ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2012年5月18日金曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 精神と記憶 その8 第八節 意識の多様な平面


ここでは、第八節『意識の多様な平面』(p.241 5行目−p.245 17行目)を見ていきます。

早速はじめの段落(p.241 6行目―p.243 1行目)を見よう。いつものようにはじめの部分を引用する。ここでは前節最後の部分の結論を受けて次のように始まる。

『それゆえ、あたかも、われわれの数々の想起が、われわれの過去の生のこれら無数の収縮の中で無制限に反復されているかのように、すべては進行している。われわれの数々の想起は、記憶がよりいっそう収縮するときにはよりありふれた形をとり、記憶が拡大するときにはより個性的な形をとるのであるが、こうして想起は、無制限に多くの「体系化」(systématisations)に組み込まれる』(p.241 5行目−10行目)

前節では、図4や図5のような想起の円錐のなかで、想起が『収縮』と『自転』という言葉で表現される運動を取るとされたが、ここでは想起の『収縮』に焦点が当てられている。

(2012/05/09筆者注 前節第七節の最後では、

『言い換えれば、記憶の全体が、同時に生じる二つの運動によって、現在の状態の呼び掛けに応えるのであるが、その運動の一方は並進運動(translation)であり、それによって、記憶は全面的に経験に先んじ、行動することを目指して、分割されることなく、多かれ少なかれ収縮する。他方は、自転運動(rotation sur elle-même)であり、それによって記憶はそのときの状況へ向かってもっとも有益な面をその状況に示す。これらの様々な収縮の段階に、類似による連合の多様な形態が対応している』(p.240 15行目―p.241 41行目)

とあり、『自転運動』あるいは『自転』と対比させるべきなのは、『並進運動』であり『並進』であるだろうが、ここでは、わかりやすさをを考慮して、『自転』と『収縮』という草稿段階の対比のさせ方をそのまま踏襲している)

『収縮』と『自転』、これら二つの運動は、まずは『感覚‐運動的状態』のなかに嵌め込むことができるもの、言い換えれば現在の知覚に類似しているものだけが『意識の光』にさらされうるという過程で起る、記憶の詳細部分を制限するかあるいはそれを展開するかという『二重の運動』(p.237 9行目)のことだろう。

(2012/05/18筆者注 上段落は説明が不足していると思われたので、後半部分を改めた)

そのうち『収縮』は記憶を『分解されることがなく』収縮するわけであった。その際、より収縮する必要がある場合には、その個性的な部分を多く手放すことを余儀なくされ、そうでない場合は多く残す。また、想起は観念としての無数の『連合』が可能であり、言い方を変えれば、すなわち『無制限に多くの「体系化」(systématisations)に組み込まれる』。

たとえば、

『私の耳へと発せられた外国語のある単語は、この言語一般のことや、異なる仕方でそれを発音した声のことを私に考えさせることができる。これら二つの類似による連合は、(中略)、精神の異なる二つの構え、記憶の緊張の二つの別の程度に対応しており、こちらでは、純粋イマージュにより引き寄せられており、あちらでは直接的応答(réplique)、つまり行動へとよりいっそう向けられている』(p.241 10行目−17行目)

ということになる。この部分については、すでに読者諸氏には解説不要であろうが、中略した部分には、観念連合論(エピクロスの原子のような観念やイマージュが知覚により偶然に結び付き会うという考え方)に対する否定が書かれてあったことだけ言い添え、続きを見たい。

(2012/05/16 下段落はよりテキストに沿う形に改めた)

さて、以下、『これらの体系の分類すること』、『体系の各々をわれわれの心的生のさまざまな「調子」を結びつけている法則を探求すること』、これら『心的生』の『「調子」』が『そのときの必要性』あるいは『様々な程度で傾ける個人的努力』によって『いかにしておのずから規定されるか』、など示すことは困難であろうが、『しかし、われわれは各人、これらの法則が現実存在すること、この種の安定した諸関係があることをはっきり感じ取っている』とベルクソンは言う。 (p.241 17行目−p.242 6行目を要約)

『例えば、われわれが心理分析小説を読むとき』と、例を述べている。まず、われわれは、『描写されている諸観念』のうちいくつかは『正しい』、あるいは『体験されたものだ』とわかるだろう。しかし、そうでなく『不快』と感じたり、『現実的』と感じさせないものもあるだろう。なぜ、『不快』になったり、『現実的』でないと思うのかは、ある場面つまりはある『心的生』の『平面』に対し、著者がみずから選んだにも関わらず、あたかもそこに留まることができなかったかのように、『精神の相異なる階層間の機械的な結び付きを、われわれはそこに感じるからだ。』(p.242 6行目−12行目を要約)

それは、『魂の画家』の能力の不足というより、『記憶』が『緊張あるいは活力の相異なる継続的諸段階』を伴っており、かつ、『定義しがたいもの』であるがゆえに、『魂の画家は、支障を来すことなくそれらを撹拌することはできない』(p.242 12行目−14行目を要約)

病理学も大雑把ではあるが同様のことを例示し、上記した『各人が感じ取っている』ところの『法則の現実存在』や、『想起』の『安定した諸関係』を『確証』していると言う。(p.242 14行目−15行目)

『例えばヒステリー患者の「系統的健忘症」において、消滅させられたように思われる数々の想起は現実には残っているのだが、それらの想起はすべて、知的活力のある特定の調子に結びつけられていて、患者はもはやそこに身を置くことができない』(p.242 15行目−p.243 1行目)

(2012/05/18筆者 今日ではヒステリーという病名は一般に使用されておらず「系統的健忘症」という病症名も一般的ではない。筆者なりの調査の結果、「解離性障害」として分類される症状の一つに「解離性健忘症」と呼ばれるものがあり、現在の分類ではこれが相当するのではないかと思われる。これは、心的なストレス要因で記憶の一部が失われることを指す。(参考)http://ja.wikipedia.org/wiki/解離性障害)


このあとは、次の段落(p.243 2行目−p.245 17行目)に入る。この段落は比較的長く節の終わりまで続く。

最初の文を引用する。

『このように、類似による連合にとって無数の<相異なる平面>が存在するのだが、隣接による連合についても事情は同じである』(p.243 2行目−3行目、<>内はテキスト傍点付き)

このように、この節においては、『記憶の収縮』とその『連合』について『類似』と『隣接』の二つの観念の連合の種類について解説してあることが、ここで明示され、前段落では『類似』、つぎに、この段落では『隣接』による記憶(あるいはここでは観念と言っていいかもしれないが)の連合について述べられることが暗示されている。

続きを見よう。

『記憶の底面を表す極限平面<筆者註:たとえば図5の平面AB>においては、先行する出来事の全体と同様、後続する諸出来事の全体へと隣接によって結びつけられていないような想起は存在しない。それに対して、空間においてわれわれの行動が凝集する点<筆者註:同様に図5の点S>では、隣接は先立つ類似的知覚に直接的に後続する反応だけしか、運動の形で再生することはない。』(p.243 3行目−8行目)

ここまで、引用文に若干注釈を入れたが他に難しいところはないと思う。第六節分で解説したように『隣接』には時間的、場所的に近いものを結びつけるという働きがあるが、ここでは、特に時間的な『隣接』が扱われている。

『実際は、隣接によるどんな連合もこれら二つの極限の中間の精神的位置をを含意している。』(p.243 3行目−8行目)

ここからがやや難解になるので、少し解説を入れながら引用していこう。前段落と同じように、記憶の自在な収縮を仮定し、言い方を変えれば『われわれの想起の全体の多くの可能的な反復を想定するならば』(p.243 8行目)、

『われわれの過ぎ去った生の規範の各々はそれぞれの仕方で特定の切断面へと切り分けられるだろうが、分割の形態は、ある規範から別の規範へと移る場合には同じではないだろう。なぜなら、これらの規範の各々は、他の数々の想起が支点に凭れ掛かっているように凭れ掛かっている支配的な想起の本性によってまさに特徴づけられているからだ』(p.243 9行目−12行目)

上の引用文を少し整理すると、

1. まず『過ぎ去った生の規範』というのは記憶から抽出される。それらは『特定の切断面』に対応していると書かれている。これは、おそらく図5で言う、平面A'B'や平面A''B''等を表わしていると思われる。
(2012/05/12 筆者注 上の1.の説明の記述を大幅に変更)
2. しかし、その『断面図』への『分割』の仕方は、それぞれに違う。(引用文に対して正確を期すれば、『分割の形態』は『生の規範』ごとに違う。)
3. なぜそのようになるかは、各々の『生の規範』において『支配的な想起』というものが存在しており、その『本性』なるものがそれぞれの『生の規範』を特徴付けているからだ。言い換えれば、記憶から『生の規範』が抽出されるときには『支配的な想起の本性』が大きく関わっていて、その『本性』がそれぞれにおいて異なるために『分割』の仕方も一通りではない。

となるだろう。

このあと、しばらく例を挙げて説明されている。

『例えば、<行動>に近づくにつれて、隣接は類似の性質をますます帯びるようになり、単なる時間的継起の関係からますます区別されるようになる』(p.243 12行目−14行目、<>内はテキスト傍点付き)

『行動』というのは、図5点Sと考えて良いだろう。そうなると、想起はその個性をますます放棄し、時間的な継起の順序を保持するという特徴を持つ隣接も類似とは区別がつかなくなっていく、ということを言っているのだろう。

『そのようなわけで、外国語の語についてそれらが記憶の中で互いに喚起し合うとき、類似によって連合しているのか、それとも隣接によって連合しているのかと言うことはできないだろう。』(p.243 14行目−15行目)

『外国語の語』を聞くという『行動』ではそのようなことが起こる、というさらに具体的な例が示された。

このあと、対照的な例が示される。

『反対にわれわれが、現実的なものであれ可能的なものであれ行動から離れるにつれて、隣接による連合は、われわれの過去の生において相次いだイマージュをただ単に再現するようになる。』(p.243 16行目−p.244 1行目)

『ここでは、これら多様な体系についての掘り下げられた研究に立ち入ることはできない。これらの体系は原子のように並置された想起によって形成されているのではまったくないということを指摘するだけで十分だろう』(p.244 1行目−4行目)

上記引用は、読みやすさを考慮して二つに分けたが実際は続いている。この部分は何も難しい事はないだろう。少しだけ解説を加えれば、ここでも、『エピクロスの原子』のような『観念』が並んでいるところにどうして新しい観念が勝手に割り当てられるのだろうか、という従来の『観念連合論』についての批判をほぼ同じ批判を繰り返しているだけであろう。

(2012/05/18筆者注 上段落、後半部分を削除)

『つねにいくつかの支配的な想起、紛れもない輝く点が存在しており、それらの周りで他の想起は漠然とした霞のごときものを形成する。これらの輝く点は我々の記憶が膨張するにつれて増加する。例えば、ある想起を過去の中に局所化する過程は、すでに述べたように、あたかも袋の中に入り込むかのように、自分自身の数多くの想起の中に入り込んで、そこから、次第に隣接を深める想起を取り出し、それとのあいだに、局所化すべき想起が位置することになるわけでは全くない。その場合、いかに幸運な機会によってわれわれは、その数を増やしつづける仲介的想起を見つけることができるのか。』(p.244 4行目−11行目)

このように、反対する考えが、まず事実上、不可能であることを改めて示した後でベルクソンはこう言う。

『局所化の作業は実際、ますます増大していく<拡大>の努力のうちに存していて、常に全面的にそれ自身に現前している記憶はこの努力によって、その想起を益々大きな面の上に広げ、かくして遂に、その位置を見いだしていなかった想起を、それまでは乱雑だった集積のなかに見分けるに至る』(p.244 11行目−14行目、<>内はテキスト傍点付き)

(2012/05/16筆者注 下段落の上引用文の解釈については、正しくないと思われたので改めた)

『局所化の作業』というのは、ここでは、たとえば、ある『知覚』がどの『複合観念』に相当するかを特定するために、細部にわたって照合を行っていく『作業』ということだろう。要するに上引用文は、『記憶』の『収縮』とは反対の『拡大』によって、『知覚』のある部分と『想起』(ここではおそらく『支配的な想起』と隣接よって結びついた一般観念もしくは数々の経験、わかりやすさを重視してごく簡単に言ってしまえば『イマージュ想起』)との照合がより『拡大の努力』が進むに連れより詳細に行われていく、ということを述べているのだろう。


このあと、突然の衝撃によって起こる、逆行性健忘症の例が挙げられる。逆行性健忘症とは、大げさに言うとドラマの中に出てくる記憶喪失と思って頂くと良いだろう。ある衝撃的な事故などの出来事によって、その前後しばらくの記憶が抜け落ちてしまうこと、とここでは考えた方がより適切かもしれない。これは、簡単に言えば、あまりにも突然すぎて、記憶のなかに結びつく想起がないために、その前後の記憶も引き続き思い出されることが無くなる、と説明されている。ベルクソンの書き方はなかなか難しいのだが実際に見てみよう。(読みやすさを考えて、ここでも連続している文章を二つに分けている)

『そのうえ、ここでもまた、記憶の病理学が有益な情報をわれわれに提供するだろう。逆行性健忘症[障害が生じる以前の想起も欠損してしまう]において、意識から消え失せる想起は、おそらく記憶の極端にある諸平面上では保存されており、患者は、催眠状態において成し遂げる努力のような例外的な努力によって、それらの想起をそこに再び見いだすことができるだろう。』(p.244 14行目−p.245 2行目)

『しかし、より低い諸平面上ではこれらの想起は、それらがもたれかかることのできる支配的なイマージュを言わば待望していた。ある突然の衝撃、ある激しい情動<エモシオン>は、これらの想起が繋がれている決定的な出来事であるだろう。そしてこの出来事が、突然のものであるというその特徴のために、我々の歴史のその他のものから切り離されているとすれば、これらの想起はその出来事の後を追って忘却されるだろう。それゆえ、身体的であれ精神的であれ、ある衝撃の結果として生じた忘却は直前の数々の出来事を含むということが理解される。—これは、記憶についてのほかのどんな考え方を持ってしても非常に説明しがたい現象である。』(p.245 2行目−7行目、<>内はテキスト中フリガナ)

『記憶の極端にある諸平面上』とは、図4や図5でいう平面ABもしくはそこに近い諸平面と考えて良いだろう。ここは、ほぼ『イマージュ想起』と同じものと言っても良いのかもしれないが『イマージュ想起』はベルクソンによると、時間の経過と共に全てが保存されているに対し、この『記憶の極端にある諸平面』はそうではない。ところで、先に見たようにある出来事は、『局所化の作業』と『拡大の努力』のうちに記憶の平面に広がっていくものであるという違いが存在する。これが、『より低い諸平面上』つまり、行動に近づくもしくは図4や図5の点Sに近づくにつれて、『支配的なイマージュ』というものに想起はいよいよ収縮されていく。そういうことがあるので、『支配的なイマージュ』というものが、あまりに唐突で突然のものであると、『局所化の作業』で行われる『拡大の努力』にも関わらず全体の『(純粋)想起』の中で孤立化してしまい、結果『類似』や特に『隣接』の働きがうまくゆかず、その前後のしばらくの間の記憶まで消失するのではないか、とベルクソンは考えているというのが分かる。

さて、このあと、この節を締めくくる部分が来るのだが、この部分では、記憶の『待機』ということについて説明されている。上の引用で言えば、ある衝撃的な出来事の前後の部分の記憶、即ち、われわれが『知覚』から受け取る、何らかの経験、その『記憶』というのは、ある一定の時間間隔が必要だという意味である

(2012/05/18筆者注 上の段落の『待機』についての説明を簡略化した。)

『ついでに指摘しておくと、この種の何らかの待機を、真新しい想起、更には比較的遠くの想起にさえ与えるのを拒むなら、記憶の通常の働きは理解できなくなるだろう。なぜなら、その想起が記憶の中に刻み込まれたあらゆる出来事は、どれほど単純であると想定しても、ある時間を占めていたからだ。』(p.245 8行目−12行目)

(2012/05/16筆者注 上の引用文の解説は正しくなかったので改めた。たびたびの訂正、大変申し訳ありませんでした)

『出来事』とこの宇宙に起る事象のわれわれ人間から見た区別であるが、その『出来事』はどんなに短いものでもある長さの時間を占めるであろう。その意味では、われわれの記憶において一定の時間は不可分のものであり、ある『記憶』において一定の時間を占めるその部分を『待機』とベルクソンは呼び、複合観念においては特にそれは無視できないと指摘しているのであろう。

さて、ここまでくれば熱心な読者諸氏ならば残りの部分はおそらく解説なしに読めるであろうから、段落や節を締めくくるときいつもと同様に、引用文だけを示しておきたい。

『この間隔の最初の期間を満たしていた諸知覚は今や、引き続いて生じる諸知覚と共に不可分な想起を形成しており、それゆえ、この出来事の決定的な部分がまだ生じていなかったあいだは、まさに「宙に浮いて」いたのである。ある想起がそれに先立つ多様な細部と共に消え失せることと、決まった出来事に先立つ多少とも多くの想起の、逆行性健忘症による消滅とのあいだには、それゆえ、本性の相違ではなく、単なる程度の相違があるだけなのだ。』(p.245 12行目−17行目)