ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2012年12月20日木曜日

小林秀雄「本居宣長 補記I」に見る『真暦』について


 小林さんの「本居宣長」には二つの補記があり、「補記I」は、ソクラテスの『ディアレクチック(問答・対話)』から始まり、特にベルクソン哲学の言うところの「一般観念」や「持続」の問題を、「補記Ⅱ」はその他、本論と「補記I」で取り上げられなかった宣長の主要な文章について扱っている。小林さん自身が、江藤淳との対談の中でもベルクソンから非常に大きな影響を受けたと言ってもおられるし、ベルクソンと本居宣長の相似性についても触れておられる。したがって、実際、ベルクソンの言うところと比較する時、これらの「本居宣長 補記」も違った様相を見せる。それはもちろん、ベルクソンとは重なる部分もあるわけだが、異なる部分もまた大きい。

 「本居宣長 補記I」(以下「補記I」と略す)は、三部構成あるいは三つの章から構成されていると言えるだろう。第一部はソクラテスの対話(ティアレクチック)ということに対する考察、第二部はそれをうけての日本の近世の学問、第三部が本居宣長の「真暦考」の考察となる。

本居宣長という人の元々の思想は言葉の問題を扱ったことから、そのような言葉についての考察から始まり、第一部、第二部ではでは、まず話し言葉から文字が発明された時の書き言葉への移行によって大いに得たものもあったが、失ったものもあったこと。そこから、第三部では『真暦』つまり、われわれの日本人の古来持っていたおおらかな時間に対する観念と、中国から入ってきた時間との観念への移行に対する相似性により、考察を深めていく構図となっている。

それぞれを簡単に紹介していこうか。一応テキストとしては新潮文庫 「本居宣長 (下)」を挙げておく。第七刷で改版がされている。改版後、手元にあるのは第八刷だが、現在売られているのはこれのようだ。比較的安価なので是非手に入れられたい。上下合わせても一四〇〇円である(2011年9月23日現在)

第一部では、プラトンの著作「パイドロス」から切り口が始まる。まず、ギリシア神話の問題が取り上げられる。パイドロスがソクラテスに、あのような神話というのは一体実際にあったものなのでしょうかと尋ねる。

ソクラテスの生きていた時代は孔子や仏陀と同じく紀元前六百年ごろなので随分前からこのような神話が本当か嘘かという疑問を照らす問答はあったわけだ。ソクラテスは、言下に否定をせず婉曲にはぐらかす。

小林さんは、プラトンの哲学の果実の吟味まで手が届くわけではない、としながらも、そこにはソクラテスが当時の知識人について気に入らないことがあったからそうしたと指摘する。それは「宣長と全く同じ考えだからだ」と理由を挙げて、考察を深めていく。

ソクラテスが気に入らなかったのは、ギリシア神話に寓意を求めるという、当時のアテナイ人の風潮、すなわち、語られ継がれた物語を、現代の理屈で何かの寓意ということで再構成し直せばそこでなにかが失われる、ちょうど、文字の発明が語り言葉で伝えられたものから何か大切なものを失うかのように、ということなのである。

「パイドロス」では美について扱うが、美と関係の深い恋(エロース)について、恋に陥るものは一種の狂気(マニアー)に包まれる。利口者はその愚を避けるが、恋(エロース)の方でも利口者を遠ざけるのである、などというおもしろい話がある。

恋に落ちてみなければ、恋(エロース)というものは分からない。しかし、それは愚かに見えるものである。そのようなものが、語り継がれた神話と文字の成立からあとの歴史というものを理解している人間についても起こるものであると、ごく簡単に第一部をまとめることもできるだろう。

第一部のまとめに最後の部分を引用しておきたい。対話(ディアレクチック)とソクラテスの時代に流行していた雄弁術の比較において次のような事を述べている。

『(前略)現代の教養人のあいだで、非常に面倒な使われ方をしているディアレクチックという言葉が、ソクラテスにあっては、驚くほど簡明な使われ方をしていることに気付くだろう。彼は、日常使われている対話、問答という言葉の、誰にも親しい語感から、決して離れようとはしなかった。ただこの体得されてはいるが、反省はされていない豊かな語感を、極度の反省によって純化すれば足りると信じていたのである』(p.273  8行目−13行目)

『そして、其処に真知を愛する己の無償の行為の不思議が、重なり合うのを見た。これについて、プラトンは、ソクラテスにこう言わせている、 —「正しい呼び方であるかどうかは、神様だけが御存知だが、これが哲学の方法としての問答(ディアレクチック)なのである」と。こういうソクラテスのものの言い方は、学問をするからといって、学者は、素人<しろうと>の手に届かぬような専門的な方法を、わざわざ工夫するのは無用なわざである、という考えに基づくと見ていいと思う』(p.273  13行目−p.274 13行目、<>内はテキストふりがな)

これはまた、小林秀雄という人の思想を貫いていた事でもあるだろう。


第二部では、近世日本における学問の系譜においての中江藤樹から荻生徂徠そして本居宣長までをたどることで、ディアレクチック(問答)が深化していく過程とその行き着くところが独学である、という結論に達したあと、その本居宣長が「古事記」の注釈を通して『漢意(からごころ)』を排し、『古意(いにしえごころ)』あるいは『古学の眼』というものを築いていく過程が描かれる。

まず、「本居宣長」本論の方にもあったように、日本の近世の学問は中江藤樹から始まることについて触れ、その代表作「翁問答」がどういうものであったかが紹介される。

当然、それは問答(対話)形式なのであるが、ある年老いた師についたごく普通の人間がまさに無教養な人間が花でも眺めるように学問(当時は学問といえば儒学)をしていた。同門には体充<たいじゅう>という優秀な人がいて、『疑問論難、やむ時なし』という状態であった。私は無才だったので、聞いていたうちに心に入ってきたことを日本語で書き付け、私と同じようなな愚者のために密かに隠しおいて置いた、という形式をとっていた。

小林さんは言う。ここで、『疑問論難、やむ時なし』ということだけが強調されていることが大事なのである、と。なぜなら、答えのある問いを発することは、本来の学問から言えば重要ではない。答えの用意されていない問いを発すること、それができないのが、「融通活発の心」を失ってしまった「今時はやる俗学」である。少し引用しよう。

『取り戻さなければならないのは、問いの発明であって、正しい答えではない。今日の学問に必要なのは師友ではない、師友を頼まず独り「自反」し、新たな問いを心中に蓄える人なのである。』(p.275  6行目-8行目)

このように、藤樹は独学というもの重要視したことに触れ、孔子という大教育家にも『そういう学問をするものの基本にある覚悟』はよく知られていたと考えていた、と言っている。

このあと、孔子の『之<コレ>ヲ如何<イカン>セン、之ヲ如何セント曰<イ>ワザルモノハ、吾レ之ヲ如何トモスルコトナキノミ』(「論語 15 衛靈公編 16」、 p.275  11行目-12行目、<>内はテキストフリガナ)を引いて、本居宣長も愛読したという荻生徂徠の「論語徴」に触れ、この引用文は『「問ヒヲ尊ブナリ」』ということであると言う。

宣長もまた、「問ヒヲ尊ブ」人であった。そのいくつかの著作に触れ、徂徠、宣長の思想の交わる系譜がしばらく解説される(p.276  1行目-p.286 6行目)わけであるが、ここは以下の文章を引用することによって、全体の解説の代わりとしたい。

 まず、取り上げるのは、宣長の「うひ山ぶみ」を解説した部分である。

『文中に、人々の「才不才は、生まれつきたることなれば、力に及びがたし」とあるが、これは宣長が、学問する上で、人々の個性、生まれつきをどう考えるかという問題に直面していることを示す。不才も学ぶに越したことはあるまい。しかし、不才を変じて才となすということになると、これはもう学問の手にはおえなくなる。考えて行くと非常な難題となるが、今日、教える人にも、学ぶ人にも、これを徹底して考える人がなんと少ないか。宣長はそれが言いたいのである。ここには、徂徠の影響が顕著にうかがえる。宣長は徂徠から、この難題をそっくりそのまま受け取ったと言えるからだ。難問を避けることは出来ないが、簡明な解などあろうはずがないことを、二人はよく承知していたから、めいめい自分の流儀でこれを切り抜けた。』(p.278  15行目-p.279 7行目)

 では、次に、徂徠と宣長の『めいめいの流儀』の部分を見てみよう。

 まず、徂徠の『流儀』。これは、『天』という言葉の解釈にあると言う。少し長くなるが、二つの段落をそのまま引用したい。

『学問という言葉など思いも及ばぬ大昔の人々も、天という言葉は知っていた。この言葉を口にするとは、取りも直さず、「蒼蒼然」たる大空を仰ぐということであったし、又その「冥冥乎トシテ得テ之ヲ測ルベカラ」ざる趣にも、誰も深く心を動かされていた。彼らは、天に対し、どういう態度をとっていたか。自分が編纂した古書に現れた天という言葉の使われ方に通じた孔子には、之は基本的には明らかなことであった。古人は、天には天の心が有ることを信じ、真面目に、これに心を通わせていたのである。その畏<おそ>るべき不可知の心を、誰もそのまま正直に迎え、面を背けるものはいなかった。まして、こちら側に好都合な解釈が思いつけば、相手の攻撃をかわすことが出来るというような自負は、誰にも持てようがなかった。』(p.284  3行目-11行目、<>内はテキストふりがな)

『皆、天を畏れて、これに堪えていた。堪えることが出来たのも、天を敬するするという道が開かれていたからだ。この道を通じて、人々はめいめいの気質に応じて天と語り合った。徂徠は「書経」の言葉をあげている、 —「惟<コ>レ天ハ親シム無シ、克<ヨ>ク敬スルニ惟<コ>レ親シム」— 聖人達が、こういう故人の素朴な心に寄り添い、決して離れようとはしなかったのも、その仕事は、言わば歴史の開始に立ち会うことによって行われたからだ。而<しか>もその仕事は、知を尊び、説を立てるにはなく、安民という具体的な行動にあった以上、人々凡<すべ>ての心を吾が心とし、「人ノ性ヲ尽ス」という努力をしなければならなかった。孔子ほど、これをよく知った者はいない。その孔子の「罪ヲ天ニ獲<ウ>レバ、禱<イノ>ル所無キ也」と言った言葉が、率直に信じられなければ古文辞<こぶんじ>の学には這入<はい>れないと徂徠は言う』(p.284  12行目-p.285 5行目、<>内はテキスト振り仮名)

このように、徂徠は孔子が纂集した聖人の書物にある『古人』の率直な心そのままに見ることを彼の学問の基礎としたわけであるが、この方法が「古事記」を読み解く際の宣長の方法になった。上記に段落に続く一段落がそれに相当する。これも少々長いがそのまま引用しよう。途中「困難な暗い問題」と出てくるが、「暗い」は見通しが利かぬという意味である。

『宣長が、寛政12年に詠<よ>んだ歌、 —「聖人と 人はいへども 聖人の たぐひならめや 孔子<くし>はよき人」(「石上稿」)— これが徂徠直伝の歌であることは、もはや説明を要しまい。人の性は万品にして、その多様、不安定は、得て変ずべからず、という人生のあるがままの事実は、徂徠の言い方で言えば、真実な学問の上での「教への条件」なのである。これを、「うひ山ぶみ」の宣長の言い方で言えば、万人向きの「学びようのほう」など、まことに疑わしいものであるということになる。誰も万人向きのやり方で世を渡ってはいない、と言う事は、どんなによく出来ていても、万人向きのやり方では間に合わぬ、困難な暗い問題に、この世に暮らしていて出会わぬ人は、まずいないという事だ。そして、皆、何とかして、難題を切り抜けているではないか。他人は当てには出来ない、自分だけが頼りだと知った時、人は本当に努力をし始める。どうあっても切り抜けねばならぬ苦境にあって、己の持って生まれた気質の能力が、実地に試されるとき、人間は、はじめて己を知る道を開くであろう。そのような次第を、つらつら思うなら、「うひ山ぶみ」とは、詮ずるところ、独学の勧めということになりはしないか。ならざるを得ない、と私は思う。宣長は、このあからさまに、はっきりとは説くことの出来ぬものを、言わば文章の原動力として、文章の奥深くに秘めたのである。』(p.285  7行目-p.286 6行目、<>内はテキストふりがな)

こうして、藤樹の始めた近世の学問の系譜は徂徠、宣長へと受け継がれた。「問答(ディアレクチック)」を純化したものは主題が変奏されながらも脈々と受け継がれていったのだ。

では、宣長が究めようとした学問の道とは何だったのか。一言で言えば『古意(いにしえごころ)』というものであったわけだが、これは非常に微妙な問題であったことが、第二部の残りで説かれている。まず、引用文として宣長の「玉勝間」から挙げられている「からごゝろ」という文章があるのだが、ここからごく一部だけ紹介してみよう。

『「漢意<カラゴコロ>とは、漢国<からくに>のふりを好み、かの国をたふとぶのみをいうにあらず、大かたの世の人の、万<よろづ>の事の善悪是非<ヨサアシサ>を論<あげつら>ひ、物の理<ことわ>リをさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍<カラブミ>の趣なるをいふ也。」』(p.286  9行目-11行目、<>内はテキスト振り仮名)

この部分だけでも、物事をありのままに受け取るという『古意』に対する『漢意』というものをいかに宣長が憎んでいたかということが分かる。

 この文章に対する解説がしばらく続くのだが、ごく簡素な解説をするならば、「玉勝間」は「古事記」研究余話であり、難解という文章ではないが読むのには宣長の心映えを理解する必要があること、それは、「うひ山ぶみ」とも同じ意味合いがあること。宣長は『古意』をまずしっかりとつかんだ上で、『漢意』ということを排斥していること。その『漢意』とは、つまりは『古意』ではないものとしか定義できそうにない、あえて定義するとすれば、理屈だけで考える、宣長の言葉で言うところの「世の識者<モノシリビト>」の考え方ということ。この辺りを挙げておけばいいと思うのだが、肝心の『古意』を宣長がどうつかんでいたのか、というのは非常に微妙で難しい問題となる。

テキストとは順序が逆になるかもしれないが、まずこの部分を引用してみたい。

『彼は「世の識者」に対し、明け透けに、こんな風にでも言いたかったであろうか、 —古書を釈く<筆者註:とく>には、「古意」をもってしなければならぬと、君達は仔細<しさい>らしく言っているが、その「心ばへ」に即して、眼前の事物を実際に釈いていた上ッ代の人々が「古意」などという言葉を全く知らなかった事実を、君達は、一っぺんでもまじめに考えたことがあるのか』(p.290  5行目-9行目、<>内はテキスト振り仮名)

一部であるがこれが、宣長が「玉勝間」の「からごゝろ」で『明け透けに』言いたかったことであろう、という部分を引用した。

さて、宣長にとっては、『古意』あるいは「うひ山ぶみ」で使っている言葉で言えば『古ヘの定まり』という言葉であろうが、これは次のような意味合いのものであったと言う。

 『ここで「古への定まり」と言われているのは、上ッ代の人々に使われていた「古語<イニシヘコト>」の「ふり」の「格<サダマリ>」である。』(p.289  14行目-16行目、<>内はテキストフリガナ)

 『なぜ、宣長がこれをやかましく言ったかと言うと、「古語のふり」とは、古学が明<あき>らめなければならなぬ古人の「心ばへ」の直らかな表現、宣長の言葉で言えば、その「徴<シルシ>」だからだ。と言う事は、更に言えば、未だ文字さえ知らず、ただ、「伝説<ツタヘゴト>」を語り伝えていた上ッ代に於いて、国語は言語組織として、すでに完成していたという宣長の明瞭な考えを語っている』(p.289  16行目-p.290 4行目、<>内はテキスト振り仮名)

このあと、『言霊』についての考察がある。そこから、宣長の『うひ山ぶみ』について戻っていく展開になっているのだが、まず、『言霊』の考察に入ろう。まずこの部分を引用する。

『宣長が、「古事記」を釈いて、はっきり見定めたのは、上ッ代の人々が信じていた言霊<ことだま>といわれていた言語の自発的な表現力、或<あるいは>は自己形成力と言って良いものの、生活の上で実演されていた、その「ふり」であった。』(p.290 12行目-14行目、<>内はテキストふりがな)

『言霊』という言葉を知らない日本人はいないであろう。われわれは『言霊』が存在するなどと言っていれば笑われてしまう世界に生きていながら、この『言霊』という言葉の持つ響きに惹かれない日本人はいない。『言霊』は、あるいは『言霊』という言葉は、現代日本でも、所謂観念として生きておらず、それを信じて寄り添い、あるいは敬して畏れる、そういう人にしか本当の姿を見せまい。そのようなことは日本人誰もが、いまでもはっきりと理解していることだろう。まさにその部分に、宣長は着目していた、『と共に、もう一つ、宣長の目に、見紛<みまが>いようのなく明らかに見て取れたのは、次のような事であった』(p.290 14行目-15行目、<>内はテキストふりがな)。

要約するなら、それは、『言霊のさきはふ国、たすくる国』と言うように無自覚に使われていたその日本語というものが、中国から来た漢字の圧倒的な表現力に出会い、自覚と反省を始めざるを得なかったということだ。その少しずつ少しずつ漢字を自国語の中に取り込み消化させるという、他の国には類のないことを行った日本人の、その初めての『古語のふり』の自覚の経験が「古事記」には現れていたということであった。

少し脇道にそれるが、テキスト註によれば、「本居宣長」本論第二七節に小林さんのある考察が書かれている。小林さん自身は、そこで努力してみたが十分ではなかった、今後の研究が待たれると、この『補論I』上では書かかれているのだが、簡単にその内容を説明しておくと、漢字が伝わって以降、日本の公文書では、漢文で書かれることが正式な事であった。その傾向は「古事記」以降時代が下り「万葉集」が編まれて以降もますます強まり、日本語は日陰者の地位にあった。日陰者であったが、日陰者であったからこそ、独自の発達を遂げ、ひらがな、カタカナの発明があり、あるいは在原業平こそが当代きっての和歌の上手ということになっていった。その彼を主人公にした物語(「伊勢物語」)の形式は「源氏物語」となって一つの完成を見るのだが、それまでに、紀貫之が「古今和歌集」を編纂し、「土佐日記」という日記文学を残したことが多大に影響を与えており、即ちそれは、日本語の独自の文字がつくられて、ある種身軽になり日記文学というもの確立され、その延長にあの「源氏物語」があるということに宣長は着目していた、ということが描かれている。

さて、宣長の『古語のふり』の考察に戻ろう。

『そういう次第で、宣長の「古事記」研究は、日本人の日本語についての最初の反省がこの書を書かせたというところに、的が絞られ、その「文体<カキザマ>のこと」「訓法<ヨミザマ>の事」に、彼の精神は集中されることになった。』(p.291 12行目-14行目、<>内テキストフリガナ)

簡単に言えばこの作業から『古語のふり』を宣長はつかんでいったのである。宣長の「古事記伝」は、四十四巻もある大作である。その中で宣長は、執拗とさえ表現できる、古人の言葉の一つ一つを解き明かし自分のものにしていく作業の中で『古語のふり』言い換えれば、古人そのままの『言霊』というものを自得していった。逆に言えば、「古事記伝」が完成した年に渋々書かれた古学の入門書「うひ山ぶみ」でも、実は、本当のところ、そのようにしか教えられないということを言いたかったわけである。テキストでは、ふたたび「うひ山ぶみ」にもどり、そこから『古学の眼』と宣長が晩年によく使った言葉についての説明となっていく。こんどは『古学の眼』について書かれたところをしばらく引用したい。

『(前略)「古事記」を釈くとは、人知れず、自分の発明発見を、一つ一つ積みかさねて行く、長い道であったが、これを顧みた時、彼には、「古学の眼」という発想が、どうしても必要になったに相違ないのである。神々と共に生活していた上ッ代の人々を知るには、今はもはや無い彼らの姿を、想像裡<り>に描き出してみる他に道はない。その切っ掛けとなる古書として、宣長は、彼等の「心ばえ」が一番直かに語られている「古事記」を取上げたわけだ。これを読む者も、できる限り正直に忠実に、物語の「ふり」を捕えなければならないのは勿論<もちろん>だが、彼等の「心ばえ」を、吾が「心ばえ」として、思い描くという事は、飽くまでも、読者各人の力量と気質が参ずる各人の努力である。』(p.292 9行目-p.293 1行目)

 このような、『努力』を重ねて宣長は古事記を釈いていったのであるが、そこでは、確乎として変わらない姿の原文に対して、宣長自身の『心力』が試され量られるということであった。『宣長は、このことを非常によく知っていた。と言うより、そういうはっきりした自覚は、彼の仕事を見ていくと「古事記」原文との永い、忍耐強い附合いのうちに育ったと考えざるを得ない。彼の発想に従えば「古学の眼」は、そこで磨かれたのである。』(p.293 5行目-8行目)

このようにして、宣長の『古学』は完成していったわけであるが、それは所謂、従来の儒教が説くような『理学』すなわち天然自然の理や、あるいは、人としてこうあるべき、という儒教の聖人の教えとは全くちがう、己の『心力』のみで試される、いわば、『上ッ代』の『古人』になりきり物事を見つめるようなそういう眼を持つに至る学問の道であったわけだろう。

こうして、しばらく、宣長の学問『古学』について語ってきたわけであるが、この第二部最後の部分を引用してこの第二部の説明を終わりたい。

『(前略)未だ学問という言葉もなかった、それどころではない、文字さえ知らなかった遠い昔に暮らしていた人々も、基本的な意味での学問の誕生には、真剣に立ち会っていた、その姿が、「古学の眼」にまざまざと映じてくるようになった。宣長は、其処から物を言った、常に其処からしか物を言わなかった。其処からの、宣長の自在な発想は「当然之理<シカアルベキコトワリ>」で、我が身を縛上げて、学問の体裁を整えている、そんな学問の抵抗など眼中になく行われた。』(p.293 13行目-p.294 2行目)

 このあと、黙殺された側には大きな衝撃であり、ここに宣長の仕事の誤解の最も大きく、分かりにくい原因があったと書かれている。それはいわば、恋<エロース>をしないものに恋の情熱<マニアー>はまるで愚かに映るようであっただろう。


では、第三部を見ていこう。ここでは『真暦』という宣長が使った概念、即ち古代の人たちの暦のことが書かれている。こう書くだけで、おそらくは、第二部の特に『言霊』という言葉の説明を合わせて考えて、だいたいのことは想像がつく、という読者も多いのではないだろうか。そこで、ここでは、暦についての非常に緻密な考察の部分はごく簡単に紹介し、この「補記I」でももっとも美しい文章を紹介するという構成を取ろうと思う。

まず、宣長が古代の人たちの暦について着目したのは、やはり言葉であった。すなわち、中国から、圧倒的に緻密で天文学的にみて正確な太陰暦が渡ってくる前に、すでに、日本語で『こよみ』あるいは『はる』、『なつ』、『あき』、『ふゆ』などの季節を表わす言葉があったことが、宣長の『真暦』への考察はあった。

テキストによると、『こよみ』の語源は『来経<ケ>』を『数<ヨ>」むということから来る。

『春過ぎて 夏来たるらし 白妙<シロタヘ>の 衣ほしたり あめのかぐ山』という持統天皇の御製を引いた部分の宣長の文を引用して、小林さんはこう言っている。

『彼は、季節を詠み込んだ歌を幾つもあげ、「みな見聞くものによりて、その時をしれる趣<オモムキ>にて、上つ代の意<ココロ>にかなへり」と言うのだが、そのなかでも「春過ぎて 夏来たるらし 白妙<シロタヘ>の 衣ほしたり あめのかぐ山」の「大御歌は、殊<こと>に人のしわざをすらみそなわして、しろしめつしつる御趣<ミオモムキ>なるをや」と言っている。明らかに彼の言いたいのは、ただ歌の上のことではない。著しい季節感が浸透した生活に育<はぐく>まれた、わが民族の個性である』(p.300 2行目-7行目、<>内テキスト振り仮名)

※筆者注:『わが民族の個性』という部分に引っかかりを覚える方もいらっしゃるであろうが、ここでは日本語についての詳しい考察であるために敢えてそのまま引用した。その根底に少数民族に対する差別意識など毛頭無いことはご理解頂けると確信している

このように、上ッ代のひとびとの『来経<ケ>』を『数<ヨ>」むということは非常におおらかなことであった。たとえば、この部分を引用しよう。

『から国の一二三と言う文字は、数を数えるにも、次第<ツイデ>をいうのにも用いられる字であるが、古言で、物の次第<ツイデ>を一二三<ヒトフタミ>と言った試しはない事に、宣長は先ず注意する』(p.301 5行目-8行目)

このあと、例えば、親が身罷ったあと、毎年その命日に親を偲ぶ時、ただ、その季節の大まかな日時を定めて実におおらかにその人を偲んだ、などという宣長の文章を引かれている。

さて、この部分を引いたのには下心があるのであるが、まず、少し長くなるがベルクソンの「意識に直接与えられた物についての試論」(ちくま学芸文庫 合田正人・平井靖史訳、第二刷)からこの部分を引用しよう。非常に難解な文章なので読者は引用文を飛ばされてもかまわない。専門的に見て少し面白いというだけだ。内容は、簡単に言えば、量も質として感じ取ると言う事を主張している。

『ところで、物理現象相互の真の連関を決定するために、われわれは、知覚したり思考したりする自分の仕方のうちで、これらの関係に明白にそぐわないものを捨象するのだが、これと同様に、自我をその根源的純粋性において観相するためには、心理学は外界の明らかな徴し<筆者註:しるし>を帯びた諸形式を除去ないし訂正しなければならない。 —これらの形式はいかなるものであろうか。互いに孤立させて、その各々を分化されたひとつの単位と見なすなら、心理的諸状態は時間のうちで展開し、持続を構成する。最後にその相互連関においては、ある種の単一性が多様性を通じて維持されている限り、これらの状態は互いに決定し合うものとして現れる。 —強度、持続、意志決定、これら三つの観念こそ、それらが外界の侵入に、言ってしまえば空間観念の憑依<筆者註:ひょうい>に負うているすべてのことをそこから一掃する事で、純化されねばならないものなのだ』(p.246 15行目-p.247 8行目)

『われわれはまず初めにこれらの観念のうち第一のものを考察して、心理的事象はそれ自体では純粋な質ないし質的多様性であり、他方、空間内に位置するその原因は量である事を見出した。この質がこの量の記号となり、われわれがこの質の背後にこの量を推察する限りで、われわれはそれを強度と呼ぶ』(p.247 9行目-12行目)

この部分、質とはいわば観念であり例えば「青」なら「青」である。青い光の周波数と言って良いだろう。すなわち、A-D変換の量子化の部分を言っているのであるが、同じ事が数にも起こる。もう少しだけ引用したい。

『したがって、ある単純状態の強度は量ではなく、量の質的記号である。諸君は強度の起源を、意識の事象である純粋な質と、必然的に空間である純粋な量とのあいだの妥協のうちに見出すだろう。ところでこの妥協を諸君は外的事物を研究する際にはわずかの躊躇もなく放擲するだろう。というのも、その時諸君は力は実在すると仮定しながらも、その判定可能で延長的な結果だけを考慮して、力そのものは脇に置いてしまうからだ。それにしても、今度は意識的事象を分析しようというときに、なぜ諸君はこうした折衷的概念を温存するのか。諸君の外部にある大きさが決して強度的でないならば、諸君の内部にある強度は決して大きさではない。』(p.247 12行目-p.248 2行目)

 ここまで、簡単に言えば、『外延量』と『強度量』の混同が、我々の感覚における知覚表現の中にあり、われわれはしばしば、それらを混同し比較している、ところを引用した。

私の下心は、どうして小林さんの下心でないとは言えるだろうか。つまりは、上ッ代の人々はベルクソンの言葉で言えば『強度量』として、言い換えれば一種の質として『来経<ケ>』を『数<ヨ>』んでいたという事なのだ。それは、自然に対する上ッ代の日本人の根本的態度があるという事は、もう指摘するまでもない事であろう。

もう、言いたい事はほとんど言ってしまった。少し長くなるが、『敢えて繰り返そうか、』と言う部分以降のなんともいえず美しい部分から二段落を引用してみたい。

『敢<あえ>て繰り返そうか。宣長は、「真暦」という「道の事」から物を言う、 —上つ代の人々は「たゞ空の月を見て、朔<ツイタチ>のはじめを、ひとりは今日<ケフ>ぞと思ひ、いまひとりは昨日<キノフ>ぞと思ひ、今一人は明日<アス>ぞとおもひて、心々に定めても、みな違<タガ>ふことなかりし」、— 古人のこころばえは、それほど「おおらか」なものであった。だが、誤解しないで欲しい。「おおらかなる」という言葉は、けっして「麁<アラ>き」という意味ではない。理<ことわ>リを違えまいとばかり気を配っている当今の学者等の自負する精しさなど、見かけ倒しのもので、差し詰め「麁き」「粗略なる」と言って良いのはそちらの方だ。「理<コトワリ>」という言葉も、人に使われれば、濃淡深浅いろいろの色合いを帯びざるを得ない。「玉勝間」に書いておいたように、歴史の条件次第で、世の中には、「まことの当然之理<シカアルベキコトワリ>」も「いつわりの当然之理<シカアルベキコトワリ>」も現れる。宣長としてもそう言いたいところなのである。彼の古学の道に何処<どこ>までも沿い、想像力を働かせようと努めさえするなら、「理」という言葉にも、古人には古人の使い方があった事を率直に容認して、その心ばえを思い描くのは、難しい事ではない筈だ』(p.310 12行目-p.311 10行目、<>内はテキストフリガナ)

『「朔<ツイタチ>のはじめ」を、誰もが、「心々に定め」ていた時、「理」という言葉は、ソクラテスの言い方で言えば、めいめいの「魂に植えられて」て生き、一般化への道など全く拒絶していたのだ。親の忌日が、暦に書かれているわけもないのだから、秋が訪れるごとに、「某人<ソノヒト>のうせにしは、此木<コノキ>の黄葉<モミジ>のちりそめし日ぞかし」と、年毎<ごと>に、自分でその日を定めなければならない。創り出さねばならないと言ってもいいだろう。暦を操って済ませている人々が、思ってもみない事だが、各人が自分に身近な、ほんのささやかな対象だけを迎えて、その中にわれを忘れ、全精神を「その日」を求めた。他の世界は消えた。そのような勝手な為体<ていたらく>で、何一つ間違わず、うまく行っていた。なぜかと問われれば、「真暦」が行われていたからだ、と答えるより答えようが宣長にはなかった。という事は、彼の眼は、古人の間で、はっきり固体化され充実した「来経数<ケヨミ>」という「わざ」の上に、熟<じつ>と据えられ、彼は口を噤んで了ったという意味だ。そして、その自己集中自己沈潜のすがたそのままが、慎重な観察推論として、「理」という言葉の正常な使い方として、彼の心に刻印されたのである。』(p.311 11行目-p.312 7行目、<>)

ここからは、宣長の「真暦」に関しての考察がやはり「古事記」に対してのものと同様であった事が描かれ、そのあと、現代の「時間」或いは相対性理論の言う「四次元連続体」について宣長がどう思っただろうか、という考察に入る。

ところで、この第三部は『真暦』をテーマに古人の時間というものについて触れた。『真暦』はベルクソンの言葉を使えば、宇宙の『持続』のなかにわれわれ個々人の『持続』を合わせ、おのおのの自然の観察という『心力』を試される場おいてそれぞれに『来経数<ケヨミ>』をする事であったろう。

このとき、『天文学の今日の進歩を、もし宣長が知ったらという考え、これはあながち空想とは言えないだろう。』(p.313 9行目-10行目)と小林さんは言う

『何故かというと、人間の都合などには一顧も与えぬ「天地のありかた」という、「真暦」の観念を裏側から支えていた宣長の考えに、現代天文学は決定的な表現を与えたからだ』(p.313 11行目-12行目)

以下、少し要約すれば、宇宙に人工的に工作する手段がない以上、現代天文学言い換えれば宇宙物理学は純粋観測科学であろう。その天文学、言い換えれば現代の物理学と古典力学を分けるものは「時を知る」という概念が全く変わったという事だ。

『時間概念を光の伝播<でんぱ>法則の上に、大胆に打ち立てる事により、古典力学が孕<はら>んでいた純粋空間、純粋時間という最後の言葉の対立も消えた。自然対象の観測点は、徹底的に相対化された。という事は、ある観測点が、他のどんな可能な観測点にも、変換式により正確に連結されるものである以上、ある部分的な観測点は、そのままで絶対的な観測点でもあるという意味だ。「天地のありかた」は、何処から何処まで一様で、純粋な計量関係に解体され、物理学が要請する客観性と同義の言葉となる。時間単位を光速度という虚数で表わさなければならない』(p.313 16行目-p.314 6行目、<>テキスト内ふりがな)

上の引用は、小林秀雄という人がいかに現代物理学についても理解しているかを知ってもらう意味もあって引用した。光速度が虚数というのは、われわれでは一般的ではないだろうが、実際には光の速度をCとするときC=a+biというような虚数で表わされその実部しかわれわれの実世界では現れないという意味だ。これが、SFなどではじめから光の速度をこえていればタキオンの存在するなどといわれる理由の根拠となっている。

この論の最後も、小林さんの文で締めようか。最後の部分を引用する。

『そういう思想史の成り行きの裡<うち>で、「来経数<ケヨミ>」と呼ばれていた古人の時間の直らかな体得につき、宣長がその考えを尽くしたところは、どういう照明を受けるだろうか。それを考えてみることは空想ではない』(p.314 6行目-9行目)

 以上、非力ながら、小林秀雄という人の思想の一端を紹介してみた。どうか本文を読んで頂きたい。小林秀雄は、そして、小林さんが描いた本居宣長も、現代も色あせることなく日本で最も優れた思想家である事を私の下手な文章におつきあい頂いた読者諸氏なら大いに納得されることだろう。





2011年9月23日に草稿をブログ「徒然の種々」にアップしていたものをブログ「小林秀雄さんの思想メモ」に掲載するために清書したものを再掲しています。
草稿のアドレス:http://seed-heblog.blogspot.jp/2011/09/i.html
小林秀雄さんの思想メモでのアドレス:http://kobayashihideo-memo.blogspot.jp/2012/07/i.html


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