ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2010年1月9日土曜日

ベルグソン 「物質と記憶」メモ その2 唯心論の検証 (mixi:2009年06月19日)



ベルグソン 「物質と時間」メモ その2 唯心論の検証
2009年06月19日

今年の3月26日にメモ1と補足概論を書いてからずいぶん時間がたってしまった。 ようやく、少しずつではあるが、本文を詳しく理解できるようになってきたのでここまでの進捗のメモを残す。

今回の内容は唯心論の検証になる。

ページと行を表すことがあるが、これは、ちくま学芸文庫 ベルクソン「物質と記憶」を第2刷を元テキストとしている。

まず、言葉の定義から。

 1.イマージュ
  8ページ4行目、「ここでイマージュというのは、私が感覚を開けば知覚され、閉じれば知覚されなくなるような、最も漠然とした意味でのイマージュである。」
  とある。物質を知覚して得られるイメージぐらいの適当で漠然とした感じ、である
 (筆者注:2010年1月9日現在では、ベルクソンのイマージュとは現実にはあるのに我々が認識するときには、何らかの写像しか受け取ることのできないものであり、これは、プラトンのイデアがどこかには本当の姿があり、正義などの抽象概念は、洞窟の陰のように、現実に投影されているというのと対照をなす、かなり重要な概念ではないかという考え方をしてる)

 2.物質、知覚
  15ページ10ー12行目、「私はイマージュの総体を物質と呼ぶが、これら同じイマージュが、ある特定のイマージュ、すなわち私の身体の可能的作用と関係づけられた場合には、それらを物質についての知覚と呼ぶ」

 3.表象
  15ページ13行目から、「表象」という節が始まるが、特に言葉の定義があるわけではなく、一般的に表象するという意味で使われている。
  [例]12ページ13行目、「したがって、ほかの諸物体を動かすべく定められた物体たる私の身体は、作用の中心であり、それが表象を生じさせることはありないだろう」

さて、独断によって、まず、ベルクソンの言う意識的知覚(p.30辺り)について考察する。

まず、どうして、「意識的知覚」が生じるのかについて、こう述べてある。

「実在的作用の中心(centres d'action réelle)を想像してみよう。これらの中心各々の周辺には、当該中心の位置に従い、その位置と共に変化する諸イマージュが並べられねばならないと私は思う。それゆえ、意識的知覚は生じなければならず、加えて、いかにしてこの知覚が生じるのかも理解可能であると私は思う。」

このベルクソンの「意識的知覚」についての、この後の記述は要約するこうなるだろう。

下等動物であるならば、刺激に反応することはすなわち行動になる。 しかしながら、高等な動物においては、その知覚において曖昧さが介入することはさけられない。例えば、目で見ると言うことは、見ている存在からその対象までに 距離があり、そこには、例えば円錐を二等辺三角形と間違えるような錯覚も生じ得るだろう。

ということは、例えば、ものを見るということにおいては、それが何かということを明らかにするために我々は意識してみなくてはならない。

これが要約であるが、おもしろいことにベルクソンは、より深く考察するために、「純粋知覚(perception pure)」というものを提唱している。(34ページ7行目)

ふつうの知覚というのは、記憶による情報が混入するし、また、どんな知覚であろうと、それが物理的な反応である限り、現実の知覚には一定の時間が必要となる。しかし、知覚というものをもっと良く考察するために、まず、記憶による情報の混入がなく、また、知覚が発生するための反応時間もない「純粋知覚」というものを考えよう、というのである。

そうすると、このとき、イマージュというのは単に物質界だけを考えればいいだろう。そして、物質は、我々の知覚(ここでは知覚は純粋知覚)なくしても存在しうるだろう。純粋知覚には、記憶というものも反応時間もないから、われわれが、何かを知覚するには物質がすでに存在していると言うことが大前提となるからである。

このとき、我々が物質から受け取る表象というものは、イマージュを何らかの形で制限してえられるものであって、唯心論的に我々の中から展開していくものではあり得ないだろう。

言い換えれば、純粋知覚は我々がイマージュを受け取るときの「フィルター」として知覚を受け取るものであり、つまりそれが表象となるのである。

ここで、意識的知覚に戻ろう。純粋知覚というものを、脳の物理的な反応と置き換える。そうすると、意識的知覚というものはベルクソンによるとこのような記述になる。(44ページ9行目ー12行目)
「(前段略)意識的知覚と脳の変化は厳密に対応している。それゆえ、これら二つの項の相互依存は単に、それらがいずれもある第三項の関数であることに起因しているのだが、この第三項とは、意欲の不確定性なのである。」

この意欲の不確定性については、少しだけ考察すると次のようになる。まず、31ページ10ー11行目に次のような記述があるという事を示す。

「知覚は行動が時間を自由にするのとちょうど同じだけ空間を自由にするのだ。」

上の言葉に少しだけ解説を付け加えておくと、行動範囲が時間と速度のかけ算で表されるのを象徴し、知覚はこの場合純粋知覚であるから光や音などのある時間で及ぶ範囲を知覚できるのでその分、我々は空間を関知できるということである。

そして意欲の不確定性とは、行動と知覚がの空間と時間を自由にした分、どうするかについての選択肢が増え、また知覚が曖昧であるだけに、どうしようかとする我々の意欲も不確定であるということである。

さて、「物質と記憶」では意識的知覚について長いページを割かれて考察されている。59ページの途中まではほぼ同じようなことを詳細に検証している。

しかし以上のようにベルグソンの言う「純粋知覚」を仮定することにより、唯心論的考えもほぼ否定されたと言っていいだろう。


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