ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2010年3月29日月曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 補足(mixi:2009年12月02日 )


ベルクソン 「物質と時間」メモ その3 記憶と想起 補足  
2009年12月02日

『ベルクソン「物質と記憶」メモ その3 記憶と想起 その4 想起と運動』(上)、(中)、(下)では、十分意図とするべき話が伝わっていないのではないかと感じています。説明が下手なせいでしょう。特に、(下)の最後の部分は、手を入れる前は、われながら本当にひどかった。ここで改めてお詫びをする次第です。それに、あまりにも、運動図式や、イマージュ記憶が脳にはないのではないか、というところに力を入れすぎてしまったかも。それで、補足をしようかと思った次第です。

前回までの記事で、『第二章 イマージュの再認について - 記憶と脳』について一通り終わってしまったつもりでいたのですが、最後の二ページに相当する部分(p.174 16行目-177 2行目)を解説していなかったので、その部分の少し詳しい解説を中心に、すこし説明を補足してみたいと思います。(テキストを持ってない人のために言っておくとp.174 2行しか残ってません。 p.177も2行。実質、p.175-p176の2ページ分)

まず、私の理解している第二章、というのを述べ、そのあと、実際にベルクソンがどのようにまとめているかを見てみたいと思います。

私の理解は以下の通り。

記憶はイマージュ想起と運動図式として展開される純粋想起に分かれている。連続した知覚においては、運動図式はあらかじめ機械的に用意されている。これが無意識的な行動にも相当する。

一方で、イマージュ想起というのは、知覚がすべてが保存されているが、それは、われわれの意識からは逃げ去りやすいものでもあり、なおかつ、任意に思い出すことはできない。しかし、保存されているのはどこかははっきりとは分からないが、イマージュ想起はすべて保存されていて、夢でならすべてアクセスできるだろう。

ベルクソンによると脳以外の部分にそれは保存されているはずであり、イマージュ想起は徐々に運動図式に置き換わり、その運動図式こそが脳に保存されている。これを、純粋想起と言い換えてもいいだろう。

先ほども述べたように、われわれが何かする場合には、無意識の段階で、すでに、運動図式は用意されている。では、どうやって意識的な再認をするのか?

それは、簡単に言うと注意の力であり、無意識の段階で知覚により用意されている運動図式に対応するイマージュ想起を当てはめる、意識的な再認を行うのである。

以上が、私の認識ですが、テキストにはどう書かれているかを見ていきたいと思います。

まず、端的に記述されているのは、テキストでは、少し戻って、p.171 13行目-p.172 9行目の段落になります。 引用すると、

『一方では、完全な知覚は実際、われわれがその知覚の前に投げかけるイマージュ想起とその知覚によってしか定義されないし、それと見分けがつかない。注意がかかる融合の条件であり、注意なしには機械的な反応を伴う諸感覚の受動的な並置があるだけだ。』 (p.171 13行目-15行目)

つづけて、

『しかし他方では、われわれがもっとあとで示すことになるであろう様に、イマージュ想起それ自体は純粋想起の状態に還元されれば無効なままだろう。潜在的なものとして、この想起は、それを引き寄せる知覚によってしか現実的なものとなり得ない。』 (p.171 16行目-p.172 1行目)

とあります。

そして、この段落の最後には、『この二つが合わさって初めて判明かつ再認された知覚を形成する。』

(2012年1月5日筆者注:上段落の『』内は要約であり、テキストでは、

『結びつけられる事で、これら二つの流れは合流点において、判明でかつ再認された知覚を形成するのである』(p.172 7行目−9行目)

)

とあります。

要するに、『知覚』によって呼び寄せられ無意識のうちに予め用意される『運動図式』と呼んでいるものによって、無意識にでもある程度のことはできるけど、ちゃんと分かろうと思ったら、ちゃんと『注意』をしてイマージュ想起と照合していかないといけませんよ。ただし、この照合は、まったく同じイマージュを探すのではなく、注意のところでも書いたように、再帰的に分解していって、照合結果のイマージュ記憶を再構成します。

この辺のことを、テキストp.139 11-14行目に端的に書いてあるので引用してみます。

『注意の行為は、精神とその対象の強い連帯を伴い、それは非常にしっかりと閉じられた回路であるので、高度な集中の状態に移る度に新しい回路を一から十まで作り上げなければならなくなるのだが、これらの新しい回路は最初の回路を含みつつも見られてる対象しか相互に共通なものはない。』

つまり、人間というのは、注意して見ると言うときはイマージュ想起を思い出している。しかし、それは、注意の程度やそのときの脳の活動の状況によって、同じものを見ていても、違う場合には違う形で物事を再認をしてると言っていいでしょう。これは、誰もが体験することですよね。

もう一つ言えるのは、この行為が、仮に同じ対象を見ている場合でも、異なる機会ならば、それぞれはじめから繰り返されるということです。

さて、これらのことが、最後のまとめの部分、p.174 16行目から章末までの約2ページにはどう書かれているか?

『最後にもう一度言い換えれば、基礎的な諸感覚が生じる諸中枢は、いわば前からと後ろから、相異なる二つの面から動かされてことができるのだ。前からは、諸中枢は諸感覚器官、従って<現実的対象(object rèal)>を受け取り、後ろからは媒介に媒介を重ねて<潜在的対象(object virtuel)>の影響を受ける。イマージュ中枢は、それがあるとすれば、これらの感覚中枢との関連で、諸感覚と対照的な諸器官でしかあり得ない。』 (p.174 16行目-p.175 5行目、<>内はテキスト内では傍点付きとイタリック)

ということが書いてあります。

少し省略して、次の段落(p.175 6行目-p175. 17行目)のはじめには、

『これは、実際に起こり得ることの無限に縮約された翻訳でしかないということを付け加えておこう。』

と書いてあり、次に一行飛ばして、

『われわれが純粋想起と呼ぶものであるような意向(intention)と、いわゆる聴覚的イマージュ想起とのあいだに、非常に頻繁に、それらにとって中間的な数々の想起が介在することになるのだが、それらの想起は多少とも遠隔的な諸中枢において、イマージュ想起としてまずもって現実化されなけねばならない。』 (p.175 8行目-11行目)

とあります。

このあともう少し具体的な例があるので引用すると、

『そのとき、観念が言語的イマージュという特殊なイマージュへと具現されるに至るのは、連続した諸段階を通ってのことである。これによって、心的聴覚は、多様な中枢と、そこに通じる数々の道に従属させられうるものとなる。』(p.175 11行目-14行目)

とあります。

最終的にはまとめると次の次の行、

『中間に置かれた諸項の数と質がいかなるものであれ、われわれは、知覚から観念へ進むのではなく、観念から知覚へ進むのであり、再認に特徴的な過程は求心的ではなく遠心的なのである』(p.175 15行目-17行目)

つまり、いろんなイマージュ想起を様々な中枢を通って再帰的に構成し直すと言っていいでしょう。また、具体化した統合的なイマージュ想起、ベルクソンの言い方では『言語イマージュという特殊なイマージュへと具現』されたものと言えるでしょうが、ここではこれを、ベルクソンは具体化した観念と言っていると言って良いでしょう。言語中枢の話ですからね。もちろんイマージュ想起の再構成は、『運動図式』という容器にみずから入り込むというイメージで具体化されるとベルクソンは説明していましたから、ある種の『運動図式』を、具体化する前の観念としてとらえても良いのだと思います。

さて、次のページが、また難しいかもしれません。
まず、ざっくり行きましょう。

『たしかに、内側から発する刺激が大脳皮質またはほかの諸中枢に働きかけることで、いかにして諸感覚を引き起こすかを知ることが課題として残されている。ただ、これが意見を述べるための一つの安易な仕方でしかないのは非常に明らかである。』(p.176 1行目-3行目)

とまず、問いかけとその注意点がかかれています。

つぎに、純粋想起の話があります。

『純粋想起は、それが現実化するにつれて、それに対応するすべての感覚を身体のうちに惹起するようになる。』(p.176 3行目-4行目)

つまり、純粋想起は、身体の感覚においてもいわゆる運動図式の形で実際的な感覚も引き起こす仕組みを持っている、ということになるでしょう。

で、その純粋想起が惹起できるところの感覚は、実際にはあらかじめ無意識の内に用意されてるよ、という話が次の行からです。

『しかし、これらの潜在的な感覚そのものは、それらが現実的になるために、身体を行動させ、身体に数々の運動と態度 - 潜在的な感覚はその前哨である - を刻みつけるようにならなければならない。いわゆる感覚中枢の諸震動は、身体によって成就されたり素描されたりする震動にふつうは先立っており、運動を開始しながらそれを準備することを正常な役割として有してさえいるのだが、』 (p.176 5行目-9行目)

が、それに相当します。

つづいて、

『それゆえこれらの震動(筆者註:感覚中枢の諸震動)は、感覚の現実的原因というよりも、感覚の力能の現れであり、その効力の条件である。』
(p.176 9行目-10行目)

以上は、知覚が感覚中枢によって運動図式に展開され、意識的再認のために用意される過程です。次に、イマージュ想起側の話がこのあとの行からとなります。

『潜在的イマージュが現実化される際の進展は、このイマージュが身体から有用な振る舞いを獲得するに至るための一連の段階にほかならない。』 (p.176 10行目-12行目)

ここでは少ししか書いてありませんが、注意することによりイマージュ想起が運動図式に再帰的に分解されながら当てはまっていく過程です。(先にも似た表現を使って説明しましたが、ベルクソンはこれを容器にイマージュ想起が自分から入っていくという表現を何度かしています)

そして、最終的には、

『いわゆる感覚中枢の刺激はこれらの段階の最後の段階である。』 (p.176 12行目)

ということになります。

つまり、ここで説明している一般的な感覚中枢が刺激されるのは思い出すときの脳の活動の最後なると言っているのであり、言語中枢ならば、このときに始めて観念を意識的に理解する。

(2012年1月5日筆者注:「この時観念を始めて意識的に理解する」という記述は少々誤解を招く。『言語中枢』はまず『観念』を理解し『イマージュ想起』を迎え入れるというのがベルクソンの主張だったからである。しかし、『言語』においてはその言葉の『観念』というのはここにおいては『運動図式』と同等であろう。つまり、ベルクソンの使っている『観念』は無意識のうちに用意される『運動図式』という事を意味していて、われわれが普段使っているような言葉で定義されるような『観念』は若干ニュアンスが違うという事を但し書きしておきたい)


『それは、運動反応の前兆であり、空間における一つの行動の始まりである。』 (p.176 12行目-13行目)


これは、すこし前に書いてあった『いわゆる感覚中枢の諸震動は、身体によって成就されたり素描されたりする震動にふつうは先立っており、運動を開始しながらそれを準備することを正常な役割として有してさえいるのだが、』 (p.176 7行目-9行目)というところを受けていて、どう感覚を脳の中に処理されたか、をまず書いて、それが運動のきっかけになってると述べているわけです。

もう少し、ベルクソンは続けていますので、つきあってくださいね。
 
『別言するなら、潜在的イマージュは潜在的感覚に向かって進展し、潜在的感覚は現実的運動に向かって進展する』 (p.176 13行目-14行目)

と簡単にまとめてから、次の行、

『この運動は、みずからを現実化しつつ、感覚 - この運動はそれを自然に引き延ばしたものである - と、感覚と一体化せんとしたイマージュの双方を同時に現実化する。』 (p.176 14行目-16行目)

と書いてあります。もちろんこの行の『この運動』は、前の行に書いてある進展の運動、そのものを指すのであり、前行中に書いてある『現実的運動』である訳ではないことは、注意しないといけません。

それで、最後にこう書いてあります。

『これにより、われわれは、これらの潜在的状態を掘り下げると共に、心的諸活動ならびに精神的生理学諸活動の内的機構のうちに更に深く入り込むことで、いかなる連続的進展によって、過去がその失われた影響を取り戻して現実化されるのかを示すつもりである。』(p.176 16行目-p177. 2行目)

ま、これは、更に詳しく研究していきますよということです。

さて、まとめの部分、一通り解説をしましたが、おわかりいただけたでしょうか。

ここまで、あまり分かってない、という人も、分かったよ、という人もいらっしゃると思いますが、私の認識を共有していただくとこれからの説明も楽になるだろうなぁと思うので、注意点と課題と思ってることを書き出してみます。

1. われわれは、記憶を二種類持っている。純粋想起とイマージュ想起である。 注意を惹起するために予め言っておけば、イマージュ想起は、純粋知覚と純粋想起の中間に当たるものとなる。(テキストp.191 図3を参照のこと)

2. 純粋想起は、われわれがまねをすることが可能な運動として脳の中に展開される、いわゆる、運動図式である。また、観念も更に複雑に展開されたこの運動図式にはいっているだろう。

(2012年1月5日筆者注:「また、観念も更に複雑に展開されたこの運動図式にはいっているだろう」という記述は、上記中にも書いたものを見て頂ければ分かると思うが正確ではない。ベルクソンのいう『観念』というのが、『言語』の『運動図式』と等しいものと思われるという事をもう一度指摘しておきたい)

3. イマージュ想起はすべてがそのままの形でとこかに保存されている。われわれは、一般的に意識的に、ありのままにこのイマージュ想起にアクセスすることはできない。そのままのイマージュ想起にアクセスできるとしたら夢の中だろう。

4. 一方で、意識的に記憶を思い出そうとするときには(意識的再認)、注意の力によって、運動図式に(あるいは、イマージュ中枢というものがあるなら、イマージュ中枢の中のこのような運動図式をコピーされて)、このイマージュ想起が再帰的に分解され当てはまることにより記憶が現実化する。ただし、これは、再認の対象が同じ対象であるとしても、各々一回だけの現象である。われわれの再認の仕組みでは、ものを再認するための仕組みは同じくしても、再認の行為は、それぞれどれもまったく同じ行為ではあり得ない。

5.最後に、純粋想起とイマージュ想起とに大きく分けてみたが、実際には、純粋想起が知覚もしくはイマージュ想起から形成されるという仕組みである以上、しかも繰り返しによって徐々に形成されるという性質がある以上、純粋想起とイマージュ想起を厳密に区別することは難しい。

以上が、簡単なまとめであり、現在のわれわれのもっとも大きな課題は、イマージュ記憶にどのようにアクセスしているか?であるでしょう。

しかし、おそらく、われわれがこの仕組みを、現実の物理的な現象として説明することは、少なくても現在のところは非常に難しいと言わざるを得ない状況です。おそらく将来にわたってもできないかもしれない。しかし、茂木氏も言ってるように、進化論がそうであるように過去にアクセスできているという断片的な証拠であっても、それを集めることによって、イマージュ記憶がそのままの過去を丸ごと保存しているという証拠になるかも知れません。(たまには良いこと言うなぁ、茂木さんも)

さて、締めますか。

われわれは、何かを注意して思い出そうとするときには、そのままのイマージュを取り出すことはできないにしろ、このイマージュ想起にアクセスしているのでは?と思わせるものは確かにある。記憶が仮に純粋想起だけだと考えて、運動図式が、たとえば、文字認識のニューラルネットワークであるなら、現実世界からの入力だけでは、われわれは機械的な行動しかできないかも知れない、あるいは、知覚の不確定性によって発生する、まったくでたらめに近い行動か。なぜ、その時々に思い出すこと、全く同じだったり、まるで違ったりするのか?どうして、われわれの記憶は、意識的にはコントロールできないのか?たとえば、夢の中では、丸ごとの記憶が思い出せるのに、起きている間はそのようなことが難しいのか?なぜ、不意に、奇妙なことを思い出して笑ってしまったりするのか?

つまり、ベルクソンの主張を信じるなら、われわれの精神においてもっとも神秘的なのは、ベルクソンの言うイマージュ記憶であり、思い出すことだといっても良いかもしれない。

(2010年3月28日 追加記述)
小林秀雄さんの「本居宣長」を読み進める過程で、言語は時代により変化する、時代時代の言語のあり方はその言語を用いている人たち共通の一つの記憶ともいえるだろう。ということを学んだ。

ここでは、イマージュ記憶へどのようにアクセスするかが不明であると説明したが、言語が、使う人々の共通のものということは、言い換えれば、人間は言語の内側にいる、つまりは、言語は人間の外側に存在する、と言ってもいいだろう。

そこにも何らかのヒントがあるのではないかとも思う。

(2012年1月5日 追加記述)

最近では、ニューラルネットワークが一種の情報圧縮を行っているという研究結果を読んだ。イマージュ想起は、圧縮された情報が展開されている、というかのせいがある事も、ここでは一応指摘しておきたい。(キーワード、「ニューラルネットワーク 情報圧縮」でインターネット上で検索すれば幾つもの論文がヒットする)

2 件のコメント:

  1. 言語記憶がもし脳内で同じメカニズムで形成されるとすればこの世には何故かくも多くの言語が存在するのか?ある意味人間の数だけ言語が存在するといっても言い訳で、その意味で言語記憶といった共通記憶、いわば純粋記憶は存在しない。あらゆる言葉はその人にのみの語感をもって存在しておりそこに人生というものの本質があるように思います。小林秀雄さんの「人生とは想いだす事だ」という一文が蘇りますね。   草々  西川

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  2. 色々とご配慮いただいた上に、コメントまで頂き感謝に堪えません。

    ベルクソンのいうところの持続がその人の一度限りの体験である限り、いかなる言葉(観念)も最大公約数の意味しか持てないと思います。(この本では純粋想起と純粋記憶をほぼ同じ意味で使っていると思いますので失礼ながらあえて観念という言い方に変えさせていただきました)

    しかもその言葉を論理的に理解しようとするときにノイマン型のコンピュータでは処理できないほどの計算量を必要としているということもわかってきました。

    ベルクソンの示す記憶の全保存ということを含め、記憶というものは大変不思議なものだと思います。

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