ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2010年1月7日木曜日

日本における死後のお話 (mixi:2009年03月07日)


日本における死後のお話
2009年03月07日

神道は特に理論化された教義がないのが教義のようなもので、死んだあと魂がどこへ行くとは特に決められていなく、神話に於いて、国産みの最後に火の神様をお生みになられ それが原因でイザナミの命(みこと)がなくなって、夫のイザナキの命が黄泉に会いに行かれる。ということあたりに書いてあって、日本神話では神様も亡くなり、黄泉に行くことになっている。

しかしながら、人間が死んだあとはどこに行くかは定義されておらず、神様と同じように黄泉に行くと考えられてるのが一般的ではあろうが、他に、私の知ってる範囲ではしばらく山の麓に漂ってから山の頂上へ行くというのは読んだことがある。

あるいは、ヤマトタケル尊の場合は亡くなられた後、白鳥となって飛んで行かれた、と伝説にはある。実際、鳥となって飛んでいく、ということも信じられていたようである。

神社に行けば、かならず鳥居があるが、あれは、神様も、鳥のように天から降りてこられて、鳥居に止まられる。ということから、鳥居というのはあの形状だし、それで、名前も鳥居ということなのだろう。

一方で、そもそも、神道においては死とはケガレであるから、死後の魂をあまり扱わないということもある。例えば、源氏物語でも源氏が死んだかどうかよくわからず、雲隠れされたということになっている。 (巻名のみが伝わっていて、文はない)


日本に影響を与えた仏教にしても儒教にしても、 お釈迦様は、 矢が刺さっているときに、なぜ矢は刺さってるのだろう、 と考える前に、矢を抜くことを考えなさい、 というたとえ話で、 死後のことを考えるより現在生きている間の苦しみのことを中心に考えなさい、と仰っているし、 孔子様も弟子に死後のことを聞かれたときに、
「未だ生を知らず。いずくんぞ死をや」
と、しびれるようなことをを仰っている。

つまり、少なくとも古来から日本に非常に大きな影響を与えた外国の思想家は、あまり死後の世界のことを語っていない。

しかし、まあ、仏教というのはおもしろいもので、 悟るということは、輪廻転生からは外れるが、 仏様は衆生を救うためにわざわざ何回もこの世に生まれ変わられる、 という考えがある。

従って、仏教は、お釈迦様が亡くなっても発展し続けて死後の世界のことも少しずつ扱うようになり、 日本では、仏教が伝わってからは、仏教で死者をを弔い、先祖を祀るというのが、もっとも一般的であるだろう。

背景として、中国や日本に伝わった仏教というのは、そのころ、まだ精神世界が現実と区別されずにいた頃、平安京には百鬼夜行とか、妖怪奇異がまったく生き生きとして存在していた頃に伝わった教えというか宗教なので、ちょうど、現代のIT革命と同じような革命的テクノロジーとして伝わってきてると考えるとわかりやすいだろう。こういうことをを覚えておくと、多少、歴史も楽しくなるかもしれない。

さて、時代が下って、平安末期になると末法思想が流行る。 末法思想とは、お釈迦様が亡くなってから、千五百年経つとお釈迦様の教えが次第次第に薄れていき乱れた世の中になる、 という考え方で、阿弥陀如来(ちなみに如来というのは仏の別名) におすがりして、極楽浄土へ連れて行ってもらおう、という考え方。

さらに、鎌倉時代に入ると、禅も伝わり、支配階級である武士階級で流行する。これは、禅は分類は難しいが、上座部仏教に分類される、自力で救われるという考え方に入ても良いだろうと思う。 アニメ一休さんに出てくる、新右衛門さんという人は実は実在してるというのは有名だが、 かなりの禅を極めた方で、こういう話が伝わっている。

新右衛門さんが、もう亡くなる寸前。七色の雲に乗り、仏様が 迎えに来た。ところが、新右衛門さんは、むっくと起き上がり、 刀を取り出し、仏様を切った。

この新右衛門さんのように、禅を極めると、自力は徹底する、というお話。

さて、一方で、同時期に大乗仏教も伝わり、日本流に発展する。 この鎌倉時代、一遍上人の踊り念仏というのも大流行したと記録があるのだが、いっさい文章を残さなかったため、廃れてしまった現代ではどのようなものか分からない。なかでも現在まで伝わってる教えで、一番核心的な教えは法然上人の 浄土宗の教えで、仏の慈悲は広大無辺なので、一般人は 念仏を唱えればそれで救われる、いや、救われたいと思えば 思った瞬間救われている。という考え方。
(この辺りの参考資料としてWikipedia: http://ja.wikipedia.org/wiki/法然 )

だから、安心して死んで良いよ。
「救ってください、 南無阿弥陀仏」
(阿弥陀様を絶対的に信じますという意味で、 ナムというのは絶対信仰の意味)
と、念仏を唱えればその瞬間救われて、阿弥陀様が極楽浄土へ連れてって下さるよ。 と言うことですね。

そのあと、親鸞上人が世に出て浄土真宗の教えを確立されるのですが、 これは、一般人には大変難解な教えで、まともに理解してる人には会った試しがありません。なので、普通の人は、法然上人の 教えあたりを理解していれば、それで十分です。 核になる教えは一緒ですから。

たとえば、もっとも誤解されやすい悪人正機説は、この世にはこの世の法があり、 あの世にはあの世の法がある、 と言う、もっとも基本的な理念を理解していない人が今の世には多すぎると思います。勝手に解釈して、尻をたたかないとまともに仕事しない、 どっかの寺の坊主みたいにみんながなったら困りますしね。

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