに、純粋に心的な一つの原因が、関与する弦を直接的に振動させるとしても、それはまったく不可能なことではないだろう。』 (p.173 17行目-p.174 1行目)

しかしながら、反証として挙げた感覚性失語症のこれまでの検証をまとめ、『側頭葉の一定の損傷が機能を消滅させているので、機能の局所性は確実である様に思われるが、他方でわれわれは、脳実質のある領域におかれたイマージュの残滓を認めることもできなくなるという数々の理由を呈示してきた』(p.174 2―3行目)と反論する。

その結論として『運動図式』仮説とここでは呼んでいる、ベルクソンの主張する仮説がもっとも適当である、いや、それしか適当な仮説はここでは残っていない、と主張している。

そして、先に少しだけ触れていたが、『注意がかかる融合の条件であり、注意なしには機械的な反応を伴う諸感覚の受動的な並置があるだけだ。』(p.171 13行目-15行目) という意識的な行動において、『想起の現実化』が、特に重要になってくるわけである。

もうすこし詳しく説明を加えるなら、聴覚という知覚を担当する現実の器官を耳とすると、集中による意識した『想起の現実化』は、その部分について、ベルクソンが取り組んだ唯一のもので、『心的聴覚』(p.174 2行目)というべき対照的な知覚を発生させる。ベルクソンの言い方では、

『この領域が聴覚そのものの中枢との関係で、諸感覚器官―ここでは耳―と対照的な位置を占めているとする仮説で、ここでいう耳は心的な耳であるだろう。』(p.174 6行目-8行目)

ということになるだろう。

次の段落(p.174 9行目-15行目)では、例えば、これ以外の考え方で、この脳のこの部分が破壊されたとしても脳の機能は再生することもあり、ということはこの部分に想起が蓄積されている、ひいては、機能の中枢が想起を取り出してきて、ほかの関与する部分を機能させるというのは無理な考え方じゃないのか?と言っているのである。

以上が私の読書メモであり、解説である。読者各位には、いつにない長文の上、乱筆のほどお許し願いたい。

2010年3月21日日曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と記憶 その4 想起と運動 (中) (mixi:2009年10月27日)


ベルクソン 「物質と時間」メモ その3 記憶と想起 その4 想起と運動 (中)
2009年10月27日

この後、次の段落(p.138 14行目-p.141 1行目)になるが、この段落と、その次の段落(p.141 2行目-p.141 8行目)までは、上述の前段落の強調と詳細な説明であると見なせるので、ほとんどを省略して、注意すべき点だけピックアップしよう。

まず、ベルクソンはこう主張する。

『反省された知覚は<回路(circuit)>である』(p.139 1-2行目<>内は傍点とイタリック)

ここで、『回路』の意味であるが、われわれ意志とは無関係に処理が行われる、という具合に受け取っておけばいいだろう。さらに詳しくするとこのような次のような記述になっている。

『注意の行為は精神とその対象の強い連帯を伴い、それは非常にしっかりと閉じられた回路であるので、高度な集中の状態に移るたびに新しい回路を一から十まで作り上げねばならなくなるのであるが、これら新しい回路は最初の回路を含みつつも、見られている対象しか相互に共通なものは持っていない。』(p.139 11行目-14行目)

このことは、ベルクソンが後述している言葉に置き換えれば『注意の進展』という言い方ができるだろう。そして、『注意の進展はその帰結として、単に見られた対象だけでなく、その対象が結びつくことのできる益々広大になる諸体系をも新たに作り出す。』(p.140 15-17行目)

『それゆえ、同じ心的生が、記憶の相継起する諸段階で無制限に反復されるだろうし、精神の同じ行為が数多くの相異なる高度で行われうるだろう。』(p.141 2-3行目)

ここをわかりやすく書くと、同じ様な体験であっても各個人にとって一度きりの体験になるし、そのときそのときの精神状態によって『注意』の『高度』も違ってくるだろう、と言っているのである。

ごく大まかに書いたわけだが、われわれはあまり細かいことにこだわらず、これくらい理解すれば十分だろう。

次の段落(p.141 9行目-p.142 6行目)は、われわれの経験(個々人の連続したイマージュ想起)が、知覚と区別なく認識される過程がより詳しく書いてあるのだが、ここも概略だけ説明しよう。

われわれの経験は、ベルクソンの言葉で言えば『数々の個人的で人格的な想起』の『連鎖が過去のわれわれの生存の流れを描いている』ものと言えようが、これらの『想起』が『まとめられることで』われわれの記憶の最も外側の『外皮(envelope)』を作っている。それは、核となる知覚と記憶のペアからもっとも遠いところにあり、『本質的に逃げやすいものであるので、偶然によってしか物質化されない』。しかし、遠いが故に『弱められ』、つまりは抽象化され、繰り返されているうちに『ありふれたものとして、現在の知覚に益々張り付けることができ、個体を包括する種(エスペス)のように現在の知覚を益々限定することができる』(p.142 1行目-2行目)。こうしているうちに、知覚と想起はまったく区別が付かなくなる時が来る。このことをベルクソン流に言うと『まさにこの瞬間、記憶は、その諸表象を気まぐれに出現させたり消失させたりする代わりに、身体的諸運動の細部にみずからを合わせているのである。』(p.142 4行目-6行目)となるわけである。

さらに、次の段落(p.142 7行目-p.143 12行目)に続いていくわけであるが、この段落は、こう始まる。『しかし、これらの想起が、運動にいっそう近づき、それによって外的知覚にいっそう近づいていくにつれて、記憶の操作はより実践的な重要さを獲得する』。

この『記憶の運動的要素』が非常に大事であるということを強調して、さらに詳しくこう解説している。

『われわれの考えでは、われわれの知覚が数々の模倣の運動へ自動的に分解されたちょうどその時に、呼びかけがわれわれの活動へと投げかけられる。そのとき、素描がわれわれにもたらされ、われわれは、程度の差はあれはるか昔の数々の想起をそこに投影しながら、この素描の細部と色合いを作り直している。』 (p.142 14行目-p.143 1行目)

以上がベルクソンの仮説の比較的詳細な説明となっている。この段落は、まだ残っているが、この部分以外は、これ以外の説の批判に向けられているので省略する。

次の段落(p.143 13行目-p.144 1行目)に行こう。この段落は短いが意外と重要だ。

前段落の後半で従来からの説についての批判をひとしきりしたあと、こう始まる。『しかし、これらの一般論から抜け出るときが到来した。われわれの仮説が脳内局所化についての周知の事実によって検証されるのか、それとも破棄されるのかを、われわれは探求しなければならない。』(p.143 13行目−15行目)

つまり、ここからはベルクソンは仮説を検証するつもりなのだが、その対象として、『皮質の局所的な諸損傷に対応するイマージュ的記憶の諸障害は、それが視覚一般または聴覚一般の障害(精神盲や精神聾)であれ、言葉の再認の疾患(言語盲、言語聾など)であれ、言葉の再認の障害である。したがって、以上のものが、われわれの検討すべき諸障害となる。』 (p.143 15行目−144 1行目)

以上、段落のほぼすべてを引用したのだが、さらに次の段落(p.144 2-13行目)においてなぜこのような疾患がベルクソンの仮説の検証の対象になるかについて述べてある。

それは、つまり、ベルクソンの仮説が正当なら、脳の皮質の局所的な障害が起こす再認障害が、脳のその部分に各視覚や聴覚や言語認識に対応する『想起』が蓄積られていた、とはならないだろう、ということを主張している。

これが、形を変えながら何度も何度も出てくるベルクソンの主張になのだが、音楽の主題のように展開されていくと見ればおもしろいと思う。

それでは、この段落をもう少し詳細に見ていくことにしよう。ベルクソンの説では、この種の再認障害はさらに大きく二つの原因に由来する。

第一の場合、『想起の選択がなされる際の仲介となるまさにその態度を、われわれの身体が、外からきた刺激を前にして自動的にもはや採ることができないことに由来し』、第二の場合、『想起が身体のうちに、作用点、つまり行動へと引き継がれる手段をもはや見いださないことに由来する。』(p.144 3行目-6行目)

『第一の場合、損傷は集められた震動を自動的に実行される運動へ引き継ぐ諸機構に係わっている。そうなると、もはや注意は対象によっては定められないだろう』。(p.144 6行目-8行目)

『第二の場合、損傷は個々の中枢を傷つけるだろう。それらの中枢は、意志的な運動に必要な感覚の先行現象を与えることで、この意志的な運動を<準備>しているのだが、それらは間違ってるにせよ正しいにせよ、イマージュ的想像中枢(centres imaginatifs)と呼ばれている。そうなると、もはや注意は主体によって定められないだろう。』(p.144 8行目-12行目、<>内はテキスト傍点付き)

ベルクソンはやや難しい言い方をしているので、もう少し砕いて説明しよう。

第一の場合は、感覚器官から脳の自動処理中枢(ここでは『運動』の仕組みであることに注意)への『震動』伝送路もしくは、自動処理中枢の中の伝送路が故障しているために、中枢は最終的に対象を正しく確認することなく、本来自動的に行われる意志的な運動の準備、つまり、前節で説明した現代コンピュータのパイプラインの働きがうまくできないという障害が発生する、ということになる。

第二の場合は、脳の自動処理中枢の機能自体が壊れてしまっているために、感覚器官から集められた『震動』を正しく認識できない、もしくは結果としてするべき活動を正常にできないそのために、最終的に本来の活動を停止しているか異常を発生させることになるだろう。

しかしながら、『しかし、どちらの場合にも、損なわれるであろうものは現在の運動であり、準備されなくなるであろうものは来るべき運動であって、想起破壊は生じないだろう』(p.144 12行目-14行目)

この次の段落(p.144 15行目-p.146 3行目)で注意についての記述はいったん終わる。その次の段落からは最初に書いたように、『第一に自動的な感覚-運動過程』(対応部分:p.146 4行目-p.156 5行目)の記述に入る。

それは、こう始まる。『ところで、病理学はこの予想を確証している。病理学は、完全に異なる二種類の精神盲と精神聾、言語盲と言語聾の存在をわれわれに明かしている』。

要点を絞るために途中の記述を省略し、関係のある部分だけを残そう。続きはこうなる。

いろいろな例があるが、ベルクソンは仮説を確実に証明するために『われわれは、聴覚の諸印象、特にはっきりと文節的に発音された語の聴取に専念することを好む。なぜなら、この例はあらゆる例の中でもっとも明快なものだからだ。』と言う。(p.145 8行目-10行目)

そして、『実際、口に出された言葉を理解することは、最初にその音を再認し、次いでその意味を再び見いだし、最後にその解釈を多かれ少なかれ遠くに押し進めることである。要するに、注意のすべての段階を通過することであり、記憶のいくつもの相継起する力能を行使することなのだ。』と説明している。 (p.145 10行目-13行目)

さらに、聴覚の障害がもっとも研究されていること、『最後に、音声的言語イマージュの消失は、皮質のある決まった脳回の重度の損傷なしに進まない。』と言っている(p.145 15行目-16行目)。最後の引用で脳回という言葉が難しいが、大脳皮質の溝と溝で囲まれた凸の部分のことだ。もっとわかりやすく言えば、脳のしわとしわとの間の出っ張った部分やその一部のことだ。

そういうわけで、検証が進むにつれて、局所的なその脳回に想起が蓄積されているか、それともベルクソンの言うとおり想起自体は別のところに蓄積されており、脳は想起の操作だけを司る『運動』の器官にすぎないのかがわかるであろう。

ここまで、概要、特に『注意』の働きを中心に見てきた。以降は脳が想起を蓄積できるかどうかの検証のための記述がされていくことになる。

繰り返しになるが、ここまでを振り返って簡単にまとめてみよう。

ベルクソンの仮説が正当かどうかを示すために、脳の皮質の局所的な障害が起こす再認障害を検証することによって、脳の局所的部分に、想起が蓄えられているかどうかを検証できるだろう。これをもうすこし詳しく順を追って説明するとこうなる。

まず、ベルクソンの仮説は、私なりにまとめると以下のようになるだろう。想起に関して、脳にあるのは、自動的な反応を行う感覚-運動過程と、注意によって、ますます詳しくなる、一種再起的な知覚の二重化があり、イマージュ記憶は、この注意による再起的な知覚二重化を行う過程でより詳細に再構成されていく。この作用をする脳の中枢のことを、上述された言葉を使うと『イマージュ想像中枢』という。

これらの仮説を、先ほどまで見てきたような、大きく二種類に分類される障害によって検証する。その結果、想起が脳の局所的部分に蓄えられているかどうかもわかる。と言うことになるだろう。ベルクソンの言葉を引用するならこうなる。

『そこでわれわれは、語の聴覚的再認のなかで、第一に自動的な感覚-運動過程、第二にイマージュ想起の能動的でいわば離心的な投影を示さなければならないだろう』(p.146 1行目-3行目)。


そこで、次の段落からは、『第一に自動的な感覚-運動過程』(対応部分:p.146 4行目-p.156 5行目)の部分の検証がはじまる。一緒に詳しく見ていこう。

(2012/01/04筆者註:この節の解説の初め(上)の最初の部分で、この節は大きく以下のように大きく三つに分けられるといった事を思いだして頂ければと思う。

「つまり、このように、ある程度の概要を述べた後、『第一に自動的な感覚-運動過程』の部分がテキストではp.146 4行目-p.156 5行目で語られ、『第二にイマージュ想起の能動的でいわば離心的な投影』が次節『想起の現実化』(p.156 6行目-p.177 2行目)にて詳細に語られるという構成になっている」

ここまでが概要で、次からは、「『第一に自動的な感覚-運動過程』の部分」、に入る。)


この最初の段落(p.146 4-10行目)は、聴覚から入った言語の理解の例である。やや長いが、以下この例に基づいて議論が展開されているので、すべてを引用しよう。

『一、私は二人の人物が、私の知らない言語(テキスト中ふりがな:ラング)[国語]で話しているのを耳にする。それだけで、私が彼らの言っていることを聞き取るのに十分だろうか。私に伝わる振動は、彼らの耳を打っているのと同じ振動である。しかしながら、私は、すべての音が相互に類似した漠たる雑音しか知覚しない。私はなにも識別しないし、なにも反復できないだろう。反対に二人の対話者は、この同じ音の塊のなかに、お互いにほとんど似ていない子音、母音、音節を、要するに判明な語を聞き取っている。彼らと私のあいだで、どこに相違があるのだろうか。』

次の段落(p.146 11行目-p.147 5行目)はさらに興味深い。

『問題はある言語(ラング)[国語]の知識という想起にすぎないものが、どのようにして現在の知覚の物質性を変え、一方の人たちがある物理的条件下で聞き取れないものを、他方の人たちに同じ条件下で現実に聞き取らせることができるのかを知ることである。』『実際、前提とされているのは、語の聴覚的想起が記憶のうちに蓄積され、ここで音響的諸印象の呼びかけに反応し、その効果を補強することである。』 (p.146 11行目-15行目、テキスト上は連続でも読みやすいように意味のまとまりを考え『』により分割した。)

以下、この段落をまとめると、つまりは、一方では雑音にすぎないものは、音の強度が強くなっても雑音でしかすぎないのに対し、会話として成立させている側は、雑音の中でも明瞭に音を聞き取ることが可能であり、なおかつ明晰に語を理解しているわけであるが、それには、耳とそれに伴う器官が音を語として聞き取っていなければならない。まず、知覚が明瞭に音を明晰な語として認識して初めて、音は記憶に対し働きかけることができるはずではないか、とベルクソンは言う。

次の段落(p147 6-16行目)の始め、ベルクソンはこう嘆く。『この困難は感覚性失語症の理論家たちに、十分な衝撃を与えたようには見えない。』

言語聾の患者は、われわれが未知の言語の会話の中にあるのと同じ状態に陥っていて、『一般的に、聴覚の感覚を無傷に持ち続けているのだが、自分が発音しようと欲する言葉(テキスト中ふりがな:パロール)をなにも理解しておらず、しばしばその言葉を弁別することさえできない。』(p.147 8行目-10行目)

このあと、従来の感覚性失語症の理論家を批判したあと、次の心理学的問題が判明していないと指摘する。『損傷が消し去った意識的な過程とは何なのか。そして、最初は耳に音の連続性として与えられていた言葉や音節を聞き分けることは、一般に、何を介することで行われるのだろうか。』(p.147 14行目-16行目)

次の段落(p.147 17行目-p.148 11行目)はこう始まる。『われわれが一方では、聴覚的印象、他方では聴覚的想起にだけ実際に係わるのであれば、この困難は乗り越えがたいものであろう。』 (p.147 17行目-p.148 1行目)

『ただし、聴覚的印象が芽生えたばかりの運動を組織し、それが、聞かれた文章を区切り、その主要な文節を明示しうるとすれば、事情は同じではないだろう。』 (p.148 1行目-3行目)

次に、ニューラルネットワークを知っているわれわれには、よくなじんだ考え方を説明する。

『聴覚的印象に内属するこれらの自動運動は、(中略)反復されることで、次第に明確化されるだろう。』 『これらの運動はついには単純化された一つの形象を描くに至るのだが、聞いている人は、話している人の数々の運動そのものの概略と主要な方向をそこに見出すだろう。』(p.148 3行目-6行目、テキスト上は連続でも読みやすいように意味のまとまりを考え『』により分割した。)

ベルクソンは、このことを『運動図式(shème moteur)』と名付けて、『生まれつつある筋肉感覚の形で展開されるだろう』と指摘する。(p.148 7行目-8行目)

『そのとき聞いてる人の耳を、新しい言語の諸要素にならすことは、(中略)それは声の筋肉運動の傾向を耳の印象に連繋(れんけい)させ、運動の随伴を洗練させることであろう。』(p.148 8行目-11行目)

次の段落(p.148 12行目-p.149 16行目)からは、『運動図式』の説明になる。しかし、内容は専門的に見ればかなりおもしろいのであるが、一般的にわれわれが知っておくべきだろうというところだけをピックアップする。

ところで、人間の知能は運動と密接に関わっていると考えられている専門家の方が少なからずいらっしゃるのは私も知っているが、その方たちにとっては容易に読めるであろうから、特にこの段落は、是非ご自分でも目を通していただくようお勧めする。

一方、この段落で専門家でないようなわれわれが知っておくべきことは次の二点であろう。

『我々の視覚的知覚は連続した全体の知覚であったのに、それに対して、われわれがそれによってこの全体のイマージュを再構成しようと努めている運動は多数の筋肉的収縮や緊張から構成されている。』(p.148 15行目-p.149 1行目)

『イマージュを模倣する漠然とした運動は、すでにその運動の潜在的な分解である。』(p.149 2行目-3行目)『(中略)しかし、反復された努力が常に同じことを再現するのであれば、それは何の役に立つのだろうか。反復の真の効果は、まず分解し、ついで再構成し、そうすることで身体の知性に語りかけることである。』(p.149 9行目-11行目)

引用が細切れになってよく理解できないと言う人もいるかもしれない。それで、私なりの言葉で言い方を変えて表現すれば、一連の連続した知覚というイマージュを、非常に細分化した運動として分解、再構成すること、そのことで、上記引用で『身体の知性』とベルクソンが呼ぶ機能に働きかけ、繰り返される同じようでわずかに異なる一連の流れが、繰り返し反復学習され、つまりは、これが再利用可能なひとまとまりの想起となって成立するということであろう。

次の段落(p.149 17行目-p.150 12行目)に移ろう。

『かくして、聞き取られた言葉に随伴する運動もこの音の塊の連続性を断ち切ることになる。残るは、かかる随伴の本義がどこにあるのかを知ることである。』 (p.149 17行目-p.150 1行目)

『かかる随伴の本義』という言い方で、この段落でベルクソンが問題にしていることを理解するのは簡単である。われわれは、聞いた言葉を正確に理解することはできるかもしれない。しかし、アナウンサーが立派な職業であるように、われわれは、アナウンサーと同じような話すことのプロではない。言葉が聞き取れるからと言って、それをうまく話すこととはまたかなり違ったことだ。

つまり、言葉を聞いて理解するということと、考えをうまく口に出して話をすることとは全く違うことであって、『かかる随伴の本義』は言葉を聞いて理解することと、考えていることをはなすことを同源とするような『内的に表現された発語(テキスト中ふりがな:パロール)』(p.150 1行目-2行目)という抽象的な物ではない。

この段落の最後に、ベルクソンがこう書いているのも同じ意味だ。『運動性失語症は言語聾を引き起こしはしないのだ』。つまり、言葉を話せない病気、運動性失語症と、言葉を聞いて理解できない病気、言語聾とは全く原因を異にしていると言っているのである。 この問題の説明はさらに次の段落に続いていく。

この段落(p.150 13行目-p.151 7行目)も、難解な部分はないので簡単に説明する。

『なぜなら、聞き取られた発語を音節で区切ってわれわれが発音する際の図式は、単にその顕著な輪郭を表示するにすぎないからだ。』(p.150 13行目-14行目)

この、図式と発語の関係を、ベルクソンはスケッチと完成された絵画にたとえている。そして言う、

『身体の論理は仄めかしを許容しない。』(p.151 2行目)

発語をするならば、どんな細部にわたっても身体に理解させておかなければならない、と指摘する。『ここでは、どんな細部も疎かにしない<完全な>分析と、何も要約されない<現実的>総合が不可欠となる。』 (p.151 4行目-5行目、<>内はテキスト傍点付き)これが、運動性失語症と言語聾がまったく違う原因で起こる理由と言うのである。

『かかる随伴の本義』という言い方でベルクソンが説明してきたここまでの二つの段落を簡単に振り返ってまとめよう。

運動性失語症と言語聾の症状をよく観察してみると、聞いて理解することと考えていることをうまく話をすることは、同じ言語を扱っているにしても脳の中の機能としてみた場合において全く異なると言うことが分かる。どちらも、『身体の知性』と言うべき非常に細かい部分まで分解された一連の機能として、全く別々に記憶されている。聞いて理解することと考えていることをうまく話すと言うことは、それぞれが全く別種の身体性を伴った反復学習の結果ということだ、と言い換えてもいいだろう。

では、次の段落(p.151 8行目-p.153 11行目)をみよう。こんどは、次のような疑問が提示されている。

『残るは、この種の身体的随伴がどうして生じうるのか、そしてそれは実際つねに生じているのかどうかを知ることにある。』(p.151 8行目-9行目)

『身体的随伴』という言葉が難しいが、今までの『運動の随伴』などと同様の意味で、ここでは上記『どんな細部も疎かにしない完全な分析と、何も要約されない現実的総合』の事であると思って良いだろう。

さて、その説明をする前に、ベルクソンがこの本(「物質と記憶」)を書いて出版したのは、1896年となるが、当時どのように、脳からの命令で発語がされているかということが理解されていたかを見るために、煩雑にはなるが、相当部分を引用する。

『言葉を実際発音するには、分節のために舌と唇を、発声のために喉頭を、最後に呼気の流れの発生のために胸郭の諸筋肉を同時に働かせることが必要である。それゆえ、発音された各々の音節には、脊髄や延髄の諸中枢の中ですっかり組み立てられた諸機構の全体の作動が対応している。これらの機構は、精神-運動領域の錘体細胞の筒-軸突起によって皮質の高等中枢へつながれている。意志の衝動が進むのはこれらの道に沿ってである』 (p.151 9行目-14行目)

現代から見ても非常に正確な解剖学的知識に基づいていることを改めて指摘しておきたい。

さて、この段落で何をベルクソンが主張したいのかを、記述されている例を用いながら見ていこうと思うのだが、二つの失語症の例を挙げている。(リトハイムの第四型、第六型)

その、ベルクソンの記述にはいる前に、訳注を少し紹介しておきたい。 『[リトハイムは七種の言語障害を言語中枢性失語、末梢性伝導性失語、中枢性伝導性失語に分類した。第四、第六型はいずれも第三の種類の失語に属し、前者<第四型 - 筆者註>は超皮質性運動性失語、後者<第六型 - 筆者註>は超皮質性感覚性失語と呼ばれる]』(p.152 4行目-5行目)

何度も前置きめいたことが挿入されてしまったが、本題の『この種の身体的随伴がどうして起こるのか、そしてそれは実際常に生じているのか』というベルクソンの問題提起に戻ることにしよう。

ここで、まず、ベルクソンは、言葉の内容は理解できないのにも係わらず、聞いた言葉をそのまま発音することが可能な患者を挙げている。

『リトハイム[Ludwing Lichitheim,1845-1915,ドイツの臨床医学教授]本人によって観察された症例において、患者は転倒した結果、言葉の分節の記憶を、ひいては自発的にはなす能力を失ってしまった。しかしながら、その患者は人から言われたことをこの上もなく正確に反復した(39)。』(p.152 6行目-9行目)

『他方、自発的に話す能力は元のままだが言語聾が完全な場合、患者はその人に言われたことについて何も理解してないのだけれども、他人が話した言葉を反復する能力はなおも完全に保存されうる。(40)』(p.152 9行目-11行目)

上の二例、双方が、他人の話したことを正確に話す能力はあるのだが、最初の患者の場合は自発的に話す能力が失われている。一方で、後者の場合、自発的に話す能力は保持している(ただし、他人から言われたことを理解する能力は失われている)、という違いがある。しかしながら、最初の共通点、他人の話した言葉を正確に繰り返す能力があるということを示すことによってベルクソンが主張するように、ここでは聞いた言葉を意識的理解を通さず『身体的随伴』によって発語可能な仕組みがあると言うことが示されていると言えるだろう。

当時、いろいろな人が様々な説明をしていたようであったが、ベルクソンは、『ここでは、患者は、機械的に、そしておそらく無意識的に、聞き取られた言葉を反復する。あたかも聴覚の諸感覚が、自ずから分節の諸運動に転じたように。(中略)これらの多様な現象の中には、完全に機械的な諸活動より以上のものではあるが、意志的記憶への呼びかけより以下のものがある。』(p.153 2行目-7行目)と指摘している。そして、この段落の最後に『われわれの言う運動図式はこれと別ものではない。』(p.153 11行目)と言っている。つまりは、上記『身体的随伴』はベルクソンの唱える『運動図式』と違ったものではないと言っても良いだろう。

さらに、次の段落(p.153 12行目-p.155 10行目)では、こう始まる。『この仮説を深めることで、われわれはおそらく、言語聾のいくつかの形式に先に求められた心理学的な解釈をそこに見いだすだろう。』

ここで、『先に求められた心理的な解釈』というのは、省略してしまったが、p.147 10行目-16行目において、『感覚性失語症の理論家』の理論を批判し、『心理学的問題が手つかずのままに残っている。』と指摘している部分である。その『心理学的問題』の部分は、一度引用したがもう一度引用しよう。

『損傷が消し去った意識的な過程とはなんなのか。そして、最初は耳に音の連続性として与えられていた言葉や音節を聞き分けることは、一般に、何を介することで行われるのであろうか。』 (p.147 14行目-17行目)

そして、少し先取りしていえば、この『心理学的解釈』とは、この後でベルクソンが批判する『科学的思考』(p.164 12行目-p169. 7行目)のように、聞いた言葉の解釈を、たとえば音声解析中枢、言語解釈中枢、などに、要素分解、合成で説明できるとする考え方(ベルクソンの言い方によると『象徴的形象化(figuration symbolique)への抑えがたい欲求』p.164 12行目-13行目)に対しての、自分たちの言うこの『運動図式』仮説のことであろう、と、ここでは解釈できると思う。

(筆者註:ここで告白しなければならないのは、私もIT系のエンジニアとして教育を受けているためでもあるが、常に、この要素分解・合成系の考え方に陥ってしまいがちで、その点で、ベルクソンの『運動図式』の説明がそちらの考えと混同して曖昧になりやすいという問題を抱えている。これからも注意していくが、そのようなことで説明が不明であるのはまったく私自身の不明によるものである、とお詫びする次第である。

しかし、それは、完全に論理で構成している、つまりは数学のなかで完全に定義され演繹されるような、たとえば、オブジェクト指向コンピュータ言語で作られるクラスやそのインスタンス、もしくは、たとえば、データマイニングの手法で取られるような、分類木のような観念を作って分類、分解するやり方とは、全く違ったイマージュの理解を連続した時間のなかで人間は行っていて、それが、どのように、脳という物質のなかで行われているかと言うことの説明であって、『運動図式』仮説が脳の中で物理法則に従わないことを行っているという意味ではない。

また、この前の段落ではこういうことも言っている。

様々な学者が一種の『反射』として考え、あるいは、『(中略)ある人たちは語の聴覚中枢を発語の文節中枢へと結びつけるような特殊な機構を想定した(46)。真実はこれらの仮説の中間にあるように思われる。』(p.152 11行目-p.153 6行目をまとめた)

これからわかるように、必ずしも『聴覚中枢』や『文節中枢』の存在をベルクソンは否定しているのではない。ただ、その結びつけられ方がもっと総合的であるいは連続した一意な物であるだろうし、それを、『運動図式』と言う形で説明しているのだと思われる。

つまりは、人間の言語がコンピューターの言語のように最終的には数学のなかで完全に定義できるものでない以上、文脈や日本でしばしば使われる空気という場の雰囲気に物に従う、と言うことの説明でもあると言って良いのではないだろうか。これは、別途、おそらく、将来書くつもりである「小林秀雄『本居宣長』メモ」などで詳細に説明しなければならないだろう。

しかし、そう結論を急がず、ここでは、やはり、ベルクソンの『科学的思考』に安易に陥らない、優れた洞察力と、事実に基づいた明晰な論理的思考の双方の卓抜さを賞賛すべきであろう。)

さて、テキストに従い仮説の検証を進めていこう。

『聴覚的早期を無傷のまま保持した言語聾について、いくつかの症例が知られている。患者は語の音響的想起も聴覚的想起も元のままに保持していた。しかしながら、患者は発音されるのを聞いているどの語も再認することはない。ここでは、大脳皮質下の損傷が想定されており、それによって、音響的諸印象は、聴覚による言葉のイマージュをそれがおかれているだろう皮質の諸中枢の中に再び見つけに行くのを妨げられている。』 (p.153 13行目-p.154 1行目)

提起された問題に対してのこの実例(実は、このような音響的想起を保持したままの、言語聾はまれな例なのだと言うが)も、テキスト中の詳細な検証を省いて結論だけを言えば、つまりは、『運動図式』仮説で説明できる。

従って、『われわれの仮説が脳内局所化についての周知の事実によって検証されるのか、それとも破棄されるのかを、われわれは探求しなければならない。』(p.143 13行目-15行目)と言う理由で始まったこの一連の検証作業における最後の疑問、『残るは、この種の身体的随伴がどうして生じうるのか、そしてそれは実際つねに生じているのかどうかを知ることにある。』(p.151 8行目-9行目)と言う疑問は、意識の前段階を『運動の知性』を使って正確に処理する事を目的とし、正常ならば常に行われているという結論になるだろう。

次の段落(p.155 11行目-p.156 5行目)は、この節最後の段落になる。

さて、この段落では、まずベルクソンはこういうことを強調している。『すべての事実は、音をバラバラにして音の図式を打ち立てる運動傾向の存在を一致して証明している。』(p.155 14行目-15行目)

ベルクソンがまず言いたいのは、つまりは、このようなある種の『初歩的な知性』があるからこそ、例えば、『異なった声の響きを持ち、異なる音程で発音された相似た発語を一括して同定し、ひいては、同じ図式でそれらの発語を跡づける』ということができるのである、ということだ。(p.155 15行目−p.156 2行目をまとめた)

『これらは意志と自動運動のあいだの境界を示している。反復と再認というこれらの内的運動は意識的な注意の前奏曲のようなものである。』 (p.156 2行目-3行目)

さて、ここまで、まず、『第一に自動的な感覚-運動図式』についてを説明してきた。次の節(『想起の現実化』、前述(p.146 2行目-3行目)では『第二にイマージュ想起の能動的でいわば離心的な投影』に対応する)へ進む前に、この節の最後を引用したい。

『これらによってわれわれが予感させたように、知的な再認の特徴的な諸現象が準備され、決定されるのである。それにしても、十全たる自覚にいたったこの完全な再認とは何だろうか。』(p.156 3行目-5行目)

2010年3月9日火曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その4 想起と運動  (上) (mixi:2009年10月27日)


今回の記事は、『第二章 イマージュの再認について - 記憶と脳』の第三節『想起と運動』についてまとめています。この説の内容は次節『想起の現実化』まで続いています。テキストでは、p.131 13行目-p.177 2行目に相当する部分です。前節が約13ページでしたので、今回の節の長さがわかると思います。蛇足ですが、この部分でこの第二章は終わりとなります。

また、今回の記事は2万5千字を超える長文になったので、上、中、下の三つに分けています。テキストでいうと以下のようになります。

上 : p.131 14行目-p.138 13行目
中 : p.138 14行目-p.156 5行目
下 : 次節『想起の現実化』(p.156 6行目-p.177 2行目)


さて、本題に入る前に、あらかじめ、この節『想起と運動』と次節『想起の現実化』について、どういう構成になっているかについて少し説明しておきたい。

まず、この節に書いてある内容をベルクソン自身がどうまとめているかを振り返ってみることにする。

この章の始め(p.102 13-15行目)では次のように記述している。

『III - <時間に沿って並べられた数々の想起から、空間内でのそれらの生まれつつある行動もしくは可能的な行動を描く諸運動へと、感じ取れないほど徐々に移行がなされる。脳の損傷はこれらの行動を傷つけることはできるが、これらの想起を損なうことができない。>』 (<>内は傍点付き)

また、この節の始め(p.131 14行目)では次のように書いている。

『III - <想起から運動への漸進的な移行。再認と注意。>』(<>内は傍点付き)

これが、今回の内容の主題となって展開されていくわけだ。

さて、今回の内容は私の見るところによると大きく3つに分かれている。

まず、最初に、記憶が脳の中に蓄積されているのか、それとも脳にあるのは、従来からのベルクソンの主張通り、想起し、再認する為の機構だけなのか?と言う問題が議論される(p.131 14行目-p.146 3行目)。その主張を詳細に検討するために、ベルクソンは言葉を聞き取るということの研究を詳しくやったようだ。そのことを、大きく二つに分けて説明している。 ベルクソン自身の記述を引用してみよう。

『そこでわれわれは、語の聴覚的再認の中で、第一に自動的な感覚-運動過程、第二にイマージュ想起の能動的でいわば離心的な投影を示さなければならないだろう。』(p.146 1行目-3行目)

つまり、このように、ある程度の概要を述べた後、『第一に自動的な感覚-運動過程』の部分がテキストではp.146 4行目-p.156 5行目で語られ、『第二にイマージュ想起の能動的でいわば離心的な投影』が次節『想起の現実化』(p.156 6行目-p.177 2行目)にて詳細に語られるという構成になっている。

さて、そろそろ本題に入ろうと思うのだが、すでに書いたように対応するテキストの範囲が前節に比べてかなり広いので、基本的には段落ごとにまとめた形で説明したい。テキストを持ってる人が自分で読めるようにするというのが、最近のこのメモの一つの目的にもなってきているからだ。

それでは本題に入る。

まず、ベルクソンは読者にこう問いかける。

『われわれはここで論争の本質的な部分に触れている。再認が注意深いものである場合、すなわちイマージュ想起が規則正しく現在の知覚に加わる場合、知覚が機械的に想起の出現の原因になっているのだろうか、それとも、想起が自発的に知覚に向かって進むのだろうか。この問いに対する答えに、脳と記憶のあいだに打ち立てられるだろう諸関係の本性が懸かっている。』(p.131 14行目-p.132 3行目)

最初の『われわれはここで論争の本質的な部分に触れている。』にある『論争』について触れることにしよう。

これは、この後の段落(p.132 2行目-p.133 6行目)にある、

『実際どんな知覚のうちにも、神経を経て知覚中枢へと伝えられる震動がある。大脳皮質の別の諸中枢へのこの運動の流布が、そこにイマージュを出現させることを真の効果としているとすれば、百歩譲って、記憶は脳の働きにすぎないだろう。』(p.132 3-5行目)

と、

『しかし、ほかの場所と同様に、ここでも運動は運動しか生み出すことができないということ、また、知覚的震動の役割は、想起がそこに差し込まれるになるある態度を身体に刻み込むものだということをわれわれが確証するとするなら、そのときには、物質的運動の効果は、運動性適応の働きの中ですべて使い尽くされるので、それ以外の場所で想起を探さなければならないだろう。』 (p.132 6-10行目)

という、二つの仮説の論争であることをベルクソンが述べている。

非常にわかりにくいのだが、もう少し後の文章を読むと、例えがある(p.132 10行目-p.133 1行目)。ここは要約しよう。

『第一の仮説』として述べられているのはわかりやすく言うと、知覚からベルクソンの言う『震動』が、脳の別の記憶を司る中枢へ伝えられると、脳のその部分に蓄えられていた『想起』がイマージュとして出現する。したがって、脳のその部分が損傷してしまうならば、記憶(『想起』)も同時に損傷し、消失するだろう。

『第二の仮説』として述べられているのは、脳が司るのは、『想起』の操作を司るのであり、それはイコール『運動』である。そして、その場合、『想起』自体は別の場所に蓄積されていなければならない。なぜなら、この『第二の仮説』ならば、脳が損傷を受けたとしても、『想起』自体は傷つかず、われわれの行動だけに関係するだろう。この場合、大きく分けて二つのパターンがある。一つは『対象を前にして身体がイマージュを喚起するのに相応しい態度をとるのを妨げるだろうし』(p.132 14-15行目)、あるいは、もう一つの場合『この想起からそれと現存する実在との接触を遮断するだろう。』(p.132 15-16行目)

ここで、いったん段落は終わり、次の段落(p.133 2行目−6行目)に入る。
(2012年1月3日筆者注:新しくこの行を補完)

『この第二の仮説がわれわれの仮説になるだろう。』(p.133 2行目)と、ベルクソンは述べている。

ところで、これらのことを詳細に検討する前に、先取りして少し説明することがあると言う。

『その実証を探し求める前に、どのようにして、われわれが、知覚、注意、記憶の一般的な関係を表彰するかについて簡潔に述べておこう。』(p.133 2-4行目)

それは、『どのようにして一つの想起が徐々に態度または運動の中に差し込まれるようになるかを示すために、』(p.133 4-5行目)であり、そのために、『次の章でのわれわれの諸結論を少々先取りしなければならないだろう。』(p.133 5-6行目)

こうして、次の段落(p.133 7行目-p.134 2行目)に続く。この段落の最初にはこうある。

『注意(attention)とは何だろうか。』

注意についても、今回取り上げた部分には、興味深い記述がたくさんあるのだが、あくまでもここでは簡単に触れておくことにしよう。

まず、ベルクソンは、われわれの持つ一般的な注意についての概念を哲学者らしい難解な言葉で説明し、かつ、その一般的な概念の問題点を指摘している。

その部分をまとめればこうなるだろう。

『一面で注意は、知覚をより強烈なものにして、その細部を明らかにするという本質的な効果をもたらす。それゆえ、(中略)注意は知的状態のある程度の拡充に還元されるだろう』(p.133 7-9行目)。しかし、われわれの意識は、あきらかに、このような『注意』によるわれわれの内側から起こる刺激の強さの増加と、外界の刺激の強さが増すことによる知覚の増加を違うものと見なしている。つまり、『注意』は、何らかの知的な作用によるある種の『態度』見なすことができるのだが、この『知的態度』ということがうまく定義できない。ベルクソンの言葉を借りれば、『明晰な観念ではないからだ。』ということになる。それで、『「精神の集中」』あるいは『「統覚的」努力』などという曖昧な言葉で説明しようとする向きもあるが、それにはベルクソンは否定的である。

では、ベルクソンはどのように考えているか。それが、次の段落(p.134 3行目-p.135 2行目)に述べられている。

ここも要約しよう。

テオデュール・リボー<前出 p.124 15行目 - 筆者註>の説では、 『注意を、精神よりむしろ身体の一般的な適応によって定義し、(中略)何よりもまず、態度についての意識を見るような傾向が徐々に出てくるだろう。』(p.134 7-9行目)と、ベルクソンはまず先駆者の考えを説明する。しかし、ベルクソンは、それだけでなく、実は、『現象の否定的条件だけを見ることが不可欠』だと主張する。『実際、意識的注意と同時的に生じる諸運動は何よりも停止の運動であると想定するなら、残るは、その運動に対応する精神の働きを説明することであろう。』というように指摘している。しかし、そのあと、さらに論を進めて、『しかし、もっと先に進み、抑制の諸現象は意志的注意の実行的諸運動を準備することでしかないと主張できる。』と続く。つまり、集中している時には、よけいな物音など聞こえなくなるだろう、というようなことを言っているのである。(p.134 3行目-p.134 13行目)

ここからあとの文章がまた非常に難解なのだが、つまり、注意というのは、集中している部分以外の脳の運動を停止している様に見えて、実は、様々な『微細な運動が接ぎ木される』のだが、これは、前節「ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その2 記憶の二つの形式」の最後で説明したところの『認知された対象の輪郭』に、『繰り返し立ち戻ることにある。』と言っているのである。そうなると『この運動とともに、注意のもはや単に消極的なではなく積極的な働きが始まる。この働きは想起によって継続される。』と主張している。 (p.134 14行目-p.135 2行目)

次の段落(p.135 3行目-p.136 1行目)は、この働きについて、もう少し詳しく説明している。しばらく引用しよう。

『実際、外的知覚が、その大まかな輪郭線を素描する諸運動をわれわれの側に引き起こすとすれば、われわれの記憶は、受け取られた知覚に類似し、われわれの運動によってすでにその素描が描かれたところの古いイマージュをこの知覚へと差し向ける。』『われわれの記憶はこうして新たに現在の知覚を創造する、というよりむしろ、われわれの記憶は、現在の知覚そのもののイマージュか、または何らかの同種のイマージュ想起を現在の知覚に送り返すことで、この知覚を二重化するのだ。』 (p.135 3-8行目)
(意味のまとまりがわかりやすいように『』を使って分割した。)

余計かもしれないが、上の引用を私の言葉でまとめよう。『注意』によって、知覚は制限され『大まかな輪郭線を素描する諸運動』は『われわれの記憶』を行使して、『知覚』されたイマージュをそれと同様の『古いイマージュ』(=『イマージュ想起』)によって二重化する。

ここまでの『注意』についての記述を簡単にまとめると、知覚されたイマージュとまったく同様の『イマージュ想起』がない場合は、細部を再帰的に分割していき、合致する『イマージュ想起』を割り当て知覚から受けるイマージュを二重化する。こうして、『記憶は知覚を強め、知覚を豊かにし、今度は知覚が、益々発展させられながら、漸増する補足的な想起を記憶へと引き寄せるのである。』 (p.135 11-13行目)

この後ベルクソンは、この『注意』の基本的な働きについて『電信技手』の例えを使って説明すると述べ、次の段落へと続いていく。

『重要な電報を受け取ると、その正確さを調べるために、発信地に対して同じ語を返信する電信技手に。』 (p.135 16行目-p.136 1行目)


次の段落(p.136 2行目-14行目)からは、『注意』を『電信技手』の比喩を用いてさらに詳しく説明してある。

ここからは、記憶を二重化されるための仕組み、ベルクソンの言葉で言い換えれば、記憶の『照会』についてさらに詳しく述べられてると言っても良いだろう。

『しかし、照会のために電報を返送するには機械装置を操作できなければならない。同様に、知覚に対して、そこからかつて受け取られたイマージュを反射するためには、イマージュを再現しうる、つまり総合の努力によってイマージュを再構成しうるのでなければならない。』 (p.136 2行目-5行目)

と、ベルクソンは『注意』の働きが、単に分析だけではないことを指摘し始める。というのも、それまでは、『どうしてこの種の分析が可能であるかということも、どんな過程によって、われわれは知覚の中に、最初はそこに現れていなかったものを発見できるかということも、十分に説明されなかった。』(p.136 6行目-8行目)為である。

ところで、この段落では最終的に、この知覚の二重化の仕組み、すなわち、再帰的に記憶を照会し組み立てる仕組みは、『模倣(imitation)の運動であり、それによって知覚は継続され、これが知覚と思い出されたイマージュとに共通の仕組みとして役立つことになるのだ。』(p.136 12行目-14行目)と述べている。

ちなみに、先取りして言うと、ベルクソンは後で、言語の忘却に関して、まず固有名詞、次に普通名詞、最後に動詞の順番で忘れやすい。これは、動詞が模倣可能な運動を示すからだ、という指摘をするのであるが(p.162 2行目-p.163 終わり)、これが知覚の二重化に密接に関連しているというのが、ベルクソンの主張であると思われる。

さて、次の段落(p.136 15行目-p.138 13行目)から数段落は、上の例を用いてるにも関わらず、かなり難解なので、要点だけを押さえていくことにしよう。

まず、『しかし、その場合には、判明な知覚の機構を通常行うのとは別の仕方で表象しなければならないだろう。』とベルクソンは言う。

通常行う知覚とは、ベルクソンの言葉を借りれば、『精神によって寄せ集められ、あるいは練り上げられする諸印象』(p.136 16行目−17行目)と言っていいだろう。

『しかし、どんな注意的知覚も、語原的な意味での<反射(rélrexion)>、つまり対象と同一的かまたは類似的なものとして、対象の輪郭に相即するものとして能動的に生み出されたイマージュの、外部への投影をまさに前提としている。』(p.137 2行目−4行目、<>内は原文中では傍点付きとイタリック)

次に具体的な例がある。じっとものを見ると輪郭の残像が残ることがあるが、これは、すでに脳の中でイマージュが用意されて、内側から外側へ『反射』されているためだという(p.137 4行目-6行目)。これは、現代の知識からすると、やや曖昧な表現であると思うので少し考察したい。

たとえば、赤いペンで白い紙に雲を描く。しばらく見続け、白い壁を見ると緑の雲が見える。これは、正確に言えば、ベルクソンの言う『反射』によるイマージュが残る残像とは言えないだろう。眼底の色に反応する視神経の化学反応がいわば一種の焼き付き状態から回復してないために補色が凝視していた物の形でのこる。つまりは素早く動くものと同じような残像現象とほとんど同じようなことが起こっているだけなのである。しかし、他方、目に焼き付けるというような表現が当てはまるような場合、即ち、何かをじっと見たあと、目をつぶってそのものの映像を目の中に残そうとするときに、その残像が見えることをこの場合のベルクソンの言う『反射』とすれば誰にでも納得できるのではないだろうか?

ここでは、ベルクソンは後者の例をあげているのだろうと、解釈して、続けてベルクソンの文章を読んでいく。

この後、すぐに『遠心的知覚中枢』というものを持ち出し批判している。正確には、ベルクソンたちの考え方と異なる部分を注意している、と言った方が良いかもしれない。

『最近発見された遠心的知覚中枢は、事態がそのように規則正しく行われ、中枢へと印象をもたらす求心的な過程のほかにもう一つ逆の過程があり、それがイマージュを(対象の)表面へと連れ戻していると考えるようわれわれをし向けるだろう。』『たしかに、ここで問題となっているのは、対象そのものについて写真撮影されたイマージュならびに、知覚に直接的に後続し、知覚のこだまでしかない想起である。』 (p.137 7行目-11行目)しかし、ベルクソンは、ここで記憶に蓄えられたイマージュと知覚されたイマージュはまったく同一であることはなく、『程度の差はあれかなり隔たった親縁性しかない』と問題点を指摘している。

ところで、ここで、ベルクソンの叙述は急激な転調を見せる。しかし、われわれがその表現をここで理解するには、余りに唐突で曖昧すぎるので後回しにして、この後、ベルクソンが挙げている研究の例をまずに簡単に紹介しよう。

ミュンスタバーク(35)<()内の数字は、テキスト内の引用文献の番号 ― 筆者註>[Hugo Münsterberg,1863-1916,ドイツの心理学者]とキュルペ[Oswald Külpe, 1862-1915,ドイツの心理学者]による数々の実験は、知覚とイマージュ想起の区別が実質不可能であることを示している。(p.137 15行目-p.138 3行目)

さらに、これを補強しているのが、ゴルトシャイダー[Alfred H. Goltsheider,1858-1935,ドイツの医学者]とミュラーの研究であり、その研究は、『流れるような読書が真の予見の働きであるということを明らかにした』。それは、『イマージュ想起-紙の上に投影されると実際に印刷されている文字の代わりをし、そうした文字であるかの錯覚をわれわれに与える-によって隙間の全体を埋める。』ということであった。 (p.138 3行目-10行目)

これらの例は、先に後回しにした、ベルクソン独特の表現を借りて説明すればこうなる。

『これらのイマージュはいずれも知覚を出迎えに生き、知覚の実質に養われることで、知覚を用いて自己を外在化するための十分な力と生気を獲得する。』(p.137 14-15行目)

あるいは、『われわれの判明な知覚はまさに閉じた円環に比しうるもので、そこでは、精神に差し向けられたイマージュ知覚と、空間に投げられたイマージュ想起が互いに追いかけ合っているのである。』(p.138 12行目-13行目)

2010年2月13日土曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その3 運動と想起(mixi:2009年09月17日)


第二章第二節『運動と想起』(p.118 14行目−p.131 12行目)の出だしはこう始まっている。

『II - <再認一般、イマージュ想起と運動について>』(p.118 15行目、<>内はテキスト傍点付き)

章の出だしではこの節をどうまとめてあったか、ここで再掲すると、

『II - 現在の対象の再認は、それが対象から生じるときには運動によって行われ、それが主体に由来するときには表象によって行われる』 (p.101 10-11行目)

と、ある。

二種類の再認について論じているようだと、まず考えるべきなのだろう。 共通しているところは、一つの想起には運動が関わっている、もう一つは表象、もしくはイマージュ。

しかし、本文を順を追って読んで行くことにしたい。例によってこの節も出だしは柔らかいのだけれども、論の構造自体は相当、複雑になっている。

論の出だしから見ることにしよう。

『「既視感」(déjà vu)の感情を説明するには通常二つある。』(p.118 15-16行目)

と、われわれの誰もが経験したことがあるであろう感情・感覚から始まる。

『ある人たちにとって、現在の知覚を再認する事は、古い縁飾りの中に現在の知覚を差し込むことに存するだろう』(p.118 16行目-p.119 1行目)

これは言い方を変えると、

『再認する事は、現在の知覚に、かつてそれと隣接していた諸イマージュを連合させることであろう。(10)』(p.119 5行目-6行目)

(筆者注:引用文の最後の(10)は、本文中の参考文献の番号。この文章では、文献を引いてるというイメージがわかるようにするため敢えて番号を表示している。)

これをわれわれは、一番目の再認の説明と呼ぼう。

続いてもう一つの説明がされている。引用しよう。

『しかし、正当な根拠を持って指摘されたように(11)、刷新された知覚が、はじめの知覚と同時的に伴っていた諸状況を示唆することができるのは、それと類似した現在の状態によってまず喚起されている場合だけである。』(p.119 6-8行目)

同じようにこの考えを二番目の再認の説明と仮に呼ぼう。

ここまでを、もうすこし、わかりやすく説明したい。再認ということを、ジグソーパズルのピースを当てはめることに例えよう。うまく当てはめられれば、再認がうまく行ったということになる。

一番目の説明は、まさにこれで、再認の時に、新しい知覚をジグソーパズルのピースを当てはめるような、そのような記憶の探し方をするだろう、ということである。しかし、二番目の説明では、いやいや、ピースを当てはめるには、すでに、あらかじめ周りのピースがそれなりに埋まってないとできないんじゃないか。では、すでにあるそのピースはどうやって当てはめられたんだい?というわけである。

ちなみに、ここで最新の脳科学では、人が何かしようとすると、それを欲する前に、脳の中ではすでに反応が起きており、それから、意欲が出現し、行動が始まるらしい。

しかし、我々はベルクソンと共に歩いていこう。その論はややこしくはあっても、なかなかに興味深くおもしろいものだからである。

論を進めよう。ベルクソンの説明では、一番目の説明は二番目の説明にとけ込むことになるのだが(p.119 最後の3行)、ここではさらにp.120 1行目から二番目の説明について詳しく書いてあるので、それを追っていきたい。

『今回前提とされているのは、現在の知覚が、記憶の奥底に、現在の知覚と類似している以前の記憶を常に探しに行くということであり、その場合、「既視感」の感情は、知覚と想起の並置あるいは融合から生じるだろう。深淵にも指摘されたように(12)、類似はおそらく、精神が接近させ、それ故すでに所有している諸項のあいだに、精神によって確立された関係であって、したがって、類似の感覚は連合の原因と言うよりむしろその結果である。』(p.120 1行目-6行目)

つまり、似ているというのがわかるというのは、精神が何らかの関係を確立した結果である、というわけだ。

『しかし、精神によって把持され引き出された一要素を共有することのうちに存する、この知覚された明確な類似とは別に、漠然とした、いわば客観的な類似があって、この類似はイマージュそのものの表面に広がり、相互牽引の物理的原因のごときものとして作用しうる。』(p.120 6行目−9行目)

上記二つの引用をまとめると、似ているというのが分かるかということが心の何らかの働きの結果であるのであるならば、そのメカニズムはどうなっているか、ということで、ここではベルクソンは『漠然とした、いわば客観的な類似があって』、『イマージュそのものの表面にひろがり』、『相互牽引の物理的原因のごときものとして作用しうる』と言っている。このことは、徐々に詳しく述べられることになるだろう。


さて、ここからあと(p.120 9行目-p.121 3行目)、現代脳科学でも否定されているいわゆるおばあさん細胞についいて批判しているというのが専門的にはおもしろい。

おばあさん細胞というのは脳細胞がそれぞれ専門化しており、自分のおばあさんならおばあさんを認識する専門の脳細胞があって、記憶はそのような形で蓄積されているという考え方だ。しかし、ベルクソンは明確にこれを否定している。

『しかし、実際には、知覚と想起の連合は、再認の過程を説明するのに十分では全くない。というのも、再認がそのように行われるとすれば、再認は、古いイマージュが消失してしまったときにはおこなわれなくなり、これらのイマージュが保存されているときにはつねに生じるだろうからだ。』(p.121 4行目-7行目)

ここでは、精神盲を例としている。精神盲とは、何らかの脳の異常のせいで記憶の想起は可能であっても、再認に問題がある病気のことである。

『それゆえ、精神盲(cécité psychique)ないし、認知された対象を再認できないことは、視覚的記憶の抑制なしには進展しないだろうし、とりわけ視覚的記憶の抑制なしには進展しないだろうし、とりわけ視覚的記憶の抑制はいつも決まって精神盲を結果として引き起こすだろう。しかるに、実験[経験]はこれら二つの帰結のどちらも実証していない。』(p.121 7行目-10行目)

『実験[経験]』というのは、一つは、ヴィルブラント[Hermann Wilbrand,1851-1935,ドイツの視神経学者]の研究例と、フリードリッヒ・ミュラー[Friedrich Müller, 1834-1898,ウィーンの言語学者]とリッサウラー[Heinrichi Lissauer,1834-1898,ドイツの神経学者]研究例である。(p.121 10行目-p.122 3行目)

これは、簡単に言うと、思い出すことはできるが、再認ができない、たとえば、その光景を絵に描くことはできるが、そこに行っても同じ場所を確認できない、という患者さんがいるという例である。

これから、ベルクソンは、まず、『視覚的想起の保存は、それが意識的なものであっても、この想起に類似した知覚を再認するには十分でないのだ』と結論づけている。 (p.122 2-3行目)

一気に話を続けたので、ここまでを、いったん簡単にまとめると、おばあさん細胞のような想起の保存ならば、再認は知覚と同時に行われる。思い出すことはできるが、再認はできないなどということは起こりようがない、と言っているのである。

次は、一つ一つの具体的な対象物は再認できないのに、抽象的な概念だけを再認できる例である。

ベルクソンは視覚的イマージュの完全な消失について、シャルコー[Jean Martin Charcot,1825-1893,フランスの神経学者]の当時すでに古典的となっていた研究から、そのことが『知覚の再認すべてが廃棄されたわけではない。』と言及している。(p.122 3行目-12行目)

これは、見慣れたはずの街並みや自分の家族は認識できなくても、そこが通りであったり、女性や子供である、ということは理解できるという症例である。

したがって、『廃棄されたのはそれゆえ、再認能力一般ではなく、ある種の再認であって、我々はそれを後で分析せねばならないだろう。結論を述べておくと、どんな再認もが古いイマージュの介入を含意しているわけでは必ずしもなく、諸知覚をこれらの古いイマージュと同定する事は成功できなくても、やはりこれらのイマージュに訴えることはできるのだ。』(p.122 12行目-16行目)


ここまで再認について、様々な研究の例を挙げて考察してきたわけであるが、

『結局のところ、再認とはいったい何なのだろうか。われわれは再認をどのように定義したらいいのだろうか。』(p.122 16行目-17行目)

自身の問いかけに、ベルクソンは、まず、『瞬間の再認』についての説明している。これは、現代では、いわゆる条件反射という言葉で説明されているものである。(p.123 1行目-9行目)

ここの部分は、必要ならばまた後に戻ることとして説明は省略し、次の部分に移ってみたい。

『ところで、一方では、知覚はそれに伴う一定の諸運動をまだ組織しておらず、他方では、知覚と同時的に生じている諸運動は、私の知覚を無用なものにするほどまでに組織されているという、これら二つの極限的な状態の間には中間的な状態があって、そこでは、対象は認知されるが、この対象が、互いに結びつけられ、連続的で、相互に制御し合うような諸運動を引き起こすのだ。』(p.123 9行目-13行目)

(2012年1月3日筆者註:上記引用より(筆者註:第三章のp.191図2参照)という部分を削除。理由は明らかに間違っているため)

ここから数行、ちょっとごちゃごちゃした記述があって非常にわかりにくいので、われわれは、その結論だけ覚えておけばいいだろう。つまり『再認の基盤には、まさしく運動性の秩序に属する現象があるだろう。』(p.124 4行目-5行目)

以上のベルクソンの哲学者らしい言い方を砕いて、つまりはなにが言いたいかということを言えば、われわれが言う条件反射という再認よりもっと高度な再認があって、そこにも何らかの『運動性の秩序に属する現象』があるだろう、と言っているのである。

(2012年1月3日筆者註:あるいは、別の言い方で説明すれば、条件反射のように意識を必要としない再認と、完全に意識を必要とする再認の中間が存在し、それには『なじみ深さの感情の基盤』となるものがあると言っているのある)


ところで、ここで、ベルクソンの言う認知されたり、認知されることで再認で起こる運動を引き起こす『対象』とはいったい何か?ということを疑問にもたれる方もいるだろう。われわれは、『対象』を『知覚』するのであるが、ベルクソンの言う『イマージュ』とは何が違うのか?

この本の初めに戻ると、『イマージュ』は、『ここでイマージュというのは、私が感覚を開けば知覚され、閉じれば知覚されなくなるような、最も漠然とした意味でのイマージュである。』(p.8 3行目-6行目)とある。ここでは、簡単に『物質全体』としての『イマージュ』のうちで『知覚』されているもの、あるいはその『表象』と言うべきであろう。

(2012年1月3日筆者註:上記段落において一部、自己言及的になっていた部分を削除、本来『表象』を第一章の解説でもう少し詳しく説明すべきだがとりあえず上記のように改変した。『イマージュ』、『知覚』、『表象』などは、以前の記事「ベルグソン 「物質と記憶」メモ その2 唯心論の検証」(リンク:http://etsurohonda.blogspot.com/2010/01/mixi20090619.html)においても簡単に説明しているのでそちらもご参考頂きたい)


再認について戻ろう。

『日用品を再認することは何よりも、それを使うことができるということにある。(中略)日用品を使うことができるということは、すでにそれに適応する諸運動を素描することであり、ある態度を取ることである、とは言わないまでも、少なくてもドイツ人たちが「運動衝動」(<Bewegungsantriebe>)と呼んだものの効果によってある態度を採ろうとすることである。』(p.124 7-11行目、<>内はテキストイタリック)

『それゆえ、対象を利用する習慣は』、『最終的には運動と知覚をひとまとめに組織するようになり』、『反射のように知覚に後続する生まれつつある諸運動についての意識が、ここでもまた、再認の根底にあることであろう』(p.124 12行目-14行目)
 (筆者注:この段落の引用は、テキスト上では一続きではあるが、理解を助ける一助として、『』で意味のまとまりを分けてみた。)

次の行は、すぐにこう始まっている。

『運動へと引き延ばされないような知覚は存在しない』(p.124 15行目)

ここからしばらくは、ニューラルネットワークなどの勉強をした人がわかるだろうが、教師あり学習の話をしていると思われる。この本を読んでいると、ベルクソンの先見性にしばしば驚かせられるが、これもその一つである。引用しよう。

『リボー(21)[Théodule Armand Ribot, 1839-1916, フランスの心理学者]とモーズレー(22)[Henry Maudsley, 1835-1918,精神病理学者]はずっと前からこの点に注意を喚起していた。諸感覚の教育は、感覚的印象とそれを利用する運動とのあいだに確立された数々の結合の全体のうちにまさしく存している。印象が反復されるにつれて、結合は強化される。そもそもこの操作の機構は不可思議な点を何ら有していない。明らかに我々の神経系は、諸中枢を介して感覚の刺激と結ばれる運動期間の構築のために使われており、諸神経要素の不連続性、末端の樹上突起の多様性―これらの突起はおそらく様々な仕方で接近し合うことができる―は、諸印象とそれに対応する諸運動のあいだの可能的な結びつきの数を無制限に増加させている。』(p.124 15行目-p.125 6行目)

(2012年1月3日筆者註:『印象が反復されるにつれて、結合は強化される』の一文が抜けていた為、補完)

これは、ニューラルネットワークもしくは、ニューラルネットワークの一種であるパーセプトロンであることが証明されている小脳の働きをまさに言っていると思う。(ちなみに、このことは、Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/wiki/パーセプトロン)の記事の文章を引用すると、『1970年頃、デビッド・マー[2]とジェームズ・アルブス[3]によって小脳はパーセプトロンであるという仮説があいついで提唱された。のちに神経生理学者伊藤正男らの前庭動眼反射に関する研究[4]によって、平行繊維-プルキンエ細胞間のシナプスの長期抑圧(LTD, long-term depression)が見つかったことで、小脳パーセプトロン説は支持されている。』とある。

以上が、いわゆる『運動』の仕組みであるが、『構築中の機構は、すでに構築された機構と同じ形で意識に対して現れることはできないだろう。何かが、有機体における強化された諸運動体系を根本的に区別して、明瞭に示している。この何かとはとりわけ、それらの体系の順序を変えることの困難さであるとわれわれは考えている。』(p.125 6行目-10行目)

『それはまた、先行する諸運動の中で後続の運動が先形成されているということでもあって、この先形成ゆえに、部分は潜在的に全体を内包している。(中略)それゆえ、どんな日常的知覚もが、組織化された運動を随伴している以上、日常的再認の感情はこの組織化の意識のうちに根を張っているのだ。』(p.125 10行目-15行目)

つまり、われわれの日常の処理はどんな小さなものであっても、連続したものであるから、次の処理を先読みしてあらかじめある程度準備されている、と言い変えることができるだろう。現代の、たとえば、パソコンの中央演算装置(CPU)でも前処理としてこのような先読みがされている、と言えば、裏付けになるだろうか。(複数のパイプラインと呼ばれる命令とデータの連続体に、CPUが処理するであろうプログラムをあらかじめ予測配置しておくということがなされている。)

『つまり、通常われわれは、われわれの再認を思考するに先立ってそれを演じているのである。(中略)』そして『諸対象が現存するだけで、我々はある役割を演じるように促されているのである。』(p.125 16行目-p.126 1行目)

さて、大変長々と引用しながら説明をしてきた訳だが、テキストのこの節の残りはさらに詳細に検討されているだけであるし、我々が知っておく分はこれで十分だと思う。


(2012年1月3日筆者注:以下の部分は、現在の段階では、『なじみ深さの様相』に関しては解説すべきであるが、あまり関係がないと考えている事を付記しておく)

2010年2月13日現在考えていることのメモ代わりとして

この文章を書いたときには気にしていなかった一文に改めて注意をしなくならなかったことを告白する。その一文とは、

『ここに、諸対象の馴染み深さの様相がある。』(p.126 1-2行目)

という前の引用に続く一文である。馴染み深さの感情は、運動の機構によって意識することなしに道具を使えるようになるその程度であると、ここでは言い換えてもいいだろう。

このベルクソンの主張は、将来書くであろう『小林秀雄「本居宣長」メモ』にどのように引き次がれて行くであろうか。一つの課題である。記憶が運動の機構に変わっていくことがなじみ深さならば、いわゆる「物」に対する感覚は運動の機構だけで説明できる事になっていまう。

この答えがP=NP?を研究していく先にあれば重畳である。パーセプトロンは、基本的に一時線形分離可能であることが証明されているだけだからである。(もちろん現在は研究も進み、特殊な変換を用いれば、非線形にも対応できるがそれで解ける問題は一部である。)

2010年1月23日土曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その2 記憶の二つの形式(mixi: 2009年07月25日)


ベルクソン 「物質と時間」メモ その3 記憶と想起 その2 記憶の二つの形式
2009年07月25日

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。以下の文章のページと行はこのテキストのものです。毎回同じような文章が続きますがお約束のようなものなので、よろしくお願いします。

(2012年1月2日筆者注:原稿では残っていた上の部分が抜けていたので付け加えた。)
  
さて、記憶の二つの形式が今回の記事のテーマであるが、今回説明する部分は、テキストのこの部分から始める。

『I - 記憶の二つの形式。 - 私はある暗唱用課題を勉強する。そして、それを暗唱するために、最初に、音節を区切りながら課題を一行一行読む。それから何度かそれを繰り返す。新たに読むごとに、進歩が成し遂げられ、語は互いにより緊密に結びつき、最後には一つにまとまるようになる。まさにこのとき、私は私の課題を暗記してしまっているのであり、「それは想起と化した」「それは私の記憶の中に刻み込まれた」と言われる。』 (p.103 1-5行目)

(引用に『』を用いたのは文中の「」と区別するため。以降、引用は『』に統一します。)

次に、思い出すとき、ベルクソンの言い方では想起を行ったときの状況を延べ、それからこう説明している。

『要するに、それぞれの朗読は、私の歴史のある特定の出来事(evenement)として私の前を通過する。これらのイマージュは想起であり、これらのイマージュが私の中に刻み込まれたのだ、と再び言われるだろう。二つの事例について同じ言葉が用いられている。まさに同じことが問題なのだろうか。』 (p.103 11-14行目)

この2種類の記憶は明らかに違う。

『課題の想起は、暗記されたものである限り、習慣(habitude)のすべての特徴を持っている』(p.103 15行目)

に対し、

『その他の朗読は、定義そのものからして、異なる想起を構成しているからだ。それは私の人生の出来事のようなものである。それは日付を持ち、従って、繰り返され得ないことを本質としている。』(p.104 6行目-8行目)

と説明している。

もちろん、二つが混合している場合もあるかもしれない。

しかし、ある朗読という人生の出来事の方は、

『益々よく覚えられていく課題としてではなく、絶えず更新される朗読として考察されれば、完全に自足しており、それが生じたままに存続し、同時に起こっていたすべての知覚と共に、私の歴史の還元できない瞬間を構成すると言うこと、これもまた確かである。』(p.105 1-4行目)

と、指摘している。


さて、これから、割合テクニカルな考察をするので、少々ややこしいかもしれないけれど、何とかついてきて頂ければ、と思う。

まず、p.105 4行目-p.106 3行目を簡単にまとめよう。

上の例の朗読の出来事の記憶の方は、ベルクソンの言い方では、

『ある一定の朗読の想起は表象であり、また表象にすぎな』く『それは、私が私の好きなように延ばしたり縮めたりできる精神の直感の中に収まっている』(p.105 6-7行目)のに対し、暗記されてしまった課題の方については、 『それは、歩いたり書いたりする私の習慣と同じ資格で、私の現在の一部をなしている。それは表象されると言うよりむしろ生きられ「作用される」のである。』(p.105 14-16行目)

これを押し進めると、理論的に次の二つに分けられる。

『第一の記憶は、われわれの日常すべての出来事を、それが展開するにつれて、イマージュ想起(images-souvenirs)の形で記録するだろう。』(p.106 5行目-6行目) この記憶には、位置と日付が付加される。そして、日付が与えられるということは本質的に繰り返し得ない。というのがこの記憶の特徴となる。

『しかし、あらゆる知覚は、生まれつつある行動へと引き継がれる。』(p.106 12行目) 『この機構は、外的刺激に対する益々多種多様なものと化す反応、普段に漸増する可能的な呼びかけに対するすっかり用意した応答を伴っている。』(p.106 16行目-p.107 1行目)

つまり、後者は運動や習慣と同じ形で記憶され想起されてる。そして、そこにはすでに意識的な表象は存在していない。

(2012年1月2日筆者注:上の段落の「表彰は存在していない」の前に「意識的な」を付け加えてよりはっきりした意味にした)

端的にまとめるとこうなるだろう。
『一方は想像し・イマージュ化し(imaginer)、他方は反復する(repeter)。』(p.107 13行目)もちろん混合することもある。後者は前者を補い、一部を置換することもあり得るし、また、われわれの持つ脳の記憶と想起の機構上、前者が少しずつ後者へと変わっていくこともある。

さて、人間と動物を分けているのはなんであろうか?ベルクソンは、テキストp.108において、動物が基本的に後者の記憶しか持たないと指摘している。取り返しのつかない、従って繰り返すことのない一度きりの思い出を持つことのできるのはおそらく人間だけなのだと。

以上で、今回の主な部分は語ったのであるが、いくつか、興味深い部分などを指摘しておきたい。

まず、イマージュ記憶があるということで夢を見るのではないかという指摘をしている。つまり、意識の注意がゆるむことで、勝手にイマージュ記憶が知覚として現れるという指摘である。(p.111 13行目-p.111 17行目)

(2011年1月2日筆者注:以下の部分は、必ずしも正確な記述になっていないと指摘しておかなければならない。ベルクソンは二つの記憶の考え方から出てくる『観念連合』の考え方に対して、別の考え方を述べるのであるが、ここまでの記述ではそのことをあまりはっきりとは述べていない。『観念連合論』に対しての批判は第三章に詳しいが、ここでは、「観念」というものについての記述をしていると考えたほうがいいだろう)

この指摘から、『観念連合』という概念を説明している。(p.112 3行目)これは、イマージュ記憶を運動の働きに関する記憶で必要に応じて制御していると言う考え方である。

このことについては、ベルクソンは痴呆症や失語症の患者についての研究を紹介している。 (p.113 4行目-p.116 3行目) それは、ある痴呆症の患者たちは、会話の内容は全く理解していないにも関わらず、一連の質問に返事をしている目撃例や、失語症の患者たちが、自発的に言葉を発することができないにも関わらず、歌を歌ったり、あるいはお祈り言葉を述べたり、連続した数字などを暗唱したりする。

このような高度なことが意識を介在しないでに行われるということから、『複合観念(idee complexe)』ということも話している。それは、言葉を理解したり発したりするにはすでにそのような機構があり、記憶はこれを利用してるだろう、ということだ。


(筆者注:以前の記事ではここから「さて、以上のようなことの考察は」と始まっていたが、これが非常に誤解を与えやすい記述だったと思う。まだ、第三章及びここまでを十分に理解していなかったために起こったことであり、未熟の致すところでした。お詫びし、以下のように修正したい。)

さて、以上のような二つの記憶についての考察、ベルクソン自身の言葉を借りれば、『この記憶はなんなのか、この記憶はどこから派生したのか、どのようにそれは振る舞うのか』(p.116 4-5行目)などの詳細な考察は、第三章によって行われることになるだろう。

しかし、第二章においては、次のような図式的な説明というのがベルクソン自身によって行われているので、その記述の範囲だけを紹介しておく(p.116 4行目-p.117 3行目)。われわれは今ここまで知っておけば十分であろう。テキストを持ってる人は、まとめにもなっているので是非読んでいただきたいと思う。

次の記事では、再認について語られる。それは、
『われわれが過去を現在のうちで改めて把持する具体的な行為とは再認である。それゆえ、再認こそわれわれが検討しなければならいもの』だからである。(p.118 11-13行目)


ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その1 概要(mixi:2009年07月19日)


さて、前の記事にまとめて前置きを書いておいた。ここからは、記憶を詳細に研究することによってどうして物質と精神が結びつけられるのか、あるいは精神の本性とは何か、についてベルクソンの考察が展開されていくところを説明していくことになるだろう。

まず、この第二章では、ベルクソンは物質の運動という面から記憶というものに関して検証する。前回の「その0」で最後に書いた言い方をすれば、『精神生理学の方へと心理学を凌駕』する方について心理学の分野から生理学へとはみ出すことについてとなる。

これによって、まず、

「I - 過去は、二つの異なる形式で存続する。第一は運動の機構の中で、第二は独立した想起の中で」(テキスト p.101 2-3行目)

と、まず、記憶が大別して2種類に分かれると主張する。そして、前者を特に、「純粋想起」、後者を「イマージュ想起」と言う呼び方もする。後者については、詳しくは「第三章 イマージュの残存について - 記憶と精神」において詳しく述べられることとなるが、簡単にはp.116 4行目 - p.117 4行目までにまとめられている。

(2010年1月23日 筆者注:第三章における図2(p.191)においては、知覚と純粋想起を対極においてその中間にイマージュ想起をおいている。一方でここでは運動性の機能(純粋想起)とイマージュ(想起)について対比させていることを混同しないように注意する必要がある)

(2012年1月2日 筆者注:上の段落について、一部表現を変更した。理由としては以下に述べる。まず、この第二章においては、記憶には『純粋想起』と『イマージュ想起』の2種類があることを臨床的な心理学の見地から説明を試みている。一方、第三章においては、その記憶の二つの形式をもとに、無意識の働きをより詳しく検証し、さらには、いかにわれわれが、さまざまな大脳生理学的、心理学的誤謬に陥りやすいかということを特大きな部分の裂いてに説明している。上の段落は、そのように考えれば、本来は書き換えられるべきであろうが、ブログ(あるいは当時の考え方の記録)として見た場合に、そのときの考え方を残すべきだと考え、しかし、内容の説明としてはより間違いの少ないような表現に書き改めることにした)

この記事は概要のみであるので、詳しい説明は後に回し、いまはここまでにする。

記憶を2種類にわけたあとは再認について詳しく述べられることとなる。

ベルクソン自身は

「II - 現在の対象の再認は、それが対象から生じるときには運動によって行われ、それが主体に由来するときには表象によって行われる」(テキスト p.101 10-11行目)

あるいは、p.118 14行目から始まる節「運動と想起」の最初では、

「II - 再認一般、イマージュ想起と運動について」

という言い方をしている。

ここからは、主に脳の損傷などによって起こる症状を検証することによって再認について考察していくこととなる。

たとえば、われわれが、記憶している街並みを以前に見たものと全く同一ではないのに同じだと断定できると言う不思議、あるいは、異なる人のしゃべる言葉を、癖や、しゃべり方は全く違っても理解できる不思議。これは、脳の一部が損傷していたりするとできない、ということが述べられている。

そして、最後に、イマージュ記憶が運動の機能へ置き換わっていく働き、あるいは注意とはなにかということが考察される。テキストでは

「III - 時間に沿って並べられた数々の想起から、空間内でのそれらの生まれつつある行動もしくは可能的な行動を描く諸運動へと、感じられないほど徐々に移行がなされる。脳の損傷はこれらの運動を傷つけることはできるが、これらの想起を損なうことはできない」 (p.102 13-15行目)

あるいは、p.131 13行目から始まる節「想起と運動」の冒頭では

「III - 想起から運動への漸進的な移行、再認と注意」

というように書かれている。

概要としては以上である。

補足としては、ベルクソンはこれらを三つの命題と呼び、第二章の最初の節『記憶の二つの形式』のはじめの三ページ(p.100?p.102)で、端的に示したあと最後に『残る課題は、経験がこれら三つの命題を実証しているのかどうかを知ることである』(p.102 最後の行)と述べている、ということを付け加えておく。


2010年1月17日日曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その0 まえおき(mixi: 2009年07月19日 )

今回からしばらく、記事『ベルクソン「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起』の「その0」から「その3」まででは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」の「第二章 イマージュの再認 — 記憶と脳について」(p.99-187)内容について考察します。ただし、この「その0」にでは、補足として第一章でなぜ記憶の問題を扱うかについて説明してある部分について取り上げて説明しています。

文章が長く、また内容も高度になっていくのは、テキスト中の議論が詳細になっていくためであり、できるだけわかりやすくとは心がけてはいますが、力が及ばないところもあるもしれません。それについては、お許し願いたい。

さて、前置きが若干長くなったが、まず、なぜベルクソンが記憶について扱うかについて述べてあるところを示しておこう。基本的な部分(これをここでは仮に第一の目的としておく)は、第一章の節『記憶の問題への移行』(p.89-p.94)がそれに相当するだろう。その中から更に要約してみることにする。

現在の一般的に「心脳問題」と呼ばれている問題で、記憶を扱う一般的な理由としては、ベルクソン自身はp.93の2行目でわずかに触れているが、一般的な常識では、『記憶の現象において精神の現象が意識と物質の接点であるという理由』であると、当時から考えられていた、というのがその理由だと言っていいだろう。

その上で、p.93 5-11行を引用すると、
「物質は、(中略)認識の基盤ではなく、行動の伝達手段であるということを積極的に確立することができれば、われわれが支持する主張は、最もそれに不利なものと判断される例に基づいて証明されることになるだろうし、精神を独立した実在に仕立て上げる必要性が課せられるだろう。しかし、まさにそれによって、精神と呼ばれるものの本性並びに、精神と物質が働きかける可能性がおそらく部分的に解明されるだろう」

と言うのである。この部分を私なりに要約すると、物質はあくまで物質でしかない。それは単に行動の基盤である。これをはっきりさせる。一方で、精神を独立して存在することのできる、「独立した実在」とする。そのときに、記憶というものを詳細に検証するこによって「精神と呼ばれるものの本性並びに、精神と物質が互いに働きかける可能性がおそらく部分的に解明されるだろう。」ということになるであろう。

さらに、もうすこしだけ詳しく解説しておく必要があるかもしれない。

まず、前回の記事、『ベルグソン 「物質と記憶」メモ その2 唯心論の検証』では、ベルクソンの仮定する純粋な物理的反応である「純粋知覚」から展開して、それを脳の物理的な反応である「意識的知覚」に置き換えるときに、またその認識の曖昧さが意欲の曖昧さにつながるという主張をした。それは、様々な知覚の手段によって、曖昧な『表象』が物理的現象として脳の「意識的知覚」で発生するからである。これによって『イマージュ』の『表象』は、精神から展開される物ではないと唯心論を否定した。

もっとわかりやすく書いてある部分を引用すると、『諸イマージュにとって、存在することと意識的に知覚されることの間には、単なる程度の相違があるのであって本性の相違があるのではない』(p.39 3行目-5行目)
がそれに相当するだろう。

さて、さらに、ベルクソンはこの「純粋知覚」を想定することにより、唯物論的考え方も否定しているが、その論は複雑だし、省略する。

これらが「純粋知覚」の理論として、記憶の問題を扱う上での前提となってくる。


それでは、記憶の問題の話に戻ろう。

テキストでは、少し戻って節『純粋知覚』(p.80 2行目-p.84 7行目)、および、節『物質の問題への移行』(p.84 8行目-p.88 最終行)をから始めよう。

ここでは、「純粋知覚」と「純粋想起(記憶)」という概念について、ベルクソンの考えてることを少しだけ解説しておけば十分であると考えている。

ベルクソンは、知覚と記憶は本来ならば我々において不可分の物であると説明する。しかし、このことが、実在論と観念論における共通の誤りの根元である、と指摘している。なぜならば、双方において記憶は知覚の弱いものにしかすぎないという誤りがあるからである。

このことは最終的にはこの節の最後の3行目に集約されるので、その部分だけを引用しよう。

『少なくとも以上のことが、本書の最終章で引き出されるのを我々が期待してるところの結論である。主体と対象、それらの区別とそれらの結合に係わる諸問題は、空間に応じてではなくむしろ時間に応じて提出されなければならない。』

これが先に言った一つ目の目的であり、『最終章で導かれることを期待しているところの結論』とあるからにはベルクソンの目指す最終的な目的であるだろう。

さて、さらに、次の節『記憶の問題への移行』(既出)の最初においては、二番目の目的が書かれているので紹介しておこう。

『純粋知覚は、物質の本性に関する指示をわれわれに与えることで、実在論と観念論の中間の立場をわれわれが採ることを可能にするに違いないのだが、それに対して純粋記憶は、精神と呼ばれるものへの見通しをわれわれに開くことで、今度は、唯物論と唯心論という別の二つの学説にも裁決を下すに違いないだろう。以下に続く二つの章のなかで、われわれが専心することになるのは、まさに問いのこの側面である。なぜなら、まさにこの側面をヘることで、われわれの仮説はいわば実験的な検証を伴うことになるからだ』(p.90 3行目-8行目)

つまり、もう一つの目的は、仮説を検証することであり、それは第二章と第三章で行われであろう、と言っている。

この文章は第二章について述べるための前置きであるけれども、少しだけ、「純粋知覚」と「純粋記憶」に関しての図式を第三章から引用しよう。


これは、「知覚」、「純粋想起」、「イマージュ想起」を図式的に書いた図である(p.191 図2)。




さて、さらに、第一章の最終節『物質と記憶』(p.94 4行目-p.97 3行目)の節の始めで、上記の二番目の目的として書かれたことの内容を、ベルクソンは、『第三の形式を示すことで、どうしてわれわれの目には記憶の問題が一つの特権的な問題と映るのかということをまさに明らかにしなければならない』、と言っている。

その部分を要約して紹介しよう。

まず、純粋知覚を仮定することによって得られる結論は、『いわば分岐した二つの結論であって、その一方は精神生理学の方へと心理学を凌駕し、もう一方は形而上学へとはみ出すので、結局はそのどちらも直接的な実証を含まない。』(p.94 7行目-9行目)

始めに、『精神生理学の方へと心理学を凌駕』する方の結論であるが、これは、『純粋知覚』を仮定することにより、『脳は行動の道具であり、表象の道具ではない』と言うことを『第一の結論』としたが、検証はできなかった。これは対象の『イマージュ』を脳という『イマージュ』を『絶対知覚』によって単なる物質としてみたときの、対象の『イマージュ』の脳という物質に投影されるときの曖昧さがあるわけだが、われわれが体験するように、記憶自体の曖昧さもあるので、区別が付かないということによる。つまり、われわれの反応が「純粋知覚」と「純粋記憶(想起)」にきちんと区別が付かない以上、二つの曖昧さの区別も付かない。

しかし、記憶自体を調べることにより、区別が付くようになるだろう、とベルクソンは主張するのである。これは、『純粋想起とは、仮定からして、不在の対象の表象である。』したがって、脳のなかに記憶が全面的に保存されているならば、脳の活動だけで、対象があるのと全く同じ知覚を再現できるだろう。しかし、『何らかの仕方で想起を条件づけてはいるが』、保持していない、あるいは『脳の機構は思い出された知覚のなかでわれわれの表象よりは行動に関係している』ということが分かれば、脳は『知覚のうちの類似の役割を演じ』かつ、その機構は『単に現在の対象に対するわれわれの有効な行動を保証すること』を目的とした単なる『物質』であることが証明される。

次に、『形而上学へとはみ出す』方の結論の検証であるが、これは、『われわれは純粋知覚においてまさしくわれわれの外におかれているのであり、われわれはその時直接的直感において対象の実在にふれるのである』と言い換えられるだろう。

しかし、この説も『純粋知覚』だけでは検証不可能であった。なぜなら、われわれにとっては、『対象の実在が直感によって知覚されたにせよ、理性によって構築されたものにせよ同じもので』区別が付かないからである。言い方を易しくすれば、この説はあるのは外的な現象による知覚も、脳のなかで組み立てられたものも、直感によって直覚するだけであり、あるとしても『程度の相違』だけだろうからである。『知覚と想起はどちらも自足した表象の現象』と言い換えてもいいだろう。

しかし、もし、知覚と想起に、『本性の根本的な相違があるということをわれわれが見出すならば、想起の中には全く存在しない何かを、直感によって把握された一つの実在を知覚の中に介在させる仮説が有利になるような数々の推測がなされるだろう。』

以上が、ベルクソンのいう『記憶が精神の特権的な問題であるとわれわれの目に映る』ところの『第三の形式』による説明となる。

さて、この後、続く第二章、第三章についての内容をベルクソンの言うところの『第三の形式』という言い方でに従って、改めて端的に説明すると、第二章については前半の『精神生理学の方へと心理学を凌駕』する方について説明し、第三章については後半の『形而上学へとはみ出す』ことについて詳しく述べられる、と言うことになる。

2010年1月9日土曜日

ベルグソン 「物質と記憶」メモ その2 唯心論の検証 (mixi:2009年06月19日)



ベルグソン 「物質と時間」メモ その2 唯心論の検証
2009年06月19日

今年の3月26日にメモ1と補足概論を書いてからずいぶん時間がたってしまった。 ようやく、少しずつではあるが、本文を詳しく理解できるようになってきたのでここまでの進捗のメモを残す。

今回の内容は唯心論の検証になる。

ページと行を表すことがあるが、これは、ちくま学芸文庫 ベルクソン「物質と記憶」を第2刷を元テキストとしている。

まず、言葉の定義から。

 1.イマージュ
  8ページ4行目、「ここでイマージュというのは、私が感覚を開けば知覚され、閉じれば知覚されなくなるような、最も漠然とした意味でのイマージュである。」
  とある。物質を知覚して得られるイメージぐらいの適当で漠然とした感じ、である
 (筆者注:2010年1月9日現在では、ベルクソンのイマージュとは現実にはあるのに我々が認識するときには、何らかの写像しか受け取ることのできないものであり、これは、プラトンのイデアがどこかには本当の姿があり、正義などの抽象概念は、洞窟の陰のように、現実に投影されているというのと対照をなす、かなり重要な概念ではないかという考え方をしてる)

 2.物質、知覚
  15ページ10ー12行目、「私はイマージュの総体を物質と呼ぶが、これら同じイマージュが、ある特定のイマージュ、すなわち私の身体の可能的作用と関係づけられた場合には、それらを物質についての知覚と呼ぶ」

 3.表象
  15ページ13行目から、「表象」という節が始まるが、特に言葉の定義があるわけではなく、一般的に表象するという意味で使われている。
  [例]12ページ13行目、「したがって、ほかの諸物体を動かすべく定められた物体たる私の身体は、作用の中心であり、それが表象を生じさせることはありないだろう」

さて、独断によって、まず、ベルクソンの言う意識的知覚(p.30辺り)について考察する。

まず、どうして、「意識的知覚」が生じるのかについて、こう述べてある。

「実在的作用の中心(centres d'action réelle)を想像してみよう。これらの中心各々の周辺には、当該中心の位置に従い、その位置と共に変化する諸イマージュが並べられねばならないと私は思う。それゆえ、意識的知覚は生じなければならず、加えて、いかにしてこの知覚が生じるのかも理解可能であると私は思う。」

このベルクソンの「意識的知覚」についての、この後の記述は要約するこうなるだろう。

下等動物であるならば、刺激に反応することはすなわち行動になる。 しかしながら、高等な動物においては、その知覚において曖昧さが介入することはさけられない。例えば、目で見ると言うことは、見ている存在からその対象までに 距離があり、そこには、例えば円錐を二等辺三角形と間違えるような錯覚も生じ得るだろう。

ということは、例えば、ものを見るということにおいては、それが何かということを明らかにするために我々は意識してみなくてはならない。

これが要約であるが、おもしろいことにベルクソンは、より深く考察するために、「純粋知覚(perception pure)」というものを提唱している。(34ページ7行目)

ふつうの知覚というのは、記憶による情報が混入するし、また、どんな知覚であろうと、それが物理的な反応である限り、現実の知覚には一定の時間が必要となる。しかし、知覚というものをもっと良く考察するために、まず、記憶による情報の混入がなく、また、知覚が発生するための反応時間もない「純粋知覚」というものを考えよう、というのである。

そうすると、このとき、イマージュというのは単に物質界だけを考えればいいだろう。そして、物質は、我々の知覚(ここでは知覚は純粋知覚)なくしても存在しうるだろう。純粋知覚には、記憶というものも反応時間もないから、われわれが、何かを知覚するには物質がすでに存在していると言うことが大前提となるからである。

このとき、我々が物質から受け取る表象というものは、イマージュを何らかの形で制限してえられるものであって、唯心論的に我々の中から展開していくものではあり得ないだろう。

言い換えれば、純粋知覚は我々がイマージュを受け取るときの「フィルター」として知覚を受け取るものであり、つまりそれが表象となるのである。

ここで、意識的知覚に戻ろう。純粋知覚というものを、脳の物理的な反応と置き換える。そうすると、意識的知覚というものはベルクソンによるとこのような記述になる。(44ページ9行目ー12行目)
「(前段略)意識的知覚と脳の変化は厳密に対応している。それゆえ、これら二つの項の相互依存は単に、それらがいずれもある第三項の関数であることに起因しているのだが、この第三項とは、意欲の不確定性なのである。」

この意欲の不確定性については、少しだけ考察すると次のようになる。まず、31ページ10ー11行目に次のような記述があるという事を示す。

「知覚は行動が時間を自由にするのとちょうど同じだけ空間を自由にするのだ。」

上の言葉に少しだけ解説を付け加えておくと、行動範囲が時間と速度のかけ算で表されるのを象徴し、知覚はこの場合純粋知覚であるから光や音などのある時間で及ぶ範囲を知覚できるのでその分、我々は空間を関知できるということである。

そして意欲の不確定性とは、行動と知覚がの空間と時間を自由にした分、どうするかについての選択肢が増え、また知覚が曖昧であるだけに、どうしようかとする我々の意欲も不確定であるということである。

さて、「物質と記憶」では意識的知覚について長いページを割かれて考察されている。59ページの途中まではほぼ同じようなことを詳細に検証している。

しかし以上のようにベルグソンの言う「純粋知覚」を仮定することにより、唯心論的考えもほぼ否定されたと言っていいだろう。


あ、そうか、体系的にということですね。(mixi:2009年04月24日)

(筆者注:このころmixiの日記でたくさんのこと考えていたので、その辺のことを少し体系的にまとめてみようとした日記の内容を推敲してみたものです)

【1.唯物論の否定と魂の存在の傍証】

1ー1. 唯物論の否定

まず、初めは、唯物論の否定と、魂の存在の傍証ということになりますか。

唯物論の否定は、科学が再現性を重んじて数学で法則を書くことと、数学が不完全であるというゲーデルの不完全性定理をから導き出せますよね。
(資料:http://ja.wikipedia.org/wiki/ゲーデルの不完全性定理)

もうすこし詳しく言うと、自己言及パラドックスが自然数を含む公理系で成立すると言うことは、その公理系自体が正しいかどうかを自身の公理系では証明できない。

そのような公理系を使って再現性を証明するのが科学である限りは、論理的に矛盾することを平気で受け入れる我々の言語とか魂とか言うことを説明できない、言い方を変えると、ゲーデルの不完全性定理が矛盾と言うことを理解できるわれわれの精神は、なにか、整数論の矛盾を理解できる体系で表現されている、というのは自明でしょう。

もう少し、わかりやすく言った方が良いのかな。

つまり、科学が自己矛盾が指摘されている整数論を内包する数学で書かれているならば、その矛盾自体は、その数学では指摘できない。しかし、われわれの精神はその矛盾を指摘し、かつ、理解できるのであるから、明らかに違う体系で記述されているだろう。と言うことは、科学ではわれわれの精神は説明できない。と言うことになる。

(筆者注:この文章を推敲中の現在(2010年1月9日)P=NP?問題を勉強しているが、P=NP?問題は、非常にわかりやすく言うと、物事を逐次的に処理していく現在の方式のコンピューターに、意味があるかどうか分からない適当な文章らしき一連の音や文字を与えたとして、それがある程度人間にも耐えられる一定時間内に意味があるかどうか判定できるかという問題を扱う。文章の意味が矛盾しているかどうかは問われない(カバは植物である。と言う文章はわれわれの常識では間違っているけど、文章は理解できるでしょ?))


1‐2. 魂の存在の傍証

この辺の話は、「日本における死後のお話」がそのまとめに相当するでしょう。

要約すると、お釈迦様と孔子様の生きることの延長に死(もしくははっきりとは言わないが死後の世界がある)があるとおっしゃっている、ということでしょうか。そこから、仏教の輪廻転生の話に入って、悟ると輪廻転生からはずれるが仏様になると衆生を救うために なんども生まれ変わるという概念などの先進性が、 現在のITのような最新のテクノロジーのように中国や日本で 取り入れられ、特に、日本では神仏習合という形で 同一視されるような状況に変わってきた。

そのあと、禅の話でとにかく迷うこと無いようにというはなしと、 日本で独自に発展した大乗仏教のはなしで法然上人の南無阿弥陀仏とさえ思えば即救われるという話ですね。

魂の存在の傍証に関しては、とりあえずとしては、これで十分かなと思うのですが。 あとは、ものにも魂が宿るかという話は、もうちょっと ベルグソンを読んでからにしたいと思ってるのですが、これがなかなか進まないのもありましてネェ。


【2.経済と地方分権】

2‐1.概論

経済の話は、とりあえずは、年金システムと人口の関係ですよね、あとはポップカルチャーの話もあるんでしょうが、 体系的には、ものづくりの話と、データによる属人性の排除ですね。データベースに細かいデータをすべて入力して、データマイニングとか実験計画法などで開発を進めるようにすると良いのでは?ということから、工場内では、やっぱりボトムアップでしょ、ということも含めて、「誉めてのばす、叱って正す」を合い言葉とするというのがとりあえずのところ。

あとは、真に創造的になるにはやっぱり人間を知らんとダメですよね。という事を話してますね。 その辺は特に論語から、孔子様の言葉を引いてきたりあとは、小林秀雄さんを引いてきたりとか、この辺はちょっと体系づけて考えてはいないですね、 確かに。これも課題でしょうか。

政治体制は、やはり、現在の天皇制を維持した形での 議院内閣制が良いのではないかという話なのですが、 地方分権をどうするのかが課題ですね。この辺は私一人で言っていてももしょうがないところはあります。力不足の部分も多いですし。ただ、たたき台としてまとめることは可能でしょう。

たとえば首都は京都にして、京都と東京は独立した都市とする。あとは、6つだか9つだか11だかの道州に分ける。沖縄はシンガポールを見習って先端科学研究都市にする。国際ハブ空港と国際ハブ港を大阪かもしくは北陸・山陰のどこかににつくる。など。物流を促進するための交通は高速道路ほぼ全線無料化、新新幹線をエコ車両にする、など


あと、国内株式市場に個人投資家を呼び込むために、 全企業をキャラクター化したRPGゲームを販売。などの奇手も浮かびますね。

経済と地方分権に関して、大ざっぱに考えているところを言うと、とりあえずはこんなところです。

2‐2.人口問題と経済成長

人口問題は安定した市場の問題にも関係するということは、すなわちは、投資したお金のリターンが銀行の利子より多くないといけないという現在の会社のあり方、言い換えるならば現代資本主義のあり方からして、人口増加を続けないと市場が飽和して成長を続けられなくなる、逆の言い方をすると、人口が飽和するとこんどは成長が続かなくなる、という問題もあります。

一般に、市場の飽和の方はイノベーションによって解決すると言うことにはなっています。しかしながら、たとえば、ものがあふれている日本においては、工業化におけるイノベーションも限界に近づいているのではないかという気もしいて、この辺もかなり深い考察が必要だと思います。

工業化から、コンテンツ産業化、あるいはサービス産業化ということも考えられますが、この辺はまだ体系的にまとめるのは考えてませんね。



2‐3.需給ギャップ、GDPにおける人口問題と生産性の向上、行政を効率から見た地方分権など各論とその関係

まず、需給ギャップ論の話から入りましょう。

基本的に、銀行や企業への資金注入は景気が良くなったら返済されるのでそう問題ではないと私は考えます。

国の経営も実は企業の経営と似たところがあって、少子高齢化がすすむのなら、現役で働く人が少なくなるのだから現役世代の生産性を上げないと国の経済つまりはGDPはマイナスになるよね、というのは誰が考えても判る話。

つまりは、マクロ的には人口とひとりあたりの生産性のかけ算がGDPな訳ですよね?ということ。

だから、国が借金しようがそれが適正水準だったり緊急時であったりするのはOKだったりすると思うんですよ。いまは緊急時で、国は借金だらけだったりしますが、1400兆円超と言われる国民の資産を考えると未だに適正水準とも言えなくもない。

それに、将来への投資でうまいこと産業が興ればそれはマクロ的には投資が成功したと言うことでしょう?

しかし、緊急時に借金を増やして手当をしてもいずれはかえさないといけないのは自明。それに、投資が常に成功するとは限らないです。この辺は小渕内閣の時のことを考えればわかる話。大盤振る舞いは良かったけど、銀行を手当てしてなくてお金はどこかに消えていった。だから、地方分権しましょう。無駄を出来るだけ少なくしましょう。と言ってるわけですね。

細かい計算をしてるわけではないですが、おおざっぱにはこんな話です。

ま、こういう事を考えると、シミュレーションすれば課税税率の最適値は決まると思うんですけどねぇ。

要するに、国のあり方との経済の関係を見た場合に、私はボトムアップ型シミュレーションを考えようとする主張をしてるわけですね。 生産性と現役人口と、あとは、お金の流通の抵抗値と国や地方自治体の財政の最適値を求めるという考え方。そう考えていくとお金の流量や金利もシミュレーションで最適値が決まるんじゃないですかね?

あ、為替とか貿易の額とか資源価格とか外的要因も確かにありますが、ある程度の幅で予測は出来るでしょう。その辺は政権の思想と状況による選択ということではないですかね。

すくなくても、シミュレーションは、現在の専門家といわれる方々の経験からくる予測よりは当たるはずだし、役に立つと思います。専門家の方の予測ははっきり言って百花繚乱で根拠もまちまちですからね。

あと、指摘しておきたいのは日本は失業率が例えばアメリカの約半分ということです。なぜアメリカは失業率が上がっても日本よりはGDPの下がり方が少ないのかはよく考えてみたらいいんじゃないですかね。つまりは生産性が低いような人をたくさん切ってるということでしょうね。この辺はその国の政府の思想に関係して来ると思います。

2010年1月7日木曜日

精神感応の話(下) (mixi:2009年04月02日)

本居宣長の神様の話からでしたね。

小林秀雄さんの講演などから知ったのですが、本居宣長という人は大変な研究者でいろんな事を勉強して知っていたそうです。

その小林さんの講演では、本居宣長が日本の神様について言ったことは、ごく単純です。むかしは、それぞれの人が、たとえば自分の子供を健やかに育てて下さいとおねがいして それを聞き遂げてくれるような神様だけをそれぞれに信じていたそうです。

つまり、アナキン・スカイウォーカーをダースベーダーに堕としてしまうようなそんな神様は神様と認めてなかった(笑い)

そういう、それぞれの体験に於いて健全であると認めた神様だけをそれぞれのやり方で信じていたというのが、日本の神様への信仰の原型だというのです。

さて、柳田国男さんの「遠野物語」(六一)をここで紹介しておきましょう。私が簡単に現代語風に訳してして紹介しますが、名文なので機会が有れば是非原文で読んで下さい。

『ある狩人が白い鹿と逢った。白鹿は神なりという言い伝えがあり もし、傷つけて殺すことが出来なければ必ず祟りがあるだろうと恐れたが、名誉を重んじる狩人でもあったため世間から何を言われるかということも恐れ、思い切って白い鹿めがけて鉄砲を撃った。 ところが、手応えはあるけれど白い鹿は動かない。このとき大変に胸騒ぎがして、日頃魔除けとして身につけておいた黄金の弾に(魔除けの効果があると言われる)よもぎを巻き付けて撃った。鹿はなお動かない。あまりに怪しく思い近寄って見ると、良く鹿の形に似た白い石であった。

何十年も山の中に暮らしている者が、まさか石と鹿を見誤るはずもなく、全く魔障(魔障:仏教用語で悪魔のようなモノ)のしわだざと、この時ばかりはもう猟を止めようかと思った。』
(改行は私、筆者。以下の引用文も同様))

さて、この文に対する小林さんの言葉を少し引用しましょう。

『少し注意して、猟人の語ることを聞くなら、
伝説に知性の不足しか見ないような眼が、
いかに洞(うつ)ろなものかは、すぐ解るだろう。
この伝説に登場する猟人は、白鹿は神なりという伝説を、
まことか嘘かと、誰の力も借りず、己の行為によって
吟味しているではないか。そして遂に彼は
「全く魔障の仕業なりけり」と確かめる。
「猟を止めばや」と思うほどの、非常な衝撃のうちに確かめる。
(中略)だが、彼は猟を止めない。日常生活の合理性は、
自分の宗教的経験に一向に抵触する所がないという、
当たり前な理由によると見て少しも差支えないでしょう』

で、これから先少々難しい話が出てくるのですが、ようするに、

『遠野の伝説劇に登場するこの人物が柳田さんの心を捕らえたのは、
その生活の中心部が、万人のごとく考えず、全く自分流に信じ、
信じたところに責任を持つと言うところにあった、その事だった
と言ってもいいことになりましょう』

という言葉に収束すると思います。

つまり、彼の個性と感性が、白鹿の神との遭遇に於いて 理性をめいっぱいに働かせ、自分の責任に於いてこれを確かめ 「まったく魔障の仕業なり」と「猟を止めばや」と思うような 衝撃を受けながらも、あいかわらず山の中での日常生活を続けていく。

これは、全く柳田さんが幼い頃の体験と同じくわれわれは、不思議と隣り合わせに暮らしながら、我々の知性と感性を持ってこれを確かめ日常の生活を続けていく。その様なことが健全であると言わずに何というのでしょうか。

このあと、小林さんの話は、以前にも紹介した柳田さんの「妖怪談義」の話をして終わりにしています。

あなたはやはり、オバケのことを考えたときに未だに「にやり」としますか?その「にやり」はどこから来るのでしょうね。やはり「にやり」と笑わせなければ、オバケと言えないのでしょうね(笑い)

精神感応の話(上) (mixi:2009年03月30日)

 
精神感応、ふつうは日本語でもテレバシーともいいますね。

小林さんの「信ずることと知ること」には、このことについてが主題 と言っていいぐらい、精神感応の話が出てきます。

このまえ、この「信ずることと知ること」の元となった講演のCDを 「信ずることと考えること」を聞いて、ずいぶん考えたことがあるので、 少し書いておきます。

しかし、文章にした方の「信ずることと知ること」を主に扱いたいと思います。 やっぱり、小林さんは文章ですからね。

「信ずることと知ること」の始め、戦争で夫が亡くなるときの夢の話が出てきます。それで、この話を話している人は非常にまじめな方なので私はそのことを信じるが、しかし、この手の話はたくさんあって当たるものと全く外れるものがある。どうして、当たるものだけを取り上げないといけないか?と言った医者の話が出てきます。

そこに、若い娘さんがいて、先生の話は論理的には正しいけれど、 私にはどうしても間違ってると思います。と言ったという、 居合わせたベルグソンは、その娘さんが正しいと思ったと言います。

ここから始まります。科学的経験主義は、計量の出来ないような 経験を無視します。という風に展開していきます。 このあたりの話では、ずいぶん小林さんが科学的経験主義の限界というものを 考え抜いていたかというのがよくわかる話です。

ところで、この文章で強調したいのは、精神感応があるかどうかと言うより その様なものを扱うときの科学的経験主義の限界が問題である、と言うことを強調しているのだと私は思っています。

私なりの考えでは、つまり、極端に言えば精神感応などはどうでもいい。そんなものは女の勘とでも呼べばいいものであって、それで何でもかんでも説明しようというのは、また、科学的経験主義と同じように間違っていると思います。

小林さんは、つぎに、民俗学者の柳田国男さんの幼いときの話をします。

それは、柳田さんが、ほこらに奉ってあった、 おばあさんの蝋石を見たときの話です。

幼い頃の柳田さんは病弱で、学校にも行かず、本がたくさんあった近くの家の倉に通って本ばかり読んでいた。いろんな事を知っていたようです。

そんな、あるとき、柳田さんはほこらを開けそこに奉ってあった蝋石を見た。 このとき柳田さんは14歳だった。14歳と言ってもその当時は多分数えだろうから今でいうと12,3歳でしょう。少し長いですが、引用します。

『実に美しい珠を見た。
とその時、不思議な、実に奇妙な感じにおそわれたというのです。
そこにしゃがんでしまって、ふっと空を見上げた。
実に良く晴れた春の空で真っ青な空に数十の星がきらめくのが見えたという。
(中略)
昼間星が見える筈(はず)がないと考えたし、
今頃見える星は自分らの知った星ではのだから、
別に探し回る必要もないとさえ考えた。
けれども、その奇妙な興奮はどうしてもとれない。
その時鵯(ひよどり)が高空で、ぴぃっと鳴いた。
その鵯の声を聞いた時に、はっと我に帰った。
そこで柳田さんはこう言っているのです。
もしも、鵯が鳴かなかったら、私は発狂していただろうと思う、と。』
(改行、ふりがなは私、筆者)

小林さんは、講演の時の話でも大変に感動したと強調しています。 柳田さんの学問を支えたのこの感受性であろうと。 その強調ぶりで、私は改めてこの辺りのことを思い出して考えさせられたのです。

このあと、この手の話は別に珍しいことではない、と柳田さんは続けているとあります。このような精神感応の 事例は別に珍しいことではない。将に正夢を見るがごとくです。

さて、柳田さんはおばあさんの魂を確かに見たのであるが、 ぴぃっとヒヨドリが鳴いたから元に戻ったという柳田さんの感受性が学問を支えた。と小林さんと同じように私も考えます。決して、ヒヨドリと精神感応して 現実に戻って来たと言うことはないでしょう。

もちろん、魂を見たということの経験をしっかりと確信し続けたからこそ柳田さんの学問があったというのは 小林さんも強調しています。そこは、科学的経験主義だけでは いけないことを強調したいために強調しすぎるくらいと思いますが、 この両方がないといけない、と私は思いますね。

ところで、この「信ずることと知ること」言葉は比較的平易なのですが、 ずいぶん難解な文章です。このあと、「山の生活」から「遠野物語」 へと続いていき、ふたたび、柳田さんの特異な経験が語られることになるのですが ここでは、話をわかりやすくするために、小林さんが柳田さんの 「遠野物語」(六一)を引用してるのですが、わたしもそこを 少し詳しく話して、上記、不思議な経験をしたのは確かに経験したのであると言う態度と、それでも、我々は常識的な現実社会の中で生きていると言う その両面が大事だという態度を強調したいと思います。

その前に、講演の方で、小林さんが、本居宣長の神様の話を少ししてたのを 思い出したので、それをさせてもらいましょう。((下)につづく)

ベルクソン「物質と記憶」メモ その1+補足概論 (mixi:2009年03月26日)

 
【ベルクソン「物質と記憶」メモ その1】


いま、アンリ・ベルクソンという、フランスのノーベル賞をもらった哲学者で文学者で心理学者でもある人の「物質と記憶」(1895年)という本を読んでいる。

実際読んでいるのはちくま学芸文庫の日本語訳されたもので、訳はずいぶん苦心されていて、軽く読み流すのも十分可能な程なのだが、実際読むとなればずいぶん難しい。

ところで、ベルクソンは脳科学のはしりとも言うべき人でこのころから、脳と記憶についていろいろな考察をされている。このことは、以前にも少し触れたことはあるので、繰り返さないがベルクソンが傍点付きで注意を促しているところでも特に気になるような部分があるので、その前の部分も含めて少し引用してみたい。

まだ、私も考えているので、うまく説明できないところも多いのだが、考えてみるとおもしろいと思うで、みなさんもできれば是非考えてみてください。

テキストとしてはベルクソン「物質と記憶」 ちくま学芸文庫(第2刷)を使っています。以下の引用のページと行はそのテキストのものです。

『実在論と観念論とのあいだに、更におそらくは唯物論と唯心論の間にさえあるような未解決な問題は、したがって、われわれによれば、次のような語彙で提起される。(以下の文章、本文では傍点付き)一方の体系では、各々のイマージュは独自に、周囲の数々のイマージュから現実作用を受けるまさにその一定の役割に応じて変化するのに対して、他方の体系では、すべてのイマージュが、ただ一つのイマージュにたいして、それがこの特権的なイマージュの可能的作用を反映する割合に応じて変化するとして、その場合どうして、同じイマージュがこれら相異なる体系双方に同時に入り込むことができるのか。』

つまり、たとえば、実在論と、観念論という非常にちがった物の間に現実のイマージュというものがあるとして、それが実在論もしくは観念論のどちらにも現実のイマージュが適合できるのか、もう少し詳しく言うと、実在論が物理的な運動を説明するとする。観念論は人によって物事の受け取り方の違いを説明するだろう、としたときにイマージュというのは、それがどうして実在論と観念論の両方に入り込むことができるのか。言い方を帰ればどうしてイマージュは実在論と観念論の両方に適合し、結果として、物やその動きが私たちの心の動きや観念に変わるのか

と書き換えられるかな。

実在論とはようするに、
「だれも見てなくても物って存在するでしょう?」。
という考え方で、一方観念論というのは、
「いやいや、われわれが月を見てなければ月はないのと同じだよ。」。
というような考え方だと思ってください。
(これは唯心論的でほんとは正確じゃないけど)

そのあり方を取り持つのがイマージュというものだとして、どうしてイマージュはその二つを取り持つことができるの?ということ。つまりは、物を認識できるのはなぜ?そもそも根本的な問いとしてわれわれが何となく認識するイマージュって何?
ってこと。

今の脳科学ではたとえば、茂木さんなんかはクオリアといってて茂木さんの言うクオリアは実に曖昧なんだけど、その原型と言うべきイマージュという物を考えるとかえってわかりやすいかもしれないと思い紹介してみました。

でも、結局脳科学云々と100年たって科学がずいぶん進んだようにみえてじつは、この辺のことはちっとも進んでなかったりと、実におもしろかったりしますね、少なくても個人的には。

【補足概論】

基本的に私は小林秀雄さんを師匠だと思って、 まず、小林さんの考えてることを理解しようと もっぱらつとめている。

小林さんは、だいぶベルクソンを読んでいて、 いわゆる心脳問題についてもベルクソンを論じたものがある。 「感想」と題されているものだが、結局は失敗して全集には 小林さんの死後、別巻として掲載されることになった。

前にも言ったが、わざわざ読むなと師匠が言っているモノを 読むはずもないのだが、ベルクソンが何を論じているか については、ある程度体系的に知っておく必要がある。

それに、小林さんがベルクソンにかなりの影響を受けていることは そのほかの著述、講演などに明らかである。

小林さんは、ベルクソン論「感想」の失敗のあと かなりの傷心だった様だが、正宗白鳥の示唆もあり、 その後、「本居宣長」へと続いていく。

つまり、小林さんの「本居宣長」は小林さんなりの 心脳問題の解決なのであるが、これは、問題をうまく 定義して示しただけであって、現実解は後世に任された。

解決方法の一つが、「NewAgeと小林秀雄」で書いた オバケが人をにやりと笑わせる、という、心のことは心で、 と言う解決法なのだ。

しかし、他にも解決法がなければならないのは、 たくさんの人が、心脳問題と言うことを扱っているので判る。人間は、真理を知りたい生き物なのである。

わたしも、「物質と記憶」はまだ、ほとんど読んでなくて、判らないことだらけなのだが、メモを書いたあとの理解が格段に違うので、出来ればこのまま続けさせていただきたいと思う。

New Ageと小林秀雄 (mixi:2009年03月25日)


New Ageと小林秀雄
2009年03月25日


私は、いわゆるニューエイジムーブメントがあまり好きではない。

私は、小林秀雄さんの言うこと中山正和という人の創造工学とかその様な本を読んで、良いと思ったことを紹介する事にしている。

言い方を変えれば、New Ageの人たちと、上記の小林さんや中山さんは少し違うと思っているわけだ。

実は、予備校時代から創造性に関してはずいぶん本を買ったりして勉強した。例えば川喜田二郎氏のKJ法とかにも凝って、 京大カードに日記とかポケコンのプログラムとか書いたモノが今でも手元に残っている。

一方で、ニューエイジの本もずいぶん読んでみたがあまり私を満足させたモノはない。

尊敬するミュージシャンの佐野元春さんもあまり好きではないようだ。 それは、彼の「New Age」と言う曲を聴けばわかるだろう。

わたしは、魂があると思うが、現代科学では説明できない不思議について考え続けているだけである。

小林秀雄さんに「信ずることと知ること」という作品があるが、小林秀雄さんは、民俗学の柳田国男さんの晩年にずいぶん話を聞きにいかれた様子がある。

そのことはなんかの対談でいっていた記憶があるのだが、 もとは、柳田国男さんの「故郷70年」という本を読んで大変感動された所から始まっていた、と思う。

ま、その辺については未だに考えてることがあるのでそのうちに書くこともあるだろうが、「信ずることと知ること」では 柳田国男さんの「妖怪談義」を少々紹介して終わっている。

少し引用してみよう。
『歴史家に限らない。今日の一般の人々にお化けの話をまじめに訊ねても
まじめな答えは決して返ってこない。にやりと笑われるだけだ。
と柳田さんは書いているが、これは大変鋭敏な表現でして、
この笑いは、お化けの話に対して、現代人が取っている曖昧な態度
と言うよりも不真面目な態度を、端的に表していると、
柳田さんは見ているのです。』
(改行は筆者)

ここからあとの小林さんの調子は大変激しいものがあるので 是非一度読んでいただきたいのだが、ようするに、『にやりと笑わせるようなものがなければお化けとは言えまい。』 という言葉に集約されるようである。

このことは大変難しいことで、文中でもこのような柳田国男さんの言葉を引いている。
『「我々はオバケはどうでも居ると思った人が、昔は大いに有り
 今でも少しはある理由が、判らないので困っているだけである」』
昔から柳田国男さんという碩学もこのようなことに悩んでいた。 わたしは、このようなことを引き継いで考えている、というだけなのだ。

日本における死後のお話 (mixi:2009年03月07日)


日本における死後のお話
2009年03月07日

神道は特に理論化された教義がないのが教義のようなもので、死んだあと魂がどこへ行くとは特に決められていなく、神話に於いて、国産みの最後に火の神様をお生みになられ それが原因でイザナミの命(みこと)がなくなって、夫のイザナキの命が黄泉に会いに行かれる。ということあたりに書いてあって、日本神話では神様も亡くなり、黄泉に行くことになっている。

しかしながら、人間が死んだあとはどこに行くかは定義されておらず、神様と同じように黄泉に行くと考えられてるのが一般的ではあろうが、他に、私の知ってる範囲ではしばらく山の麓に漂ってから山の頂上へ行くというのは読んだことがある。

あるいは、ヤマトタケル尊の場合は亡くなられた後、白鳥となって飛んで行かれた、と伝説にはある。実際、鳥となって飛んでいく、ということも信じられていたようである。

神社に行けば、かならず鳥居があるが、あれは、神様も、鳥のように天から降りてこられて、鳥居に止まられる。ということから、鳥居というのはあの形状だし、それで、名前も鳥居ということなのだろう。

一方で、そもそも、神道においては死とはケガレであるから、死後の魂をあまり扱わないということもある。例えば、源氏物語でも源氏が死んだかどうかよくわからず、雲隠れされたということになっている。 (巻名のみが伝わっていて、文はない)


日本に影響を与えた仏教にしても儒教にしても、 お釈迦様は、 矢が刺さっているときに、なぜ矢は刺さってるのだろう、 と考える前に、矢を抜くことを考えなさい、 というたとえ話で、 死後のことを考えるより現在生きている間の苦しみのことを中心に考えなさい、と仰っているし、 孔子様も弟子に死後のことを聞かれたときに、
「未だ生を知らず。いずくんぞ死をや」
と、しびれるようなことをを仰っている。

つまり、少なくとも古来から日本に非常に大きな影響を与えた外国の思想家は、あまり死後の世界のことを語っていない。

しかし、まあ、仏教というのはおもしろいもので、 悟るということは、輪廻転生からは外れるが、 仏様は衆生を救うためにわざわざ何回もこの世に生まれ変わられる、 という考えがある。

従って、仏教は、お釈迦様が亡くなっても発展し続けて死後の世界のことも少しずつ扱うようになり、 日本では、仏教が伝わってからは、仏教で死者をを弔い、先祖を祀るというのが、もっとも一般的であるだろう。

背景として、中国や日本に伝わった仏教というのは、そのころ、まだ精神世界が現実と区別されずにいた頃、平安京には百鬼夜行とか、妖怪奇異がまったく生き生きとして存在していた頃に伝わった教えというか宗教なので、ちょうど、現代のIT革命と同じような革命的テクノロジーとして伝わってきてると考えるとわかりやすいだろう。こういうことをを覚えておくと、多少、歴史も楽しくなるかもしれない。

さて、時代が下って、平安末期になると末法思想が流行る。 末法思想とは、お釈迦様が亡くなってから、千五百年経つとお釈迦様の教えが次第次第に薄れていき乱れた世の中になる、 という考え方で、阿弥陀如来(ちなみに如来というのは仏の別名) におすがりして、極楽浄土へ連れて行ってもらおう、という考え方。

さらに、鎌倉時代に入ると、禅も伝わり、支配階級である武士階級で流行する。これは、禅は分類は難しいが、上座部仏教に分類される、自力で救われるという考え方に入ても良いだろうと思う。 アニメ一休さんに出てくる、新右衛門さんという人は実は実在してるというのは有名だが、 かなりの禅を極めた方で、こういう話が伝わっている。

新右衛門さんが、もう亡くなる寸前。七色の雲に乗り、仏様が 迎えに来た。ところが、新右衛門さんは、むっくと起き上がり、 刀を取り出し、仏様を切った。

この新右衛門さんのように、禅を極めると、自力は徹底する、というお話。

さて、一方で、同時期に大乗仏教も伝わり、日本流に発展する。 この鎌倉時代、一遍上人の踊り念仏というのも大流行したと記録があるのだが、いっさい文章を残さなかったため、廃れてしまった現代ではどのようなものか分からない。なかでも現在まで伝わってる教えで、一番核心的な教えは法然上人の 浄土宗の教えで、仏の慈悲は広大無辺なので、一般人は 念仏を唱えればそれで救われる、いや、救われたいと思えば 思った瞬間救われている。という考え方。
(この辺りの参考資料としてWikipedia: http://ja.wikipedia.org/wiki/法然 )

だから、安心して死んで良いよ。
「救ってください、 南無阿弥陀仏」
(阿弥陀様を絶対的に信じますという意味で、 ナムというのは絶対信仰の意味)
と、念仏を唱えればその瞬間救われて、阿弥陀様が極楽浄土へ連れてって下さるよ。 と言うことですね。

そのあと、親鸞上人が世に出て浄土真宗の教えを確立されるのですが、 これは、一般人には大変難解な教えで、まともに理解してる人には会った試しがありません。なので、普通の人は、法然上人の 教えあたりを理解していれば、それで十分です。 核になる教えは一緒ですから。

たとえば、もっとも誤解されやすい悪人正機説は、この世にはこの世の法があり、 あの世にはあの世の法がある、 と言う、もっとも基本的な理念を理解していない人が今の世には多すぎると思います。勝手に解釈して、尻をたたかないとまともに仕事しない、 どっかの寺の坊主みたいにみんながなったら困りますしね。