ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2012年12月20日木曜日

ベルクソン 「物質と時間」メモ その5 第四章 「知覚と物質、魂と身体」  第六節 「魂と身体」



ここでは、第六節 『魂と身体』(p.311 7行目-p.317 11行目)を解説します。ここは、この章の最後の節でもあり、つまりは、この本の本文の最後の節でもあります。したがって、第四章のまとめであると同時にこの本で論じられてきたことのまとめにもなっています。なお、この節の内容は後段で説明を詳しくされていく構成になっているので初めの方の段落においては詳細な説明をせず、ごく簡単に内容を紹介しておくことにしました。読者各位におかれては不親切と感じられるかもしれませんがよろしくご高配を賜りたくお願いいたいます。

(2012/12/18 筆者注:「なお、」以下を加筆した。読者の皆様にはご迷惑をお詫びいたします)

では、第一段落(p.311 8行目-15行目)を見ていこう。ここは、『魂と身体』というこの節のテーマから見た第三章までの内容が簡単にまとめられている。短い段落なのでほとんどを引用することになる。

まず、第一章で結論を述べていたことを、ここまで演繹してきたことでもう一度そこへ戻っていくということが述べられ、次にベルクソン独特の言い回しによって『知覚』についての考察が以下のようにまとめられている。

『われわれの知覚は本来精神のうちによりもむしろ事物のうちにあり、われわれのうちによりもわれわれの外にあるのだとわれわれは言った。多様な種類の知覚はいずれも実在への真の方向を示している。』(p.311 9行目-11行目)

しかしながら、外側にあるはずの知覚は『事実的に』といいうよりむしろ『権利的に』存在する。ということ、すなわち、『知覚』は対象を記憶と一致させることによって始めて『知覚』としての有用性をもつということが述べられる。以下、残りの部分を引用したい。

『しかし、われわれが付け加えたように、その対象と一致する知覚は事実的によりむしろ権利的に存在し、その様な知覚は瞬時のうちに行われるだろう』(p.311 11行目-13行目)

(2012/12/14 筆者注:上引用文を付加。引用文を増やすことで、ややわかりやすくすることにした。ここでも、またご迷惑をおかけし、大変申し訳ありません)

『具体的な知覚の中には記憶が介入しており、感性的諸性質の主観性は、記憶としてしか始まらないわれわれの意識が、多数の瞬間を相互に引き継がせて、ただ一つの直感のなかに凝縮させようとすることに由来する。』(p.311 13行目-15行目)

以上、簡単ではあるが第一段落を解説した。


第二段落(p.311 16行目-p.313 2行目)を見ていこう。ここでは、この節のテーマでもある『魂と身体』の結びつきには、前段落で述べられた内容では不足し、二元論を緩和する精神と物質の結びつきを説明するためには『無際限』で『等質的空間』に『運動」や『物質』(あるいは延長と質)があるのではなく『持続』という観念においてそれらの物の本来的な存在を捉えなければならないと主張される。

まず、最初の部分を引用しよう。

『このように、意識と物質、魂と身体は知覚において接触した。しかし、この考えはある面で不明瞭なままだった。なぜならその場合、われわれの知覚、ひいてはわれわれの意識も、物質に与えられている可分性を分有しているように思われたからだ。』(p.311 16行目-p.312 2行目)

『われわれが二元論的仮説において、知覚される対象と知覚する主体の部分的一致を受け入れるのを嫌うとしても、それは、対象がわれわれにとって本質的に無際限に分割可能と見える代わりに、われわれがみずからの知覚の不可分な統一性を意識しているからだ。』(p.312 2行目-5行目)

まず、一番目の引用では、第一段落を受けて、第一章で詳しく検討された『純粋知覚』の理論について、本章第三節と第四節の始めでも検証されたように『等質的空間』に『運動』や『物質』が置かれていると仮定していたがために、知覚の仕組みを説明するだけでは二元論を緩和できないということを述べ、その理由を二番目の引用で、『対象がわれわれにとって本質的に無際限に分割可能』と見なし、それと対称させるように、われわれは知覚の方を『不可分な統一性』を持つと『意識しているからだ』、と指摘してる。

(2012/12/14、12/18 筆者注:「第一段落を受けて、第一章で詳しく検討された『純粋知覚』理論について、本章第三節と第四節の始めでも検討されたように」という語句を補足。また、『われわれがみずからの知覚の不可分な統一性を意識しているからだ。』の部分の解説が、正確性に欠ける思われるために修正をした。これまでの未熟さをお詫びいたします)

『ここから、非伸張的な感覚を伴う意識が、延長せる多様性の前に置かれているとの仮説が生じる』(p.312 5行目-6行目)

『しかし、物質の可分性が、物質に対するわれわれの行動、つまり物質の様相を変えるわれわれの能力にとって全面的に相対的であるならば、物質の可分性が物質そのものではなく、われわれが物質をわれわれに捕獲させるためにこの物質の下に張っている空間に属するならば、そのとき困難は消え去るだろう』(p.312 6行目-10行目)

この辺り、かなり難解な文章ではあるが、ここまで読まれてきた読者諸氏には十分ご理解頂けているに違いないと思う。内容的には前節の最後の段落に書いてあったことに非常に近い。上記の初めの引用文(p.312 5行目-6行目)、『意識』の中で閉ざされている『非伸張な感覚』(以前の言い方では『感性的諸性質』)と『延長せる多様性』(物体の大きさ、立体感、などの『延長』)の二つの要素がそれぞれ二元論的に混じり合うことはないまま、『物質』としての実在をわれわれの『感覚』は受け取っているという仮説と言えるだろう。また、次の引用文(p.312 6行目-7行目)は、それに対するベルクソンの説を指している。すべては一度きりの出来事であるという考え方のこと『知覚』された『運動』や『物質』は不可分であり、また『知覚』に『伸張性』があることは心理学的な裏付けもあった。

(2012/12/15 12/19 筆者注:上の段落においては、「しかし、ベルクソンが批判してきたような二元論では、」という部分は言葉が足りていないと思われたので、第五節での批判してきた学説が少なくても一つは思い起こせるような表現にした。本来は、力動説(アリストテレス・ライプニッツ)、機械論(デカルト)、カントの学説ほかイギリス観念論なども含まれるが、冗長と思われたことと、以前の表現をできるだけ変えない方針で訂正をしているため、このような表現とした。このほか、ややわかりにくいところや余分だと思われた箇所を変更した部分がある。読者の皆様には、たびたび未熟なところをお見せすることになり、本当に申し訳なく思います)

こうして、『感覚は伸張を取り戻し、具体的な延長はそれ本来の連続性と不可分性を回復する』(p.312 15行目)

以下、この段落の最後までを引用しよう。

『そして、二つの項のあいだに乗り越えがたい障壁として聳<<筆者註:そびえ>>え立っていた等質的空間は、図式あるいは象徴として以外の実在性をもはや持たない。等質的空間は、物質に対して働きかける存在の振る舞いに係わっているのであり、物質の本性について思弁する精神の働きに係わっているのではない』(p.312 15行目-p.313 2行目)

以上、第二段落を解説した。


第三段落(p.313 3行目-p.314 4行目)を見ていこう。ここから数段落は、内容的には第二段落とほとんど変わらない。ただ、その強調されているところがやや違ってきており、少しずつ考察を深めていくような形になっている。それぞれ短い段落であるので、ここからは、ほぼ全文を引用することになるだろう。

いつものように最初の部分を引用する。

『まさにそれによって、われわれのすべての研究が収斂するところの問題、魂と身体の結合についての問題がある程度は明らかになる。』(p.313 3行目-p.313 4行目)

『この問題の不分明さは、二元論的仮説において、物質を本質的に分割可能とみなし、一切の魂の状態を厳密に非伸張的なものとみなし、その結果、二つの項のあいだの連絡の切断から始まることに起因している。』(p.313 4行目-p.313 6行目)

これまでも、十分に見てきたことであるが、ベルクソンはこの部分をしきりに繰り返す。まず、この段落では、この切断(あるいは『二重の公準を掘り下げること』(p.313 7行目))から見出されることとして、

 ・『物質に関しては、具体的で不可分な延長とその下に張られた分割可能な空間等の混同』(p.313 7行目-8行目)
 ・『精神に関しては、延長と非延長とのあいだには段階や可能的推移は存在しないという欺瞞的な考え方』(p.313 8行目-10行目)

ということを挙げ、批判している。

『しかし、これら二つの公準が共通の過ちを隠し持っているならば、』(p.313 10行目)ということで、すなわち、次のように美しく記述している。

(2012/12/15 筆者注:以下の段落では主にどこで述べられているかなどを改めて補足した。未熟をこころよりお詫びすると共に、形式的にも、記述の美しい流れも途中で壊したくないという配慮もあり、ここにまとめて注することをお許し願いたいと思います)

『観念からイマージュへ、イマージュから感覚への漸近的な移行があるならば、』(p.313 10行目-11行目)

ここでは、第二章や第三章での『感覚』と『記憶』の関係(p.191図2参照)、

『魂の状態が、このように現勢態すなわち行動へと進展するに応じて、よりいっそう伸張に近づくならば』(p.313 11行目-12行目)

ここでは本章第三節、第四節で見た『運動』をありのままに見るということ、

『最後に、ひとたび到達されたこの伸張が不可分なままで、それによって魂の統一性に何らかの仕方で調和するならば』(p.313 12行目-14行目)

そして、すなわちここは、特に本章第四節でA-D変換に例えての『感官』から『感覚』への働きを説明したあと、その最後の段落で逆に捉えた『物体』や『運動』を『波動』として物事を考えることを説明している部分ほか、『知覚』が『伸張性』もつという心理学的にも明らかになった事実、

これらのことが検証され明らかになったとき、『精神は純粋知覚の行為において物質に重なることができ、したがって、物質と結合することができるということ、にもかかわらず精神は物質と根底的に区別されるということが理解される』(p.313 14行目-16行目)




では、この段落の最後までをいつものように引用してこの段落の説明を終わりたい。

『そのときでさえ精神は、<記憶>すなわち未来のための過去と現在の総合であるという点で、物質から区別される。この物質を利用し、精神と身体の結合の存在理由たる行動によって現出するために、物質のこれらの瞬間を凝縮させている点で、精神は物質から区別されているのだ。だから、本書の冒頭で、身体と精神の区別は、空間に応じてではなく時間に応じて確立されねばならないとあれわれは言ったのは正しかったのである』(p.313 16行目-p.314 4行目)

以上、第三段落を解説した。


第四段落(p.314 5行目-p.315 1行目)を見ていこう。この段落は、第三段落を受けて更にその考察を深める段落となっている。ここも非常に短い段落なので、ほぼすべてを引用することになる。

まず、最初の部分を引用しよう。

『通俗的な二元論の間違いは、空間の観点に身を置き、一方には、物質とその諸変化を空間の中に置き、他方には、非伸張的な諸感覚を意識の中に置くことである』(p.314 5行目-6行目)

と始まる。このことが原因で、精神と肉体、相互の働きかけあいの関係が分からなくなり、また、『そこから、事実についての偽られた確認でしかなく、またそうでしかありえない数々の仮説 —併行論の考えであれ予定調和の考えであれ— が生じる』と批判する。(p.314 6行目-9行目をまとめた)

さらに、こうも批判する。

『しかし、同様にそこから、記憶の心理学にせよ、物質の形而上学にせよ、それらを構成することの不可能性もまた生じる』(p.314 9行目-11行目)

一方で、ベルクソンたちは、『この心理学とこの形而上学が連帯していること、そして主体と客体が合致している純粋知覚から出発し、』と、まずイマージュという概念を提案したこと(『この心理学とこの形而上学が連帯していること』の部分、『この形而上学』とは『物理学の形而上学』ということに注意)、『純粋知覚』という、われわれの身体という特別なイマージュに外界が与える影響をそのままに受け取ったものと定義されるもの(第一章第十一節『イマージュの本来の伸張性』の特にp.79 12行目-p.80 1行目の部分を参照)と始まりの部分を述べ、『物質と精神という二つの項をそれらの各々の持続のなかへと押しやる二元論のなかでは諸困難が軽減されるということを明らかにしようとした』とこの第四章までの道のりを述べ、この段落の結論を述べる。

では、その部分を引用して、第四段落の解説を終えよう。

『 —つまり物質は、物質の分析を更に先へと続けるにつれて、相互に演繹し合い、それによって<相互に同等である(s'équivalent)>ような無限に短い瞬間の連続しかないへと次第に近づいていき、一方の精神は知覚においてすでに記憶であり、過去の現在への引き延ばし、ひとつの<進展>、本物の進化として益々肯定されることになる』(p.314 14行目-p.315 1行目、<>内はテキスト傍点つきとイタリック)

以上、第四段落を解説した。


第五段落(p.315 2行目-p.316 8行目)を見ていこう。ここでは、さらに第四段落を受けて、ベルクソンたちの仮説が本当に有用なものかということが、さらに検討される。ここも長い段落ではないが、内容がやや難しいので少しずつ引用しながら見ていきたい。

まず、最初の部分を引用しよう。

『しかし、身体と魂の関係はそれによってよりいっそう明晰なものになるのだろうか。空間的な区別に、われわれは時間的な区別を置き換える。二つの項はそれによって、よりいっそう結合できるのだろうか。』(p.315 2行目-4行目)

と、問いを投げかける。この問いがこの段落のテーマである。

そこで、まず、一般的な二元論、つまり、精神と物質をわけるものが空間的、すなわち、精神はこの物質世界と別のところにあると考える二元論が検討される。

『第一の区別[空間的な区別]は程度の差を許容しないとということを指摘しなければならない。物質は空間の中にあり、精神は空間の外にある。それらのあいだに可能的な推移は存在しない。』(p.315 4行目-6行目)

この点に関し、ベルクソンたちの説は、『持続』をいわばA-D変換のような生物の感覚が量から質へ転換させる働きのうちに見出し、その働きの密度を『(内的)緊張』という言い方で表現するような説であった。その説においてはどうであるかが次に述べられる。以下の引用文で、『精神のもっとも控えめな役割』がA-D変換のような生物の感覚が量から質へと転換させる働きのことである。やや長いくなるが引用しよう。

『反対に、精神のもっとも控えめな役割が、諸事物の持続の継起的諸瞬間をつなぐことであるならば、精神が物質と接触するのはこの操作においてであり、また精神が物質から最初に区別されるのもこの操作によってであるならば、物質と精神、それも十全に発達した精神 —単に不確定な行動ではなく、理知的で思慮深い行動をするこのできる精神— とのあいだには無数の段階が考えられる。』(p.315 6行目-10行目)

こうして、より高度な知性を持つ生物においては、低次元の緊張からより高度な緊張としての実際の行動的な活動として言語表現となる過程をベルクソンは次のように表現している。

『生命の漸増する強度[内的緊張]を測り示すこれらの継起的段階の各々は、持続のより高い緊張に対応していて、感覚-運動系のますます大きくなる発達によって外に言い表される』(p.315 10行目-12行目)

このように、物質から精神への段階的な移行を描いた後、『そこで、その神経系を考察してみよう』(p.315 12行目-13行目)と、生命の神経系発達の考察に入る。引用しよう。

『その漸増する複雑さは、いや増す行動の自由、反応する前に待機し、受け取られた刺激をますます多用なる運動機構へと関係させる能力を生物に与えているように思われるだろう。しかし、このことは外見でしかない』(p.315 13行目-15行目)

『物質に対するより大きな独立を生物に確保するように思われる神経系のより複雑な組織は、この独立そのものを物質的に象徴化しているだけである。言い換えるなら、諸事物の流れのリズムから身を引き離し、過去をますます銘記して未来にますます深い影響を与えることをこの存在に許容する内的な力、さらに言い換えるなら、要するにわれわれがこの語に与える特別な意味でのこの存在の記憶を。』(p.315 15行目-p.316 2行目)

(2012/12/17 筆者注:下段落において、「神経系が行動の自由を下支えしている機構のように見えるのは外見でしかない」という部分が正確ではないので改めた。実際は行動の自由を選択する機構のように見える、というのが正しいため。また、そのあとに続く表現がわかりにくいためにに段落に分けているところも説明を全く改め一つの段落とした。読者の皆様にはこのような間違いとご迷惑をこころよりお詫びします)

上記、一番目の引用(p.315 13行目-15行目)は神経系が行動の自由を選択する機構のように見えるのは『外見にすぎない』、と言い換えることもできるだろう。次の引用文(p.315 15行目-p.316 2行目)では、『諸事物の流れのリズム』言い換えれば物質宇宙の『持続』から『身を引き離』すようなものとしての実体、それはベルクソンの説では記憶の働きだったが、後半部分では、『過去をますます銘記して未来にますます深い影響を与えることをこの存在に許容する内的な力、さらに言い換えるなら、要するにわれわれがこの語に与える特別な意味でのこの存在の記憶を。』と述べ、われわれは行動の自由が真に拠るところとして、『神経系』ではなく『記憶』こそ自由に深く関与していると強調されていることがわかる。

では、この第五段落の残りのすべての部分を引用してこの段落の解説を終えよう。

『このように生の物質と、もっとも省察に適した精神とのあいだには、記憶の可能的な強度のすべて、あるいは同じことだが、自由の段階のすべてが存している。』(p.316 3行目-5行目)

『第一の仮説は精神と身体の区別を空間の表現で示すものだが、そこでは、身体と精神は直角に交わっているような二つの鉄道のごときなものであり、第二の仮説においては、レールが曲線的に接続されていて、その結果、一方の鉄道から他方の鉄道へと感じ取れないほど少しずつ移行がなされるのである』(p.316 4行目-7行目)

以上、第五段落を解説した。


(2012/12/19 この第五段落と第六段落のあいだに本章第五節分の解説で説明が不足していると記述したり、二重の解釈が可能であるという部分に関して注釈をすることにした)

さて、最後のまとめの第六段落に入る前に、本章第五節分の解説の初めに主に自由についての考察について説明が不足していると思われる書いた部分、と、同じく第五節第一段落の解説の部分で二通りに解釈できると書いた部分があった。その点について、ここで考察してみたい。

まず、自由についての以下の疑問点について、第五節の初めにこのようなことを記述していた。


「ほかにも、ここまでの解説で私としては、

『しかし、思考する存在たる人間においては、自由な行為は諸感情と諸観念の総合と呼ばれることができ、そこへと導く進展は理性的な進展と呼ばれる』(p.266 7行目-8行目)

とその後の、

『しかし、<われわれがそこで行動しているところの>持続は、われわれの諸状態が互いに解け合っている持続であって、まさにこのような持続において、われわれは、行動の本性についてわれわれが思弁する例外的な唯一の立場、すなわち自由の理論の中へと思考によって身を置き直すための努力をしなければならない』(p.266 11行目-13行目、<>内テキスト傍点付き)

という部分の解説も少々不足している気がします。」


と記述していた。

ところで、またその第一段落においては


『これらの存在の持続の緊張の度合いは、結局、彼らの生の強度の度合いを表しており、こうしてそれが彼らの知覚の凝集力と、その自由の程度を決定している』(p.300 12行目-14行目)


という文の解釈が二通りできるという問題があった。

その点について、少し思い返してみると、


「この部分は大変難解である。まず、『持続の緊張の度合い』ということこれは、前節第四節までの『質と量との隔たりは、<緊張(tensio)>なるものの考察によって小さくされうるのではないだろうか』(p.261 7行目-8行目、<>内はテキスト傍点つきとイタリック)として始まった部分に相当するだろう。これは、前節までの『質と量との隔たりは、<緊張(tension)>なるものの考察によって小さくされうるのではないだろうか』(p.261 7行目-8行目、<>内はテキスト傍点つきとイタリック)として始まった部分に相当するだろう。すなわち、短い持続に多くの知覚からの情報を『量』から『質』へと転換できるような『持続の緊張』こそが『生の強度の度合い』となっている、いう主張がまずここにある。極端な例を挙げれば、植物は『生の強度』はきわめて低く、高等動物になると高くなる。そのような尺度で見れば、『知覚の凝集力とその自由の程度を決定している』という記述になるのは必然となる。この後半部分は、第三章で見た『感覚-運動系』という生の働きを別の表現で示していると考えてもいいだろう。

ところで、一方で、特に前節第四節第七段落を思い起こすと、『持続の緊張』は『生きられた意識の真の持続』として『知覚の凝集力』に繋がっており、それが特に感覚から行動へ移る際の選択肢を増やすということで、『自由の程度』が決定されるとなってくる、という解釈も可能である。しかし、この解釈では『生の強度の度合いを表している』とは、いったいどういうことなのだろう。以上のふたつの解釈と、二つ目の解釈が正しいとした場合の、『生の強度の度合いを表している』の意味、これらの謎について、しばらくベルクソンの言うところを追って行こう。」


という部分や


「次の引用文(p.300 16行目-p.301 1行目)は、ここも二通りの解釈が可能である。一つは、AーD変換の「サンプリング」とそれに伴う「量子化」。すなわち、『現実的なものの凝固・固化によって獲得される継起的諸瞬間』をサンプリングと考え、『記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質』が『現実的なもの』に『凝固・固化』されることが「量子化」に相当するという考え。

もう一つは、『記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質』と『現実的なものの凝固・固化によって獲得される継起的諸瞬間』が等しいということより、前節第四節の第七段落で説明されたように、『記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質』が芸術作品となるとする考え。以上のふたつにの解釈が可能となる。」

というようなところであった。このように第五節の初めに説明が不足していると思われたり、謎として提示させていただいていた部分は、いずれも、われわれの『自由』に密接に関係しているところであったのであるが、これらは、結局第五節では十分な説明がされているとは言い難かった。そのことがここ第六節の第五段落においてわれわれの疑問や謎にある程度の回答が得られたと思われる。


そこで、まず、これらの謎や疑問点を整理するために、疑問や謎を提示している部分の引用文だけを提示すると、


『しかし、思考する存在たる人間においては、自由な行為は諸感情と諸観念の総合と呼ばれることができ、そこへと導く進展は理性的な進展と呼ばれる』(p.266 7行目-8行目)

『しかし、<われわれがそこで行動しているところの>持続は、われわれの諸状態が互いに解け合っている持続であって、まさにこのような持続において、われわれは、行動の本性についてわれわれが思弁する例外的な唯一の立場、すなわち自由の理論の中へと思考によって身を置き直すための努力をしなければならない』(p.266 11行目-13行目、<>内テキスト傍点付き)

『これらの存在の持続の緊張の度合いは、結局、彼らの生の強度の度合いを表しており、こうしてそれが彼らの知覚の凝集力と、その自由の程度を決定している』(p.300 12行目-14行目)

『その結果、記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質はまさに、現実的なものの凝固・固化によって獲得される継起的諸瞬間なのである』(p.300 16行目-p.301 1行目)


ということであった。ところで、今回は解説しないが、本章第四章のあとにベルクソンによる『要約と結論』(p.321-p.354)がある。ここにおいての結論から先に見てみたい。以下の引用文における『この意識』という言葉は、『個人的意識』(p.353 1行目、4行目)のことである。


『高等中枢が発達するにつれて、同じ一つの刺激が行動に選択の余地を与える運動性の通路の数は増えていく。これがまさに実際に目撃されていることだ』(p.353 9行目‐11行目)

『目撃されていないこと、それは、時間のなかでの意識に随伴する、緊張の漸増である。この意識は、数々の経験についてのすでに古きものと化した記憶によって、過去をよりよく銘記して、より豊かでより斬新な決断のなかでこの過去を現在と組織させようとするだけではない。この意識はより強力な生を生き、直接的経験についてのその記憶によって、漸増する外的瞬間を意識の現在の持続の中に凝縮させることで、数々の行為を創出することが以前にも増して可能になるのだが、これらの内的不確定性は、好きなだけ数を増やすことのできる物質の瞬間に分かたれねばならないものとして、より簡単に必然性の網の目を潜るだろう。』(p.353 11行目-p.354 5行目)

『だから、自由を時間のなかで思い描くにせよ、自由は必然性の中に深く根を張り、必然性に親密に絡み合っているようにつねに見える。精神は物質から知覚を借り、この知覚から精神はその糧を引き出しては、運動の形で知覚を物質に戻しこの運動に自らの自由を刻み込むのである』(p.353 11行目-p.354 5行目)


以上が、『要約とまとめ』からの引用となる。ここで、先ほどまで見てきた第五節では、

「こうして、より高度な知性を持つ生物においては、低次元の緊張からより高度な緊張としての実際の行動的な活動として言語表現となる過程をベルクソンは次のように表現している。

『生命の漸増する強度[内的緊張]を測り示すこれらの継起的段階の各々は、持続のより高い緊張に対応していて、感覚-運動系のますます大きくなる発達によって外に言い表される』(p.315 10行目-12行目)」


と述べられていたことが、『まとめと要約』では、


『この意識はより強力な生を生き、直接的経験についてのその記憶によって、漸増する外的瞬間を意識の現在の持続の中に凝縮させることで、数々の行為を創出することが以前にも増して可能になるのだが、これらの内的不確定性は、好きなだけ数を増やすことのできる物質の瞬間に分かたれねばならないものとして、より簡単に必然性の網の目を潜るだろう。』(p.353 11行目-p.354 5行目


というように描かれているのが分かる。つまり、『生の強度』に関しての二種類の解釈を許した部分というのは、『目撃されていること』としての『神経系の発達』から、『目撃されていないこと』としての『漸増する外的瞬間を意識の現在の持続の中に凝縮させることで、数々の行為を創出すること』への進展を含んだ、双方による、物理法則に従うという必然性から行動の自由の増加(これが第五章はじめに提示した説明不足の点への解答になるだろう)にともなう『生の強度』がますことに繋がるということになるだろう(これが第五節第一段落の初めの二通りの解釈を許す部分に対する解答になるだろう)。

また、その様に考えれば、


『その結果、記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質はまさに、現実的なものの凝固・固化によって獲得される継起的諸瞬間なのである』(p.300 16行目-p.301 1行目)


の部分「AーD変換の「サンプリング」とそれに伴う「量子化」」を指すのか、あるいは、「前節第四節の第七段落で説明されたように、『記憶に裏打ちされたわれわれの感覚のうちで形をなすがままの感性的諸性質』が芸術作品となるとする考え」を指すのかとという二通りの解釈に関しても、これら両方がわれわれの言語表現に含まれているということになるだろう。従って、それも行動の自由と密接に結びついた、同様・同等の行為であるというように本来的に描かれており、双方の解釈を初めから含んでいるというのがベルクソンの表現であり記述の目的ではないかと思われる。

このように、未熟な解釈について、一応の解決を見た。ここまで読者諸氏に対して大変ご心配をお掛けしたこと、そのことについてはお詫び申し上げたい。



では、第六段落(p.316 8行目-p.317 11行目)を見ていこう。この段落でこの節は終わり、この節は第四章の終わり、かつ、この『物質と記憶』の本文は四つの章で構成されているので、この段落はこの本の本文としても最後の段落となる。いわば、最後の締めの部分であり、長さも長くない段落であるので、少しずつ引用しながら、難しいと思われるところを解説するという形にしたい。

では見ていこう。

『しかし、これは一つの比喩<イマージュ>以外のものだろうか。真の意味での物質と、自由あるいは記憶の最も低い段階のあいだの区別は断固としてあり続け、両者の対立は還元不能なものであり続けるのではないだろうか。おそらくはその通りである。』(p.316 9行目-12行目)

(2012/12/17 筆者注:下段落では、かなりの箇所の表現を改め、意が通りにくいと思われる箇所には注記を挿入することもした。未熟をお詫びいたします)

この部分、『真の意味での物質』というのは、物理法則に支配されているという意味での『物質』ということを意味しているだろう。(このことは、哲学的に深い意味があると思われるが、ここにおいて筆者がそこに触れることが必ずしも適わないと思われるためこれ以上の注釈はしない)。それにも拘わらず、われわれ生物は『自由』というものを持ち、物理法則を超えることはできないにしろ、物理法則にただ従うだけとはちがう形の意志を持って行動する。ここでは、『記憶の最も低い段階』といえば、条件反射と言っても良いわけだが、それも物理法則とは区別されるだろう。その意味で、『区別は断固としてあり続け』る、と主張し、追認する。それは、ここで、そのような意味の二元論を認めていると言って良いだろう。

『区別は存在するが、結合は可能である。というのは、純粋知覚の中では、部分的な一致という根本的な形で結合が与えられるだろうからだ。』(p.316 11行目-12行目)

改めて『純粋知覚』に関しては、第一章第五節『イマージュの選択』での『純粋知覚』の定義をここでは引用しておこう。

『純粋知覚とは、事実上というよりむしろ権利上存在する知覚、私がいる場所に置かれ、私が生きているのと同様に生き生きとしているが、現在に吸収され、あらゆる形の記憶を排除されることで物質についての直接的で瞬間的なヴィジョンを獲得できる存在が持つような知覚の謂である』(p.34 7行目-11行目)

元に戻ると、ここでは、『感官』からの信号は物質のわれわれから見た一面の情報をわれわれに与え、われわれは、それをありのままに受け取る、ということで『部分的な一致』はなされ『根本的な形で結合される』と言っていると考えても良いだろうと思う。

『通俗的な二元論の諸困難は、二つの項が区別されることに由来するのではなく、いかにして二つのうちの一つが他方に接ぎ木される(segreffer)のかが分からないことに由来する』(p.316 13行目-15行目)

この部分に別に問題はないだろう。心脳問題というのはここから生じる。

『ところで、われわれがすでに示したように、精神の最も低い段階 —記憶のない精神— であるような純粋知覚は、われわれが理解している意味での物質の一部をまさになしているだろう』(p.316 15行目-17行目)

(2012/12/17 筆者注:上引用文に関しては完全に解釈を間違っていたため改めた。読者の皆様には私の過ちを心よりお詫びして訂正いたします。)

上の引用文と同様の記述は、実に何度か行われている。最初と思われる第一章の初めの節『現実的作用と可能的作用』での象徴的な部分を引用したい。

『私の身体を取り囲む諸対象は、それらに対する私の身体の可能的な作用を反映しているのだ。』(p.14 4行目−5行目)

他にも、この第四章第一節第六段落にも同様な記述があり、そこの解説では次のように記述していた。

「まず、ベルクソンの学説のなんと言っても肝要な部分は、『脳の状態を知覚の条件ではなく行動の始まりとすること』(p.259 17行目)であった。これゆえに、『諸事物の知覚されたイマージュ』(p.260 1行目)は、われわれの身体というイマージュが知覚された対象に対する『行動』を含んだ形での『諸事物』の『イマージュ』として捉えなおされる。言い換えれば、『純粋知覚』は『諸事物』に『行動』を投影させ、いわば、『知覚を諸事物そのものの中におき直した』(p.260 2行目)役割を行う。」

さらに、

『もっと先へ進もう。記憶は、物質がそれについていかなる予感も有していないような機能、物質がすでに自分なりに模倣していないような機能として介入するのではない。物質が過去を想起しないのだとすれば、それは物質が過去を絶えず反復しているからであり、また、必然性に従いながら物質が一連の瞬間を展開しているからであって、その各々の瞬間はそれに先行する物と等価でそこから演繹されることができる』(p.316 15行目-p.317 5行目)

この部分、最初の『記憶は、物質がそれについていかなる予感も有していないような機能、物質がすでに自分なりに模倣していないような機能として介入するのではない。』の解釈が難しいが、『記憶』というものは、そもそも『物質』が持ってるものではなく『物質』は物理法則によって運動したり存在したりしているわけであるということを言いたいのだと思う。すなわち、『物質』は法則によって運動ならば予測可能であり、物質ならばその性質や形状を保ち続けるだろう。『記憶』によってではない。そういう意味だと思われる。それは、そのあとの比較的容易に理解できる部分読めば裏付けられるだろう。

『そういうわけで、物質の過去はまさにその現在で与えられているのだ。しかし、多少とも自由に進展する存在は各瞬間に何か新しいものを創造する』(p.317 5行目-8行目)

この部分は、物質と生命を対比させているわけであるが、また、物質の過去は現在より演繹可能であり、しかし、生命はそうではない。物理存在のみにその行動を影響されているのでもなく、すなわち物理法則でその行動を予知できるわけでもない。そしてその存在は、ベルクソンの言い方によると常に『何か新しいものを創造』している。

『したがって、過去がこの存在のうちに想起の状態で置かれていないとすれば、この存在の現在の中にその存在の過去を読みとろうと勤めても無駄であろう。』(p.317 7行目-8行目)

したがって、『多少とも自由に進展する存在』であるわれわれには『記憶』というものがある。

さて、『ところで、われわれがすでに示したように、精神の最も低い段階 —記憶のない精神— であるような純粋知覚は、』云々(p.316 15行目-17行目)からここまで見てきたわけだが、ここに及べば、これが物質と精神の二元論においてまさに、『記憶』こそが高次の意味での所謂われわれが一般的に考えるような『精神』の部分であろうとベルクソンは言いたいのだろう、といっても読者は納得されるだろうと思う。

では、本当に長かったベルクソンの『物質と記憶』の本文の最後を締めくくる時が来た。いつものように、段落の最後の部分を引用して締めたい。やや難しい表現もあるがおそらくここまで読んで頂いた読者諸氏なら難なくご理解いただけると思もう。ここまで、案内人の未熟さにもかかわらず本当に長い旅に付き合って頂いた皆様には厚くお礼を申し上げたい。では、引用しよう。

『そういう次第で、本書の中ですでに何度も登場した隠喩を繰り返せば、相似た理由から、過去は物質によって<演じられ(joué)>、精神によって<イマージュ化され想像され(imaginé)>ねばならないのである』(p.317 14行目-17行目、<>内はテキスト傍点付きとイタリック)

以上で、第六段落を終える。すなわち、第四章第六節の終わりであり、第四章の終わりでもある。


以上で、ベルクソン『物質と記憶』の読書メモとして始まった第一章、そして、それが解説と言う形にを取るようなった第二章から第四章までの「ベルクソン 『物質と記憶』 メモ」の終わりとなります。『物質と記憶』にはまだ、ベルクソン自身による『要約と結論』という部分もあり、また、テキストには、前書きや第七版の前書きもあります。その部分も難解と言えば難解なのですが、ここまで本文を読まれて理解された読者諸氏には十分読み解くことが可能だと思われます。したがって、メモから解説としての目的を持ち始めた本作はここで一応の終わりとしたいと思います。



「さいごにお礼の言葉」

できるだけわかりやすくと思いながらも、私の無知無能により、かえって分かり辛くなったものもあるかもしれません。第二章からとはいえテキストの本文すべてに解説を加える形となった非常に長くなったこの「メモ」を最後まで読んで頂いた読者諸氏には心よりお礼申し上げます。

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