ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2010年1月7日木曜日

ベルクソン「物質と記憶」メモ その1+補足概論 (mixi:2009年03月26日)

 
【ベルクソン「物質と記憶」メモ その1】


いま、アンリ・ベルクソンという、フランスのノーベル賞をもらった哲学者で文学者で心理学者でもある人の「物質と記憶」(1895年)という本を読んでいる。

実際読んでいるのはちくま学芸文庫の日本語訳されたもので、訳はずいぶん苦心されていて、軽く読み流すのも十分可能な程なのだが、実際読むとなればずいぶん難しい。

ところで、ベルクソンは脳科学のはしりとも言うべき人でこのころから、脳と記憶についていろいろな考察をされている。このことは、以前にも少し触れたことはあるので、繰り返さないがベルクソンが傍点付きで注意を促しているところでも特に気になるような部分があるので、その前の部分も含めて少し引用してみたい。

まだ、私も考えているので、うまく説明できないところも多いのだが、考えてみるとおもしろいと思うで、みなさんもできれば是非考えてみてください。

テキストとしてはベルクソン「物質と記憶」 ちくま学芸文庫(第2刷)を使っています。以下の引用のページと行はそのテキストのものです。

『実在論と観念論とのあいだに、更におそらくは唯物論と唯心論の間にさえあるような未解決な問題は、したがって、われわれによれば、次のような語彙で提起される。(以下の文章、本文では傍点付き)一方の体系では、各々のイマージュは独自に、周囲の数々のイマージュから現実作用を受けるまさにその一定の役割に応じて変化するのに対して、他方の体系では、すべてのイマージュが、ただ一つのイマージュにたいして、それがこの特権的なイマージュの可能的作用を反映する割合に応じて変化するとして、その場合どうして、同じイマージュがこれら相異なる体系双方に同時に入り込むことができるのか。』

つまり、たとえば、実在論と、観念論という非常にちがった物の間に現実のイマージュというものがあるとして、それが実在論もしくは観念論のどちらにも現実のイマージュが適合できるのか、もう少し詳しく言うと、実在論が物理的な運動を説明するとする。観念論は人によって物事の受け取り方の違いを説明するだろう、としたときにイマージュというのは、それがどうして実在論と観念論の両方に入り込むことができるのか。言い方を帰ればどうしてイマージュは実在論と観念論の両方に適合し、結果として、物やその動きが私たちの心の動きや観念に変わるのか

と書き換えられるかな。

実在論とはようするに、
「だれも見てなくても物って存在するでしょう?」。
という考え方で、一方観念論というのは、
「いやいや、われわれが月を見てなければ月はないのと同じだよ。」。
というような考え方だと思ってください。
(これは唯心論的でほんとは正確じゃないけど)

そのあり方を取り持つのがイマージュというものだとして、どうしてイマージュはその二つを取り持つことができるの?ということ。つまりは、物を認識できるのはなぜ?そもそも根本的な問いとしてわれわれが何となく認識するイマージュって何?
ってこと。

今の脳科学ではたとえば、茂木さんなんかはクオリアといってて茂木さんの言うクオリアは実に曖昧なんだけど、その原型と言うべきイマージュという物を考えるとかえってわかりやすいかもしれないと思い紹介してみました。

でも、結局脳科学云々と100年たって科学がずいぶん進んだようにみえてじつは、この辺のことはちっとも進んでなかったりと、実におもしろかったりしますね、少なくても個人的には。

【補足概論】

基本的に私は小林秀雄さんを師匠だと思って、 まず、小林さんの考えてることを理解しようと もっぱらつとめている。

小林さんは、だいぶベルクソンを読んでいて、 いわゆる心脳問題についてもベルクソンを論じたものがある。 「感想」と題されているものだが、結局は失敗して全集には 小林さんの死後、別巻として掲載されることになった。

前にも言ったが、わざわざ読むなと師匠が言っているモノを 読むはずもないのだが、ベルクソンが何を論じているか については、ある程度体系的に知っておく必要がある。

それに、小林さんがベルクソンにかなりの影響を受けていることは そのほかの著述、講演などに明らかである。

小林さんは、ベルクソン論「感想」の失敗のあと かなりの傷心だった様だが、正宗白鳥の示唆もあり、 その後、「本居宣長」へと続いていく。

つまり、小林さんの「本居宣長」は小林さんなりの 心脳問題の解決なのであるが、これは、問題をうまく 定義して示しただけであって、現実解は後世に任された。

解決方法の一つが、「NewAgeと小林秀雄」で書いた オバケが人をにやりと笑わせる、という、心のことは心で、 と言う解決法なのだ。

しかし、他にも解決法がなければならないのは、 たくさんの人が、心脳問題と言うことを扱っているので判る。人間は、真理を知りたい生き物なのである。

わたしも、「物質と記憶」はまだ、ほとんど読んでなくて、判らないことだらけなのだが、メモを書いたあとの理解が格段に違うので、出来ればこのまま続けさせていただきたいと思う。

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